咎人の企望【Ⅱ】
渇いた風が荒野の砂を巻き上げる。
風に命を与えられた砂は時に蛇のように地を走り、カラスのように翼を広げる。
カミソリを思わせる鋭さで外套を叩いては、土地の匂いを残して吹き抜けた。
腰に下げた瑠璃色の明かりが灯るランタンがカタカタと揺れる。
潤いを奪われた大地から巻き上がる砂は帰る場所を奪われた迷子のように彷徨いながら、レオの背中の遥か遠くで不気味な呻き声を上げていた。
「はあ、はあ、はあ……」
風の音と自分自身の呼吸が溶け合い耳に貼りついている。レオは開き切らない瞼の奥から、かすんで見えるグルダニアの緩やかな丘陵に向かい懸命に足を動かしていた。
歩いても歩いても、行く先には風と砂。大地は雨雲のように厚く黒い雲が同化する。
命を終えた草の死骸は吹かれるままにその身を揺らし、樹皮の割れた古木は肉が腐り削げ落ちた巨大な骨を思わせる。巨大な骨は命を終えた形のままそこに居座り、天を仰いでそこに命があった痕跡を示していた。
いつ滅びの時を迎えたのか? いつからそこにたたずみ続けたのか? 彼の訪れに目を向けることはない。
地に刻まれた旅の証を風がいつの間にか消し去り、彼は自分の来た道を失っていく。
レオは肥沃な沼地を膝まで浸かりながら歩いているかのような重い足取りで割れた大地を歩いていた。
どれほど進んだのか?
それとも進んでいないのか?
いつの間にか感覚は狂い始めていた。
歪む意識の中でただ足を動かす。
ギュルムでの戦いのあと、レオとラウルはカティとエルノの墓を作った。
エルノの身体はすでに残っておらず、墓は空のまま墓碑に名前だけを刻んだ。
レオは墓の前で、ラウルと約束をした。この任務を終えたならばアステリアにともに行こうと。そして、一刻も早く王都グルダニアに向かい戻ってくる、と。
レオはダン隊長達を待たずに出発する決意を固めた。
ラウルはレオとともに行くと言ったが、アラン達があれほど恐れていた王都にラウルを連れていくわけにいかない。
少なくとも王都に向かうよりもギュルムに残った方が安全なはずだ。
ギュルムの町はレオがいた僅かばかりの期間ですっかり活気を無くし、死人の町となっていた。だからこそラウルを追い、殴る者ももういないだろう。
幸いなことにもぬけの殻となったアラン達の詰所で、自分の剣とグルダニアの地図を見つけることができた。
レオは再会を約束して、自分の持っていたわずかな食料をラウルにわけ与えた。
ラウルは拒んだが、レオは強引にラウルの小さな手に食料を握らせた。
パウリやアランの言葉が脳裏をかすめ、そうしなければレオの気が済まなかったのだ。
「……くっ」
レオの体にはアランに盛られた毒がまだしぶとく根を下ろしていた。
セシリア姫の加護を受けたギュルムを離れるほどに体調は悪化していっている。
何者かに胸を押さえつけられ、呼吸をすることを阻まれているような不快な感覚は、レオの意識を遠のかせ、足をより重くした。
あの時、戦うことができたことが嘘のようだ。毒が体の中で命とせめぎあっている。
今は自分の身を守るはずの鎧も、剣も、重く煩わしい。
荒い呼吸が、口や喉を乾かし、口の中は吹き込む砂と微かに出る唾液でジャリジャリと混じりあう。
……こんなクソみてぇな場所まで来て、毒飲んで、それでも戦う理由はなんだ?
アランの言葉がよみがえる。
毒を飲んでも……
レオは痺れの残る腕と足を引きづり、冷や汗に濡れる背中を上下させながらアランの言葉への返事を探した。
それでも戦う理由はなんだ?
それでも、戦う理由……?
レオの頭は思考することを拒むように答えを出さない。
戦う理由なんて……
アステリアのため? 病で苦しむ人のため? ラウルのため? 自分のため?
