骸のうた【前】
――数時間前――
「はあ、はあ……」
ラウルは走っていた。
息が切れる。もつれそうになる足で乾いた土を蹴る。流れる汗は冷たく、背中に迫る生臭い鉄の匂いに気持ちは急かされる。
本来ならば、自分を迎えに来てくれるというレオの帰りをギュルムで待つはずだった。
しかし、それは叶わなかった。
ラウルは走り出せねばならなかった。
七日前の明け方。右腕だけを露出した黒騎士がギュルムを訪れた。
その鎧は返り血で幾度となく塗り重ねられ、少しの余白もない。血の匂いなのか、その者の生来持つ体臭なのか、濃密なそれはどこにいても特異な存在感を発していた。
黒騎士は輝くような右腕の先に握られた黒き剣で、ギュルムの町にいる者すべてに終焉を与えて周る。
幻想に溺れる者、眠り貪る者、怯える者、逃げる者、隠れる者、刃向かう者、命乞いをする者、泣き叫ぶ者、すべてを斬った。
斬り、刺し、薙ぎ払った。
家に閉じこもり奇声を上げ続ける住民も、酒場で愛想笑いをするウェイトレスも、グラスを磨き続ける主人も、行き場を失った傭兵も、すべて……。
少しの迷いも躊躇もなく、剣はただただ振り下ろされた。
ギュルムに留まれば、あの黒い剣の餌食になる。ラウルの判断は早かった。
他の村人に目が行っている今、今がここを出ていくチャンスだ。今出ていかなければ、レオに二度と会うことはできない。
ギュルムを出るラウルの背で、黒騎士はそれが自分の使命であるかの如く、剣を振り続けていた。 そして、すべてを終えたあと無言騎士もまたギュルムを出たのだった。
ラウルは昼夜を問わず走った。暗闇に道を奪われても、わずかな光の中でも走った。
後ろから迫る黒騎士の気配を感じる。
黒騎士は追ってくる。
身を隠し、息を潜め、休息し、走る。それの繰り返し。レオに出会えると信じて懸命に走る。ラウルがパルフットにたどり着いた時にはまだわずかばかりの余裕があった。
黒騎士は近い。
けれど、また距離がある。
ラウルは黒騎士に見つかるのを覚悟でレオの名を呼んだ。
しかし、レオはすでにパルフットを出たあとだった。
そこには誰もいなかった。不気味な風の唸り声だけが聞こえるだけだった。
ラウルはさらに走った。
足がもつれて転びそうになる。黒騎士との差は徐々に迫っている。
カシャン、カシャン。
足音。
鎧と剣に染みついた血の匂いを風が運ぶ。
近い。近い!
振り返れば舞い上がる砂の向こうにその姿が見える。
カシャン、カシャン。
足音が近い。見えている。あっちもこちらを見つけている。
今から隠れることなんてできない。
カシャン、カシャン……。
黒騎士は走り出した。
王都グルダニア。
「レオっ!」
強固な塀が囲まれた城塞都市・王都グルダニア大正門前。ラウルはついにレオに追いついた。
「ラウル……?」
レオの驚きの顔。
レオは驚きと同時に頬を緩ませたが、次の瞬間、レオは剣に抜き放っていた。
ギシッ。
露出した右腕。ラウルに向けられた黒い斬撃をレオは咄嗟に抜いた自分の剣で防ぐ。
重い。重い一撃に剣がしなる。
レオはあまりの勢いに弾き飛ばされた。
黒き剣は振り下ろされた勢いのまま、地面を抉る。
なんて力だ!?
剣が痛むかもしれない。
刃こぼれがするかもしれない。
いや、そもそも折れるかもしれない。
そんなことを微塵も気にする様子もなく、黒騎士は手にした黒き剣を力のままに振り回す。
こいつは何者だ?
赤黒く歪な鎧、顔をすべて覆う鉄仮面、たくましく露出した右腕。この一撃。
ひらめく真新しいマント。
あの、マントは……!
「まさか?」
いやそんなはずはない……
体格、荒々しいが正確で重い斬撃。
レオが立ち上がると黒騎士はスゥと気配をしまい込むように剣を構えた。
あの構え……!
