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飢えた町【Ⅰ】

 来る! 来る!

「はぁ、はぁ……!」

 背中に殺気。足音。

 どれほど走った事か、呼吸する事も忘れ、凹凸のある斜面を走り続けた足は今にも膝から崩れ落ちようとしていた。

 背中から迫る鋭い気配に鳥肌が立ち、ぬるい異臭に吐き気がこみ上げる。

 追いつかれる!

 背中に迫る。影のようにやせた手が。赤黒く汚れた爪が今にもレオの背に触れる、引きずり込まれる……!

 レオも覚悟を決めたその時、急に視界が開けた。全身を濡らすような深い霧を抜けたのだ。

 霧を出た瞬間、背中に迫っていた殺気がスゥーと去っていく。まるでここらから先は自分達の領分ではないとでもいうように。

 殺気の群れからいきなり解放されたレオは茫然としてその場にしばらく立ち尽くした。焦燥が汗とともに流れる。喉が痛みを感じるほど渇いていた。

「ここは……?」

 呼吸を整え、やっとの思いで言った。

 そこは荒野だった。

 荒れた大地、色彩を失った灰色の空と植物。色の抜けた荒野を我が物顔で闊歩する錆びた風が吹くたびに、命を失った草花はカサリと泣いた。

 岩肌がむき出しになった山と緩やかな丘陵が折り重なる先には人の息を感じる建物は見えず、放棄された遺物が荒野の一部に溶け込もうとしていた。

 人の気配はおろか、大地に戯れる動物も空を庭とする鳥もいない。

 荒涼としたもの悲しさが戦慄のようにレオの背を痺れさせた。

 ここがグルダニア?

 地形こそ、伝え聞いたグルダニアによく似ている。

 アステリアに比べ、木々が少なく岩が多い。高地ではあるが広大な平野が広がる。

 馬術と槍術が発展した理由はそこにあるとレオは騎士団見習いの時に習った。

 高山地帯特有の植物が生息していたであろうその場所は、今は面影一つない。

 動きのない厚い雲は、今が昼間である事を忘れさせる。

 レオは今一度、はぐれたダン達の姿を探したが、勇壮なその姿は見当たらない。

 先に行ってしまったのだろうか? それともまだ山林の中なのか……?

 レオは見落としがないように、注意深く、ダン達の痕跡を探したが、足跡も目印も見つける事ができなかった。

 かわりにもうずいぶんと時間の経過を感じさせる轍を見つける事ができた。そこは草の生え方が他の場所とは明らかに違う。

 もともと気候的にも背の高い草の生えにくい土地のはずだが、そこは明らかに地面の露出が多かった。

「道か?」

 過去に人の交通があったのだろう。

 ……この道を辿れば、どこか人のいる場所に辿りつく事ができるかもしれない。

 レオはもう一度周囲を見渡し考えた。

 霧の中の正体不明のあれが、何故退いたのかはわからない。そして、今度いつ襲ってくるかもわからない。

 ここで過ごせば、やがて夜が来るだろう。

「この場所に留まるのは危険か」

 この道がどこに続いているのかわからないが、案内になるものもないこの状況ではこれを手掛かりとする他ないだろう。

 過去にアステリアで作製された地図によればグルダニアは周囲を高山に囲まれ、国自体の標高も高い。海はなく、その代わりに南西部に巨大な湖が横たわるように存在していた。

 もっとも、その地図はダンとカイの荷袋の中。レオの手元にはない。レオは道標となるものは何も持っていなかった。 

「……一人で、進むしかないな」

 レオは近くの樹にナイフで目印を刻み、念のために地面にも矢印を書いた。

 ダン達が遅れてここを訪れた時に発見してくれる事を願いながら。

 レオは気持ちを切り替え、のちの報告のためにできるだけグルダニアの景色を目に焼き付けようと心に決めた。

 風に舞う乾いた砂。

 荒れた牧草地帯。

 枯れた果樹畑。

 放置された農具の周囲を虫が飛び交うように風が戯れる。    

 道となった水路には、足の裏をやっと濡らす程度の葡萄酒のような色の水がわずかに流れていた。

 人はいない。いるはずがない。

 こんな場所で人が暮らす事はできないだろうとレオは思った。

 もしかして、ストーンハートの影響で、人々はすでに死に絶えたのか? 

 それでこれほどまでに荒れ果ててしまったのか?