レオは黒い空から吹き降ろす風の中で膝をついた。
たった一人この荒れた地で、歩けなくなり膝をついた。
何度目か?
膝をつき、進むのを止めたのは。
肩を貸す者は誰もいない。
……満たされた者よ、お前は知らぬだろう? 本当の空腹を……
パウリの嘲笑。
空腹。
灼けつくような空腹と渇き。
……やがてお前も知る、この国にいるならば! 我らを理解する時が来る……
パウリの声がレオのなかでグルグルと回った。
飢えと渇きがレオの心を食む。
理解する……。
食料をラウルに渡した光景が何度も想い浮かぶ。
アランを、パウリを理解する……?
グラスに汲んだ澄んだ水も、時間とともに清涼さを空に逃し、静止した中で徐々に淀みを生むように、レオの心は濁りを見せていく。
問う。
どうして、僅かな食料をお前は分け与えたんだ?
答え。
あれでよかったんだ。でなければ、ラウルは何を食べて俺を待つ?
その答えに問う声は黙らない。
ラウルは草を食べていればいい、今までもそうだったじゃないか。
でも……。
空腹は気持ちを鈍らせる。
答えを鈍らせる。
わずかばかりの食料など意味がない。お前は草だけを食べて戦えるのか?
憐れみ。
もう一人の自分が落胆の色を向ける。
落胆と空腹がレオの足から力を奪う。
レオは薄暗い荒野で力尽きようとしていた。
どこからともなく駆けてくる早馬のような風がレオを乾かしていく。
お前のそれは自己満足にすぎない……。
俺の自己満足……?
空腹。
もし、今、目の前にラウルがいたら……
もし、今、目の前にラウルがいたら……?
渇き。
……俺は、ラウルで腹を満たすのか?
どこかで音がした。
泣き声のようなその音は、古木の間を強引に抜けようとして身を裂いた風の悲鳴だった。太い古木に裂かれ泣いた風がやがてここに来るのだろう。
その後には砂が来る。固い砂が穴倉を目指す蛇のように身体のいたる所に忍び込み、レオをこの景色の一部にしようとする。
まだ俺は……。
レオが亀のように身を縮め、身構えた時だった。
「おい……」
「……?」
風がピタリと止んだ。
ハッとした。
砂が叩きつけられるはずだった瞼をゆっくり開ける。かすむ視界の中で、そこに立つ足を見た。
砂埃にまみれ、もとの色の失った褪せた革のブーツ。視線を徐々に上げていくと脚衣に包まれていてもわかる力強い二本の脚。薄い板金と革により作られた軽装な鎧に包まれたしなやかな体躯。決して太さはないが逞しく鍛えられた左腕を肩から露出し、右腕はその装いとは不釣り合いなほど重厚な鉄色の甲冑で覆われている。背には金属と木材を重ねて作られたグルダニア式大弓が背負われていた。無精ひげを生やしているが端正で細い顎と煤けた長い金髪を一つにまとめているのが印象に残る。
「お前が……けて……のか」
……?
