アルグランダの逃亡者
夜闇に灯る光をもとめる蛾のように、夜更けの酒場には上品という言葉とは縁遠い客が寄ってくる。
その手にはわずかな憩いをもたらす安い酒と金の行方を左右する疲れたカード。
喧騒にも似たしゃべり声の中を、露出だけは上等の安物のドレスを着た女が、豊かな胸と細い腰をテーブルの合間で揺らしながら歩いていく。
ふと、楽師のギィーラの音が喧騒を割る。
横笛ギィーラとリュートを思わせる五本弦の楽器トーンの音が、波のように広がりその場のすべてを支配した。
酒と金、カードと女にしか興味を示さない客たちですら、酒場の片隅に設けられたステージへと視線を投げ、耳を惹きつけられる。
桃の樹から作られる横笛ギィーラを奏でる楽師の隣で、トーンに細い指を滑らす吟遊詩人。
詩人が歌うは、勇猛無比なる剛将カーズとアルグランダの衰滅の報。
実り豊かな黄金の穂波、たわわに実る紫紺の果実、美しき女と勇ましき男が住まう国、アルグランダが東の勢力により陥落たという。
詩人の麗しき歌声は、船を沈める妖魔の如く、悲しき知らせを蠱惑に彩る。
心地よき音は溶かす心を溶かし、安酒を美酒に変える。
♪
民に慕われし王は所在を風は知らせず。王の右腕、王の剣、将軍カーズの死の噂。
追っ手を逃れ、隠れた異国の森の奥そこで、かの剣は消えたという。
誰が討ったか。彼の命。誰が折ったかアルグランダの大剣を。
♪
★
「はあ、はあ……っ」
神聖なる森の静寂を破り駆ける幼き足は、耳障りな金音を立てる不埒な足に追われていた。
幼き足は森に立ち入ることを許された森の民。それを追うのは礼を失した侵入者。
無礼者たちの放つ異臭に、森に住む獣たちは視線を向けては身をかがめ、耳を立てては息をひそめた。
「待てっ!」
逃げる者の名は、今年で十七になる黒髪を揺らす褐色の肌の姉シュラ。
もう一人は小柄で目鼻立ちのくっきりとした彼女の二つ下の弟、リーン。
二人は息を切らし、複雑に入り組んだ草と足元で隆起する巨木の根を避けながら森を疾駆する。足場の悪いこの場所を、駆け抜けるその姿は、慣れぬ者からすればまるでしなやかな獣のよう。
二人より二十ヤードほど後方。追っ手は兵士崩れの男が三人。
この地方独特の雰囲気と美貌を持つシュラの容姿が男達の欲望に火をつけたのだ。
リーンの機転により、男達の魔の手から逃げ出すことには成功したが、逃げ切るまでには至らなかった。
森に慣れた姉弟についてくる男達に、二人は内心舌を巻いていた。
「姉ちゃん! 逃げて、ここは僕が……」
「何言っているの、そんなこと絶対に許さない! 何をされるかわからないわ! とにかく今は逃げない……」
逃げる。
それしかない。
村からは離れすぎてしまっている。
助けが来てくれる可能性は低い。
女の自分と剣も握ったことのない弟の二人で戦えるはずもない。男達が諦めるまで、このまま逃げ続ける。もしくはどこかに隠れてやり過ごす。
ここまで逃げてこられたのは、男達の足が森の複雑な起伏になれていないからだとシュラは考えた。
森の中ならば何とかなる。
手立てはあるはずだ。
逃亡の算盤をはじきつつ、シュラはついてくるリーンを懸命に励ました。
しかし、女、子供の体力と判断力が大人のそれには敵うはずもない。
時間の経過とともに、男達の足は慣れ、狩猟本能は冷徹に判断を下し始めていた。
「……?」
シュラがその異変に気が付いた時にはすでに状況は決していた。
えっ? どういう事? 追い込まれている……!?
