百年の誓い【Ⅱ】
橙の炎の明かりに温かく浮かび上がる幾何学的な天上の世界。世界は音に満ち、レオの意識は穏やかな歌によって出迎えられた。
……ここは……。
黒騎士、大聖堂、剣……!
レオは思わず自分の右腕を見る。右手の先には黒き剣が握られていた。
「レオ、気がついたんだね!」
身体を起こそうとしている気配に気がついたのかラウルがレオに駆け寄る。その後ろから来たユリウスが神妙な面持ちで「見てきたか?」と問いかける。
「……ああ」
レオはまだ覚醒したばかりの意識が身体に馴染まない様子でうつろに返事をする。
それを承知でユリウスは言葉を続けた。言葉を押さえておくことが限界なのだとでも言うように。
「俺も初めてその剣を手にした時に見てきた。俺よりも前の、その剣の持ち主の記憶だった」
「……」
「お前は俺の過去を見たのだろう?」
レオは無意識の内に彼の右腕に目を向けていた。右腕は甲冑で覆われているが、中身はない。ユリウスは動かしにくそうにその腕を上げる。
「魔道義手だ。グルダニアは魔道技術に長けていてな、大気中の魔力を利用して動かす義手や義足の開発もしていた。だが、魔力を使いすぎるために実用化の目途は立っていなかった。今の状況になる前はな……」
ユリウスは何かを話していずにはいられないような様子で、早口に言ってから言葉を詰まらせる。
「レオ……」
「ユリウス、この剣……」
今は大人しくなった黒き剣に視線を落として問いかける。
「この剣が必要なんだな……」
「……ああ」
「剣が教えてくれた。数々の人の手に渡り、宿主を代えながら、多くの命を吸って、力を蓄えてきた、と……」
「そうだ。その剣は命を力にする。それをため込むことのできる剣だ。すまんな、お前にその剣を託すしか方法がなかったんだ」
すまなそうに言うユリウスに、レオは首を振る。
「……いや、感謝している。今の俺にはこの剣が必要だ。この剣なら、結界を破ることができるんだろう?」
ユリウスはうなずく。
レオは黒き剣の記憶の中で理解した。
黒騎士は常にユリウスの存在を感じていた。同じようにユリウスも黒騎士の存在を常に感じていたのだ。
ユリウスは、黒騎士を通して、黒霧の森にレオ達がやって来たこと、森を抜けた者がいたことを知った。そのため彼は、協力者を得るために迎えに来たのだ。
黒騎士はいつでもユリウスを追うことができた。ユリウスはそれを利用し、黒騎士との戦いを有利にするために、この大聖堂に誘い込んだ。黒騎士の力は圧倒的だったはず。ここで戦わなければ黒騎士の勝利は間違いなかった。黒騎士に勝利することができたのはユリウスの判断のおかげだ。
すべてはユリウスの計算の中にあった……いや、もし俺が黒騎士に勝つことができなかったら、ユリウス自身も危険だったはずだ。
ユリウスにとっても大きな賭けであったに違いない。
レオは立ち上がると一度剣を振ってみた。
折れてしまったレオの剣よりも長大で、重量がある。普通ならば、扱いが悪いはずなのに、手に吸い付くような一体感がある。
それに力が湧いてくるような不思議な感覚が身体を取り巻いている。
力を……。
「声が……?」
力が必要だ。何者にも負けぬ力……
剣が囁く。囁き声が脳に直接聞こえてく。黒き剣の記憶の中で聞いたあの声が。
剣は、今も力は求めている。
「レオ、自分をしっかりと保て。剣に流されるな」
「ああ……」
ユリウスの忠告にレオは意識を集中した。
お前の主は俺だ、レオ=レクセルだ。お前の好きなようにはさせない。
強く念じることで剣の声はすぐに小さくなった。
「レオ、大丈夫なの?」
ラウルが心配そうな顔をする。
「ああ、大丈夫だ」
レオは笑ってみせる。
身体は軽い。アランに盛られた毒の感覚も今は消えている。もしかしたらこの剣のせいかもしれないかった。しかし、それは同時に、剣が自分の体に影響を及ぼしているということでもある。
長く持っているのは危険か……?
