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飢えた町【最終章】

 まだ闇も去り切らない早朝に、レオとラウルは手枷を付けられたままアランの部下によって連行されていた。

 風の鳴き声ばかりの静まりかえった町の沈黙は異様な不気味さを感じさせる。

 雲に隠れながら坂道を下る月の軋みが、しきりに鼓膜を叩いた。

 レオが以前に感じた、この町特有の「生きている」という感覚がすっかり薄れてしまった。

町は見えない所から死臭を放ち始めている。

 美しく張りのある柔肌が、命を終えた後しばらくはその瑞々しさを失わず形を留めていても、やがては均衡を崩し、皮膚を破り、中から蟲が這い出るように、この町にも蟲が姿を見せようとしていた。

 この町は駆けるように待ち望んだ死に向かっている。

 アランの部下の鎧の擦れる金音が不快に耳につく。引きずるようなレオとラウルの足音と混じった瞬間、風が散らしてしいく。

 前後で錆びた槍を構えられ、レオとラウルはただ歩かされる。

 町を抜け、レオが最初に訪れた門をくぐる。

 敗戦旗のテントと屍の住人は、レオ達一行の姿に少しも反応をしない。

 彼らこそ、この町の象徴なのだとレオは思った。

 町外れにはすでにアランをはじめとした十数人が集まっていた。

 一団は一か所に集められ、その四方に槍を持つアランの部下が立っている。

 まるで彼らを逃がさないように建てられた鉄檻のように。

 メンバーの中には酒場で見かけた傭兵崩れの姿も見える。

 ……これで全員?

 レオは悟られないようにしきりに周囲を伺い、耳を立て、僅かな音も漏らさず聞こうと努めた。

 おかしい……。町の静けさのわりに人が少ない……。

 アラン本人とその部下達、酒場にいた傭兵、兵士、市民を除けば、一般人はごくわずか。

 町が死に向かっている事は間違いない。十人の大半がいなくなったのだから。

 しかし、それだというのに、ここにいる人間が不自然なほど少ない。

 救いなのは、司祭やカティの姿がない事だった。レオは内心で胸を撫で下ろしていた。

 不安は現実にならなかった。

 うまく逃げてくれたか……。

 パウリ司祭がアランの動きをいち早く察知したのかもしれない。

「アランさま、本当に、本当に森を抜けられるのでしょうか?」

 一団の中から痩せた女がすがるようなに訴える。

「もちろんだ。霧は越えられる、森は抜けられる。事実、この森を抜けて来た者がこのレオ=レクセルだ」

 アランは自信に満ちた声で高らかにレオを指さした。

「こいつが本当に? 何か証拠はあるのか? 我々はあなた方に高い金を払っているんだ、何か確証がほしい」

 今度は腰の曲がった皺の深い老人が聞き取りにくいギュルム訛りで言った。

 アランは少しも慌てず、部下の一人に目で合図する。

「おい、レオの姿を見せてやれ」

「……?」

 その命令に、部下の一人がレオに纏わせていたボロを除幕式の幕の如くにはぎ取った。露わになったレオの姿を見た瞬間、一同から歓声があがる。

 アランはニヤリと笑みを浮かべ、さらに声高に叫んだ。

「見ろ! この精巧精緻な美しい鎧をこれが何よりの証拠。このレオが、隣国アステリアから身につけて着て来たものだ!」

 アランの声に歓声が上がる。歓声は暗澹とした空の下吹き荒れる悲鳴のような風を遠ざけた。

「確かに、あのような鎧は今のグルダニアには存在しない!」

「ああ、あの模様、あれはグルダニアのものではない、アステリアものだ」

 レオは出発前に自分の鎧を着せられたわけを理解した。ここに集まる人間の信頼を得るためにレオに鎧を着せたのだ。

 槍の檻の中に充満していた不安と希望は、大きく傾き始めた。

 熱気。

 狂喜。

 レオのボロをはいだ男はその光景を自分の手柄のように目を細める一方で、周囲には聞こえないほどの小声でレオに囁いた。

「変な気を起こすなよ。お前さんにその鎧は着せた理由は、俺達の優しさでもあるんだ。先に餌を流したとはいえ、獣はまだ腹を空かせているかもしれねぇからな」

「……?」

 ふと、レオは自分に「森を抜けてきたのか?」と尋ねてきた男の事を想い出した。

 あの男はどこに向かった? 希望に目を曇らせたあの男は今どこにいる?

