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第一話

誰かが呼んでいる……


「……か」


待って、もう少しだけ……


「かゆか……」


だめだ、行かなきゃ。


行かなきゃ、なんだかすごくまずい気がする……。


香由花(かゆか)!! あんた今起きたの!?」


ようやく目が覚めた。意識がはっきりする。


「もう珠輝(たまき)ちゃん来てるわよ!!」


「……え」


いっしょに登校している大親友の珠輝ちゃんが、もう来ているらしい。

まだ私起きたばっかで、パジャマで、髪の毛ボサボサで、顔も洗っていなくて――


「ええええええええ――――――――――――――――っ!?」


 飛び起きた。


 香由花はベッドを蹴って廊下に飛び出て、大急ぎで洗面所に向かって走った。たしかに玄関のほうから珠輝とお母さんが話している声が聞こえてくる。


「ごめんね珠輝ちゃん、うちのバカ香由花が……」

「そんな、大丈夫ですよ。私、マンガでも描いてのんびり待ってます」

「悪いわねぇ……あがってあがって! 台所のテーブルでいいかしら?」

「はい、ありがとうございます」


 香由花はボサボサになったショートヘアに手で水をつけておちつかせ、粉のついた歯ブラシをくわえたまま、ドアをはじくように開けてパジャマなのもかまわず飛びこんだ。


「ほはよう! ひゃまひひゃーんほへんほへーん! ボホッゴホッ」


おはようとごめんを言ったつもりが、歯ブラシを口にくわえていたのを忘れていた。おまけにむせた。


歯ブラシをぬいて手を顔の前で立て、ジェスチャーで伝える。

テーブルについてノートに何かを描いていた珠輝は、


「おはよう、香由花ちゃん。いいよ、ゆっくりで。私マンガ描いてるから」


丸い顔をさらにまんまるくして笑ってくれた。

香由花は優しくてかわいい珠輝のことが大好きだ。

髪は短いし、Tシャツに半ズボンとか、いつもボーイッシュだけど……にゅうわな笑顔や赤いヘアピン、丸いメガネや女の子らしいふんわりした話し方がなぜか似合うのだ。


冷蔵庫を開けたお母さんが、テーブルをふり返って、この上なく優しい声で言った。


「珠輝ちゃん、シュークリームでも食べる?」


香由花が冷蔵庫の中に目を向けると、シュークリームが三つあった。


「ああっ、私もーっ!」

「ア・ン・タは学校から帰ってから!」


香由花はお母さんにこの上なく恐ろしい声で言われ、しょうがないので洗面所に行き、口の中の粉をすすぐと、いそいで自分の部屋にもどって着がえはじめた。

今日は白地のプリントTシャツにオレンジ色のキュロット。乾きかけた髪にくしをとおしながら台所へ向かい、珠輝にもう一度頭を下げる。


「ほんとにごめんねー珠輝ちゃん」


「いいよぉ、シュークリームまでごちそうになっちゃったし、それに」


珠輝は開いたノートを両手で持ち、

「ほら、マンガも一ページ描けちゃった!」

 かかげて、にっこり笑う。


「わあっ、見せて見せて!」


香由花は珠輝の横に回り覗きこんだ。ノートには、ハムスターのはむ公が、飼い主の桃子と街へ出ていく様子が描かれていた。


「んん……? 前のページもその前のページも私見てないよ! あれっ?」

「そっか、昨日家に帰ってからもずっと描いていたからね。今朝のも合わせてだいたい七ページくらい進んだかな?」

「おー進んでるんだー!」


 言われて七ページほど戻ってみると、ハムスター王国の姫がさらわれたと王国に住むハムスターたちが大さわぎしているシーンに戻った。これは昨日たしかに香由花が読んだページだ。


「あ、ここだここだ。私、続き気になってたんだよねー! っていうか設定がすてきだよ。夜行性であるハムスターはいつも夜になると協力し合ってゲージを抜け出して、ハムスターの楽園に行っているって! そこには人間がハムスターにつくるえさの味の限界を超えた、ハムスターのための食べ物があるから、ハムスターも人間のように国を作って暮らしているのだー……なーんてさ」


「うふふ……」


いそいそとページをめくったところで、お母さんが鬼のような形相でやってきた。

「ちょっと二人!? 学校遅れるでしょうが!!」

「「は、はーい」」

はたかれるような形で追い出される香由花と珠輝。


「じゃ、学校行きながら読ませて!」

「うん。私、香由花ちゃんが転んだり車にひかれたりしないように見張っててあげるよ」


 珠輝に言われ、香由花がそんなことにはならないよーと返事した瞬間、床にうず高く積まれていたたたんだ洗濯物を踏んで引っくり返ってしまった。


「いっ、行ってきまーす!」


散らかしてしまった洗濯物を元にもどす時間ももうないので、お母さんの怒りの声を聞かないうちに、珠輝を引っ張って外に出ることにしたが――


「おじゃましました、ごちそうさまでした! 今度はよかったらうちにも……」

「あーもう珠輝ちゃんそんなのいいよ! ほっ、ほらほら! 早くっ!」

「あっ、うんっ」


 香由花はまじめな珠輝を大急ぎでひっぱって、お母さんの、「あーっ、こら洗濯物ーっ!」という言葉にふたをするように、行ってきまーすという言葉をもう一度残してなんとか脱出したのだった。


