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咎人の企望【Ⅰ】

「はあはあっ……」

 点々と灯る瑠璃色の明かりに浮かび上がる闇の廊下を走る。静けさを守る石壁の通路をなりふり構わず踏み荒らす。

 反響する足音が、追う者に自分の存在を知らせてしまう。そんな基本的なことすら頭から抜け落ちてしまうほど彼の心は混迷の中を駆けていた。いや、たとえそれを冷静に判断できたとしても、今の彼にその基本を守るだけの余裕はない。闇の褥に横たわる貞淑な静寂を荒々しく乱し禁忌を躊躇うことなく犯すことだろう。

 視界奪う濃霧と異臭蠢く、あの黒霧の森の中で、シェルが気がついた時には、一人きりになっていた。

 先頭を行くダンも、大柄で人一倍声の大きなハッセも、ダンに付きそうように歩いていたカイも、最後方で寡黙について来ていたレオの姿もなくなっていた。

 その事実に気がついた瞬間、ギュと心臓を冷ややかな手で掴まれたような気がした。緊張感が足元から駆けあがる。

 シェルはすぐにこの事態が異常であることを理解した。

 自分は隊列の中を歩いていた。

 前にはダン隊長、後ろにはハッセ達が歩いているはず。それなのにどうして孤立してしまったのか?

 どうして隊長を見失ったのか?

 どうしてハッセは違う道を行こうとした自分に声をかけなかったのか?

 いや、かけられなかったのか?

 心の中で起きた疑念に頭を悩めるほどの時間は彼には用意されていなかった。

 仲間の温かな視線のかわりに肌を刺すような異様な視線を濃霧の奥から感じたのだ。

 シェルは自然と足を速めていた。

 幸いにしてアステリアの山岳地方の出身である彼は、一人であれば常人以上の速さで山道を歩くこ とができる。凹凸の激しい道ももろともせず、仲間を探すよりも先を急いだ。

 どれほどの距離を歩いたのか。

 汗だくになりながら濃霧を抜けた時、それと同時に自分の周りから異様な気配は消えていた。シェルは熱気を放ちながら牢獄の鉄格子にも似た黒い森を背にして立っていた。

「なんだったんだ?」

 問いは生まれたものの、答えを求めようという気持ちが生まれてこない。

 仲間の姿はないが、森に戻ることは危険だ。彼は額の汗を拭いながら、自分の呼吸が整うわずかな時間だけそこで待ち、退路を断たれた思いでグルダニアへと足を踏み入れた。

 彼はその足でギュルムを訪れていた。

 しかし、町の外に溢れた浮上することのない幻惑の泥沼にはまり込んだ人々の姿を目にして、言い知れぬ嫌悪感を覚えた。シェルは町を避け、自分の体を休めるのに相応しい場所はないかと足を進めていたのだった。

 緊張感の伴う野宿を数度行い、シェルはここまでやって来たのだ。

「ちっ……」

 苦しい。息苦しい。湿り淀んだ空気を取り込むことを体が拒んでいるかのようだ。

 特に彼の腿や膝は酸欠に喘いでいた。

 興奮で感覚が研ぎ澄まされる頭とは裏腹に、疲労が鉛のように貼りつく体の不自由さは一層心を苛立たせた。

 森で濃霧に巻き込まれたあたりから感じ始めた息苦しさは森を離れるほどにひどくなっていた。

くそっ、少し走っただけでこれだ。

 見えない何者かの手によってゆっくりと慈悲深く首を絞められ、わずかな温情により生かされている。そんな錯覚を覚える。

 目まぐるしく視界を巡らす。

 何もない。

 闇と瑠璃色の灯り。石、通路、通路に吹き込む濡れた風の音、石の割れ目から落ちる雫の匂い。

 自分に敵意を持つものは何もない。

 姿の見えないことが、安息を生むとは限らない。

 事実、彼の心に生まれた焦りは、不安の薪をくべられ、その炎の勢いを増していく一方だった。冷静さが熱砂の上に放り出された淡雪のように溶けていく。

 それもこれもすべてはあれせいだ。

「なんなんだ、あの化け物は……!」

 口汚く吐き捨てること自分を保とうとした。

 あんなのが相手じゃしょうがない。

 誰だって、無様な姿を晒すだろう。

 今の状況は、俺のせいじゃない…… 

 そもそも、あれは現実だったのか……?

 暗闇と瑠璃色の虚ろな光の中に浮び上がるあれの一部を垣間見たに過ぎない。

 あんなものがあるのか?