記憶の中で見たユリウスの変貌が頭をよぎる。剣はユリウスを乗っ取ろうとしていた。それがいつ自分に起きるともわからない。
「だが……」
それでも、今はこいつを手放すわけにはいかない。
レオはバラバラになった黒騎士のパーツの中からダン隊長のマントを拾い上げ、それを剣に巻き、鞘代わりにして背中に担いだ。
剣が長く腰に下げては、剣先が地面に当たってしまう。
「ユリウス、これからどうする?」
「城を目指す。その剣で結界を破る」
結界を破る手段を得た今、向かうはグルダニア城に他ならない。
レオは思った。そこで治療法を調査し終えたら、ラウルを連れてアステリアに帰ろう、その時には、ユリウスも誘おう。と。
「グルダニア城は、結界を破ったとしても、直接外から入れるような状況ではない」
ユリウスはレオ達と出逢う前に、グルダニア王城に入り込む手段を探っていたという。
その結果、足場もないほどに崩れた瓦礫や内側から固く閉ざされた門などがあり、結界を突破したとしても、内部に侵入するのが難しいというのだ。
「では、どうする?」
「ああ、それでこの教会ってわけだ」
三人は大聖堂を出ると、ユリウスの案内でグルダニア城から見て北東に位置する聖女を祭った小さな教会に向かった。
大聖堂と比べると遥かに小さく、装飾も少ない。彫像、レリーフ、壁画も色合いは抑えられ、大聖堂にあったような目を引くようなきらびやかなものは何もない。
「ここは?」
「グルダニアの中でもかなり古い教会でな。伝承では遥か昔、侵略を受けた際に傷ついた民を奇跡の力で癒したとされる聖女ソフィアが現れたとされる場所だ」
「奇跡?」
ラウルがオウム返しする。よくありそうな伝承だとレオも思ったが、それとグルダニア城とどんな関係があるのだというのか?
ユリウスは薄暗い教会の中へと足を進める、レオとラウルはそれに続いた。その頑強な作りは、大聖堂のものとは違った趣がある。
大きく切り出された石を積んだ壁、祭壇、高いバランス感覚と長い年月に耐える強度を持ったドーム状の天井に、小さな明り取りの窓。どれも年期を感じさせる。
「おっと、こっちだ、足元に気をつけてくれよ、下り坂になっている」
ユリウスは祭壇の隣、人ひとりがやっと通れるほどの狭い入り口に身をかがめて入っていく。レオもラウルもそれに続いた。
通路は緩やかに下り、やがて四角い小部屋に出た。石造りの部屋はひんやりとして、外の音を遠ざけている。ユリウスが明かりを灯すと、瑠璃色の炎がより冷たさを感じさせた。
そこはおそらく司祭や聖歌隊の女性らが祭事の際に控室となる場所だった。
ユリウスはさらに同じような狭い下りの通路を入っていく。また小部屋に出た。今度は長方形で天井はそれほど高くない。
「ここだ」
「ここ?」
レオは思わずユリウスを見る。
狭い部屋。その部屋の中央には石棺。
石棺のフタには、曲線で編んだような十字架と薔薇、そして杖の意匠が施されている。
「昔、この大聖堂で奇跡を起こし続けたとされる聖女の棺だ」
「聖女の棺?」
「ああ、グルダニアではな、死んだらこんな感じで石の棺に入れる。そして蓋に生前その人間が関係していたものを刻む。騎士なら槍や斧、剣、馬、司祭なら本、杖、法衣……。男女で模様も変わる。この棺には奇跡を表す十字架、光、聖職者の印の杖、さらに女性を表す印……つまり聖女様のものってわけさ」
レオはますますわからなくなった。遥か昔の人間の棺の前でどうしようというのか?
「聖女ソフィアは突然現れ、そして人々の希望になった……その秘密がここにある。レオ、手伝ってくれ」
そういってユリウスは石棺の分厚いフタに手をかける。とても一人で動かせるようなものではない。
「ちょっと待て、墓荒しをする気か!?」
「いいから手伝えよ。ラウル、お前は離れてろよ、あぶないからな」
レオはわけがわからない、と言った顔のまま言われるままに石棺のフタに手をかけた。
「うん?」
触れた瞬間にレオは違和感を覚えた。
なんだこれは?