 そういう事か……。

「餌を流した」その言葉からレオは町から人が消えた理由を察した。

 どんな方法を使ったのか知らないが、町の住人を先に森に送り込み、獣に先に食事をさせたという事だろう。獣の腹が満たされれば、危険の度合いは減少する、そう考えたに違いない。腹が満たされ、大人しくなった獣達の間を、アラン達は悠々と行こうと言うのだ。

「さあレオ、森を案内し、我々をアステリアに導いてもらおうか」

「……ああ」

 レオは僅かに肩を揺らし、着せられた鎧の具合を確かめた。

 さすがに兵士が着せただけの事はある。しっくりと締められている。両手を拘束されたままだが、歩くのには問題はない。

 槍を持ったアランの部下は総勢八人。傭兵が三人。集まった民衆は戦力にはならないが多勢に無勢。

 手を前に縛られ、武器はない……。

 この状況、ダン隊長なら……?

「レオ?」

「ラウル、俺のそばを離れるな」

 ボソリと言ったレオの言葉はそばにいたラウルがやっと聞き取れるほど微かなものだった。

 歩むレオに慌ててラウルはついていく。

 ギュルムの民の視線を集めながら、その群れを割り、森へと向かう。暗く、深い、生温かな呼吸を繰り返す森の方へ。

 レオがアランの前を横切ろうとしたまさにその時だった。

 レオは身をひるがえした。

 石火の如くアランの腰から剣を抜きさり、アランを蹴って自身も飛び退いた。

 一瞬の出来事に、ざわりと戦慄の波紋が周囲の人々の心に震わせた。

 アランはたたらを踏んで数歩下がったが、その顔には余裕の色が浮かんでいた。まるで、この事を予想していたかのように。

「ほう?」

「残念だが、案内はできない」

「だと思ったよ。お前さん、目が諦めていなかったからな」

 アランの笑みの裏側から嗜虐性が零れる。

 レオの背後で女が奇声を上げ、それを皮切りに男達も声を上げ始めた。 

 熱気。

 狂気。

 レオもアランもピクリとも動じず、静かに探り合う。

「だがすぐに諦める事になるさ、そして俺達に従えばよかったと思うようになる」

「……」

「何とかなる。そう思ってるんだろ? ここに来て間もない、からそう思う。だから俺達のやり方に嫌悪する。ありもしない理想や夢や解決策に希望を抱く」

 アランは数歩下がっていくが、彼の声は騒ぎの中で鮮明に聞こえてくる。雑踏が遠ざかる。声が耳に届く。

「だが、それは幻想だ。現実じゃない。現実を知れば、お前も王都に向かう意味がない事を思い知らされるだろう。そして俺達の気持ちを理解する」

 その声は優しくジワリと心を包み込むような寛容さと突き放すような厳しさを持っていた。

「だが、お前が納得する時間を待つには、俺達はここで待ち過ぎた。俺達はもう待てないんだ。総員、こいつを叩きのめせ! 死んでいなければいい、口がきければ問題ない!」

 気がつけばレオとラウルの周囲八方をアランの部下が囲い、錆びた鉄槍が堅牢な檻となった。

 ラウルとレオは八本の槍の檻に内に放り込まれ、脱出路を断たれた。

 ジリッ、と砂を踏むレオに八本の鉄の槍が毒蛇のように鎌首を揺らす。

 ダン隊長なら、こんな時……!