レオを景色の一部にするはずだった風は、男によって遮られた。風はレオを諦め、かわりに男の言葉をさらい空に散らす。
レオは男の聞きこぼした言葉に、問い返そうと言葉を発しようとしたが、乾ききった喉は声を発することを許さない。
「おい!」
レオが言葉を発せずにいることで意識がないと思ったのか、男は両手でレオの胸倉をつかみ立たせ、顔を近づけヘルムを覗く。
レオと男の瞳と瞳がぶつかる。
深緑の瞳。野性味のある強さと理知的な冷徹さも持ち合わせた瞳だった。
瞳の色も形も違うはずなのに、レオはアランのことを思い出した。立たされるとこの男の方が頭一つ分も大きい。
男はレオの目の光を確認すると、フッと力を緩められた。
レオはまた膝をつきそうになる。足に力が入らない。
「生きているな。意識はあるんだな?」
レオが小さくうなずくと男はレオのヘルムをはぎ取り、その顔色を見て顔をしかめた。
「毒か……」
レオはまた小さくうなずく。
「俺は……」
やっとの思いでしゃべろうとした時、男から水筒を手渡された。
「飲める水だ、飲めるか?」
飲める水。
ギュルムの教会の井戸で汲んだ水はとうに飲みほしていた。
レオが水筒に口を近づけると水の匂いがした。自分の中の本能が騒ぎ、流し込むように口に水を注いだ。
レオの喉はすっかり狭まっており、注いだ水が喉を通らず口から溢れこぼれる。レオは咽ながら、それでも水を求めた。
やがてジワリと潤い、喉が開き、清涼な液体が体内に降りていった。冷たい感覚が胸から胃に広がっていく。水は虚ろなレオの意識を現実世界に呼び戻す。何度となく喉を鳴らして、やっと、レオは自分の足で立っている実感を持つことができた。
「何時間前に寝た? 食事は?」
「……?」
詰問に近い口調で言われ、レオは言葉に詰まる。咄嗟に思い出そうとしたが、思い出すことができなかった。
そう言えば、いつ寝たのだろう? 食事を最後にとったのは?
記憶を遡ろうと探るように目玉を上へ左右へ動かしたが、その記憶は出てこない。
出て来るのは悲鳴のような風の音と潤いのない大地を歩んだ足の痛みの記憶だけ。
男は、やれやれ……と言った風に肩をすくめてから「……まずは休息が必要だ。この近くに町がある。すでに廃墟になっているが休むことはできるだろう。そこまで行くぞ」と言ってレオに肩を貸した。
「……すまない……」
レオは言われるがまま肩を借りて歩いた。
厚い雲で覆われたグルダニアの昼は暗い。朝も昼も夕方も区別がつかない。確かな足音を聞くのは、闇を運ぶ夜の訪れだけ。
ランタンの瑠璃色の灯りを頼りに、足を進めたレオだったが、しだいに時間の感覚は狂い、身体に染みつく疲労は荒野と風の軋みにより覆い隠されていたのだった。レオは自分自身の身体がどんな状態なのかも見失っていったのだった。
荒野の風が二人を包む。
風の中でレオが水の礼を言うと、男は「気にするな」と一言だけ言った。
それから二人はまた無言で歩いた。
男はレオに歩調を合わせ、レオは男に歩調を合わせた。二人は黒い荒野を吹き荒れる風とともに渡る。
男の肩にレオがさらに頼らなければならないほど歩いた頃、レオ達はそこに辿り着いた。
町だった場所。いや、町になる前に終わりを迎えた場所。
そこはまさにそんな場所だった。
見上げるような円形の建造物が景色と一体になるように闇を吸い込み、自らの足元に谷底のような影を落としている。その影に隠れるように廃屋が点々と並ぶ。
巨大で圧倒的な建造物と立ち並ぶ小さな廃屋は違和感を覚えるほどちぐはぐで、この町は発展の途上さを感じさせる。
町は成長のさなかに死んだのだ。ギュルムよりも遥か以前に。
荒野を縦横無尽に飛び回る風は町の中ではその自由さを奪われ、建物の壁でその身を削りながら穏やかにそよぐ。
「……ここは?」
「パルフット……という町だった場所だ」
ギュルムよりも町に生気はない。人間が放つ独特の鼻の奥をつくような酸味のある異臭もなく、ギラギラとした奇異な視線も、陰で蠢く様子もない。
ただ、建物があり静まり返った闇が横たわり、異物でも見るような目でレオ達を迎えいれる。
建造物の先には、ラウル達の暮らしていた教会よりも二回りほど大きな教会があった。
男は教会の立てかけられただけの朽ちた厚い木製の扉をギシリと開ける。
戸口から駆けこんだ弱々しい光は、教会正面にある壁画を浮かび上がらせた。
グルダニア真聖教、審判の絵。
天上世界と地上世界を繋ぐ天使が祝福の光を降ろしているように見えるが全貌は定かでない。すでに色は褪せ、ところどころ絵の具は剥げ落ちている。
よく見れば、色の塗られていないところがある。この絵が完成を見なかったのだろう。
男は教会の隅にレオを座らせると、自分のランタンを取り出し、火を灯してコトリと床においた。瑠璃色の炎が闇を溶かし教会の一角を浮かび上がらせる。
するとまた壁画が見えた。グルダニア真聖教の聖人とされる人物の絵だ。その絵もまた未完のまま朽ちていた。
石壁、石床。供物のない祭壇。拝礼者の腰かける木製の椅子はどれも歪み、やっとのことで自分が椅子であることを保っている。
光を灯され、逃げていく闇を追うように闇に蠢いていた小さき者達も姿を隠す。
男はどこから取り出した革袋からサラサラとした白い砂のようなものをこぼし、ランタンを中心に床に大きく円を描いていく。
砂が革袋からこぼれ、円にちかづいていくほどに、ランタンの炎は瑠璃色から徐々に柔らかな見慣れた橙色に色を変えていく。
……これは?