 もしかしてそれは暗闇という美しい魔女が見せた幻だったのかもしれない。

 シェルは祈るような気持ちで記憶を反芻する。錯覚である可能性を見出すために。

「あの腕……」

 無口な闇から生まれたのは、一本の腕。それは紛れもなく人間の右腕だった。

 ただ、人の腕というにはあまりにも太く巨大。木の幹を思わせるその腕の先には人の物とは思えぬほど肥大した灰色の指と黒ずんだ厚い爪。何かを腐敗させたような強烈な異臭。

 闇より訪れたその腕はヒステリックに彼に抱擁を求めた。

 剣士としての本能で咄嗟に剣を抜き、明らかにサイズを違えた人の手の形をしたものを斬りつけたのだった。

 その記憶を辿りながら、シェルは震える自分の手を見る。

 足りない。酸素が足りない。

 激しい思考と騒ぎ立てる心臓はこれでもかというほど酸素を喰らう。

 抜いた剣は弾かれ、自分自身の手が痺れた。彼の持つ細身の剣では大型動物のような厚く堅い皮膚に包まれた獰猛な腕に傷をつけることはできなかった。

 剣が弾かれた瞬間、ゾワリと寒気が走った。心臓が止まるほどの勢いで跳ねあがり、息を飲んだ。飲んだ息が冷や汗を体の外に押し出した気がした。

 逃げろ!

 本能が耳元で叫んだ。

 どうして? 

 なぜ? 

 これは何だ? 

 何が目の前にいる? 

 ここには……?

 疑問が思い浮かぶ。

 いくつも思い浮かぶ。

 目だけが真実を見極めようと深淵の闇を覗こうとしたが、すでに体は本能に従っていた。

 どこへ行くんだ?

 どこでもいい! 

 ここはまずい!

 本能の命令にシェルの脚は存分に答えた。意識が歪むほど走ったのだから。

 それがつい十分ほど前に出来事だ。

「……どうなっているんだ?」

 いくら思い出してもあれは現実だった。

 頭から振り払えない。

「くそっ……」

 少しでも冷静さを取り戻そうと自分のいる場所を把握しようと、改めて視界を巡らせた。

 天井も壁も床も、切り出された石で敷き詰められた通路は、じっとりと絡みつくような湿った空気を従え、等間隔に掲げられた瑠璃色の灯りは闇と区別がつかないほどに暗く、月の隠れた夜空ほどの明るさしかない。

「あいつはどこだ……?」

 汗で濡れた胸元を振るえる手で緩めながらそう呟いた。

 いつの間にかいなくなっていた……。あいつはどこだ? 俺は……。くそっ……。

 まだ頭が回らない。

 しかし、ここで座り込むわけにはいかない。あの手が背後から襲ってくる。気配がすぐ後ろまで来ている……そんな感覚に襲われる。

 後頭部や背中を姿の見えない心の虫がゾワゾワと這いまわる。

 あいつはどこだ? 

 あの話は嘘だったのか?

 しばらく行くと彼は通路を抜けた。風が吹き込み一瞬目を覆う。

「……?」

 円型に囲まれた高い壁。

 その向こう側にあるのは見下ろすように設置された誰もいない観客席。

「ここは……!」

 じわりと生ぬるい風に紛れる腐敗臭が鼻腔の奥へと飛び込んでくる。それは脳裏にある腕の記憶を瞬時に呼び起こす。

「くっ!」

 地を踏みしめる歩幅の大きな重い足音。

 あの太い腕の本体?

 あの巨大な腕は身体の一部? だとしたら、だとしたら!

「くそっ!」

 来る!

 カラン……。

「!?」

 一瞬のことだった。

 シェルの背後で起きた小石が落ちる音に彼はほんの一瞬気を取られた。

 次の瞬間、闇から姿を現した巨大な生き物がシェルに襲いかかる。

 完全に後手に回った。

「っ!」

 人の拳。

 人のものとは思えぬほど巨大な拳。

 視界にはそれしかない。

 シェルは力まかせに殴り飛ばされ、石壁に身体を強かに打った。

「……!」

 あまりの衝撃に体が痺れて動かない。

 そいつは背を丸めているにも関わらず長身のシェルよりも頭三つ分ほど背が高く、丸太のような腕を重そうにぶら下げている。騎士団随一の腕力を誇るハッセでも、こいつの前ではまるで少女のように感じるだろう。それほどの体の厚みある巨体が仰向けになったシェルの体にのしかかる。