「はっ!」

 一人の気勢に八匹の毒蛇が鋭く空を裂いた。

「うわっ!」

 その瞬間、レオはラウルを突き飛ばしていた。

「ぎゃああっ!」

 気がつくとラウルは檻の外とへ投げ出されていた。投げ出された彼が振りむいた時には、その惨状はすでに起きていた。

 自分と同じように槍に囲まれていたはずのレオの姿はすでにそこになく、レオを狙って突き出された一本の槍は軌道を変え、向かいにいる男の目から後頭部かけて貫通し、刺された男の槍は自分の目を刺した男の脇腹を深く抉っていた。鈎状の槍先が男のはらわたを乱雑に引きずり出し、流れ落ちる中身を追うように男は倒れてからガクガクと痙攣を繰り返した。

 悲鳴はその両者のどちらでもなく、腹を裂かれた男のとなり。弾かれるように転がった男のものだった。

 レオの白い刃は、男の足首にスルリと侵入し、彼が気づかぬうちにアキレス腱を断った。

 八本の槍の最初の一突きで三人が倒れる。

 騎士団の演武会でダンが見せた技が記憶に残っていた。ダンならばこうする、レオの導き出した答えだった。

 八本の槍が向けられた瞬間。レオはラウルを円陣の外に突き飛ばし、まだ痺れの残る脚を力任せに動かし駆け出していた。向かい来る槍を跳ね上げながら自分もまた円陣の外へと身をひるがえしたのだ。

 五人はハッとしてレオの姿を探した。

 目の前の男は毒に犯されている。

 手枷をはめている。

 しかもたった一人。

 それが油断となり、レオの思いがけない反撃を許してしまったのだ。戸惑いと困惑が矛先を迷わせる。

 残り五人の内二人は未だレオを見失ったまま。姿も見えないまま自分に降りかかる赤く温かな雨を浴びた。

 止まるな、止まるな!

 レオは自分への命令を繰り返した。

 身体が動く!

 興奮のためか、ハーブの効果なのかわからない。だがこれだけはわかる。今のこの時を逃してはもはや勝機はない。

 レオはアランの部下達の影を渡り、死角へ死角へと移動しながら斬った。

 アランの部下達は目を見開き、強張る首を懸命に左右に振って、毒に犯された死神を探した。

「ひっ!?」

 突如としてヌラリと濡れた剣が視界の片隅からヒヤリとした北風のように吹き込んだかと思うと、自慢の槍は封じられ、冷たい感覚が来て、それから火傷のような熱にもだえた。

 レオは彼らの肩、腕、足の腱を次々に断った。

 アランは、部下達が次々と膝折り、鈍い音とともに武器を落とす音を耳にしながら、ドロリと赤く湿った風が顔にまとわりつくのを感じ、わずかに眉をひそめる。

 残された五人が動けなくなるまで、十呼吸にも満たなかった。

「す、すごい……」

 濡れた鋼が走るたびに呻き声がグルダニアの暗い空に消え、発した者は痩せた地に還る。声を含んだ風は生温かく熱を帯びて鉄の匂いと混じり舞う。

 ラウルは瞬きする事も忘れ、レオの激流のような動きに魅了された。

「な、なんだ、あいつは、話が違うぞアラン! あいつは毒で動けないはずじゃ……がっ!?」

 問いただす傭兵崩れに一瞥もくれず、アランの拳がいきなり顔面に飛んだ。突然の事に顔を歪めた傭兵崩れは黄ばんだ歯と赤い唾を飛ばしながら尻餅をつき、手にしていた鉄槍をあっさりとアランに奪われる。

 アランは朝食のパンにバターでも塗るかのような手慣れた手つきで、クルリと槍を手の内で回転させ、倒れた男の喉に槍を滑り込ませた。

 スゥー、と目を見開いた傭兵の喉から息が漏れる。肉を破る鋭い槍に赤い雫が伝う。ザラリとした鋭い槍は、柔らかな首を突き抜き奥にある脊髄も砕いていた。傭兵の目がグルリと白目をむくと、アランはニヤリと笑みを浮かべ槍を引き抜いた。