やがて最初にこぼされた砂と革袋からこぼされる砂が結ばれ、一つの完全な円になった時、瑠璃色の炎は締め出されるように姿を消し、炎は完全な橙になった。
……これは一体?
ガシャ。
と軋むような音がして、レオは思わず音のした円の中で立つ男の方に目を向ける。男は甲冑を着た右腕を隠すように抱えていた。
「陣の中に入れ」
「あ、ああ……」
男は円形の陣の中でどっかりと座り込んでレオを手招いた。
レオは言われるまま、橙の懐かしい炎に吸い寄せられるように陣の中に足を踏み入れる。
「……!」
陣に入った瞬間。
今まで何かに抑え込まれていたような胸が突然軽くなり、一気に酸素が飛び込んできた。鈍っていた身体の感覚が戻って来る。
あまりに唐突な変化にレオは眩暈をして思わず膝をついた。
何なんだ? 急に……?
「これは?」
「聖砂だ。この陣は完全ではないが、周囲の魔力を遮断している」
「魔力を遮断?」
「ああ、今のグルダニアは魔力に覆われている。このバカみたいに強大な魔力のおかげでこの国はこんなになっちまった」
魔力? この身体の異変はアランの毒だけではなかったのか?
レオは改めて自分の体におきた現象に目を見張った。
これほどではないにしろギュルムの教会にいた時も、呼吸が楽になったことを思い出す。
セシリア様の加護……? あれはこの魔力からギュルムを守っていたのか?
「お前、名は?」
驚くレオを尻目に、男はランタンとは別に小さな火を起こしている。ケガでもしているのか、甲冑を着た右腕がやけにぎこちない。
「……レオ。レオ=レクセルだ」
「レオ、か。俺はユリウスだ」
ユリウスは名乗ってからレオに先ほどのものとは違う革袋を投げてよこした。
「……?」
「干し肉だ」
干し肉。
そう言われてゴクリと喉がなった。まだ口に含んでもいないのに腹が動きだし、口に唾液が閉じた口を湿らせていく。
「腹が減っているんじゃないのか?」
干し肉を目の前で飢えを満たそうとしないレオをユリウスが訝しんでいると、レオはおもむろには顔を上げ、
「これはなんの肉だ?」と尋ねた。
ユリウスは少し驚いたように眉を跳ね上げたが、すぐにもとの真顔に戻ると一度肩をすくめて「馬だ」と短く答えた。
馬……?
レオはこのグルダニアに来て以来、馬はもちろん牛や豚の姿も見ていない。いないもので干し肉が作れるのか? それに……
「グルダニアは騎馬に優れ、その技術に誇りを持つと聞いた。その馬を喰うのか?」
「よく知っているんだな」
ユリウスは無精ひげを指で撫でつつ「だが……」と言葉を続ける。
「お前もここまで来たのならこの国の惨状を見ただろう? 食べ物がなければ誇りだろうが何だろうが喰うさ。動けなければ、本当に守りたいもんも守れないんだからな」
「……」
本当に守りたいもの……?