「レオっ! こっちだ!」
「あ、ああ!」
ユリウスの援護の矢が放たれる。
レオは戸惑いながらも走り出した。黒騎士の姿を横目で見ながら。
★
ユリウスを先頭にレオとラウルは、王都のグルダニアの城下町を走っていた。
「ここまでくれば、少しは平気だろう」
ユリウスは速度を落としたが、それでも速足のままだ。
黒色と桃色の自然石によってつくられた美しかったであろう石畳は所々剥がれている。足を取られそうになるほど凹凸のあるその通りはかなりの道幅がもある。過去にはかなりの人間の往来があったに違いない。
「ここが王都か、大都市だな……」
「ああ、そうだな……」
王都グルダニアはグルダニア城を中心に構え、そこから円形に放射状に都市が形作られている。城壁の外に出ないで一方方向に歩いていけば、やがて都市を一周する。そのためどこからでも深紫色の 雲に覆われるグルダニア城を見ることができる。
城壁内部には崩れてしまっているものの広場、市場、学校などがある。通りに面する建物の壁は比較的高く、まり全体が迷路状になっている。この町そのものが防御壁の役割をするに設計されているが、崩れた壁は今はその役割を果たしているとは言い難い。
「少しなら時間が稼げるはずだ」
ユリウスは慣れた様子で町を歩いていく。
「レオ、そいつは知り合いか?」
「ああ、ラウルだ。ギュルムで知り合った友人だ」
レオの紹介にラウルはペコリと頭を下げる。
「ラウル、あいつは……?」
「わからないんだ、いきなりやって来て、町のみんなを斬って、それでオイラ、逃げてきたんだ」
「道案内をしてきた、じゃなくてか?」
ユリウスの言葉にラウルはハッとする。
「オイラそんなつもりじゃ……!」
ラウル、そう指摘されるまで気がつかなかった。
自分が助かりたい一心で逃げたことで、黒騎士をここまで連れてきてしまった可能性もある。そのことでレオ達を危険にさらすことになった。
ラウルが言葉に詰まり肩を落としているとレオはすぐに「ユリウス、ラウルはそんなヤツじゃない」と間に入る。
ユリウスは「ああ、わかっているさ。そもそもそいつが俺達と合流できたのだって偶然だ。運がいい。狙ってできるものか」そう言った後、ユリウスは呟くように「遅かれ早かれ、あいつは俺達のもとに来ただろうからな」と言った。
ユリウスの声の調子は真剣なものだったが、ラウルを非難するようなものではない。
「急げ、今はまいているがあいつは確実に俺達の前に現れるぞ」
しかし、ユリウスの顔には明らかな焦りの色が見える。
飄々とした冷静さを持つ彼にはしては珍しい、とレオは思った。
ユリウスはあの黒騎士のことを知っているのか?
自然とレオの歩調も速くなり、それにつられるようにラウルは小走りになっている。
ユリウスは、グルダニア王都の中心、グルダニア城に向かっているようだった。
グルダニア王城に向かうほどに崩れた町の様子も一定の変化を見せた。
崩れ落ちたものからも生活感を感じさせるものが多くみられる。
衣類と思われる切れ端、荒らされた花壇、かろうじて姿を残す鍋や箒などの日用品。通りにまで散乱した本は少しも内容を読むことができないほど痛み、風にページをめくられている。
かまど、壺、食料貯蔵庫を思わせるものの中には、まだ中身が残っているものもあった。
「干し肉が……?」
「逃げるだけで精一杯だったんだろう。手に取る余裕もなかった……たぶんな。略奪はここより外に近い地区の方が多い」
皮肉にも、ギュルムの町があれほど飢えていたにも関わらず、すでに人がいなくなったグルダニアには食料となりそうなものが捨てられたままになっている。
建物の先に見えるグルダニア王城が先ほどよりもはっきりと輪郭を現し始める。
セシリア姫はあそこにいた……。
そして、ストーハートに罹り、寝たきりになり、そこから回復をして馬を駆り、ギュルムに向かった。
ユリウスの話によれば、セシリア姫が謎の病に倒れた事は国中の話題の一つだったらしい。国内二例目の奇病。最初の犠牲者はセシリア姫の母親。王妃だったという。
噂レベルではあるが、ユリウスが知っているかぎりの王妃の症状、病状の進行の様子を聞くとそれがストーンハートと同じ病だ。
「原因不明、軽快する様子もなく、ただ指をくわえて見ているしかできなかったらしい」
そんな病に今度は王女が罹ったとすれば、王の悲しみと焦りは相当なものだっただろう。
国内中に治療者を求めるお触れが出されたという。