逃げていたはずなのに、気がつけば退路を塞がれ、相手の用意した選択肢を選ばされていた事に気がついた。
「姉ちゃん!」
「こんなことって……」
姉弟がたどり着いたのは、古ぼけた、とうの昔に忘れ去られた神殿の前だった。
この森の親しむ彼らとて、ここまでやってきたことはない。
退路は塞がれ、完全に追い詰められた。
「手間をかけさせやがって……」
肩当てをした無精髭の男がシュラをギラギラとした視線をむける。その後ろでは赤毛の男が剣を抜き、赤毛の隣にいる長身で猫背の男はにやけた顔でシュラを舐めるように上から下まで何度か視線を往復させた。
「姉ちゃんに触るな!」
リーンがシュラを庇い立つ。そんな弟に肩当ての男は眉一つ動かさず、小柄な腹部に堅い拳を見舞った。
「リーン!」
よろめくリーンをつかみ、肩当ての男は、物でも投げるかのように赤毛の男の方に投げ放つ。リーンはそのまま赤毛の男に押さえられ、首に剣を突きつけられた。
「リーン! やめて、リーンに乱暴しないで!」
肩当ての男は楽しげに顔を歪め「お前がおとなしくしていれば弟は無事だ。わかるな?」と震えるシュラを口説く。
「……姉ちゃん! 逃げっ」
暴れるリーンの頭を赤毛が勢いよく上から押さえつけた。リーンの言葉は姉ではなく地面に向けられ、その声は地面へと吐き出されただけだった。
「リーン!」
カッとなったシュラは肩当ての男に向かい思わず手が出たが、その一撃は男の顔面を捉える前に、厚みのある手によってとめられた。
「威勢がいいな。おいラハン、お前も来い」
ラハンと呼ばれた猫背の男は肩当ての命令のままにシュラの体を押さえつけた。
「!」
シュラは悲鳴を上げようとしたが、ラハンの大きな手で口を塞がれ、声を出すことができない。
「いい目をするじゃねぇか」
肩当ての男がシュラの服を引き裂き、その胸を露にしようとした瞬間だった。
肩当ての男が最初にそれに気がついた。
身長、五フィートほどの小柄な男が神殿より現れ、男たちを見据えている。
ゾワリ。
寒気がした。
男は一瞬、目の前にある類まれなごちそうのことを忘れ、本能的に剣を取ろうとしていた。
異様。
異様なほど鋭い眼光。
歴戦を物語る傷だらけの軽鎧。
腰携えたぶ厚い刀身の使い込まれた剣。
その気配に、猛獣にでも突然遭遇してしまったかのような嫌な汗がにじみ出た。
いや、そんなはずはない。
男は頭を振る。
よく見れば、六十は超えたと思える小柄な老人じゃないか。
「た、助けてください!」
シュラはラハンの手の隙間から必死に声を絞り出し叫んだ。
「……その子らから手を引け、そうすれば見逃してやる」
老人の低く響く声に、肩当ての男は得物を抜き放つ。
抜かなければヤバい。そう感じた。
男は急かされるように早口で
「残念だが、これは俺たちの獲物だ。引き下がるわけにはいかねぇな」と捲し立てる。
「……」
息巻く男に老剣士は嘆息する。
その態度に男はさらに語気を荒げた。
「俺達を誰だと思っている? アルグランダ第一騎士団、剛将カーズ様の直属の配下だ、俺達に手を出せばただでは済まない!」
「カーズの配下?」
老剣士の眉がピクリ動いた。
それから静かにシュラに問う。
「だそうだ。それで娘、お前の願いは?」
「っ!? 助けてください! 私達を助けてくださいっ」
「聞いたか? カーズの配下とやら。今なら見逃してやる。すぐにその子らを離してここから失せろ」
老剣士の言葉に男たちは顔を見合わせる。
突如現れた老人は普通ではない。しかし、白髭白髪、顔に刻まれた皺は男の老いを悠然として語っている。
剣を持ち、鎧を着ていても、たかだか老人一人。三対一で後れをとるはずがない。
そうだ。手間が一つ増えたに過ぎない。
ジジイを始末したそのあとで女を楽しめばいい。
肩当ての男はラハンに目で合図を送る。猫背のラハンはユラリと立ち上がると腰に差していた手入れもされていない汚れた長剣を抜き放つ。
手足の長いラハンが剣を構えれば、腕の長さと合わさり、巨大な蜘蛛を思わせた。
不気味なほどの懐の深さに、味方の男たちですら目を見張る。
その間合いは、常人の倍。小柄な老人であれば、もっとある。
断然に有利。ラハンは強い。
「じいさん、警告、してやる。失せろ、殺されたく、なかったなら、なぁ」
西部訛りの強いラハンの言葉は聞き取りにくい。
人を斬ったあとに手入れもまともにしていないであろうその剣は、穢れを纏い血の匂いがした。
老剣士は少しも表情を変える事はなく、ただラハンを一瞥し、肩当ての男に視線を戻す。
「二度も言わせるな、カーズの配下」
「じいさん、無視してんじゃないぞ!」
カッとしたラハンが鞭のような腕を振り上げ、老剣士の頭上を目がけ剣を振りおろす。その瞬間、白鬚が揺れた。
