咎人の企望【最終章】
最高だ!
それは人の腕の形をしていた。間違いなく人の腕のはずだ。しかし、その大きさは人のものではありえない。
青銅色に変色し、ひび割れた皮膚は岩のように堅く、闘技場に落ちる寒気を吸い込みながら、この時を待っていたかのように冷たさを感じさせる。
厚く盛り上がった爪は赤黒くくすみ、鼻の奥を突くような臭気を放っていた。
レオの顔が驚きと嫌悪に歪む。
ああ、なんていい顔をするんだ。
レオと化け物との間で視線を行き来させながらリストは恍惚として頬を緩める。
姿を現した化け物は、下半身は微かなにボロを引きずり、上半身は何も身に着けていなかった。身に着けていないどころか腹部は大きくえぐれ、内臓は見る影もない。
空洞。空洞を抱えたその化け物には少しの理性も知性も感じない。
醜く肥大した喉で声を上げ、身体に見合わないほど太く巨大な腕を狂ったように振り回す。レオは咄嗟にその打撃を避けた。そのおかげでレオがいた場所の石床が断末魔を上げて飛び散ることになった。
レオは最初の一撃をかわし、剣を構えたが、その顔に浮かぶのは絶望の色ばかり。
ああ、最高だ!
あの拳、あの肢体、あの醜い顔、まともに言葉すら発することもできない歪なこいつの姿に驚いただろう!
誰もこいつを殺すことはできない!
誰もこいつを止めることはできない!
「ふふ……はっはっはっ、最高だ! クラウス、もっと見せてくれ、誰も見たことのない景色を俺に!」
クラウス。リストはそう言った。
この化け物こそ、禁忌を破り変貌を遂げた助祭クラウスだった。リストは、レオに襲いかかるクラウスを見ながら夢中でスケッチブックにペンを走らせる。
「ああ、いい、なんていい日だ! ツイている、俺はツイているぞ! こんなにすぐに次のモデルが現れるなんて!」
口からこぼれるよだれを拭くこともせず、まばたきも忘れて、リストはレオとクラウスが戦うさまを絵に残そうと手を動かした。
あの女みたいな男の時もよかった。
綺麗な鎧を着た、美しく若い騎士が必死の形相で剣を振るい、無残に生きたまま腹を割られて散る。
こんな光景を誰が見たことがあるだろう? 誰もない。誰も見たことがあるはずがない。
俺はこの絵を……この絵を持って売り込みに行く、みんな驚くはずだ。驚かないはずがない。俺の絵からみんな目が離せなくなる!
リストの運命はあの日に変わった。
スケッチをするために、食堂を訪れたリストはそれに出逢った。
禁忌を犯した助祭クラウスが崩れ落ちていく姿。腐った内臓をこぼし、涙を流しながら必死にかき集め、姿を変えていく姿にリストは震えた。
普通ならばこんな時どうするだろう?
まだ敵か味方、知性があるのかないかもわからない化け物を前に錯乱して悲鳴を上げ、足をもつれさせて無様に尻もちをつき、爪で立て石床を赤く汚すだろうか。おそらくそう、多くの人間がクラウスの最初の獲物となった。
しかし、リストは違っていた。
彼の震えはインスピレーションを得たことによる心の震えだった。
これだ! こいつはチャンスだ!
リストは思わず拳を握りしめる。
臓腑を失い苦悶するクラウスの陰でリストはただただ歓喜した。
苦悶のクラウスは狂ったように哭き叫び、教会の外へと飛び出した。リストは慌ててすぐにそのあとを追った。
逃がしてたまるか、俺はあいつの絵を描くんだ。ああ、けれどどうすればいい? どうすれば、この異様さを表現することができる? 姿はまだいい、でもこの吐き気のこみ上げるような強烈な匂いは? 身の毛もよだつ地響きのような声は? どう表現すればいい!? リストは初めて自分の才能のなさを嘆いた。
教会を飛び出したクラウスが初めに目をつけたのは茂みに隠れていた二人だった。
「あれは……助祭のアルコ?」
同僚に助けを求めに……?