「多額の賞金もかけられていたからな。多くの自称最高の治療者、秘法、秘薬を持つ者が来ていたみたいだ。もちろんグルダニア医士会や研究者、魔道協会も治療法を探していたが見つからなかった」
状況はアステリアと似ている、とレオは思った。しかし、だとすればセシリア姫がギュルムに行けた理由はなんだ? 何かの治療法、特効薬が発見されているはずだ。
ユリウスによれば、セシリア姫は、グルダニア城の自室で治療、静養を続けていたらしい。ということはストーンハートの治療法もグルダニア王城にある可能性が高い。
セシリア姫のカルテ、病の研究書、治療薬の情報……何でもいい。手掛かりになるものさえ見つかれば、アクセリナ姫の助ける突破口が開けるかもしれない。
「レオ、ここだ」
「ここ?」
レオとラウルは思わず見上げた。
グルダニア大聖堂。
グルダニアの自然石が積まれた外壁は、石が元々持つ黒い色。
見上げるほどに高さのある重厚な扉には、真ん中にグルダニア真聖教独特の螺旋で紡がれる十字架が描かれ、その周囲を永遠を意味するという曲線が織りなす幾何学模様が隙間なく埋められている。
天界の門を思わせる入り口の上部には神話を象るレリーフ。さらに上に行くほど彫刻は複雑さを増していく。
「ユリウス、ここは? 城に向かうんじゃないのか?」
「城は入れないのさ」
「入れない?」
「正門は瓦礫で塞がれている。上にバカみたいに強力な結界のせいで入れない」
「それとこことなんの関係があるんだよ?」
思わずラウルが口を挟む。
「慌てんな、簡単にはいかないって話だよ。結界をどうにかしなければならないんだ」
ユリウスが大聖堂の重厚な扉に触れる。レオも近づくと何かが聞こえてきた。ラウルも思わず顔を上げる。
「レオ、なんか聞こえない?」
「音楽……? 歌?」
緩やかに流れる音に乗り、女性の歌声が、扉の外にまでわずかに漏れ出ている。
ここには人がいる? 楽器を演奏する人間、歌を歌う人間がいる……?
レオは驚きと同時に警戒心がわき起こった。
この廃墟となった王都で演奏し、歌を歌うなど普通ではない。
そもそも、誰が聞くというのか?
船乗りが恐れる人魚のように、この声に魅了され近づく者を惑わし、命を奪おうとしているのはないか? その考えすら、人のいないこの場所では滑稽だ。
しかし、それほど演奏も声も美しく、沁みいるように心に入り込んでくる。
レオの警戒を察してか、ユリウスは「ここは逃げ遅れた人々の最後の希望、だった場所だ」と告げた。
「最後の希望?」
ユリウスが扉を開けると一気に演奏と歌声がレオ達を包む。その瞬間、レオはギュルムで眠り続けるセシリアを前にした時のような体の変化を感じた。
体が軽い。胸に酸素が流れ込み、四肢に力が熱くめぐる。
大聖堂の中は広く、各所に設置された燭台には明かりが灯されていた。
その炎の色は橙色。炎は正面に設けられた赤と金色を基調とする祭壇を輝かせ、ドーム状に形づくられた天井に描かれた壁画を浮かび上がらせる。
喜びに満ちた天界を表す極彩色の幾何学模様が天を覆う。
祭壇に向かう両脇には、礼拝者のための長椅子が何列も整然と置かれている。
ユリウスは甲冑に包まれた右腕を押さえつつ祭壇に向かい歩き出す。レオとラウルはそれに続く。
レオは祭壇の前で歌を歌う女性の姿に釘付けになった。
「あの人が歌っているのか……?」
汚れた布で目隠しをし、ボロボロのドレスを着ている女性が舞台の上で歌っている。ブロンドの小柄な女性なのだが、その細く小さな体からは想像できないほどの声量だ。
清廉鮮烈なその声は波紋のように広がり、この大聖堂を満たしていた。
「レベッカだ。グルダニアの歌姫……死してなお歌い続けている」
「死んでいるのに、歌っている?」
耳を疑う言葉だ。レベッカと呼ばれた女性は確かに立っているのもやっとと思えるほどやせ細ってはいるが。
「れ、レオ! あれ、演奏しているのって!?」
「えっ?」
演奏されているはずのパイプオルガンの席に人影はない。あるのは宙に浮かぶ白い布と
動き続ける汚れた人の形に巻かれたような包帯。包帯が鍵盤の上を移動すると鍵盤は指で触れられたように沈み、音を奏でている。
「演奏しているはレベッカの婚約者ミエスだ。レベッカの声が聞こえる限り、ミエスは演奏を止めない、ミエスの演奏が聞こえる限りレベッカは歌うのを止めない」
「なぜ、こんな……?」
なぜこんな場所で、こんな姿になっても演奏し、歌い続けているのだろう?