「……?」
腕は振り下ろされた。それと少し遅れて、離れた場所にラハンの剣が回転しながら地面へと突き刺さる。遥か離れた場所に刺さったその剣の柄をラハンの手はまだ握りしめていた。
「おっ!? なっ!?」
肘から先が虚空に消えた事を理解できず、ラハンは意味不明な言葉を漏らした。
噴き出る鮮血に遅れて理解がやってくる。
「ぐああぁぁ! 腕、腕ぇ!」
悲鳴とも奇声とも判別のつかない声を上げラハンは転げまわった。
「ラハン! そんな、いつ斬った!?」
老剣士はそれで十分だろう? と言わんばかりにすでに剣を収め「連れて帰れ、手当てをすれば命は助かる」と言葉を投げる。
赤毛と肩当ての男は腕を失ったラハンの姿を目の当たりにし、途惑いと怒りに顔を青くする。
「てめぇ、ラハンによくも!」
二人の男はもはや姉弟にかまっておられず、各々に剣を抜く。
シュラはあわてて男から離れ、あとずさると巨木のような感触を背中に感じ、思わず振り返った。
「あっ? えっ?」
「ふふっ、この地には美人が多いというのは本当のようですね」
脳裏に浮かんだ巨木のイメージとは裏腹に、そこにいたのは銀色の長い髪をした、女のような優男だった。
「あ、あの……」
「ああ、素敵なお嬢さん。このあたりには、あなたのような美しい女性ばかりなのですか? もしそうだとすれば、私はどうすればよいのか……?」
芝居かかった物言いの男の影から、もう一人、鋼製の軽鎧を身に着けた、身長五.四フィートほどの短髪の男が歩み出る。
長髪の男とは違い、腰には使い込まれた長剣を携えている。
「どうする必要もないだろう?」
「ダナンは相変わらず、お固い事で」
「敵の前だぞ」
「敵というほどのものでもない。だから、敵の前でないのと同じ」
シュラは楽しそうに会話する二人と老剣士、そして自分達を追っていた三人の間で視線を何度も往復させた。
「ちっ、仲間がいたのか!」と肩当ての男。
シュラはそこで初めて安堵した。二人があの老剣士の仲間かどうかはわからないが、三人組の援軍ではないことは確かなようだ。
声を荒げる肩当てと剣を構えながらラハンの惨状に震える赤毛を無視し、老剣士はリーンに近づき、怪我がないか確かめる。
「大丈夫か」
「は、はい」
「ギュラ! そいつを切れ!」
肩当ての叫びに凍り付いていた赤毛のギュラが雄叫びを上げ、剣を振り上げた。
振り上げたその瞬間、手から剣が消える。ギュラは軽くなった右腕に慌てて視線を移し、自分の腕が失われてない事を確かめた。
剣が弾かれただけだった。しかし剣を弾いたのは、驚くべき事に遥かに離れたダナンと呼ばれた若剣士の剣であった。
その距離は、長身のラハンと比べものにならない。ダナンという男が弓矢の矢のように駆け抜けたのであった。
「グスタ……」
ギュラは声を喉の奥から絞り出した肩当ての男の名を呼ぶ。
「くっ、引き上げるぞ!」
グスタとギュラは痛みに咽ぶラハンを連れ、森へと消えていった。
呆然としていたシュラとリーンは、改めて神殿から現れた老剣士と森から現れた若者に感謝の言葉を述べた。
「ありがとうございました」
「このミュサ、美しい女性のためならば、この程度のこと少しも苦になりません」
「お前は何もしていないだろう?」
ダナンの言葉にミュサは人差し指を立てて振りながら首を振る。
「彼女に何かあった時には、身を挺して守るつもりでしたよ。その機会がなかったのは実に幸いなことでしょう?」
ミュサの言葉に表情を変えないダナンだが、その内心はあきれているのではないかとシュラは思った。
「ところであいつらは?」
「はい、森で薬草を採りにいった所で見つかって……」
シュラは老剣士の問いに少々興奮気味に、ここに至るまでの経緯と最近、隣国アルグランダが陥落したという噂、時を同じくしてアルグランダの将軍カーズが率いる騎士団がこの森のどこかを根城にし、近隣の村に略奪行為を繰り返しているという話を語った。
「あの、よかったら、村まで来ていただけませんか、何かお礼をしたいので」
シュラの提案に、老剣士が答える前にミュサが口を出す。
「それはありがたい。師匠、是非お邪魔いたしましょう」
ミュサの即答にダナンは頭を掻いたが、師は肩をすくめて承諾する。
「ではお言葉に甘えよう」
先ほどの気迫が嘘のように穏やかな老剣士はマルティスと名乗った。
二人の住む村は森から僅かに離れた森に寄り添うように作られた集落だった。
村とはいえ、アルグランダの国境に近い村の中では一、二を争う大きさだ。
村では、帰りの遅いシュラとリーンを心配した彼の両親と大人たちが待っていた。