 どれほど足を進めても、生き残る農地は見当たらない。

 やがてレオは荒野の先に風にたなびく旗を見た。敗戦を告げるかのようなその旗は、歩みを進めるほどに増えていく。

 ぽつり、ぽつりと徐々に旗は増えていく。色も、大きさも、材質も様々。旗は風の戯れを示すようにバタバタと揺れる。

 レオが旗だと思ったものはテントだった。

 わずかに風を防ぎ、雨が降れば、間違いなく何の意味もなさない粗末なテントだ。

 そんなテントが足を進めるほどに群れをなす。その数が増えるほどに酸味を伴う刺激臭が晴れない靄のように立ち込め、毒虫の針のように鼻の奥をついた。

「……」

 レオはすぐに匂いの正体に気がついた。

人の匂いだ。

 テントの中や道端で横になる人から発せられる腐敗に似た汗と垢、排泄物の匂い。

 そこにいる人々は自身の周囲を飛び回る虫を払う事もせず、死んでいるのか生きているのかもわからない。

 ある者は虚ろに現実を眺め、ある者はギラギラとした目で幻想に心を奪われている。レオの姿を見ても反応する人はなく、潜む事を忘れたネズミは平然と人の前を歩く。

 ネズミの餌食となっている者はすでに息絶えているのだろうか? その瞳は開いたままなのに……。

 「人がいた」という発見はレオの心に喜びを与えなかった。

 そこにいる動きのある者にはすでに魂はなく。そこで動きを失った者はすでに人としての形はない。

「ここがグルダニア……?」

 戸惑がレオの足を速める。

 テントが増えるほど人は増え、人の数とともに異臭の濃度は増す。

 排泄物の中を歩かされているような感覚に、レオは吐き気を催しながら首をすくめ、浅い呼吸を繰り返した。

 一体何なんだ?

 人が住んでいるとは言い難い。

 ここに人がある……人が破棄された、というべき状態だった。

 さらに行くと突如としてそれは現れた。密集したテントの群れを隔てるように佇む壁。

 それは明らかに外界と区別するために設けられたレオの身長以上もある石壁であった。

 石壁は風雨に削られ、過去には堅牢に町を守ったであろう門は、今は崩れ果て、侵入者を拒む事ができないでいる。

 門番もいないその門を通り抜けると、ふと何かが変わった事に気がついた。

 山林で霧にまかれてからというもの感じていた枷をはめられたような手足の重みと女の手で喉を絞められているような息苦しさが途端に軽くなったのだ。

 レオは思わずヘルムのバイザーを上げ、外気に顔を当てた。

 ここは外と違う。

 たった数歩。数歩、壁の中の町に入っただけなのにまるで長い患いが快癒したかと思うほど軽くなった。

 次に気が付いたのは、壁の内側に広がる世界だ。

 家、塀、井戸。生活に必要なものがあり、そして何より「人」がいる。

 ボロを纏い、痩せこけ、下腹が膨れた人々が幾人もあてのない時間を過ごし、塀を背にして地べた腰かけ、直に地面に寝転がる。歩いて行くレオにギラギラとした好奇の目を向けながら。

 ……ここは外と違う。

 外よりも命を感じる。それは安全とは言えそうもないものだったが。

 町の中心に近づくにつれ、人の往来はより活気を増した。

 レオとすれ違った者達は一様に振り返り、この地に訪れた異邦人の姿に目を見開いた。

 向けられる視線と様々な感情にレオは戸惑いを感じた。

 皆それぞれに、顔を歪める。

 ある者は笑みを浮かべ、ある者は哀れみを浮かべる。

 歪めた者達はヒソヒソと言葉を交わした。何かの交渉が始まったかと思えば、会話は結実をする前に前に崩壊する。

 わずかに耳に届く話の内容は、レオには理解できない言語が含まれていた。

 異様な視線に警戒しながら、レオは歩調を緩めることもなく町を歩いた。

 何だ、この町は?