「理由はわからない。どうしてこうなったのか。だが、それがあいつらの遺志なんだろ。歌と音楽で喜びと癒しを与えたいっていう。そんな歌に惹かれて、逃げ遅れた奴ら、行き場のない奴らがここでレベッカの歌とミエスの演奏を聞いているんだ」
「演奏を聞いている?」
「何かいる!?」
ラウルの声にレオはハッとした。
そして気が付いた。大聖堂の長椅子、壁際に横になる多くの白い霧のような人影があった。
横たわる人、うなだれる人、祈る人、誰かと寄り添う人、子ども、大人、すべて白い人影である。
レオはユリウスの言葉を理解する。
ここは逃げ遅れた、行き場のない魂の安息の場所。歌と演奏は彼らを癒している。
「理由はよくわからないが、レベッカの歌には魔力を退ける力があるんだ。だからここで……」
ユリウスがそこまで言った時、突然大聖堂の扉が蹴破られた。
「ちっ、もう少しのんびりでもいいんだけどな!」
「あいつが!」
「ラウル、隠れていろ!」
白い影達がざわめき立った。
黒騎士が一歩、一歩と大聖堂の中へと足を進める、黒騎士が足を進めるほど、大聖堂を照らす照明の炎の色が瑠璃色へと変わっていく。今まで穏やかに過ごしていた白い影達は怯えたように道を開ける。
あのマント……やはりアステリアのもの。ダン隊長のものだ。
右腕を除く全身を覆う歪な鎧、顔を完全に隠す鉄仮面を除けば、体格、構え、技、どれもダン隊長に似ている。
「レオ、あいつを倒せるか?」
ユリウスが弓を引きながら言った。その右腕は弓を引くのが辛そうに震えている。
そんなユリウスの右腕の変化を気にするほどの余裕もなくレオは答えた。
「……わからない」
もし、ダン隊長なら敵うはずがない。
あらゆる点において相手の方が勝っている。
もっと言えば、剣を交えてどれほど凌ぎ切れるのか、を問うべきだ。勝てるかどうかの話ではない。
「ダン隊長!」
レオは呼びかけた。次の瞬間、ダンはいきなりレオに向かい走り出した。
「く、来る!」
黒き剣が振りあがる。
レオはラウルを安全な方に突き飛ばしてから自分も剣を抜いて退いた。禍々しい姿をした黒き剣は、木製の長椅子を簡単に粉砕する。
純粋な腕力も……。
「くっ……!」
隙をついて斬りこもうとした瞬間には瞬時に態勢を整え、レオの機先を制する。
培われた判断力も……。
「ダン隊長……ですよね?」
ごく自然に構えているようでまるで隙が無い。ただ構えられた剣先がすでに対峙する自分の心臓を捉えているように思えてならない。
技に対する才能も……。
「あなたはダン隊長なのではないのですか!?」
レオの呼びかけにダンは答えない。
剣を構え、気配のない大柄の体でじわりと足を進める。すると、レオはその分だけジリリと砂を踏んで足を下げた。
すべて格上。
一分の隙もなく上手。
わかっている。
どうやっても敵うはずがない。
「レオっ!」
ラウルの呼びかけもレオの耳には届かず、レオはなおもダンに呼びかけ続けた。
戦えば負ける。斬られる。
……いや、むしろこれはダンがこの場に来てくれた事を喜ぶべきではないか?