彼らは二人の無事を喜びはしたが、二人が連れてきた三人には警戒の色をみせた。姉弟の話によりその誤解はすぐに解けたが、諸手を上げての歓迎とはならなかった。
「申し訳ありません。あやつらの事があって以来、皆疑心暗鬼になっておりまして……シュラ達を助けていただいたことは、本当にありがとうございました」
あやつら……シュラ達を襲った男達のことだとマルティスはすぐに察した。
佩刀していたことが余計な警戒心を与えてしまったか。と理解する。
村長はお礼にと三人を夕食に招いた。
マルティス達はそこで、ここ最近でこの辺りに根城にしたアルグランダの残党の詳しい話を耳にすることなった。
「噂ではアルグランダの王は討たれ、姫君と騎士団、多くの民も国を追われたとか。その残党が、この森のどこかに流れ着いたのでしょう。場所はわかっていませんが、この村にも七日に一度は姿を現し、略奪を繰り返しているのです」
村長の話によれば、残党はこの村のほかの周辺の村にも姿を現すらしく、食料や女を奪っていくのだという。
この村には食料の備蓄があったことが幸いし、それを少しずつ差出し事で今の所、食料以外の被害は抑えられているという。
「その残党を率いているのが、名将と音に聞こえたカーズ将軍だというから嘆かわしい。武勇に優れ、徳の高い人物と噂されていたのに……」
村長は夕食の席で嘆きながら、同時に村には長いしない方がよいと付け加えた。
この村は比較的村民も多く、残党達が村に来ている時には女、子供も姿を見せないようにしている。
シュラやリーンの姿からすぐにこの村だと特定はされないだろうという。
しかし、残党どもがこのまま見過ごすとも思えない。
巡回をする各村を回り、姉弟、そしてマルティスら三人を探しているはず。
そうなれば、遅くとも七日と待たずにこの村にもやってくるだろう。
「あなた方が、いくら腕が立とうとも、相手の多くは元兵士。それに敗将とはいえアルグランダの大剣と言われた将軍カーズが相手となればただでは済みますまい」
二人を助けてくれた事に感謝はするが、同時に厄介事に巻き込まれたくない。
そんな村長の想いを感じ取れた。
★
「スカー」
夜の帳の降りた森の闇は深い。獣も息を潜め、森の匂いが足元に漂う。
そんな深い闇にミュサは一人問いかける。何も気配のない闇の奥でミュサの声に応じるようにガサリと僅かに枝が揺れた。
その存在を確認する事もなく、彼は言葉を続けた。
「この周辺にアルグランダの残党がいるらしい。その居場所と数を調べろ」
「……追っ手が迫っています」
「時間は?」
「足止めをして五日ほど」
「五日か……」
「如何いたしますか?」
「残党の居場所と数によるな。三日をめどに判断を下す」
「御意」
その言葉を最後にスカーと呼ばれた者の気配は消えた。
ミュサはしばらくそこで思案すると静かに今宵の寝床へと帰っていった。
★
「僕に剣を教えてください!」
次の日。旅の計画を話あっていたダナンとマルティスのもとにやってきたリーンは熱意のこもる瞳で頭を下げていた。
昨日の出来事。二人の苛烈な剣技を目の当たりにし、リーンは興奮のあまり眠れぬ夜を過ごした。
熱くなる胸は一晩かけても収まることなく、三人がやがて旅立ってしまうと思うと居ても立ってもいられなかった。
「剣を?」
「はい、僕も姉ちゃんや皆を守れるようになりたいんです!」
リーンの真剣な申し出にダナンとマルティスは顔を見合わせた。
ダナンは何か言いたそうな目をしていたが師匠の言葉を待つ。
「ふむ、わしらは三日後にはここをたつ」
「三日……」
マルティスは山にかかる雲を見て、雨が来ると予測していた。その雨が過ぎるのを待って出発すると今朝、村長に申し出たところだった。
いくらリーンが剣に対して無知であると言っても、僅か三日で修得できない事くらいはわかる。
リーンは落胆に肩を落としたが、マルティスの言葉は続いた。
「三日で覚えようと思えば、無論並大抵の覚悟ではできぬ。リーン、それでもできるか?」
「は、はい! やります! お願いします!」
リーンの笑顔にダナンも頬を緩める。
どうやらその想いは師匠と同じものだったらしい。
マルティスはダナンに命じ、すべての基礎となる鍛錬型数種をリーンに授けさせた。
すべての基礎となる強さ、しなやかさを養う型の形、注意点を覚えるのは大人でも数日はかかる。リーンは熱心にダナンの教えを頭と体に叩き込んだ。
次の日。マルティスの言う通り雨が降った。雨を避け、使われていない馬小屋で「守護六方」という守りを主体とした六つの型をリーンは授けられた。
「守りですか?」
「そうだ。まずはやられない事、生き残る事を考えるんだ。前後、左右、上下、どの方向からの攻撃に対応する技だ。護りの中から活路を開く、それがこの六つの型の中に集約されている」