リストはクラウスの選択にそう思った。ということは、中身はクラウスのまま? クラウスの意識がある? だとしたら……
完全な狂気ではない。
あれほど美しく儚げな助祭クラウスがあれほどの化け物になったのだ。心までも獣に堕ちてこそ狂気。人の心を残すような救いなど、ない方がいい。リストは自分の中で、高揚した気持ちがしぼんでいくのを感じずにはいられなかった。
ああ、クラウス! 狂っていてくれ、俺のために! 狂っていてくれ!
そんなリストの祈りは天に届いた。
クラウスの拳がアルコの身体に降り落ちたのだ。ブリキの人形がハンマーで叩かれべコリと凹むようにアルコの身体はひしゃげた。
一瞬だった。
アルコは目の前に現れたものが現実のものだと理解する前に絶命していた。
リストはまた歓喜した。
一緒にいた女が、震えたまま声も出せずに腰を抜かし漏らしている。
そのすぐ横でクラウスはアルコの腹を太い指で押し割くと、まだ温かい赤く清浄な内臓を取り出し、自分の失われた腹におさめようと押しつけている。
おさめられた内臓はクラウスの腹の中でわずかに鼓動したが、間もなくどす黒く変色してボタリボタリと腐り落ちるのだった。
手にした温かな希望がすぐに冷たく絶望に変わる。クラウスはまた哭いた。
そして逃げ遅れた女の腹も割り、同じ悦びと落胆を繰り返す。
リストはその光景に蕩けるように心を奪われた。
いくらクラウスが宝石のように輝く新鮮で清浄な中身を求めても、空気に触れ、穢れたクラウスの指で触れられた無垢な「それ」は呪いにでもかかったかのように急速に腐敗する。唯一無二の主から引き離された「それ」が咎人のものとなるはずもない。
あいつ、自分の失ったものを取り戻そうとしているのか……? バカな奴だ、自分のはもう腐っちまったっていうのに、他人のものが自分のものになるはずがないだろうに……
リストは興奮しながらも、クラウスの行動に少なからず哀れみを感じた。
「いや、待てよ……?」
あいつに獲物を与え続けてやれば、その間、ずっとこの景色を見ることができるんじゃ?
クラウスはそれからも内臓を求めパルフットの民を襲った。クラウスの上司であった司祭、王都から来た騎士達、リストの親方や同僚はもちろん、建設作業でパルフットに着ていた男達、彼らを相手に商売をする女達、パルフットに古くから住んでいた老人や子ども……その中にはリストに背中を押された者、リストの言葉に惑わされた者なども多くいた。
クラウスの自分を取り戻すための狩り続いた。リストは自分が成功するためにクラウスの絵を描き続けた。
やがて住民の気配と足音が消え、パルフットは獣と渦巻く風の声だけになっていく。それでもリストは満足ができなかった。
最高の題材を手に入れた。
最高の材料を手に入れた。
だけど、足りない。
まだほしい。もっとほしい。もしかしたら、次に現れる光景は、今以上のものかもしれない、それを見逃したくない。
リストはそう思い続けた。
そして、今、今まで以上の素材が舞い込んだのだ。
「はははっ……」
最高だ! あいつ、クラウスと戦ってやがる!