レオは革袋に目を落とし言葉を失う。ズシリとユリウスの言葉が腹に落ちた。
「安心しろ、その肉は正真正銘馬だ。馬は好みじゃないとか言う気か?」
「……」
ユリウスは軽口を叩いたがレオの耳には届かなかった。
任務を全うするためには、何でも食わなくてはいけない……? なんでも?
それを認めることは、アランやパウリを認めることになる気がした。
しかし、ユリウスが言うことは逆らうことのできない事実。食べなくてはいけない。目的を果たすためなら。
俺は……。
レオは自分の中にある決意の甘さを今さらながら痛感する。割り切って肉を食べることも、自分のプライドを守り、拒否することできていない。
「おい、喰うのか? 喰わねえのか?」
「も、もらう!」
レオは慌てて革袋から樹皮片のような干し肉を取り出し口に含んだ。
干し肉は唾液を吸い、徐々に柔らかく、独特の風味を出しながら口の中に広がっていく。レオはまだ飲み込まない内に次々に口の中に干し肉を入れた。一度、口に入れれば、身体が欲してやまない。
喰わなくてはいけない。
俺は何のためにここに来たんだ!
例え、何の肉だったとしても。
だから……だから、この任務を必ずやり遂げる。
レオは夢中でそれを胃に納めた。
そんなレオの様子を見ながら、ユリウスはフッと笑みを浮かべつつ、くつろぎ、ジッとレオが落ち着くまで見守った。
橙色の柔らかく暖かな灯りが気持ちを和らげる。外の風の鳴き声も石壁に遮られ、教会の中に静寂が忍び込む。
ただレオが肉を食み、彼の喉を降りていく音だけが繰り返される。
レオは革袋にあった干し肉の最後の欠片を口に運び、顎が疲労で動かなくなるほどかむと、水で胃の中に流し込んだ。肉の風味とともに水は流れ落ち、胃は心地よく重くなった。その重みは同時にレオの身体の力を抜いていく。満たされた腹と解放された息苦しさ。淡く揺れる炎が影を映すように身体に潜んでいた疲労を浮き彫りにする。
「……」
焦点がぼやけ、視界がぼんやりとかすむ。手足は今までになく重く、地面に吸い寄せられる。瞼を開けているのがつらい。レオは睡魔の柔らかな胸に抱かれ始めていた。
「四時間だ」
「……?」
「この陣を維持できるのは四時間だけ。今は休め、話はそれから……」
レオは旅の疲労に飲み込まれた。
ユリウスの言葉を最後まで聞き取ることはできなかった。
★
その日は、アステリアの一年の内でも特別な日だった。
城下の大通りには多くの松明が掲げられ、日がすでに隠れたことを忘れさせる。
行き交う人は祝いの酒と音楽に酔いしれる。彼らの熱気が王都全体を包みこんでしまったかのようだった。
一度その熱気の場に足を踏み入れれば、耳をくすぐるようなエキゾチックな音色が身体にしみ込んでくる。
奏者が繰る音は数多に織り込まれ、広場から空へと羽ばたいていく。その翼は聞く者の心も高鳴らせた。
華やかな音色と歌声に手を引かれ、広場の入口に立てば西の砂漠を越えて来るというキャラバンが厚みのある帆布のようなテントを広げ、その中で色彩豊かな珍しい商品を売る。
神話をモチーフとした彩色豊かな絨毯や複雑な幾何学模様が織り込まれた羽織り、金と銀で細工が施された首飾りやベルト、異国風の食器に茶器、菓子や果物、アステリアでは見ることない色鮮やかな羽を持つ鳥、人懐こそうな金色の目を持つ黒毛の愛らしい小動物なども売られていた。
別の店先では香辛料のきいた肉が焼かれ、その気がなくても腹の虫が騒ぎ、足を止めずにはいられない。
広場を満たす音楽はさら人々の手を引いた。
広場中央に設けられた円形の石舞台の上では、アステリア音楽に合わせ、露出の多い衣装をまとう六人の女性が踊り、そのまわりを戦士装束の六人の男性が踊る。
同じ曲であっても女性の踊りと男性の踊りは違う。女性はその場からほとんど動かず、手や腰をよく動かし揺らめく炎のように妖艶に踊る。男性は女性の周囲をステップを踏みながら戦士の如く勇ましく踊るのだ。