リーンは兄弟子ダナンの言葉に頷く。試しにと二人は木剣を取り、構え打ち合った。
リーンがいくら攻めたてようとも、その剣勢は流され、いなされ、掠りもしない。剣は空を斬り、出来た隙にダナンの剣が滑るように差し出される。まるで自分がダナンに動かされているような感覚に、リーンはただただ驚愕した。
ダナンやマルティスがあの時に見せた峻烈で豪快な技ではないが、その不可思議な技にリーンはすっかり魅了された。
「師匠、よろしいですか?」
二人の稽古を見守る師のもとにミュサが顔を出すとスッと近づき耳打ちをする。
「居場所を見つけました。数は三十五、六、馬が数頭、リーダーはアルグランダの将軍カーズ……」
「……動きは?」
「自分達の縄張りを巡回しています。警戒しているのでしょう、部隊をわける事なく動いています。おそらく明日、明後日にはこの村に巡回してくるものと思われます」
ミュサの言葉に耳を傾けつつ、空を見た。雨は夕暮れには上がるだろうが、厚い雲が晴れることはないだろう。
「今夜は月も出ないか。ミュサ、お前ならこの状況、どうする?」
「……はい、私ならば……」
ミュサは笑みを浮かべると師に自分の考えを述べた。
「あれ、ミュサさん、ここにいたんですか?」
「おや、シュラさん、もしかして私を探して?」
バスケットを下げたシュラの姿にミュサはすぐに顔を上げ、長い前髪をかき上げ彼女に笑ってみせた。
「いえ、お二人に昼食をお持ちしたんです。ミュサさんがここにいるのが少し意外だったので」
昨日、リーンが弟子入りを願い出たのと時を同じくして、ミュサが村中の年頃の女性に声を掛けていたのをシュラは目撃していた。
師匠であるマルティスと旅の予定を立てるダナンとは対照的なミュサの行動に、シュラはなぜこの人が二人と一緒にいるのか不思議に思った。
「てっきり今日もナンパしているのかと思ったものですから」
彼女の素っ気ない反応にミュサは少しも気にせず、芝居がかった動きで指先を額におき、憂いたように「美女が多いという噂の確認をしていましてね。情報収集は私の重要な仕事の一つなのです。いやあ、この村の女性は皆さん美しい。しかし、やはり運命というものは恐ろしいもの、その多くの女性の中でももっとも美しいシュラさんに一番最初に出逢ってしまうとは。これは運命以外なにものでもありません」と両手をシュラの方に広げたが彼女の反応はいまいちだ。
シュラはミュサから距離を取りながら横眼で睨む。そんな目を向けられてもミュサは少しも気にする様子もなく「そうそう、シュラさんに少し手伝ってほしい事があるのですが」とコロコロと軽い調子で言葉を続けた。
「手伝ってほしい事? 変な事じゃないですよね?」
「ええ、少し急ぎで用意したいのものがありましてね」
ミュサはシュラの手からバスケットを取り上げると休憩に戻ってきたダナンに手渡すと、シュラの背中を押して村の商店の方へと足を向ける。
「相変わらずですね、ミュサは」
ダナンが受け取ったバスケットの中身を確認すると、野菜と塩チーズをライ麦パンで挟んだサンドウィッチだった。
「リーン、食事にしよう」
「は、はい」
リーンは教えられた六種の型を何度も繰り返し練習した。
六種類しかないとはいえ、動きは単純ではない。僅かな角度、向き、緩急の付け方が違えば意味は変わってくる。ダナンとマルティスに手直しをされながら、リーンは食事もそこそこに熱心に剣を振るい続けた。
リーンは体格こそ小柄だが飲み込みも早い。何より熱心だった。
基本の鍛錬型とこの六つ剣の形を守り、繰り返し独習に励めば、それだけでも形にはなるだろうとマルティスは思った。
同時に「とはいえ、それだけで充分に戦えるようになるとはとても言えない」とも。
マルティスは「リーン、今夜出かける。用意をしておけ」そう告げた。
★
雨を含んだ厚い雲が月を遮り、森に湿った闇を落とす。夜を裂く焔を囲い、男達は略奪した酒と二つの賽子に、一喜一憂を繰り返す。その輪から外れ、肩当ての男グスタは苦い顔で酒を呷る。
ラハンはあの老剣士の言うとおり、手当てを急いだために命は助かったが、今も熱に苦しみ動ける状態でない。
間近で見ていたにもかかわらず、あの剣士が剣を抜いた事にすら気が付かなかった。動いたと思った時にはラハンの腕は宙を舞っていた。
理屈から考えれば、ラハンが振り下ろす勢いに合わせて下から剣で切り上げたのだ。
ラハンの腕の勢いと老剣士の剣の勢いで腕は見事に分断した。
しかし、それはあくまで理屈の上での話。あの時、あの剣士は剣を抜いていなかった。
それに腕を切るためには間合いを詰めなければならない。その動きも捉える事ができなかった。