もしダン隊長であれば、これほど心強いことはない。これから先の調査もスムーズに進むはずだ。
「ダン隊長なのでしょう!?」
レオはダンに呼びかけた。ダンにわかってもらう。正気に戻ってもらう。それがこの危機を乗り越える唯一の手段であるかのように。祈りを込めて。
祈りはレオをさらに後退させる。そのわずかな隙をダンは見逃さない。血生臭い鎧が石床を蹴る。
レオは迷いのままに剣を盾にして斬撃を受け流す。あまりの衝撃に剣は悲鳴を上げ、厚みのある鋼の剣がしなる。
「レオっ、そいつはお前の知る人間じゃない! 迷うな! 斬れ!」
ユリウスが後方で矢を放った。ダンはその矢を剣で弾き落とす。
「レオ!」
チャンス。
ユリウスが作った絶好のチャンスだった。しかし、レオは動けなかった。
頭の中で、向かっていった先で斬られるイメージが沸き起こる。絶好のチャンスを前にしてレオは恐怖のために動けなかった。
ダン隊長なら、あの位置からでも、あの態勢からでも反撃できる。飛び込めばやられていた。ダンへの信頼が、身体を縛る。
その時だった。
レオは悲鳴を聞いた。
黒き剣が振り降ろされた場所にいた逃げ遅れた白い影が剣に吸い込まれるように消失したのだ。
ダンもそのことに気がついたのか、レオのを無視して周囲を剣で薙ぎ払い始めた。
レオは茫然とする。
逃げ惑う白い影達が次々に消えていく。
抵抗するすべを持たない白い影に嬉々として剣を振るう。影達は次々に消えていく。
薄紙を破るよりも、小さなロウソクの火を消すよりも、白い影達は簡単に消える。その様子はまるで、楽しんでいる……?
レオの目にはそう見えた。
黒騎士は逃げ惑う白い影達を斬るに喜びを感じているようだ。
「隊長……?」
黒騎士に重なって見えていたダンの姿が離れていく。
レオの記憶の中のダンは、決してそんなことはしない。力、技、行動力に優れた人物であったが、 何より人としての優しさがあった。大聖堂で穏やかに過ごす無抵抗な魂達を力任せに蹂躙するような人ではない。
周囲が騒乱し、ざわめき、泣く。
消えていく白い影の悲鳴はレオの耳に残り、心に染みついた。残された白い影達は仲間の死に悲しみ震える。
こんなことが……?
レオは茫然として黒騎士を見た。
「レオっ!」
「レオっ!!」
自分を呼ぶラウルとユリウスの声が今度ははっきりと聞こえる。
ミエスの演奏。
レベッカの歌。
ラウルとユリウスの声。
「お前は誰だ!」
浴びてきた血の匂いが証明している。この黒騎士がダンのはずがない。
レオは目を上げ、剣を構えると地を蹴った。
お互いの剣が鈍い音を立ててぶつかり合う。数手剣を交えると黒騎士の力に改めて舌を巻いた。攻撃、防御、間合い、どれを取ってもアステリア剣術の使い手であることは間違いない。まるでダン隊長と戦っているかのようだ。
でも、ダン隊長じゃない!
黒騎士の背後にダンの影がチラつく。レオはその影を振り払い、剣を振るう。
一手、二手と手数が重ねていくほどにレオはジリジリと追い詰められていく。
腕が痺れ、一撃ごとに体力を奪われていく。
★
「ちっ……!」
二人の戦いの様子にユリウスは舌打ちした。
今のこの腕では、援護に回れない。
目まぐるしく立ち回る二人に矢を放てば、レオに当たってしまう可能性もある。
……いや、腕が万全でも無理か。
それほどに黒騎士とレオの戦いは苛烈を極めていた。その勢いはますます増していっている。しかし、このままではレオが押し切られてしまうのは明らか。時間の問題だ。
ユリウスは祭壇で歌うレベッカとミエスに向かい叫んだ。
「レベッカ、歌だ! もっと歌ってくれ! 俺達に力を貸してくれ!」
「……!」
今まで周囲の異変に少しも気持ちを向けなかった二人がユリウスの呼びかけに応えた。
わっ! と声が弾けた。
「す、すごい声!?」
ラウルは圧倒されめまいがしたようだった。
レベッカの澄んだ歌声が力強く大聖堂を震わせる。
ユリウスは自分の右腕が力を失い重くなるのを感じた。魔力はさらに弱くなった。
「来たっ! レオ、今だ!」
すでにレオは動いていた。黒騎士の動きが鈍くなったのを今度は見逃さなかった。
会心の踏み込み。レオは真っすぐに黒騎士の喉を突いた。
「レオっ!」
「なっ!?」
その瞬間、レオが青ざめた。
確かにレオの剣は黒騎士の喉を突いた。
甲冑に弾かれることなく、鉄仮面に邪魔されることもなく、その隙間をぬった渾身の一撃だった。しかし、その剣先には少しの感触もない。レオの剣はそのまま黒騎士の背面に突き出たのだ。
黒騎士の鉄仮面がカツーンと甲高い金属音を立てて床に落ちる。
何もない。
首も、身体も!