 どこの国にも、どこの街にも、荒れた場所は存在する。

 しかし、それにしてもここは異様だ。

 アステリアの最も危険な貧民窟の最奥部を、裸で首に宝石をぶら下げた女が一人で歩いたとしてもこんな目で見られる事はないだろう。

「……」

 少なくともこの場所で留まるのはいい選択だとは思えない。レオは歩きながらこれからどうしたらいいのかを考えなければならなかった。

 ふと、レオの行く手に大きな麻袋が揺れた。袋を肩に担いだ薄汚い小男が道化師のように躍り出たのだ。

「ダンナっ、見ない顔ですね!」

小男は、奇声にも似た奇妙な声でレオに愛想笑いとも嘲笑とも言えるような笑みを向け声をかける。

「……」

 レオは答えず、足も止めない。小男は少しも気にする様子もなくレオの周囲を道化師のように跳ねまわりついてくる。

「珍しいですよ、このギュルムにダンナみたいなお人が来るなんて!」

 小男は黄ばんだ歯の隙間から息を漏らしながら言葉を零す。

「しかも向うから! 黒霧の森の方から!」

「……」

 その言葉にレオは思わず男の顔を見ると、ゆさゆさと麻袋を揺らし、跳ね歩く姿と耳障りな男の声を遮るように「聞きたいことがある」と言った。

「ケケッ、どのようなご用事で?」

 男はしわの刻まれた口を歪ませ、ドロリと濁った瞳を細める。

「俺のような格好をした人間を見なかったか? 森の方から来てはいないか?」

「ダンナのような格好をした? はて、見たような、見ていないような……」

「見たのか?」

 男は下手な道化師のように大げさに首を傾げ、あるかどうかもわからない自分の商品をチラつかせる。

 こんな場面に遭遇した事のないレオでもさすがに察しがつく。

 この男の商品がどんなものであれ、今はそれを知らなくてはならない。

 レオは黙ってアステリア小銀貨を取り出す。瞬間、男の目の色がかわり、銀貨を手から奪い取ると瞬く間にしまい込んだ。

「ケケッ、ダンナ、気前がいいですね!」

 満面の笑み。

 どうやら男の要求する金額は満たしていたらしい。男は今までで一番声を弾ませ、

なめるようにレオを見た。

「もしダンナみたい人が立ち寄るとすれば、この先を行った広場の一角にある酒場グラナトでしょうな。そこで、お仲間を探してみてはいかがです?」

 男は広場の方を指差す。

「酒場……?」

 この町にも酒場があるのか。と、レオは意外に思う。しかし、酒場があるのだとしたら、隊長達がそこを訪れる可能性は高い。

 少なくとも、情報を集めたいと考えれば、そこに向かうだろう。もしそこに、隊長達がいなかったとしても目撃者を探す事ができるかもしれない。

「わかった。もういいぞ」

「待ってくだせぇ、ダンナ。へへ、こんな当たり前の事で、この金額は過分というもの。これはこのオッシからの心ばかりの品でございます……」

 オッシは血色の悪い痩せた手で、何かをレオの腰にさげた荷袋に押し込んだ。

「お、おい!」

レオはそれを返そう取り出そうとしたが、すでにオッシの姿はなくなっていた。

「……?」

 入れられたものは片手に納まるほどの濁ったガラス瓶。中には、紫紺色の液体がドロリと揺れていた。

 ……? 薬?