そして、そのあとに続いたギュラの剣を弾いたあの若剣士。自分と同じ年か、それよりも若いだろうあの剣士の恐るべき一刀と風を裂くようなあの速度。
冗談じゃない。
とても人の技とは思えない。
グスタは湧き上がる震えを押さえ込むように体に酒を流し込んだ。体の中で恐怖と酒が戦っている。次々と送り込まれる援軍に、踏み荒らされる戦場は軋みながら悲鳴を上げる。玉座で震えるグスタにはそれでも足りず、味方とは言えない増援を送り込まねばならなかった。
「グスタ、大丈夫か?」
「あ、ああ」
同様に憔悴の影が見える赤毛のギュラに声をかけられ、ビクリと体を震わせてグスタは振り返る。
ラハンが斬られたあの日、グスタは神殿での事をボスであるカーズに報告し、カーズの命を受け各村への捜索を開始していた。
縄張りである五つの村の内三つをすでに捜索したが、あの剣士と姉弟の姿を見る事はできなかった。仲間は捜索ついでの戦利品に機嫌もよく盛り上がっているが、二人は到底そんな気持ちにはなれない。
剣士を発見できなかったとしても、あの姉弟さえ見つかればいい。
この森に薬草を採りに来るなど、周辺の村以外には考えられない。
あと二つ。あと二つの村の内、どちらかにいるはずだ。
グスタは宴の奥で両脇に女を侍らかし、丸太のような太い腕で豪快に酒を呷るゴツゴツとした岩石のような大男に目を向けた。
禿げあがった頭に見事な髭、日に焼けた肌、眼光の鋭さが遠目から見ても寒気がする。
剛将カーズ。
その後ろに立てかけられた一目でその男専用の武器だとわかる巨大な戦斧とカーズの存在が、今のグスタの気持ちを僅かながら安堵をもたらしてくれる。
この男に勝てる者などいるものか? あの戦斧がすべてなぎ払うだろう。
怖くない。何も怖くはない。
あの老剣士も、若剣士も、カーズの前には一撃のもとに絶命するだろう。
そうしたら、リーンとかいう弟を殺し、あの女、黒髪の美しいあの娘を村から奪い、思う存分犯す事にしよう。
そうでもしなければ、とても気持ちがおさまりそうもない。
「うん?」
その異変に初めに気が付いたのは、他でもないグスタだった。
「なんだ?」
風が吹いた。生暖かい風に火が揺れる。
それは闇に沈む森の中から吹き込む、湿り気を帯びた風のように現れた。光を嫌い闇に溶け込む影を思わせる黒い布。
樹々の隙間から這い出る人の形をした黒いそれに気配はない。風に足音がないように、その存在にもまた音はない。
グスタとギュラはゴクリと喉を鳴らす。全身から汗が噴き出だした。
叫ばなければ……何かがいる、何かがそこにいる、仲間に知らせなければ!
宴を背に、同じ一点を見つめる二人は互いの行動を待っていた。
なんだ、あれは? なんだ!?
戸惑いが二人の喉を縛る。
突然どこかで巨大な鳥の鳴き声のような耳障りな音が宴と闇を引き裂いた。
その音に一瞬早く反応し、振り返ったグスタのとなりで、血にまみれたギュラが倒れた。
「……! ギュラ!? ギュラっ!」
次の瞬間、宴の中央で燃えた炎が音を立てた。火の粉が花火の如く散りながら宴は闇に包まれた。
男達の騒めきと女の悲鳴。
異変に気が付いた男達は闇の中で得物を探そうとしたが目が慣れない。ある者は手を伸ばして僅かに布のような物に触れたのを最後に、その先に感覚を失った。
火を失った数秒の後、森の中に浮かんだ一つの明かりに男達は目を向けた。
グスタがその光を一つ見た瞬間。瞬く間に二十の灯りが森の中に浮かび上がる。
「……か、囲まれてる? ……!?」
灯りは残党を取り囲み、照らされた中央には先ほどまで見ていた黒い布。
黒い布を纏う何者かが倒れる仲間達の墓標のように立っていた。
グスタは灯りに晒され、あの一瞬の闇で仲間の半数を失った事を知った。
「なんだ、あれは!? あいつは何者だ!?」
誰かが叫んだ。
しかし、ただ一人、グスタだけはある男の姿が頭に浮かんでいた。
ローブで顔は見えないが、その背丈、ローブの裾から見える得物、一瞬でこれだけの人間を斬れる技を持つ者は、今のこの森にはカーズ意外ならあの男しかいない。風のような動きと剛剣を繰り出すあの若剣士だ。
「斬れ、そいつを生きて返すな!」
無理だ……。
そう声に出そうとしたが、グスタは喉をつぶされたかのように声が出ない。
斬りかかる数名の剣をフワリと風に靡く布のように避けたかと思うと、斬りにいった方がいつの間にか斬られている。
傍から見ていればまるで仕掛けた方が自らか剣に吸い込まれていくかのような錯覚すら受ける。
剛とは言い難い、さざ波にも似た動きは、まるで斬りかかる人間を操る死神のようだ。
あの男と一致しない。その混乱が、目の前の恐怖が、グスタの口を重くした。
あの若剣士じゃない……? じゃあ、なんだ、あれは……あれは何だ!?