黒騎士の甲冑の中身はもの抜けの殻だった。
「あぶない!」
ラウルの叫びにレオは我に返った。
鉄仮面を落とした黒騎士は、それに構わず剣を振りました。
「ぐっ!」
驚きにわずかに反応が遅れた。
その一撃に、レオは弾き飛ばされ、強かに打たれた剣が割れる。
大聖堂の石壁がレオの身体を受け止めてくれたとはいえ、その衝撃には息がつまった。咄嗟に剣を盾にしたおかげで致命傷こそ避けることができたが、剣の半分を失っていた。
騎士団に配属され、アクセリナ姫の声を初めて聞いたあの日に授与された剣だった。騎士団の証ともいうべきものだった。
★
「レオ、立て! ヤツが来るぞ!」
来る。顔は上げなくても、気配と足音でわかる。しかし、剣は折れ、身体もなく、不死身の相手とどう戦えと言うのだ?
「頼む! 立ってくれ!」
ユリウスの声が聞こえる。
わかっている。
立たなければやられる。躊躇なく剣は振り下ろされ、旅を終えることになるだろう。
わかっているが、どうしろと?
武器も体力も限界だ。
渾身の一撃だったんだ。
今出せる最高の一撃だったんだ……
※※※
旅人よ 果てぬ旅を続けるひた向きな迷い子よ
汝、何を求むる
旅人よ 温もりの届かぬ夜闇の中でも進まんとする気高き迷い子よ
汝、何を求むる
疲れ果てた身を草にゆだね 石を枕に風を聞く迷い子よ
汝、何を求むる
※※※
ミエスの演奏が変わった。
荘厳な音調、可憐な歌声であったレベッカの声が一転する。
「レベッカ……? ミエス……?」
ユリウスの顔に驚きの色。
二人が、レオのために曲を変えた?
※※※
足を止めぬ旅人よ 探し求める旅人よ
希望の灯を燃やし尽くし 絶望の底を知る旅人よ
※※※
カシャン、カシャン、カシャン……。
首なしの黒騎士はいまだ立てずにいるレオに近づく。
終わりを与える処刑人が、いたぶりと慈悲の甘い時間をその足音で刻んでいる。
※※※
苦難に喘ぐ迷い子よ
辛苦に涙を零す迷い子よ
悲哀に囚われし迷い子よ
※※※
レベッカの歌声が高鳴る。
空気が震える。
魂が震える。
彼女の声は白い影達をも震わせた。
隠れ潜んでいた影達は物陰から、長椅子の陰から立ち上がり、次々と姿を見せるとポツリ、ポツリと声を上げ出した。
歌。
歌。
歌。
※※※
尊き王は救い給えん
※※※
合唱。
割れんばかりの歌声に大聖堂は激しくその身を震わせた。
自らの神聖な門を潜った二人を厳かに受け入れた大聖堂は、喜びの歌に震え、歓喜に満ちた。
レベッカの歌が、ミエスの演奏が、白い影達の想いがレオの背中を押す。
「俺は……」
レオはゆらりと立ち上がった。そしていつの間に再び黒騎士に対峙していた。どこにそんな力があったのか、折れた剣を手に首無しの騎士に対峙する。
ギシッ。と剣が重なり合う。重く打ち合う。
祭壇へと続く参道は歌声に満ちる。
※※※
汝は約束されるだろう
汝の望むもの全てがその愛のもと手にすることを
王の導きのままに
※※※
「レオっ! 腕だ! ヤツの腕を狙え! ヤツから剣を切り離すんだ!」
「おおっ!」
ユリウスの声にレオはさらに加速した。黒騎士の斬撃を避ける。身を翻し、避ける、避ける。黒い剣が唸りを上げて耳元をかすめていく、脇腹を、腿を裂き、血がにじむ。それでもレオは進むのを止めない。
もっと近く、もっと近くだ!
「もっと近くに!」
間合いが詰まる。黒騎士が初めて退いた。
レオはそれを逃がさず追う。
二人の剣が唸りを上げた。
※※※
汝、王なり、汝、王なり
すべては王の手に!