 見た事もないものだ。

 どのような用途に使うのかもわからない。

 返す相手もいなくなり、レオは仕方なくそれを荷袋の中にしまうと、オッシに言う酒場グラナトを目指した。

 町はアステリアと同じ石造り。

 採掘される石に特徴があるのか、アステリアのものとは色合いが違う。くすんだ桃色と黒い石が多い。

 割れた石畳の道は凹凸が多く、所々剥がれていた。中央広場に近づくほどに増えていく家々の外壁には争いがあった事を静かに語る染みに汚れている。

 外から見える主を失った家は、窓と戸を失い、今は暗闇が住む。隣接する戸も窓も閉ざされた家の中からは、男とも女とも区別のつかない呻き声が漏れ聞こえていた。

「おい、そっちに行ったぞ!」

 突然背後で 野太い男の声が上がった。テンポの速い足音に振り返るとボロを纏った痩せこけた少年がレオのすぐ脇を駆け抜けた。そのすぐあとを数人の大人達が追う。

 少年はつむじ風のように身を翻し、狭い路地を抜けようと体を斜にする。

 そこに滑り込めば、大人達の体の大きさでは入ってくる事はできない。手を伸ばしたとしても引きずりだす事は至難の業。

 少年の体がまさに壁と壁の隙間に滑り込もうとした時、太い腕が伸びた。

 少年の算段に反して、追っ手の大人達の足は予想以上に早かった。太い手は彼の着ていた服の端をしっかりと掴んでいた。

 風のような少年の勢いが大人達によって止められ、彼は一瞬、自分の服で自分の首を絞める事になった。

「てめぇ!」

「!?」

怒声とほぼ同時。それよりも早いかもしれない。少年は先頭を走って来た骨太の男に突然殴り飛ばされた。

 その衝撃に少年は転がり、同時に手からカビの生えたパンが転がり落ちた。

「ご、ごめん、もうしな……」

 少年の言葉が終わらないうちに男と一緒に追ってきていた女の蹴りがおき上がろうとする少年の胸に飛んだ。

 あまりの勢いに少年の呼吸が一瞬止まる。

 少年を囲む大人達の足が砂埃を立て、その中に彼の姿が飲まれていく。

 囲んだ人間の足の隙間から亀のように身を屈めて、必死にこの時をやり過ごすそうと耐える少年の姿が見えた。

 子ども相手に、大人が……。

 パン盗んだ、それはあの子が悪いかもしれない。でも、これはやりすぎだ!

 レオは戸惑いと怒りが同時に沸いたが、その感情を押さえつけた。ここで騒ぎを起こしてしまうのは賢いとはいえない。

 誰か彼を助けてやってくれ、そう願った。

 すると、その騒ぎに引きつけられるように傍で見ていた老人がフラフラを立ち上がる。レオはこれで少年への暴力が終わると思った。しかし、次の瞬間老人は目の色を変えてその輪に加わったのだった。

 その雑踏で転がったパンが何度も安堵も踏まれる。

 踏まれたパンには誰も見向きもしない。

 集まった大人はただ少年を殴り、そして蹴った。

 男とも女とも区別のつかない奇声とともに感情が漏れた。排泄される汚物のような感情と暴力が少年にかけられる。今得られる快楽に男も女も、老人すらも酔う。

 少年はただ耐える。耐える。謝る。謝罪の声も怒声に消える。

「おい、いい加減にしろ!」

 レオは我慢できず、その輪に割って入っていた。少年をさらに殴ろうとしていた最初に彼を殴った男の腕を掴む。

「ああ?」

 淀んだ瞳がレオに向けられた瞬間、男は少しも迷う素振りもなく掴まれていない側の拳をレオに向けた。

「!?」

 男の拳が空をきる。

 拳を突き出した瞬間、身を翻したレオによって男の体は宙を舞ったのだ。

 その予想外の動きに男は地面で仰向けになってから自分が投げられたという事に気がついた。

「お前ら、それくらいに……」

 レオの言葉が終わらないうちに、女が僅かな隙をついてレオの剣を脇から奪い取ろうと手を伸ばした。瞬時に左手で柄を抑え、腰を切ってこれを避けると女はそのままの勢いで一人強かに地面に突っ伏した。

「ぎゃああっ! 何をするんだよ! 男が女相手に!」

 しゃがれた悲鳴が耳をつく。

 その容姿からも声からも、女の年齢をうかがい知る事はできない。顔を歪ませ、女である事を盾に錫色の瞳を狂わしながら、その手が腫れ、血が滲むほど何度も何度も地面を叩く。非難と罵倒が混じる金切り声で泣き喚く。その声は、聞く者に狂気を起こさせる魔笛の如く男達の気持ちを高揚させた。

「なんだてめぇは!?」

「いい加減にしろ、子ども相手にそこまで」

「お前は関係ないだろうが!」

 目の色を変えた十人近くの人間がレオを囲う。さらに人が集まるほど、女は悲哀を込め泣きあげ、男達の背を押し、尻を叩く。

 周囲に集まる関係のない人間達も殺気立ち始める。

 このままではただでは済まないか……。

 レオがいくら騎士団の中で無名の存在であると言っても、特別な戦闘訓練を受けている事にかわりはない。

 完全な素人に遅れを取るつもりもない。手加減もできる。しかし、これほどの人数になればそうも言っていられない。数に押される。おそらくはあの少年の二の舞だ。

しかし、ここで剣を抜けば……。

 異国でその町の人間を斬ったとなれば、どんな理由であっても追われる事は必至。もはや、調査任務どころの話でない。

「……殺せ!」

「殺せっ!」

「殺せっ!!」

 声が上がる。熱気が包む。

 穏便に済ませる。そんな状況じゃない。

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