「いい切れ味だ」

 濡れた槍先は油でも塗ったようにヌメリとして妙な光沢をもった。アランは再び槍を回し、地に視線を落としながらレオに意識を向ける。

「……」

「その鈍らでよくやる。さすがはアステリア剣術と言った所か。その奥義に達したものは千万人に対しても遅れをとる事がないとは本当か?」

 穏やかな口調とよく通る太い声。

 太い腕、首、厚みのある胸や腹から伸びる逞しく地に立つ両足は武人のそれだ。

 アランは強い。

 強靱で練られた身体だけではない。その技も、気迫も、今まで倒した彼の部下達など足元に及ばない。

 それは剣を交わさなくてもわかる。

 身長は自分よりも高ければ当然腕も長い、手にした得物は剣よりはるかに長い。そして自分が手にした剣の事をよく理解している。

「……」

 森林地帯の多いアステリアでは長い槍では持ち回りが悪いために剣に重きを置く。

 逆に障害物が少なく、視野のひらけたグルダニアでは騎馬による機動力と間合いのある槍と弓が発達した。

 細工の施されたアランの銀色の剣は鋭さはあるものの厚みがない、階級や権威を示すものであっても実戦に耐えるものではない。

 レオは内心舌打ちをしていた。

 ……まだ使えるはずだ。

 そう信じるしかない。

 この剣とアランの手にした槍とで打ちあえば、剣の刃はこぼれ、刀身を割られてしまうだろう。

 アランの剣を目にした時からそれはすでに察していた。そのため打ち合いを避け、相手の急所や腱を狙い攻撃を繰り出していたが、脂にまみれた刃の切れ味はすでに鈍い。

「その腕なら森を越えてきた理由もわかる」

 アランの落ち着き払った声がギュルムの民の奇声の中にポツリと落ちる。

 呟くようなその声をレオはしっかりと耳にした。

 次々にレオにより転がされるアランの部下達のみならず、アランの槍での一突きが混乱に拍車をかけていた。

 ある者は腰を抜かしうずくまり、ある者ギュルムに向かい走り出す。なかには錯乱して森へと逃げていく者もある。

 周囲の混乱とは裏腹にレオとアランは台風の目の中にでも立ったかのようにひどく静かなに対峙していた。もはや、二人を視界に入れる者はラウルしかいない。

「……仲間はいなくなったぞ」

「ああ? 仲間? はっ、もしもの時の盾がなくなっただけだ。問題ない。むしろ飯の取り分が多くなった」

 アランは少しも気に留めない様子で槍を構え、ふと真顔になって静かに問う。

「レオ、お前は何のために戦う?」

「……」

 じわりとアランが足を進めれば、レオはその分足を下げる。槍がほのかに揺れ、アランの錆びた槍先に熱が帯びたような気がした。

「こんなクソみてぇな場所まで来て、毒飲まされて、それでも戦う理由はなんだ?」

「俺は……」

 レオは言葉に詰まる。

 アステリアのため、アクセリナ様のため、任務のため、エルノの仇、ラウルやカティ、子どもを守るため……。

 戸惑うレオの答えをアランは待たない。

「俺はてめぇが生きるために戦う。生きるためなら、自分のまわりで何人死んでも構わねぇ。腹が減ればガキだろうが何だろうが食う。俺は死にたくないんでな。レオ、俺は必ずこの森を抜ける、俺はグルダニアを抜ける!」