「おおおおっ!」

 太く穢れた両手の指がシェルの鍛えられた腹を押す。愛おしいものを求め欲するようにまさぐり、彼の鎧を割り、剝いで行く。彼は必死にその指を掴み、その進行を妨げようとした。しかし、指は止まらない。止めようがない。太く、堅く、蠢く指を。

「くぅ……!」

 シェルの口から紅い雫が伝い、やがて呼吸とともに空に何度か赤い花を咲かせた。

 灰色の巨大な指は、赤黒く濡れながらシェルの腹を破り、彼の中身をさぐり、無垢なるそれを穢しながら引きずりだすのだった。


   ★

「ああっ……」

 シェルの姿を闇の中から見つめる目があった。影に隠れながら男は震え、目を見開き、自らの下着を濡らしていた。


   ★


 聖暦864年10月


「おい、リストそっちは終わったか?」

「あ、いえ、まだ……あっ!」

 足場の上で筆を持ったままボーっとしていたリストは自分より歳の若い親方から怒鳴られハッとして我に返った。

 その拍子に今しがた塗ろうとしていた赤い絵の具を自分の腹に落とし思わず声が漏れた。

「またボーっとしていたのか! さっさっと手を動かせ!」

「へ、へい!」

 足場の下で拳を突き上げて怒る親方に頭を下げてみせながら、内心で舌打ちをする。

 リストが頭を下げて謝る様子を同僚だけでなく通りかかった人も見ている。

 子どもに、若い女、教会に祈りに来ていた礼拝者達の目が集まり、リストは顔を熱くして、うつむいたまま絵に向かう。

 ちっ、わざわざこんな所で怒鳴ることないじゃないか!

 炎の先のように揺れる心は気持ちの行き先を曇らせる。リストは揺れる筆を手にしたまましばらく動けなかった。そんな彼の姿を見て、同僚達はまたヒソヒソと好奇の目を向け、嘲笑のネタにするのだった。

 自尊心を傷つけられることはいつまで経っても慣れることはない。

 リストはグルダニア北部の小さな村で生まれ、十五までその村で育った。

 彼は生まれつき身体も小さく、体力もなかった。

 なだらかな丘陵地帯の多いグルダニアでも北部は山岳地帯であり、国内でも標高は特に高い。山々に囲まれ、一年を通して涼やかな風が陽の熱気を和らげる場所だった。

 昼に、草を枕に寝れば蒼穹に吸い込まれ、夜に、野に背を任せれば星を掴むことができそうな、そんな村に彼は育った。

 この辺境の小さな村で生きていくために農耕と放牧は避けては通ることができない。

 しかし、その両方ともが、自分にはあまりにも不釣り合いだと、彼は幼い時から自覚していた。そんな自覚から、薪を集めるという最低限の仕事にも身が入らず、気持ちのなさが足手まといに拍車をかけた。少年は誰に言われるでもなく周囲と距離を取り、無口になっていった。

 同年代の子が難なく出来ることを彼は満足にできなかった。薪を割れば数が少なく、水を運ぼうと 思えば、同じ量を運ぶのに人より多く往復しなくてはならない。彼は常に最後尾を歩いた。現実でも、自分の心の中でも。