軽い。厚みのある石棺のフタであるにも関わらず、わずか二人の男の手で容易に動く。
レオはその中身に目を見張った。
「……階段?」
「ああ、そうだ。聖女ソフィアは突然現れたって伝説だが、彼女はこの通路を使って民の元に来たんだ。聖女ソフィアは王家の人間だったのさ。まあ、元々は緊急時のための王家専用の避難通路だろうけどな」
レオはランタンを空の棺に沈め、階段の奥を見ようとした。下り階段の先に明かりはなく、閉塞的な空間と完全な闇がランタンの光を溶かすように吸い込んでいく。
「この道はおそらく、王城まで続いている」
「おそらく?」
ここまでの仕掛けを披露したユリウスにしては歯切れが悪い。
「この道を使ったことがあるんじゃないのか?」
「途中までだ。王城を包む結界は地下通路の内部まで達している。何度か潜ってみたが、途中で行く手を阻まれる」
「でも、今はその剣があるから先に行くことができるってこと?」
今度はラウルが言った。ユリウスはレオの腰に下げられた今は大人しい黒い剣に視線を落としてから、ラウルに肩をすくめ「そういうことだ」と答えた。
ユリウスを先頭に、三人は聖女ソフィアの棺の中から地下へ続く階段を下った。
通路は狭く、急速に地下世界へと向かわせる。階段の先は闇が深く、手元のランタンでは先を見通すことが難しい。
地下特有の冷ややかな空気のためか、迫りくる黒い闇のためか、レオはゾクリとして身震いした。
「ラウル、大丈夫か?」
レオが後ろを歩くラウルに目を向ける。
「うん、だ、大丈夫さ。でも、どこまで下がるんだろう?」
強がっているがラウルの声がわずかに震えている。地下の闇がこのままどこか別の世界にでも通じているのではないかと思えてきてしまう。黒い闇がさまざまなもの脳裏に見せる。恐怖の対象となるものばかりを。
微弱なランタンな明かりだが、それが冷静さと理性をつなぎとめる命綱になっている。
「もうすぐ底につくぞ」
先頭を行くユリウスが言った。
どれほど下ったのか? わずかな時間だったはずだ。先が見えないためか、ずいぶん長く下って来たと感じる。
レオが最後の階段を降り、地下通路の底に足をつけた。
暗い。しかし、開けている。今まで周囲に感じていた切迫した壁の気配を感じない。同時に、どこからか何者かに襲われるのではなかという恐怖心が沸き起こり、レオは警戒心を高めた。
「通路には燭台がある。灯しながら進もう」
「大丈夫なのか?」
明かりは助かるが、もし何者かがいた時にこちらの存在を知らせることになる。
「大丈夫だ、俺は何度か来ているが、ここはもぬけの殻だ」
ユリウスはそう言って、近くの燭台にランタンから火を移す。
瑠璃色よりもさらに青みの強い炎が灯り、通路の一部を冷たく浮き上がらせる。地下通路は床も壁も天井も石で敷き詰められている。天井は教会でも見たようなアーチ状だ。
「これほどのものが地下に?」
切り出され、加工された石はどれも均一に整い、隙間なく敷き詰められている。アーチ状の天井は、建築の知識のないレオであっても見事と言う他ない出来だ。
「王家、一部の貴族達の避難通路。時にはこの中で過ごすことも考えられていたんだろう。まったく立派に作られているよ」
ユリウスは闇を溶かす青い光と闇の境界まで行くと、また次の燭台に明かりを灯していく。明かりが灯される度に地下通路の闇は退き、寒々とした光がその姿を露わにする。
やがてレオ達はその場所に行きついた。
深紫色の膜のようなものが、通路の行く手を阻む。微睡みのようにゆらりゆらりと変化を繰り返している。
「これが結界?」
「そうだ」
ユリウスはその膜にソッと触れた。
膜はユリウスの触れた力を吸収するようにフワリと揺れる。薄い絹のような感触だが、手を進めようとするとしっかりと拒まれる。破ることができない。
「王城はこの魔力の膜で四方八方、地下も空も囲まれている。この先に行かなくては、王城にはいけない。レオ、頼めるか?」
「ああ」
レオは黒き剣に手をかけた。
すると、レオの意思に呼応するように剣が低く唸る。
この先が王城……この先に行けば、セシリア姫を治療した方法、ストーンハートの治療法がある……。
剣を握るレオの手に力がこもる。
必ず、何か手がかりを持ち帰る。アクセリナ様のために……!