 水鳥の羽が一枚、フワリと落ちるように大柄なアランの体が沈み込む。次の瞬間、血臭纏う槍が走った。

 それに遅れてレオも銀風を繰る。

 離れていたはずの二つの影はお互いに重なり溶け一つとなった。思わずラウルが声を上げる。

「レオっ!」

 スゥーと一線、柔らかな皮膚に線が生まれた。肌に溶け込むような色をしたその線は熟れた果実が内から自身の身体を割るように赤く裂けた。堅き刃が裂いたのだ。

「ちっ……」

「……」

 舌打ち。

 一つとなった影は再び二つに別れた。

「残酷すぎるぜ、今さら希望を見せるなんてよ……」

 錆びた槍は地に堕ちた。

 アランは地に還った。

「レオっ!」

 ラウルが膝をついたレオに駆け寄る。

「レオ、レオ! 大丈夫かい!?」

 レオは肩を大きく揺らしながら時間をかけて呼吸を整える努力をした。

「ああ、大丈夫だ」

 紙一重だった。

 レオは倒れたアランを見た。

 間合いも気勢もアランのものだった。グルダニアの槍を前に、全身から汗が吹き出し、なぜ自分が倒れていないのか不思議に思える。

「……」

「レオ?」

「いや、大丈夫だ。カティの事が気になる。カティと司祭を探しに行こう」

「その必要はありませんよ」

 レオが顔を上げるとそこにはパウリとカティが立っていた。

「司祭……?」

 思わず呟いた。声が漏れた。

 逃げたはずの二人の姿。

 それはレオが思い描いていた希望を裏切る形で現れた。

 カティは後ろ手に拘束され、目隠しがされている。彼女の細く白い首にはザラザラに錆びたナタが押し付けられ、今にも彼女の肉を割き穢そうとしている。そのナタを持つ手はカティの後ろに立つパウリ司祭のものだった。  

 彼は悠然と周囲を見回し、ため息をついてから言う。

「……これだけの準備をしていてなんと情けない」

「司祭! カティ!」

 ラウルが叫んだ。しかし、名を呼んだだけで次の言葉が続かない。

 どうしてカティは縛られている?

 どうしてカティの首に刃物がつきつけられている?

 どうして二人はここにやってきた……?

「ラウル、無事で何より。さあ、レオ、アステリアへの旅を始めましょう」

 パウリは穏やかに微笑んだ。

「司祭……」

 レオは力が抜けそうな膝に手をつきながら立ちあがると、天に祈るような気持ちで告げた「エルノが死んだ」と。

 レオの言葉にパウリは慈悲深い笑みを浮かべたまま「ええ」と頷いた。

「残念です」

「……それだけか? あなたが面倒を見ていた子だ。生活をともにしていた子だ。……それだけなのか?」

 レオは剣の柄を握りしめ、声が震えるのを必死に抑えた。

 パウリは肩をすくめ、聖職者らしい落ち着いた口調で「生きるためには糧を得なくてはならない。エルノは皆のなかで生き続けるでしょう」そう言った。

 彼の顔には驚きも戸惑いもない。その言葉には否定も嫌悪もない。ただそこにはあるのはエルノの死への肯定だけ。

 司祭は知っている。エルノの死がどのようなもので、どのような目的で殺されたのかを。司祭の穏やかな態度からラウルはイヤでもそれを理解しなくてはならなかった。

 示された現実の理解を心が拒む。

 自分の中で生まれた答えが想像の範疇のものであってほしいと願う。

 本当は違うはず。

 本当は別の答えがあるはず。

 そんな希望が、見なくてもいいはずの深淵の闇を覗かせる。 

「司祭、じゃ、じゃあ、今までも? ニコもマウリも、ライネも!?」

 ラウルはある日突然教会から消えた友達の名前を口にした。

 皆、孤児だった。

 皆、行き場がなかった。

 皆、司祭に保護された。

 皆、司祭を信頼していた。

 だけど皆、いなくなった……。

 司祭は先ほどと同じように「ええ」と応え、ラウルは嗚咽をもらした。

「そんな……」

 ニコも、マウリも、ライネもラウルより年下の子ばかり。エルノと同様に身体の弱い子もいた。それがある日突然といなくなる。

そのわけを教えてくれるものは誰もいなかった。そのわけを教えてくれる大人はいなかった。

 それはそうだ。彼らは、大人の欲求を満たすために消えたのだから。

 司祭は笑う。

「バカな子だ。おかしいとは思わないのですか? 昨日まで隣にいた友達が突然いなくなる事を。私はあなた達をダルガから遠ざけ管理しながら飼育していたにすぎないのですよ」