剣を抜いたレオは何度も身をひる返し、クラウスの手を逃れている。たった一撃、その拳が当たればレオは動けなくなってしまうはず、どこか身体の一部が掴まれることがあれば、そこから逃げるすべはない。
それでもレオはクラウスの手から逃げ続けている。今までクラウスの前に出て、これほど生き延びた人間はいない。
「ああ、待ったかいがあった! こんな光景を見られるなんて!」
しかし、この戦いも間もなく終わりを迎えるだろう。
惜しい。結末を見るのが惜しい。
ペンを握るリストの手は少しも止まることなく動き続けていた。
★
「くっ……」
咄嗟に剣を抜き放ち、離れ際に斬りつけたレオだったが、化け物太い右腕は少しも刃を受け入れなかった。
第一印象は岩。
誤って剣で自然石を叩いてしまったかのような手のしびれを感じた。
あれが手。あれが拳。
手に伝わった感触が絶望感を呼び起こす。
とても斬り込めるような相手ではない。
速さも、大きさも、堅さも。たった一本の剣でなんとかなる相手とは思えない。
レオは自分の持てる技と経験のすべて引き出し、頭の中で何度も化け物に対抗する手段を考えた。 元々体格に恵まれないレオだが、相手がこれほど巨大でだったことはない。
踏み込んだとしてもどこに活路があるのか、皆目見当もつかない。
「逃げるしかないか……」
今までの動きを見ていればわかる。
背中を見せて逃げれば、瞬く間に追いつかれてしまうに違いない。
化け物が地を蹴ると石床は捲れ、拳の降った場所は穴ができる。
レオは両手で剣を構えながら、化け物が進んだ分だけ後退しなくてはならなかった。
化け物の半身が闇に飲まれほど離れていれば、攻撃に対して対応できる。
救いなのは、その攻撃に知性を感じないことだ。何を繰り出すかはわからないが、何かをしてくるのだけはわかる。
俺が入ってきた通路はどっちだ?
均等に配置された瑠璃色に灯る松明と、その光を音もなく吸い込む暗闇がすっかり方向感覚を狂わせていた。
暗闇の向こうで砂を踏みしめ、崩れた石床が捲られる。青銅色の化け物は、暗闇から瑠璃色の世界にはい出るように腕を伸ばし身をよじる。汚れた爪が迫るたびに、シェルの苦悶の姿を思い出され、口の中に血の味がするような気がした。
いつの間にかリストの姿は見えなくなっている。
どこかで見ているはずだ。画家だと言っていた。モデルが必要だとも……
だとしたら、どこかにいるはずだ。安全な場所で見ているはずだ。
「シェルの仇を打ちたいという衝動」と「逃げなければならないという本能」の言い合いに思考が鈍らせている。判断が遅れる。
逃げなきゃダメだ。
リストにも、この化け物にも、かまっている場合じゃない。
どこに逃げる?
逃げるな! シェルさんの姿を見なかったのか? シェルさんを殺したのは間違いなくこいつなんだぞ? リストに騙されたんだ! リストを探せ!
任務を忘れたのか? アクセリナ様の病の原因を究明しなくてはならないんだぞ!
逃げ道はどこだ?
仲間の死を目の前にして何もせずに逃げるのか? 目の前に仇がいるのに?
頭の中で何人もの自分が言い争う。
思考が口論を続ける。目の前の化け物の歩みと呼吸に合わせ、間合いを取るために足を退き続けるが答えはでない。
「……!?」
不意に背中に堅い感触。足を退こうとすると、コツリと踵が壁にぶつかった。
汗が噴き出した。気がつくとレオは壁際まで追い詰められていた。
しまった!
化け物の足は止まらない。距離が狭まる。
いや、まだできる。右に行くか? 左に行くか? それとも打って出るか?
化け物があと数歩進めば間に合わない。
構わない、どちらでも、右でも左でも構わない、動けばいい!
ズシリ、ズシリと重い足音が近づく。
動かない、足が張り付いたように。
どうして動かない? 走れ、走れ!
温かな腐敗した息。
構えた剣が震える。
太い腕、堅い指先、血で汚れた爪。
追いつめられた驚きと頭の中の口論がレオの身体を縛りつける。
来る。来るっ!
レオは硬直したまま息を飲んだ。
逃げ遅れた?
頭の中の口論はすでに止まり、音も景色も遠ざかっていく。ただ化け物の呼吸の音が耳に貼りついていた。
まだ……まだ、終わっていない、まだ諦めるな……!