★
「凄い……」
リーンは森の闇に隠れながら、戦場に立つ黒い布の男、ダナンの戦う姿に魅入っていた。魔法のような剣術は「守護六方」そのもの。すべて六剣の形から繰り出されているが、それを知らないものは元が六つしかない事を気が付かないだろう。
「うまく行っているようだな」
「ミュサさん」
後ろから現れたミュサに思わず声を上げそうになり慌てて自分の口を押えた。
黒いローブを纏うダナンが姿を現したあと、巨大な鳥の鳴き声のような音を出したのはミュサの横笛ギィーラによるもの。
桃の樹から作られる小型の横笛であるギィーラは、リーンもよく知っているが、その笛であんな大きな音を出せるとは想像もつかなかった。
残党達もギィーラを知ってはいても、あれがギィーラから発せられたものだとは気が付かないだろう。
「リーン、守護六方を目に焼き付けろ」
「は、はい!」
ミュサの笛の音で注意を反らし、ダナンがたき火を散らし闇を作った。そしてミュサが森、東側の樹に括り付けた松明に火をつけて回ったのだ。
結果、周囲を火で囲まれ、残党達は囲まれていると勘違いし、冷静さを失った。
「やっぱりミュサさんも凄いんですね」
「うん?」
「だって、全部の松明に火をつけるのに、あんな少しの時間でやるなんて……」
「まさか、東側だけですよ。西側をやったのは私ではない」
「えっ?」
「私には働き者の妹がいるのです。……おっ、リーン、いよいよ始まりますよ」
そう言って、ミュサは戦場に出ていったもう一人の剣士の方に目を向けさせた。
★
神話の戦神を思わせる巨大な戦斧を構える大男、アルグランダのカーズは戦場に繰り出した老剣士と対峙していた。
「まさか、夜襲とはな」
カーズは不敵に笑う。
「流石にこれだけの人数を率いているだけの事はある。肝が据わっている」
カーズの配下は黒い死神に魅入られ森に命を落としていく。皆自分の目の前で起こる命の交換に気をとられ、カーズと老剣士が対峙した事に気が付かない。
「あの黒い、幽霊みたいのは爺さんの?」
「弟子だ」
「いい腕だ。是非とも部下にほしい」
「仇ではなくて?」
「無能はいらんさ、戦の基本だろう?」
軽口を叩きながらも僅かな隙も見せず、カーズは剣士との間合いを絶妙に測る。
ラハンの腕が斬られたというグスタの証言と目の前にいる老人のイメージは俄かには一致しない。
おそらく斬ったのは弟子の方だ。そうカーズは判断した。
昔の血が騒ぎ、弟子の戦に飛び込んだか。年寄りの冷や水とはこの事だ。
体格も得物も、筋力も若さも、そのどれもが自分が勝っている。
その差を埋めるものは何もない。
勝利への幻想が、老人をこの場に立たせたのだ。カーズの口元に憐れみと嘲笑が入りまじる。
「どうだ? あの弟子を俺に譲ればこの場は見逃してやるぞ」
腰を落とし、戦斧を構える。野生的な構えに剣士は思わず苦笑する。
「断る。……お主、名は?」
「知りたいか? 覚えておきな爺さん。アルグランダ王国将軍カーズ、それがお前をあの世に送る者の名だ」
カーズは老剣士に向け気合一閃、戦斧が唸る。
戦斧の特性とも言うべき重量を生かした攻撃ならば、上段から振り下ろすのが有効。だがあえてそれをせず横一文字に振り、剣士の侵入を防ぎ牽制する。
剣士が退けば間合いは離れ、二撃目で飛び込む込まれる事はない。もし、戦斧を剣で受けようものならその剣ごと折り、体を両断する。
「死にな爺さん……!?」
横一文字を描くはずだった戦斧は剣士の直前でその勢いを失った。
老剣士の剣がカーズの肩口から袈裟に振り抜かれ、戦斧を支えていた片腕は重みに耐えきれずに神聖なる森へと還った。
「な、なにぃ?」
斬られた半身は崩れ落ち、カーズは低くなっていく景色を見つめながら地に堕ちた。
「その願い、聞く事はできんな」