「飼育……オイラ達を……?」

 まずい野草のスープは自分達が食べる時に安全に食べるため、守っていたのは自分達が食べる分を奪われないため。

「嘘だ、そんな事、だったら、どうしてオイラじゃないんだ! オイラが一番年上だった、身体だって大きかった! 喰うんだったらオイラがいいはずだろ!」

 ラウルの叫びにパウリは憐れむように首を振る。

「だから、あなたはバカなのです」

 パウリは目隠しをしたカティに頬を寄せ、ニヤニヤと笑みを浮かべる。

「あなたが今まで助かっていたのは、この子のおかげですよ?」

「……?」

「カティの願いがあったからこそ、あなたを今まで見逃してきたのですよ、マヌケなラウル」  

「カティの……?」

 パウリに腕の中でカティがガタガタと震えながらピタリと足を閉じた。その反応にレオはカティとパウリの間で交わされた取引を理解した。

 レオはうつむき、切れ味の落ちた鈍器にも等しい銀の剣を今一度構えた。そんなレオにパウリは肩をすくめ、丁寧な口調で言葉を紡ぐ。

「アランは気がついていませんでしたが、セシリア様の力は日に日に弱くなっていっています。近いうちにここにいる事はできなくなるでしょう。レオ、手を取り合いましょう。ここから逃げるのです」

 子どもが立ち入る事を拒絶するような厳粛なパウリの声色にラウルは金縛りにでもあったかのように萎縮する。ラウルは震えた目で剣を構えたままのレオを見上げた。その時、ラウルは胸の奥を握りつぶされたかと思うほどに息を飲んだ。うつむいたレオの表情に。

「……司祭、一つ聞かせてくれ」

「……?」

「あんたも子どもを喰ったのか?」

 司祭は微笑を浮かべる。

「あなたは空腹になった事はないのですか?」

「……!」

「剣を下ろしなさい。でなければこの子の命はないですよ?」

 パウリはザラついたナタでカティのアゴを上げさせ、さらに喉に刃を押し当てる。

レオは血が滲むほど剣を握りしめても、踏み出す事ができなかった。

距離がありすぎる……。

もし斬りかかったとしても、この距離ではカティを盾にされる。剣が届いたとしてもカティを救えなければ意味はない……。

「あなたにはアステリアへの道を開いてもらう必要がある。ですが、案内するのに足は必要でもその剣は危険すぎる」

 司祭はそう言いながらレオに近づく。司祭のナタは僅かな時もカティの首を離れず、歩きながら細かな傷を生んでいく。

 まだ遠い。

 一歩で踏み込むには遠すぎる。

 パウリには少しの恐怖もない。

「アランも詰めが甘い。眠っている時に、腕を使えなくしておけばよかったものを。そうすれば、自分が斬られる事もなかった」

 あと数歩。

 すでにレオの間合いだ。パウリにとっては自分の命を脅かす場所であるが、戦いに素人の彼にはわからないのだろう。

 司祭は悠然とレオの目の前に来た。

 ナタで剣を割る気か? 

 それとも、自分がアランの部下達にしたように腱を断つか? 