黒き剣の鋭い剣先は深紫の膜をスルリと切り裂いていく。わずかにできた裂け目は、外気を取り込み、通路内に女性の悲鳴のような音が鳴り響く。
レオはそれでもかまわず結界を切り裂いた。見れば、どこからこぼれたのか黒き剣は血に濡れていた。
三人は縦に切り開かれた結界の裂け目に足を踏み入れると裂かれた膜は、その部分だけゆらゆらと揺れていた。
通路はさらに奥に続いている。ユリウスはまた地下通路の燭台に火を灯す。
光はさらに深く、闇に近い青になっていく。手にしたランタンの炎も心もとない。
やや下り坂の道は、地下通路はさらに冷え込んだような気がした。
「ねぇ、レオ、あれ!」
初めにそれに気がついたのはラウルだった。
闇の奥、わずかに白い明かりが床にこぼれている。
「光……? ユリウス、あれは?」
「わからない。行ってみるか」
ユリウスは息を潜めるように足音を殺す。レオの脳裏にリストやオッシの姿が浮かび、自然とユリウスに倣う。
「ラウル、少し離れていろ」
手で制され、ラウルはうなずいた。
闇を割く光は、確かにそこに存在した。
近づけば近づくほど、それが幻ではなく、実際にある温かみのあるものだとわかる。
レベッカの歌が響く大聖堂を満たしていたあの光に似ている。
ぼろ布で隠されたその部屋の前に立つと、中から気配を感じた。
カサリカサリした紙の音と囁くような声。
レオはユリウスを見た。ユリウスは信じられない、と言った顔で耳を傾けている。
「まさか、この声は……?」
「知っているのか?」レオがそう訊ねる前に、彼は動き出していた。ぼろ布の隙間から中を覗き確認し、歓声にも似た声でその名を呼びながら部屋へと入っていく。
「グスタフ! グスタフ書記官!」
グスタフと呼ばれたその男は、背が小さいが肩幅の広く、隠者を思わせる深草色のローブを纏った初老の男だった。
グスタフは、ユリウスの呼びかけに一度だけ顔を向けたが、すぐに自分の仕事に戻っていった。その顔には生気はなく、目は暗く錫色に沈んでいる。
「書記官、無事だったのですか……!」
ユリウスは言葉を詰まらせる、当のグスタフは少しも応える様子はない。
「この部屋は……?」
レオとラウルはその部屋に異様さに圧倒されていた。
部屋の壁という壁、粗末な机の上、下、寝台に床とところかまわず細かな文字が書かれた紙が貼られている。
それはどうやら彼自身の日記や王宮内での出来事の記録のようなものらしい。
その内容数枚を読んで、レオは思わず目を奪われる。
病死した王妃、同じ病気にかかったセシリア姫の様子、病の経過、王をはじめ家臣達の苦悩と治療法探求への想い、試された治療法、治療薬、治療魔法、実験と失敗の記録が事細かに書かれている。
「すごい……」
アステリアでもこれほどまでに研究は進んでいなかった。そしてこの記録を見る限り、間違いない。セシリア姫もストーンハートに罹っていたんだ。
これだけの研究されているのなら、セシリア姫の病気が治ったのもうなずける。
レオは夢中で壁に貼られた記録を読んだ。
しかし、その記録はすべて失敗、有効性を示すことがなかったと締めくくられている。
どうなっているんだ? ここまで研究されながら、治療法は発見されていない?
もしかして読み漏らしがあるのではないかと思い、レオは注意深く記録を探る。
読み進めるうちに、レオはグスタフの記録に変化が起き始めることに気がついた。
シュキという女の存在。
突然現れたシュキという治療師によって、グスタフの記録は大きな転換点を迎える。
シュキは、その素晴らしい治療術で王らの信頼を得て、セシリアの治療を依頼される。
奇妙だが、奇跡的な術を持つ彼女の存在はすでに手を尽くしたグルダニア王にとって大きな希望となった。そして王はシュキの言葉に従い禁呪に手を染める……。
「十二人の乙女の儀式?」
記録には、そのおぞましい儀式の方法、様子がグスタフの懺悔の言葉とともに記されていた。そして、儀式により完成した「乙女の指輪」のその後の顛末も。
★
獲物に絡みつく大蛇のようにシュキは王に寄り添った。その瞳は、美しく深い。穢れ無き無知なる者に禁忌をそそのかす女神のように。
指輪は完成した。
グルダニア最高禁呪「乙女の指輪」。血で血を洗う戦禍の中、グルダニア存亡の危機の際に何者かよって作られたという古の魔器。遥か彼方に忘れ去られた魔法の一つ。
膨大な魔力に城が、大地が鳴動する。
シュキが笑う。
やめてくれ!