剣を納め、カーズを見下ろす老剣士はポツリを呟いた。
「カーズは、戦斧は使わない。アルグランダの『大剣』の異名を聞いた事がないのか? 偽者よ」
「……!?」
視界が闇に覆われるカーズを背に、老剣士カーズ=マルティスは戦を終えた黒き弟子に目を向けた。
★
将軍カーズは息絶えた。
悪魔と黒き使いにその魂を囚われた。
悪魔は時に願いを叶え、時に人を殺すという。黒き使いは今も彷徨い、厄災の衣を纏いて冥途の剣を振うという。
詩人が歌う、夢幻の如き物語。
歌は人の心に深く深く根を下ろす。
将軍カーズの名は忘れても、黒き使いと悪魔の記憶は潰えない。
★
「ダナンさん、先生!」
戻ってきた兄弟子と師匠にリーンは歓喜の声を上げた。
「リーン、見ていたか?」
「はい」
「ならばよし。一手、お前に授けたぞ。決して忘れるな」
そう言ってマルティスは若い弟子に微笑んだ。その言葉が、別れを意味するものだと悟り、リーンは顔を曇らせた。
「行ってしまうのですか?」
「そうだ」
師匠の言葉に、リーンは顔を上げる。
「僕もついて行って……」
そこまで言った時、ダナンが言葉を遮った。
「リーン、お前は言ったな。その剣で皆を守りたいと。だからお前はここで、姉や皆を守る剣となれ」
「……はい」
兄弟子の言葉にリーンは頷く。
「スカー、いるな」
「ここに」
ミュサの呼びかけに樹の陰から小柄な少女が姿を現した。
その突然の出現と艶やかな銀髪を垂らす美貌にリーンは驚いた。どことなくミュサに似た彼女は、リーンとそれほど年齢が変わらないように思えた。
「スカー、お前の剣を」
「はい」
ミュサは幾分細身の剣をスカーから受け取るとそれをリーンの手に握らせた。
「これは……?」
「まだ体の出来ていないあなたでは剣に動きを取られるでしょう。私からの餞別ですよ」
「は、はい!」
リーンは受け取った剣をしっかりと握りしめ、四人に深々と頭を下げた。四人はリーンに別れを告げ、夜明けとともに森をあとにしたのだった。
リーンは四人の姿が見えなくなったあともしばらくその場から離れられず、見えなくなっても彼らを見送り続けた。
★
酒に潰され夜に飲まれ、夢に微睡みながら客は自分の巣へと帰って行く。
仕事を終えた楽師と吟遊詩人も美酒で喉を潤しながら、夜風に耳を馴染ませる。
「これで十軒目か」
「これだけやれば、あの村には近づくまいよ」
楽師と詩人は、今は離れた弟弟子を肴に酒を酌み、酒場の奥の席へと足を向ける。
店の奥に老剣士と銀髪の美貌の娘が二人の事を待っていた。
★
ただ一人、命からがら森を逃げ出したグスタ=ヤルヴィは、酒が入るたびに震えながらにこう言った。
あの森には近づくな。
あの神殿には近づくな。
途切れ、途切れの証言は誰もが聞き取りにくく、理解に苦しむ。
けれども、怯える男の有り様と噂のカーズの死の報は奇妙に一致し、人は戦慄き、恐怖した。
あの夜から数年後、あの森の領土をグルダニアが支配するようになっても、この噂話は語り継がれた。やがて御伽話となり、民話となり、伝説となり、その地に伝承されたという。
☆彡
あの夜の別れの後、ダナンとリーンが再び顔を合わせることはついになかった。
この後、マルティス一行は散り散りになっていた騎士団を集め、アルグランダの劣勢を立て直し、新国アステリアの建国の立役者となった。
その主力となったダナンはアステリアの剣聖と称され、その剛剣は、アステリア騎士団が繰るアステリア剣術として伝わった。
アステリア建国から十年の後、隣国グルダニアにも未曾有の危機が訪れた。
しかしその危機もグルダニアの辺境より訪れた精妙不可思議な剣を繰る青年により救われる。その青年こそ、後世まで勇者として名を残すリーンだった。
リーンの功績とともにその技もまたグルダニア宮廷剣術として伝承されるのだった。