レオはそう心の中で繰り返した。
もう逃げられない所まで来ていると頭で理解していても、心の中で叫ぶ。
巨大な腕がかざされ、レオに影を落とす。
レオはこれほどまでに追いつめられても、動けずにいる自分の弱さを恨んだ。
今さら迷う必要などないはずなのに!
右でも、左でも、前でも、どこでもいい。動けば可能性がある。動かなければ終わりしかない。それなのに身体が動かない。
ヒュッと何かが風を切った。
レオはハッとした。
化け物が身を反らして地響きのような声をあげる。
「……っ!」
レオは解き放たれたように駆け出し、叫ぶ化け物の間合いから抜け出した。
見れば右脇腹に何かが突き刺さっている。
矢? この矢は?
「おい、なんだそいつは?」
「ユリウス!」
瑠璃色の松明を背にし、弓を構えたユリウスが立て続けに矢を放つ。しかし、脇腹を穿った矢以外はすべて弾き落されるだけだった。
刺さった矢もどうにか矢尻が埋まるほどにしか刺さっていない。
レオは自分の目を疑った。
矢の刺さった傷口が不気味にうごめき、矢を吐き出そうとしている。それでも痛みはあるのか、化け物は悲痛な叫び声をあげ、狂ったように拳を振り回しては、壁と床を砕き、残骸が飛び散らせた。
「くそっ、なんて奴だ。レオ! こっちだ!」
レオはユリウスのもとに走る。
「ユリウス、すまない!」
黙ってここの来てしまったことと二度も助けてもらったという後ろめたさで、レオはそれ以外の言葉が見つからなかった。
悶え苦しんでいた化け物は、ようやく矢の痛みから解放され再び咆哮し、駆ける。
走るレオに迫る化け物。ユリウスが新たに三本の矢を放った。
一本目は腕に、二本目は厚い肩に弾かれる。三本目は矢を振り払う腕をかいくぐり空洞になった腹に到達した。
「オオオォォォッ!」
鳥肌が立つ。耳を覆いたくなるような奇声を上げ、化け物は苦しんだ。
自分の体内に入り込んだ異物を取り出そうと、腹を必死に探る。しかし、それは滑稽なほど上手くいかない。触れることできるはずの空洞の腹に、手を入れることに抵抗があるのか、もどかしく手を彷徨わせている。
「効いている?」
「いや、それはどうかな……?」
ユリウスは冷静に自分の放った矢の行方に目を向けた。
脇腹の傷同様、空洞の腹の中も不気味に蠢き、深く刺さった矢を吐きだそうとしている。その傷口は血液のように膿を吐き出しながら急速に治り始めていた。
「効いているように見える……が、見えるだけ、みたいだ」
化け物が痛みにもがくほど、矢尻は腹をえぐり傷口を広げる。暴れるほど新たな傷を自分で作っていく。
ユリウスは再び弓を構えながら、横たわるシェルに気がついた。
「ちっ、遅かったか。森を抜けた人間はすでに来ていたのか……」
誰に言うでもなく呟いたユリウスの言葉にレオは思わず彼の顔を見る。
ユリウスは知っている。シェルが森を抜けて来た人間であるということを。
だけど、ここに来ていることは知らなかった……?