 そんな彼が周囲の誰よりも才能を発揮したのが絵を描くことだった。もっとも、その才能もまた、村では不要のものであり不釣り合いなものだった。 

 村では絵を描くことは望まれていない。草をむしり、田畑を耕し、空を見て、風をよみ、雨の匂いに鼻を利かせ、然るべき時に実りを収穫することが尊ばれる。

 絵に心を奪われた彼は、さらに仲間の中で孤立していった。彼の両親すらも彼の存在を恥じた。ある時は彼を殴り、ある時は彼の前で涙をこぼした。

 それでも、彼は絵を描き続けた。

 紙とペン、それが無ければ枝を手にして地に描き、指を伸ばして空に描き、頭の中に色を塗り続けた。

 そんな彼の絵を認める少女がいた。リストが絵を見せると彼女は彼の絵を褒めた。

 村で唯一。リストが絵を見せる子。

 村で唯一。リストの絵を褒める子。

 彼は、彼女のことが好きだった。

 しかし、この村に暮らすかぎり、彼女と結ばれることはない。

 絶対に。

 もし結ばれたとしても幸せにすることなどできない。

 絶対に。

 リストは彼女が笑顔を見せてくれた絵を抱きしめながら頑なにそう信じた。

 そして、彼は決意した。

 画家になるために王都を目指すと。

 彼の旅立ちに見送りはいなかった。

 反対されることはわかっていた。だから、彼は黙って家を出たのだ。

 王都に行けば、そこに行けば自分の才能を活かせる。自分の絵の価値を知らしめることができる。

 そう思った。

 それがもう三十年も前のことだ。

「……」

 リストは王都で絵の師につき、そこで学んだ。独学でやってきたリストにとってそれは驚きと不満の連続だった。

 王都の絵画界は徒弟制、上下関係や古めかしいしきたりに苦しみ、心を歪め、辛酸を舐めた。幾度となく涙を奥歯で嚙み潰した。

 彼が何より不満を募らせたのは絵の題材だ。絵画のほとんどはグルダニア真聖教をテーマとした宗教画ばかり。もしくは貴族や富豪の肖像画を描くというもの。

 似たような構図、似たようなモデルに背景、色彩……。

 誰が描いても同じじゃないか!

 リストは成功したかった。誰かと同じでは成功できない。その信念とこだわりが膨らむほど、リストは苦渋を味わうことになった。

 そして今も改築される教会の内部の壁画を描かされている。

 自分らしさや自分の描きたいものを描こうと思えばグルダニアの画家には仕事はない。見向きもされない。

 しかし。こんな絵じゃなくて、俺らしいものを描きたい……。こんな決まりきった絵じゃなくて、俺の絵を……!

 彼は常に手製のスケッチブックを肌身に離さなかった。そこに描かれたデッサンが彼の財産でありすべてだったからだ。

 リストは自分の足場を降りると、歳下ばかりの同僚たちが休憩している片隅に腰かけ、教会から支給された昼食の堅いライ麦パンをかじる。

 彼と同年代の画家はすでに教会からの仕事や貴族らとのパイプを持ち、弟子を持っているものがほとんどだ。

 頑なにこだわりを持つリストはその流れから完全に取り残されてしまっていた。

「おい、見ろよ。こんな所にまで来ているぜ」

 かじった堅いパンを冷めたハーブティーで流し込みながら、親方の直弟子のウーノが声を潜めつつアゴで指していう。

 ウーノのアゴが向くのは教会の外。この教会の若い助祭が、重厚な黒を基調とし、茨の意匠を施された鎧を纏い、長大な槍を携えるグルダニア正騎士団の団員の姿があった。

 威圧感のある正騎士団の前に、助祭は額に汗をしながら身振り手振りで何かを伝えている。

「あの紫紺のマント……あんなのまで出てきているのかよ」

 紫紺のマントが一名と赤いマントが三名。紫紺のマントは正騎士団の中でも親衛隊と言われる王都を中心に活動する騎士のことだ。赤いマントの騎士団員とは格が違う。

「王都を守るはずの親衛隊が、このパルフットまで来ているなんてな」

 ウーノは肩をすくめてみせた。

 隣国アステリアに隣接する国境近くの村ギュルムと王都の間に位置する町がこのパルフットだ。

 元々は、練兵所や訓練所などがあり、人々の往来の中継地点としての宿場のような存在であった。 近年ではグルダニアの民の娯楽施設として闘技場も建設され、町としての発展を見ている。

 もともとあった古びた教会も拡張のための改築がされたことで、リストの親方は壁画の仕事を請け負うことができた。

「王都で起きている行方不明事件の影響だろうな」 

 ウーノの兄弟子である背の低い太鼓腹の男が細身の煙管を片手に白い煙を吐く。

「行方不明事件のことですか?」

 ウーノが吐き出された煙を避けながら、兄弟子アラの方に顔を向けた。アラは仏頂面のまま、彼に顔も向けずにもう一服深く吸い込み、また吐く。ウーノは兄弟子の技量は感服していたが、この鼻の奥を突くような強い煙草の匂いはどうにも苦手だった。

「ああ、誘拐か、殺人か、はたまた神隠しか、とにかく若い女ばかりが行方不明になっているからな。一カ月前に十二人目が行方不明になって落ち着いたらしいが、女も犯人も発見されていない」

「王都じゃ、その話題で持ち切りですもんね。これで犯人が捕まらなかったら騎士団の面目は丸つぶれだ」

 ウーノたちは口々に行方不明事件について自分たちの勝手な意見を言い合った。

「女たちはすでに他の国に売られたのではないか」「どこかに幽閉されているのではないか」「すでに殺されているのではないか」いやむしろ「女たちはお互いに知り合い同士で示し合わせていなくなったのではないか」……など、話に花が咲く。