すべては汝の手に!
※※※
レオは崩れ落ちるように膝をついた。
黒騎士の剣がレオの首に触れた。
しかし、レオの首の肉を抉るよりも早く、レオの剣が黒騎士の右腕を捉えたのであった。
黒騎士は唯一の生身の部分である右腕を両断され、肘から先がゴトリと落ちる。
腕を斬られた黒騎士は天を仰いだ。次の瞬間、何かから解放されたかのように黒騎士の鎧はバラバラに崩れ落ちた。
空の鎧がそれぞれ転がる。よく見れば、何一つとして揃いのものはなく、それぞれが全く別物の寄せ集めであった。
「これが正体……?」
この騎士の本体はこの腕だった? 腕が騎士だったのか?
レオは満身創痍で、転がる黒騎士だったものを見てそう思った。
いつの間にか大聖堂を揺らすほどの合唱はおさまり、今はまたミエスとレベッカの穏やかな曲があたりを包んでいた。
ああ、心地いい……。
「レオっ!」
「レオっ! よくやったな!」
レオは立ち上がることできず、駆け寄る二人に弱々しく微笑んだ。
自分でも信じられない。これほどの相手に勝てたなんて……。自分だけでは勝てなかった。心からそう思った。
レオの周りをユリウスやラウルだけでなく、残った白い影達も囲んでいた。
勝利を祝福するように。
「レオ、あの剣を……」
「えっ?」
ユリウスは転がった黒騎士の剣に目を向けた。黒騎士だった腕はすでに風化し、サラリサラリと崩れ落ちていく。
残されたのは剣のみ。
黒く、血を吸った禍々しい剣。
レオはユリウスに促されるまま、黒騎士の剣を拾い上げる。
刀身の部分と柄の部分が一体となり、柄の部分さえも金属がむき出しだ。刃は厚みもあり、同時に鋭さもある。
剣の重心が……!?
形は歪で、その重心は先端に偏重する。思い切り振れば剣に振り回される可能性もある。殺傷能力を追求し、使い手が傷つくことを全く考えられていないように思えた。
「こんな剣をよく……うっ!?」
視界が歪む。睡魔に似た感覚が突然身体を覆う。何か引き込まれる。レオは黒騎士の剣を手放そうとしたが、手から離れない。
「レオ! どうしたの!? 大丈夫!?」
ラウルが叫んでいる。
遥か遠く。遠くでラウルの声が聞こえる。さらに遠ざかっていく。
そんな感覚だった。
レオはラウルの名を呼ぼうとしたが、自分の声が出ていない。
抗えない。
自分のすべての感覚が吸い込まれていく。レオはその場に倒れたが、倒れた地面の感触すら感じなかった。
「すまんなレオ、地獄を見てきてくれ……」
夢と現実の境で最後に聞こえたユリウスの言葉だった。
★
我々は王の命により、十二人の乙女を集め終えた。私の戸惑いや不安とは裏腹に、ことは手際よく、そして順調に進んでしまった。
儀式の準備は整った。
ごく限られた者だけがこのことに関わった。国内では少女失踪事件の声が高まっていたが、真実が漏れ出ることはないだろう。
ああ、これから起こることも、この出来事も決して口外することは許されない。
せめて、こらから起こる、この事実の詳細を書き残すことにしよう。
希少価値の高い鉱物と薬品を含む六十四種の材料と集められた無垢なる十二人の乙女。
八つの重ねられた高位魔法陣と八人の術者。その中心に燃え盛る炉。
その炉に集められた少女たちを一人、また一人とくべる。術者は昼夜を問わず、一時も休むことなく呪文を唱え続ける。
そして、ドロドロに溶け混じり合った金属を四人の職人が呪文を唱えながら打ち鍛える。
この儀式は三十二日間にも及ぶ。
灼熱の炉に、少女たちの悲鳴と嗚咽がこだまする。唱和する呪文は、途切れることは許されず、術者は精魂尽き果てるまで魔力を注ぎ、そして交代を繰り返す。その過程では魔力の消耗の果て、命を落とす者もいる。
王はこの光景を見守っていた。冷徹に。その横にはあの女、シュキが常にいた。
三十二日目の朝、それは完成した。
二つの指輪。
グルダニア最高禁呪、乙女の指輪。
聖暦864年5月 書記官グスタフの日記より