この日、父リネと母エレンに連れられ、今年十歳になるレオは王都アステリアへとやって来ていた。村で作られるアステリアルベルを王都で売るのが目的だ。
小さなレオは観客の足の隙間から勇壮な男踊りに目を輝かせ、流れる音に合わせて手や足を夢中になって動かした。
レオだけでなく、周囲の大人達も演奏に手を引かれ、踊り子に心を奪われながら踊り出す。子どもも老人も関係なく、女と男がともに熱気を生んでいく。
その輪が広がり、広場が一体となり始めた時だった。突然、アステリア城の方で「ワッ!」と歓声が上がった。
「アクセリナ様がお見えになったぞ!」
踊り子達はピタリと踊りをやめ、演奏者達も楽器を置いて立ち上がる。
「アクセリナ様が!」
今日はアステリア王女、アクセリナ様、十回目の生誕祭。
普段姿を見せることのない自分達の王女の姿を一目見ようと、多くの民がここに集まったのだ。
人は波となってアステリア城のテラス前に押し寄せる。
レオは人々の熱気に背中を押され、リネやエレンの手を振り切って、人の森の中を抜けていく。
何があるんだろう?
みんな何を見たいんだろう?
音楽も踊りもやめてまで見たいものって何だろう?
レオはここにいる全員が求めてやまないものを見て見たかった。
再び歓声が夜空に羽ばたき、レオはドキリとして焦りを感じた。
早く、早く見たい!
レオはやっとの思いで大人達の人の足の間から顔を出した。
「あっ……」
レオが出た場所は、アクセリナ姫を一目見ようと集まった観衆のまさに最前列。
見上げれば、テラスにアステリアローズの淡い薔薇色染められたドレスの少女の姿。
流れるような金の髪に白銀の肌、サファイアのような青く大きな瞳はうつむき加減に民に向けられる。
「……!」
レオはただただその美しい立ち姿に心を打たれ言葉を失った。
「アクセリナ様! なんとお美しい!」
頭上で知らない誰か声をもらす。
あれが、美しいというもの……?
「なんと愛らしいお姿だ!」
レオの後ろでまた誰かが叫んだ。
あれが、愛らしいというもの……?
違う。
美しいとか、愛らしいとか、そういうんじゃない……
レオは「美しい」や「愛らしい」をアクセリナを通して初めて知った。同時に「美しい」や「愛らしい」という言葉では到底表現できないものがあるということを知ることになったのだった。
「ああ、あれが私達の王女様なのね」
「あの人のために俺達も頑張らないとな!」
王女が手を挙げ、観衆に応えるとその熱気は一気に膨らんだ。レオはますます飲まれていくようだった。
アクセリナはフッと微笑み、視界を巡らせる。するとレオと目があった。
僕を見てくれた!
レオの胸がカッと熱くなる。観衆の熱気が一つにまとまりそのまま自分の胸の中に飛び込んできてしまったのではないかと思うほどに。
しかし、アクセリナの立つ場所から人込みに隠れるレオの姿が見えるわけがない。
それでもアクセリナが自分を見てくれたということをレオは疑わなかった。
耳から観衆の声が遠のき、足音が遠ざかる。レオはテラスに立つはずのアクセリナが目の前にいるような気持ちになった。
この場所に二人だけがいる、そんな気持ちに……
あの子の声は?
あの子の瞳は?
あの子の微笑みは?
レオは甘く柔らかな白い手に胸の奥を激しく掴まれたような気がして思わず手で抑えた。
「あっ……」
歓声が戻って来る。耳に観衆の声が飛び込んでくる。
レオはそれを拒むことができなかった。
アクセリナが遠くに行ってしまう。
アクセリナがテラスを去り、そこに集まった多くの人がその場を離れて行っても、レオはその場から動くことができなかった。
つめかけた人たちがすっかりいなくなっても、生誕祭の熱気はレオの胸に残り続けた。アステリアローズのドレスを着たアクセリナの姿とともに。
生誕祭のあと、レオは両親に連れられ、アステリアに住む親類の家に泊まった。
その夜、レオは眠ることができなかった。アクセリナの姿がレオに眠りを与えなかったのだ。
あれがアクセリナさま……あんなに綺麗な子が……?