 答えの出ない謎に満ちた話題ほど想像力を掻き立てられるものはない。

 ましてやそれが十二人ものうら若き乙女たちの失踪となればなおさらだ。

 王都は恐怖心と好奇心が入り混じり、一部では一種異様な盛り上がりをみせていた。

 行方不明になった女性らを美しく描いたポスターが通りに貼られ、王都の者であればその名を知らぬ者はいないくらいに知れ渡っている。ポスターの前で災難に見舞われなかった女らは何ら確証のない噂話で消えた乙女らの陰口を言っては穢し、男らは乙女たちが見つかるかどうかに金を賭けた。

 しかし、ここパルフットには、そんな熱気も伝わって来ていない。王都から来た画家の一団だけが最新の情報を持ち、盛り上がっているという風であった。

 リストは仲間の暇つぶしの熱には加わらず、息を殺すように黙々と堅いパンを食べた。

 やがて皆が話題に飽きるとそれぞれの時間を過ごし始める。

 煙管で煙草を吹かす者。僅かな給金を出し合いカードを打つ者。休憩後の仕事のために昼寝をする者。 

 リストはそのどれにも属さず、自前のスケッチブックを抱えて外へと出た。

 休憩時間のこの一時も、リストは自分の絵のために当てていた。

 誰も見たことのない絵、誰にもマネできない絵……神と自分の姿しか興味のない貴族たちを唸らせ、跪かせる絵。

 それはどこにある?

 その光景はどこにある?

 金の髪と銀の肌を持つ美しい女。あらゆる敵も苦難も寄せ付けない力強い英雄。

 ほんの一瞬だけ垣間見える誰も目にしたことのない荘厳で儚い自然現象。

 リストは探していた。自分の成功のネタ。自分に成功の階段を駆け上がらせてくれるものを。探し続けていた。三十年も。

「おや?」

 あれはクラウス助祭……?

 先ほどまで騎士団の応対に追われていた助祭クラウスの姿を目に止めた。

 クラウスはグルダニア王都からこのパルフットに配属された若い助祭だ。

 クラウスの身長はスラリと高く、そばかすのある童顔な顔立ちで、深みのある赤毛と明るいブラウンの瞳が特徴的だった。

 初日に二人の助祭を紹介されたが、もう片方は見かけることはあまりない。どこかで別の仕事をしているだろう。

 彼は聖職者らしからぬ腰の低さで、教会に雇われている一介の職人であるリストらへの対応も丁寧だった。

 まじめで働き者。それが、リストが抱いたクラウスの印象になった。

 ……何をしているんだ?

 クラウスの肩は揺れていた。今走ってきたばかりかのように上下して、何かを想い詰めたように食卓の前に立っていた。

 リストは食堂の入口の壁に身を隠し、喉の奥を締め、その様子を覗き見る。

 ここに来てから毎日のように顔を合わせるクラウスだが、あんな顔は見たことがない。

 ……何かあったのか?

 そう声をかけようとしたが、リストにはできなかった。そうさせない雰囲気がクラウスから発せられ、部屋に充満している。自分以外の存在そのものを拒んでいる。

 自分も死んだように息を殺しているからこそ、この場にいることができる。そう思えた。

 あれは……?

 クラウスの前にあるそれはおそらく騎士団のために用意された食事だ。

 焼き立てのライ麦パンとハーブの香りをたっぷりと含んだたおやかな湯気を上げる焼き目のついた羊肉にチーズが盛られ、その横には葡萄の葉で肉を巻いた煮物がヨーグルトソースとともに置かれている。

 席の一つ一つに銀のグラスが置かれ、テーブルの中央に置かれたデカンタには甘く芳醇な香気を放つパルフットの葡萄で作られた極上のワインが静かに客人を待っていた。

 複雑に絡み合う芳香は鼻腔をくすぐり、酒場の高級娼婦のように体にまとわりついては、リストの心を柔らかな手で撫で上げる。リストは思わず唾を飲んで喉を鳴らす。

 くそっ、騎士団の連中、いいもん食ってやがるな……!

 リストはすっかり湿った口を堅く結びながら、堅い乾いたパンで膨れたばかりの腹に空洞ができてしまったかと思うような熱気の籠もった虚無感を覚えた。

「……?」

 助祭クラウスはおもむろに料理に手を伸ばした。

 その時、パルフットの空には早馬より速い黒い雲が駆け抜けていた。

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