 道路を歩くとき、珠輝にゆずってもらった道路の内側を歩きながら、香由花は、ぱたんとノートを閉じた。


「はいっ、ありがと!! なんていうか……なるほどこう来るかーっ! ってカンジ! やっぱ才能あるよう珠輝ちゃん」


「そんな……才能なんてないよ。でも喜んでもらえると、一生懸命書いたかいがあったな」


「うん! それにしても学校終わってからよくこんなに描けたね。昨日、宿題だってたくさん出てたのに」


 珠輝が宿題をさぼってきたところなど見たことがないし、勉強だって香由花よりもうーんとできる。それをこなして、よくこんなにマンガを描けるものだ。


香由花は、いつも素直にすごいなと思う。


「マンガを描いているときが、一番幸せだから。勉強さえしていれば、親も何も言わないし」

「がんばるなあ、珠輝ちゃんは……。私なんて昨日ヒマだったから、帰ってからずっと家でごろごろしてたよぉ。気づいたら夕ご飯の時間になってて、それから宿題片づけてすぐ寝ちゃった」


 そう言えば九時には寝たはずなのに、どうして今日もこう遅刻しそうになるかな?

香由花はぽりぽり頭をかいた。


 学校についてもおしゃべりタイム。香由花と珠輝は今、うれしいことに席がとなり同士なので、わざわざ席を移動する必要もない。


「いーなあ。私も珠輝ちゃんみたいにハムスター飼いたいなー」

「うんうん。すっごく癒されるよ」


 珠輝がマンガを描き進めながらおしゃべりするのはいつものことだ。


その理由は会話がつまらないから、などではぜったいにないことは香由花もわかっている。珠輝とは入学式以来ずっといっしょにいるほどなかよしだ。


「でもなー、お母さんきっとだめって言うし……」


「……」


「……?」


返事がない。


「う~ん、そっかあ……」


 ようやく来た。


「珠輝ちゃん、どうやってハムスター買ってもらったー? おしえてーっ!」


「……」


 また、返事がない。


「ん、私は……そうだなぁ、どうしてもほしい、って伝えたら……」


「そっか~、いーなあ……珠輝ちゃんちは……」


 それにしても今日は返事がなかなかかえってこない。


珠輝は、いつになく一生懸命にマンガを描いているみたいだった。


ちなみに珠輝の描いているマンガはどれも短編で、同時にいくつも描き進めている。


きっと今描いているものは、よっぽどイイトコなんだろうな。しょうがない……。香由花は苦笑いして、そのことにはなにも言わないでおくことにした。


そんな珠輝もチャイムが鳴ればさすがに手を止め、教科書とノートを広げてまじめに授業を受ける。

それは、どんなに調子のよさそうな今日でも変わらずくりかえされていた。

しかしそれでも「問題を解き終わった人から休み時間」などと言われた五時間目の授業などは、珠輝の問題を解くスピードがとっても早くなるのが横からでもわかった。

クラスの誰よりも早く休み時間を手に入れ、クラスの誰よりも一生懸命にその時間を使っている。


珠輝に続いて終わる人が続々とではじめて、みんな思い思いにしゃべるようになる。

香由花もようやく問題をとき終わった。

しかし珠輝は漫画を描くことに熱中するあまり、香由花に気がつかずにいるようだった。


 香由花は、今日は珠輝のじゃまをしないように、そっとその場をはなれることにした。


珠輝とのおしゃべりは楽しいし、珠輝もそう思ってくれているのか学校にいるときはいつだってそばにいる。

だが、そんな珠輝が、香由花が問題を解き終わったことにも気づかぬほどマンガの制作にのめりこんでいるのだ。

今描いているところはよほど盛り上がるシーンみたいだし……。


ということで、香由花はそれを楽しみにして待つことにし、他の友達の会話に混ざった。みんなは朝見たニュースや、アイドルグループの話でよく盛り上がっていた。香由花にはあまり興味のない話だったが、一人でいるよりはまだ気分もまぎれた。


学校が終わり、並んで歩く帰り道。結局あれから次の授業まで話すこともなく、それから帰りのSTがはじまってしまった。


「ねえねえ珠輝ちゃん、今日いっしょにドーナツ屋さんに行かない!?」

 なんだか久しぶりに話したような気分になる。


「あっ、うーん、ごめん……今はちょっと、だめなんだ」

「そっかー」


 今日は、じゃなく、今は――。なにかあるんだろうか。

香由花が顔を上げると、珠輝のほうから口を開いた。


「じつは私、書いてるマンガを『ハート』に投稿してみようと思ってて、それでしめ切りがもうすぐなの……。最近学校で描くノートのは下書きで、家で原稿用紙に清書しているんだ」