私は声を上げようとした。
もうやめてくれ。だが喉を絞められたように声はでなかった。
もし出ていたとしても……ああ、我々は過ちを取り戻すことはできなかっただろう。すべては誤りであった、なぜこのようなものを作ったのか? セシリア姫ただ一人の命のために……。
ダルガの色にも似た紫紺色の魔力は瞬く間にこの部屋を満たし、溢れ出るように、外へと漏れ出した。
こんなもの、人がどうにかできるものであるはずがない。大変なことになる!
シュキの笑い声が、我々を包んだ。女の言葉が私の耳にこびりついた。
「最高! 最高の品よ! ああ、愛おしい」
それは今も離れない。
「愛おしい愚かな王よ……」
私の心に焼き付けられた。甦る。幾度となく。、いくら消そうと思っても、願っても、蘇ってくる。抑えることができない!
「指輪をありがとう」
シュキの口が三日月のように切れ上がる。
彼女は魔力を放ち続ける指輪の一つを王の手に残し、もう一つの指輪を奪い去った。
あれは、人なのか?
あれは、人だったのか?
あの醜悪な笑みは。
それが、私が見た最後のシュキの姿だった。
私はその場を逃げ出した。
残された指輪は止めどなく魔力を放ち続けていた……。
★
「聖暦864年5月……の記録?」
「今から五年前のことだ」
グスタフの記録に記された日付を口にしたレオにユリウスが言った。
「五年……」
「ああ、そうだ、五年。五年でこのざまだ、まったく信じられないだろ?」
ユリウスはすでに正気を失ったグスタフのもとを離れ、レオとともにグスタフが今も続ける記録作業の内容に目を通していた。
「記録を、記録を残さなくては……伝えなくては……我々のしたことを、過ちを……」
グスタフはその言葉しか発することのできない呪いにでもかかったかのようにように、うつろな目で紙にことの顛末を記していく。何度も何度も、寸分たがわぬ内容が書きつられ、それが積まれている。
それはまるで出口のない無限回廊に迷い込んでいるかのよう。グスタフは恐怖と使命感に急かされなが、その作業を繰り返し続けてきたのだ。
「五年前に起きた異変の真相、それがこれってわけだ」
ユリウスは神妙な顔で息をついた。
すべてはシュキという人物の仕業。はじめからシュキは「乙女の指輪」を造らせ、奪うという計画だった……そう考えるのが妥当だろう。もしかしたら、セシリア姫の病そのものもの、王妃の病すら、シュキの手によるものかもしれない。
「セシリア姫は、王の願い通り病が治った。だからギュルムまで行くことができた……」
「そういうことになるな」
「そして眠りについた……?」
「セシリア様の眠りについてはわからないが、グルダニアの惨状を作り上げた原因は乙女の指輪ってことになる」
ユリウスの言葉にレオは思考を巡らせる。
だとしたら、病の原因は何だ?
シュキという人物が、今度はアステリアに狙いを定めたのか?