「颯爽と助けに来て華麗に活躍と行きたかったんだがな。どうもそういうわけにはいかないらしい。レオ、できればここから逃げることを提案したいんだが」
「ああ、同感だ」
化け物が身体をよじり、自分の周りのものを見境なく破壊していく。
歪な轟音が、歪に闇を裂く。
ユリウスはギリリと渾身の力で弓を引く。右腕の銀の甲冑がギシリと軋んだ。
「通路は俺の背中側だ! レオ、先に走れ」
ユリウスの言葉にうなずき、レオは走り出す。化け物の傷口が塞がり立ち上がった。
「せっかくだが、もう一度泣いてくれよ」
ユリウスの手から矢が放たれる。
銀の矢尻が空を裂いて暗く柔らかい空洞に向かう。その矢とは対照的にレオは出口に向かい走り出す、少し遅れてユリウスも続いた。
矢は化け物の柔らかな腹の肉を再び裂き、えぐる、化け物は気が狂ったように叫び声をあげる! はずだった。
化け物は大きく身をかがめ、跳躍すると、走るユリウスとレオの間に割って入った。
「なっ!? この距離を跳んだ!?」
巨大な手が振りあがる。
「ユリウス!」
先を走っていたレオが身をひるがえすと、咄嗟に構えた盾に化け物の巨大な手が叩きつけられる。構えていた盾は原型をとどめないほどに歪み、使い物にならなくなった。
「レオっ!」
なぜ戻った!? そんなユリウスの声が聞こえるような気がした。
自分だけ逃げられるものか!
レオがそう声を発する前に、二人はすでに動き出していた。
レオが剣を抜き、化け物の前に躍り出る。
少しでも注意を引ければ、時間が稼げれば、矢を放てる。矢を放てば、逃げ切れる!
レオの考えを読んだかのように、ユリウスはすでに弓を構えようとしている。
しかし、化け物はすでにレオに興味をなくしたのか、ユリウスに向かい走り出している。
「おいおい、モテモテじゃないか」
巨大な手がユリウスの身体を叩いた。
「くっ……!」
身体が痺れ動けないユリウスに化け物がのしかかる。
「レオっ、今のうちに逃げろ!」
「ユリウス!」
化け物の指がユリウスの腹に触れた瞬間だった。巨体の化け物の動きがピタリと止まる。
「ウゥゥッ!」
化け物は突然怯えるようにユリウスから離れると、何かから逃げるように闇の中に姿を消したのだった。
「なんだ? 何が……?」
「わからない……それよりも早くここを離れようぜ。すまないが手を貸してくれるか?」
二人はすぐに闘技場をあとにした。
ユリウスがいた場所には一片の干し肉が落ちていた。
★
なんだ、どうしたことだ!?
いってしまう! いなくなっちまう! まだ! まだ肝心のものを見ていないっていうのに!
リストは闘技場から走り去るレオとユリウスの後姿を見ながら慌てて立ち上がった。
まだ、剣士の結末を見ていないのに! まだ絵が出来ていないのに!
あいつだ、あの男、あの弓の男が現れて変わってしまった! あいつは何者だ!?
リストはスケッチブックとペンを手にしたまま、レオ達を追おうとした。
「このままにしておけない!」
これがここでの最後の絵だ。
この絵を持って、俺は売り込みに行く。貴族に、王族に、俺の絵を見せにいく!
みんな驚く!
みんな俺の名を知りたがる!
俺の話を聞きたがる!
俺の絵の前にひれ伏し、俺の才能に嫉妬する!
そのためにも若い剣士と弓の男、二人のモデルが必要だ。絶対にほしい! あの戦いを見たか? 二 人の機転と冷静さ、強さ……ああ、ほしい、二人が化け物に蹂躙される様を。
追わなければ。
逃すわけにはいかない、俺は成功するんだ。あの日、クラウスが化け物になった時から、俺は決心したんだ。だから逃がさない、逃がすわけにはいかない。
リストはレオ達が消えた通路に向おうと、闘技場の明かりのもとに姿を晒す。
割れた石床と崩れた壁。
まき散らされた赤い染みと膿の匂い。
戦いの残り香にリストはまた興奮した。
「いい、いいぞ、間近で見ると格別だ。でも、これはあとだ、今はあいつらを追うんだ」
そんなリストを生温かい風が包む。
「あっ?」
リストはいつの間にか自分が何かの影の下にいることに気がついた。
黒く大きな歪な人型の影。ハッハッと短くリズムを刻んで後頭部から顔を包んでくる生温かな腐臭。
ギュッ。と心臓を鷲掴みされたような気がした。
「あ、ああ、クラウス……?」
振り向いた時には、すでにクラウスの巨大な手は大きく天にかざされていた。
大きい。空が見えないほどに……。
「ああ……」
声を上げたリストにクラウスの手は振り落とされた。リストの細い身体が堅い地面に叩きつけられる。
リストは目を見開いた。
「ああっ!」
口が切れ、足がひしゃげた。
クラウスがリストの身体にのしかかる。
彼は仰向けに押し倒されたのだ。
「ああ……!」
歓喜。
リストはしっかりと抱きしめていたスケッチブックを広げペンを走らせた。
「ああ、この光景……!」
どうしてこの構図を思いつかなかった?
