世界を救うもの
「聖女様……俺が代わりに」
その言葉に握り締めていた短剣がぐんと重さを増した気がした。代わり? いったい誰と代わるというのだ。私と? ……彼と?
「……二人にして」
口から出た声はひどく強張っていて、それがさらに私を追い詰める。もう後戻りできないのだと、もう間に合わないのだと知らしめられるようで。
「ひどい顔だ」
部外者が部屋を出るのを見送ってから、まるで二人きりになるのを待っていたかのように彼は口を開いた。相変わらずの口の悪さ。普段なら“失礼な”と文句の一つも言ってやるのに。
「聖女としての晴れ舞台だろう。もう少し景気の良さそうな顔をしたらどうだ」
今、口を開いたら嗚咽しか出てこない気がして、ただ唇を噛み締めた。……私に泣く資格なんて、ない。
「最期に見るのがこんな陰気な面とは、俺もつくづく不幸だな」
「……っ」
不意に伸びてきた彼の手に頬を抓まれた。そのままにゅっと左右に引っ張られ、無理やり笑みの形を作らされる。
彼の手から伝わる温かさにどうしようもなく泣き喚きたくなった。駄目だ。触れられたら駄目だ。彼を感じてしまったら、もう抑えきれない。
「……ごめんなさいっ!」
この期に及んで、謝罪しかできないなんて、私はなんて醜いんだろう。
突然見知らぬ世界へと召喚され、聖女と崇められて。……自分が特別な何かになったような気がしていた。
――あなたを殺さないと世界が終わるなんて、そんなの絶対おかしい! 私、みんなが幸せになれる方法を探す。“聖女”なんだもん。みんなを救ってみせるよ。
彼を救える気でいたのだ。
“ただ生きてることが罪になんてなるはずない”なんて、なんて愚かで幼稚なきれい事だろう。優しさじゃ誰も救えないのに。正しさじゃ何も変えられないのに。彼は、こうして聖女に殺されるのに。
「私、あなたを救えなかった」
一年駆けずり回っても、何も見つけられなかった。この世界のどこを探しても救いはなく。誰に聞いても彼はその存在が害悪なのだと言われる。
ひどい、と思った。王様も、王妃様も、神官さんも、騎士さん達も、街のみんなも……この世界の人達は皆みんなひどいと。
でも、一番ひどいのは無責任に“救う”なんて言って彼に残酷な夢を見せた私だ。叶いもしない未来を語った私だ。彼がそれをどんな気持ちで聞いていたのかなんて考えもせずに、無神経に笑っていた私だ。
「……俺はお前に救われたよ」
「うそっ!」
「うそじゃない。俺を殺すために喚ばれた聖女が……」
優しく、それでいて拒絶を許さない強さで抱き締められた。
「お前だけが、俺の命を惜しんでくれる」
続けられた“お前の手で終わるなら悪くない”という言葉に、堪らなくなる。いっそこんな世界、見捨てられたらよかったのに。
「それで、ここを刺せ」
彼は私を緩く抱き締めたまま、自分の左胸へと短剣の先をあてがった。
少し力を入れるだけでこの刃は彼の肉を裂き、その奥にある心臓へと届く。そう思うと、短剣を持つ手が震えた。
私は今から人を殺すのだ。……自分の、愛する人を。
短剣から彼の鼓動が伝わってくるような気がする。
でも、止めるなんてできない。
叫び出しそうなほど悲しくても、気が狂いそうなほど怖くても、世界を呪いたくなるほど辛くても……彼を殺さなくてはいけない。この世界に生きる人すべての命を放り出せるほどの勇気は、私にはないから。
「……っ」
湧き上がる気持ちを押し殺すように、ぐっと奥歯を噛み締めた。
抱き合った体勢のまま彼へと短剣を押し進める。彼を殺すためだけに用意された聖女の剣は、なんの抵抗もなく彼の皮膚を破り、その肉へと刃を沈めた。
刃を伝った血が私の手を濡らす。……温かい、彼の命の証。
ゴリッと骨を削った感触で自分が震えていることに気づく。私達を包む喉に張りつくような錆鉄の臭いに目の前が暗くなった。刃から伝わる彼の鼓動は力強いのに、溢れ出す命を止めることができない。
「……ここだと言ったのに、少し逸れたぞ。馬鹿者」
より深くその刃を呑み込もうとするかのように、彼は私を抱く腕に力を込める。
気づけば、涙が溢れていた。
泣かないと決めていたのに。泣く資格なんてないと耐えていたのに。
「……泣くな。最期に見る顔が不細工な泣き顔なんて嫌がらせか」
最期、だ。
もう彼の口の悪さに腹を立てることもない。ささいなことでケンカして怒鳴り合うことも、ない。ぶっきらぼうに彼から名前を呼ばれることも……もうないのだ。
「笑え」
どうして彼はこう偉そうなんだ。
死に際くらい殊勝になっても良いだろうに。
「……ああ、俺の一番好きな顔だ」
私は今、どんな顔をしてる?
相方に「オトメイトのバッドエンドとかにありそうな話だね」と言われました。……確かに。