いや、違う。アステリアにシュキという人物は訪れてはいない。それだけは「確実」だ。訪れていれば、もっと「前に」ストーンハートが流行していなくてはおかしい。
ストーンハートはグルダニアから漏れ出る魔力が原因ではないか、と星詠み士達は推測していた。もし、そうならアクセリナ様の件とシュキの件はおそらく別。
……セシリア姫の眠りとギュルムでの結界、乙女の指輪、漏れ出た魔力、抜けることのできないはずの 黒霧の森、そして経過した歳月。
レオの中で何かが結びつこうとしていた。それは予感のような曖昧な仮説だったが、どこか確信にも似た感覚がある。
しかし、もしこれが事実なら……。
「ねえ、その指輪は? もう一つの指輪はどうなっているの?」
ラウルが言った。
「おそらくだが、まだ城にある。指輪が働きを失っていない。つまり、王がまだ持っているはずだ」
王城を包み込む膨大な魔力。魔力の濃度が高く、結界で守られている。それこそが乙女の指輪がある証拠。
「レオ、頼めるか?」
ユリウスの目がまっすぐにレオに向けられる。レオは黒き剣を見て、深呼吸した。
強大な魔力で作られた結界を裂いたこの剣こそ、今のグルダニアで、乙女の指輪に対抗できる唯一の手段。そしてその剣の今の所有者は、自分。
それにアクセリナ様の病……乙女の指輪の元まで行かなくてはならないはずだ。
「行こう。乙女の指輪のもとに、王のもとに!」
レオ達はグスタフの部屋をあとにし、闇が増す通路に光を灯しながら進んだ。
淀んだ空気と闇にようやく慣れた頃、レオ達の前に昇り階段が現れた。
「位置的に言えば、城内に出るはずだ」
「ああ」
レオは一瞬、今来た闇の通路を振り返ろうとしたが、直感的に思いとどまった。
振り返れば、もうこの先に進めないような気がした。行かなくてはいけないのだ。振り返ることは今の自分には必要がない。そう言い聞かせ、階段を上がった。
三人が出た場所はユリウスの言う通り城内の一角だった。
祭典の時に使う王家専用の法衣、繊細な技術で作られた黄金の王冠にベルト、実用性を無視した華美な宝飾の剣……。おそらくそこは宝物庫だったのだろう。レオ達は巨大な絵の裏側にある隠し扉から出ることになった。
「すっげぇ、オイラこんなの初めてみた!」
「俺もだよ。なあ、レオ、ここがゴールなら最高だと思わないか?」
はしゃぐラウルに苦笑いしながらユリウスは財宝の前を横切っていく。これほど荒れた国で、これほどの財宝が平然と残っていることが滑稽だった。もっとも、今のグルダニアで、この財宝にどれほど意味があるのかはわからない。
「お前を待つ国の女にどう?」
「ああ、そうだな、一つくらいもらってもわからなそうだ」
レオもそう答えたが、財宝に手をかけることもしなかった。
その代わり、二人の間に笑顔が生まれた。それを見て、ラウルも笑った。
ユリウスは宝物庫の燭台にも明かりを灯し、それから部屋を出る。宝物庫を出ると外の弱々しい明かりが差し込み、今までよりいくらか視界が開けた。
石造りの城内はそれほど混乱の痕跡を残していないが、敷かれたグルダニア民族の伝統模様を刻む絨毯はすっかり踏み荒らされていた。その上に砂と埃が歳月を感じさせるほどに積っている。
レオ達が歩くと新雪の上を歩んだように新しい足跡が出来た。
ユリウスは燭台を見つける度に火を灯し続けた。その炎の色は、真っ青な色をした不気味なものだが、光が無いより遥かに恐怖と不安を退ける。
「ユリウス、場所はわかっているの?」
前を行くユリウスにラウルが訊ねた。
「大体な、こう見えても元グルダニア騎士団だ。城には何度か来たこともある」
幅の広い階段を何度か昇る。
壁には歴代王家の武勇を伝える壁画が並ぶ。
レオ達以外に音を発するものは、窓辺から吹き込む風だけ。
生活、人の匂いはまるでない。過去には大勢の人がいたという痕跡ばかりが目につくが、大聖堂にいた白い影のような魂達もここにはいない。すべて、どこかに逃げ去ってしまったのだろうか。
「この先が玉座だ」
ユリウスは巨大な扉の前に立ち、見上げる。
彼がグルダニア王家の紋章が掲げられた扉を押し開けると、わずかに開いた隙間から、紫色をした魔力の靄が帯のように外へと流れていくのがぼんやりと見えた。
この先は、今までよりも魔力に充ちている。乙女の指輪はこの先にある。
王はこの先にいる。
重厚な扉を開くとそこには王の間へと続く真っすぐに伸びる通路が広がっていた。その奥に、もう一つ扉が見える。
あの扉の向こうにグルダニア王がいる。
あの扉の向こうに乙女の指輪がある。
アクセリナ様のストーンハートも治療できる。
レオが歩み進もうとした時、ユリウスが手でそれを制した。
「待て、何かいる……」
レオとラウルは王の間にばかり視線が行き、その存在に少しも気がつかなかった。
いや、それはその者が見事なまでに完璧に気配を消していたからかもしれない。
それはユリウスの声に反応し、フワリと動き出す。風のように軽やかで、影のように音もない。
ユリウスは驚きと表情を浮かべ、その名を呼んだ。
「エルヴィ……!」