 それも別の何かを……

 レオは苦渋の中でパウリの腕の中で震えるカティを見た。

「カティ……」

 ラウルが弱々しく彼女の名を呼んだ。

 その声に彼女はハッとしたように顔を上げる。目隠しをされていた彼女は、その声で自分のすぐ近くにレオやラウルがいる事を察したのだった。

 自分が思っていた以上に、二人は近くにいる。その確信がカティに勇気を与えた。

「レオ、お願い……」

 カティは微かな声で呟いた。

 離れているレオの耳に届いてほしい、すぐ近くにいるパウリの耳に届かないでほしいと願いを込めながら。

 次の瞬間、カティは自分を抱く司祭の腕を抱きしめながら叫んだ。

「レオ、私にかまわないで! 司祭を……!」

 彼女は自らナタに首を晒した。

 赤く錆びたナタがカティの命を吸う。

「ちっ!」

 予想外の動きにパウリはカティを突飛ばそうとしたが、彼女はナタを持つ司祭の腕を懸命に抱き続けた。堅く鋭いナタが細い首をえぐり続けても。

 茫然とするラウルは、自分のすぐ横を血なまぐさい冷たい風が走るのを感じた。

 赤く濡れた銀の剣がパウリの肩を貫く。薄く痩せた肩は剣に砕かれ、腕はダラリと力を失いカティが地面に転がった。

「あああっ!」

「司祭っ!」

 悲鳴。絶叫。

 パウリとレオの視線がぶつかり、お互いの息が触れあう。

 身体に取り込まれた銀色の異物にパウリの身体から脂汗が噴き出した。

 溢れ出る獣臭と渇き割れた唇から温かな腐敗臭がレオの息と混じり、二人はお互いの匂いを知った。

 パウリは何かを察したようにグニャリと顔を歪めてはレオを憐れむ。

「レオ、レオ……ああ、異国の者よ、よそ者よ、お前は知らぬのだな、飢えを、空腹を!」。

「……!」

 剣が深く、深く刺さる。

 パウリの身体は受け入れた事のない異物に筋肉が不規則に蠢き、抗えないほどの律動を繰り返す。 体が剣を拒む。異物を認めず、排除しよう脳に絶え間なく痛みを訴え、肉体は自分にできた穴を塞ごうと収縮を繰り返す。

 それでもパウリは目を見開き、レオの目を見つめ、さらに声を上げた。

「知らないのだろう? あの味を、空腹を満たすあの味を! 飢えを満たすあの味を! あの味を知りさえすれば……」

 嘲笑。

 祈り。

「ああ、常に飢える、身に焼き付くあの味を忘れられない、おさまらない……」

 恍惚。

 至福。

 レオは力の抜けていくパウリから剣を引き抜き、枯れ木のように立つその男を斬った。皮膚を破り肉が裂ける、骨の砕ける音とともに枯れ木は赤黒く濡れた。

「ああ……」

 穢れた雨がレオの鎧を濡らす。

パウリは吹き出した己の体液に濡れながら恍惚とした顔でなおもレオに語る。

「満たされた者よ、お前は知らぬだろう? 本当の空腹を……。だが、やがてお前も知る、この国にいるならば! 私達を理解する時が来る、やがて空腹を知る……」

「……」

 パウリはレオを覗き込み、また笑みを浮かべた。

「お前も、本当は飢えているのだろう……?」

「俺は……」

 レオの言葉はパウリに届かない。

 パウリはすでに事切れていた。

 レオを見据えたように暗い虚空に目を向けながら。


   ★



 シュキは顔を上げた。

 その美しい横顔は悲愴に満ち、竪琴のような涼やかなで心地のよいその声は私達に絶望を与えた。

「この病は特別なもの」

 澄んだ声。伝えられる内容とは美しい声に耳を奪われる。

 このような美しい声があるのか?

「セシリアは、よくはならないのか?」

 王の言葉。その言葉に彼女はうつむいた。

 彼女の長く艶美な黒髪が細い肩から白い胸に落ちる。

 私には彼女の表情が見えなかった。

「ただ一つだけ方法があります」

 しばらくの沈黙のあと、彼女は言った。

「それは、それはどのような方法なのか!?」

「しかし、その方法は……」

「構わぬ! どのような方法でも! どのような困難な方法であったとしても!」

「どのような方法であっても……?」

 長い黒髪が彼女の顔を隠す。

 私には彼女の表情が見えなかった……。


 聖暦864年7月 書記官グスタフの日記より


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