「ええっ、そうなの?! すごい……」


 『ハート』といえば、小・中学生向け雑誌の中で一番人気の少女マンガ雑誌だ。


 昨日は先を描きたくて家でノート進めたけど、と珠輝は説明しながら、


「あっ、でも、そんなすごいものじゃないよ」


「ってゆーか、今日読ませてくれたノートのマンガって……下書きだったの!?」


「そ、そうだよ。やだ、そんなにびっくりしないで……あれ、言ってなかったかな!? 香由花ちゃんやクラスの子の感想を参考にしながら、本番で手直ししてるんだ。うー、あんなの下書きだよー。私、清書はもう少し丁寧に描くよ……」

 恥ずかしそうにそう説明する珠輝。


信じられなかった。たしかに背景などの書き込みは少なく、全体的にさっと描いた感じはあったけれど、手とか体とか表情とか、とても同い年の子が描いたとは思えないほどうまかったのに。


――あれで下書きなんていったらそれじゃあ、清書はいったいどうなっているんだろう?!


「しめ切りが近いせいもあって、学校とかでも、せっかく香由花ちゃんとしゃべっているのに私、マンガ描いてじゃましてるよね……最近。ほんとにわるいな、ごめんなさい、って思ってるんだけど……」


 そう言って珠輝はうつむいてしまう。


「や、ううん! いいよいいよ! マンガ描いてる珠輝ちゃん生き生きしてて、ちょっとかっこいいし! 進んだら、また見せて! ってゆうか清書も描きあがったら見せてよ!」


「うん……ありがとう。もちろん! 清書終わったら読んでもらいたいな! 下書きを清書だと思われたままじゃ、困っちゃうしね」


 そう言って恥ずかしそうに顔をあげてほほえむ珠輝に、香由花はごくりとつばを飲み込んだ。


珠輝ちゃんって、どこまでもすごいんだなあ……。


それでも「最近、おしゃべりよりもマンガ描いていることが多いのは、しめ切りが近いせい」という言葉を聞いて、どこか安心した自分がいたのだった。


「ただいま~」

「あら、おかえり」


 台所からお母さんがひょこっと顔を出す。


香由花は自分の部屋に行きランドセルをおろしながら宣言した。

「あとでちょっとドーナツ屋さん行ってくるよー」


「ドーナツ?」

お母さんのふしぎそうな声。

「あんた今朝のシュークリームは? ちゃんと残してあるわよ?」


「あー」


 そういえば、今朝時間がなくて食べ損ねたシュークリームの存在を忘れていた。


「とっといて! 明日ぜったい食べるから!」台所に向かって叫んだ。


「そう? 珠輝ちゃんと行くのー?」

「や、ううん……ちがう、けど」

言葉をにごしながら、香由花は財布をポーチに入れて首から下げて、力なくドアを開けた。


珠輝ちゃんは今ごろ必死にマンガを描いているから、来ないんだ。


「じゃ、いって、きまーす……」


自分の家はマンションの八階だけれども、エレベーターを使わずに、階段を回ることにした。なんとなく、そんな気分だった。


空の中を歩くようにして、階段を下りていく。

たちくらみするようなビルの林の中。

街から街へ果てしなく続いていく線路が、川と十字に交わるようにしてのびていた。


マンションの小さい広場で少年たちがコーチの指導の元、サッカーの練習に励んでいた。

地元で有名のリトルリーグだ。きびしそう。


ふと気づけば河原には、まぶしい日の下で背筋をぴっと伸ばし、顔を真っ赤にしてトランペットを吹く少年もいた。

高い音が出なくて苦戦している……。

金色のトランペットの大きな口が、太陽に向かって咲くひまわりの花のようで、かっこいいなあと少し見とれる。


とうとつにまた、珠輝ちゃんのことを考えた。


マンガを描いているときの、まっすぐな瞳。描いたマンガを読んでもらっているときの、力強いほほえみ。


階段が、尽きた。

自分には……そういう気持ちが――まだない。


食べたいと思ったドーナツを、買いに行くことぐらいしか、したいことがわからない。


このままなんとなく、そういう大人になっていくのかな。それってきっと、ラクで、楽しくないわけじゃないと思うんだけど……


だけど、一生懸命夢に向かって努力している人がそばにいて、自分はなんにも走り出せてなくて。


私だってホントは知りたいんだ。

と、香由花は思った。


珠輝ちゃんがうらやましい。


どうしたらそういう「運命」と出会えるんだろう。


わからない私は、それでも走り出したい私は、とりあえず、なんでも動いてみるしかない。


だから今は、ゆっくり歩こう。


川のせせらぐ音を聞きながら、

自転車に追い越されながら、

自分なりに――

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