子どもでもわかる。
あの子は特別な存在なのだと……。
子どもでもわかる。
あの子は自分とでは住む世界の違う人間なのだと……。
でも、だからこそ……
子どもだからこその純粋さでレオは願った。
あの子のために、何かしたい……!
そしてそれがレオの目標になった。
三年後。
十三になったレオは、村で自分の仕事のあとをついでほしかった父親の反対を押し切り、下級騎士見習いのための養成所の門をくぐったのだった。
体格がよく、すでに町道場などで基礎の出来ている同期に混じり、決して優秀ではない訓練生生活をひたすらに過ごした。
剣を振れば、剣に振り回され、試合をすれば技量と体格に圧倒される。地を舐め、砂にまみれた。血だか汗だからわからないものに何度も涙が混じる。
「ちぇっ、組み合わせが悪いや。剣の長さが足りないんだよ、向うが届いても、こっちが届かないんだもんなっ! なあ、レオ、お前もそう思うだろう?」
「……練習が足りなかったんだ、最初のを避けることができれば……」
「できっこないさ、避けた先でもらうのがオチだ」
同じ年に養成所に入った同室のエリオットは二人きりになるよくボヤいた。
体格に恵まれない二人は訓練生の中でも劣等生だ。
試合をすれば何度も負けた。レオは何度負けても剣を振った。訓練生のいなくなった鍛錬所に一人残り剣を振った。
それでも一向に試合で勝つことのできないレオを嘲笑する者がいた。レオの姿に刺激され奮起する者もいた。しかし、それでもなお、剣を振り続けたのはレオだけだった。
レオは信じていた。この剣を振っていった先に、アクセリナがいると。いつか、アクセリナの役に立てる日が来るのだと。
レオがアステリア王都に出てから五年後。レオはアステリア騎士団に所属することを許された。
薄紅色のアステリアローズが咲き、甘いバラの香りに包まれる王城一角でアステリア騎士団の入団式は行われる。
レオはエリオットとともに、団長ランヴァルトの言葉を聞き、身を引き締めた。
その時だった。遠くで声がした。
「姫様! そちらは……!」
数名の侍女を連れたバラ色のドレスを着た女性の姿をレオが微かに視界に入れたのも束の間、ランヴァルトの号令でレオたち新米騎士団員達は一斉に片膝をつき、頭を下げなければならなかった。
若い団員の中にはアクセリナに憧れる者も多い。そこにいた多くの者がその命令に不満を抱きつつ頭を垂れていた。
そんな中、レオはただ一人震えていた。
軽やかでゆったりした足音が近づいてくる。わかる。
周囲を取り巻く侍女達の足音とまるで違う。この優雅な足取りはアクセリナ様に違いない。
足音は一団の前でピタリと止まると、レオの心臓は飛び出さんばかりに跳ねあがった。レオがアステリア王都に身を置くようになった五年の間、アクセリア姫の姿はもちろん、声を耳にすることすら一度もなかった。そのアクセリナ様が、今、目の前にいる。
今ならば、顔を上げればアクセリナの姿を間近で見ることもできる。
一目お姿を……。見たい。
見たい!一目お姿を!
アクセリナは新米騎士団員を前に、涼やかな声で語りかけた。
「新たなに騎士団員となられる皆さんがこのアステリアの平和を支え……」
レオはあれほど憧れたアクセリナ姫が目の前にいるというのに、チラリとも顔を上げることができなかった。
身体が動かなかった。
体中から汗が吹き出し、ただ何もない地面だけを見て、幼い時に聞く事のできなかった王女の声を噛みしめた。
アクセリナの声はレオの心に深く、深く根を下ろすのだった。