太い指が腹を押す。
ああ、見たかった、見たかった! 近くで、近くで見たかった! 今までの光景など、取るに足らないじゃないか!
裂ける。割ける。
リストは恍惚とした笑みを浮かべながら、今、目の前にあるものを描き続けた。
赤黒く汚れた指先、岩のような青銅色の肌、肥大して埋もれた顔の中に微かに見える正気を失った瞳、潰れた喉、罪を背負い抉れた腹。どれほどの人間を犠牲にしてきても、この光景を見ることはなかった。
特等席だ! 最高だ!
ふと、リストの脳裏に、自分の生まれ育った村のことがよぎる。
「ああ、俺は……」
あの時、自分の絵を認めてくれた少女がいた。自分の絵を見て褒めてくれた少女だ。
風に揺れる柔らかな髪、甘い匂い、胸に湧いた甘酸っぱい想いを抱かせてくれたそんな少女だった。
リストは村を出た。彼女は村に残った。いつか、迎えにいくと希望を抱いていた。
「ああ……」
しかし、リストは彼女の顔どころか、その名前すら思い出すことはできなかった。
クラウスがリストの美しい内臓を取り出すと自分の空になった腹部になすりつける。
穢れた指により汚された内臓は瞬く間に淀み、色を変え、異臭を放ち腐り落ちる。
クラウスは再び慟哭に濡れた。
こと切れたリストの手からペンが落ち、スケッチブックの絵が慟哭混じる風になびいた。
その絵は、幾重にも絵の上に絵が刻み込まれ、紙にごくわずかな隙間もない。ただただ黒い。黒い絵だった。
黒く塗りつぶされたその紙に描かれたものが何だったのかを知る者はもういない。
★
シュキは言った。
「この病を治療するには特別な方法が必要です」と。
「それは、それはどんな方法だ!」
「膨大で、とても強大な魔力が必要なのです」
「膨大な、魔力が……?」
「はい。魔道に長けたグルダニアには、強大な力を生み出す法。禁呪の法があると伝え聞いたことがあります」
「なんと……」
王の顔に驚きの色が浮かんだ。いや、王だけではない。そこにいたすべての者が少なからず驚きと恐れを露わにしていた。
どうして、なぜ、彼女がそれを知っていたのだろうか?
シュキは訴えるように、祈るように、言葉をつづけた。なぜなのだろう。彼女の言葉が心の中に入ってくる。
「その法を使えば、セシリア様の命を奪わんとするこの奇病を退けることができます」
シュキは言った。
細く瑞々しい蔦が堅牢な樹木に巻き付き、やがては覆いつくしてしまうように、彼女の心は私達の心を覆った。
どうして彼女はそんなことを断言できたのだろう? どこでその知識を手にしたのだろう? なぜこんなにも彼女の声は甘いのだろう?
ああ、従わずにはいられない……彼女の言葉、声が、耳から離れない……。
「それはまことか!?」
どうして……私達は彼女のことを少しも疑問に思わなかったのだろう?
「すべてはセシリア様のために」
「ああ! それでセシリアが救えるのであれば!」
止めなくてはならなかった……
異論を唱えるべきだった……
「はい……」
シュキは王の前で頭を垂れた。
本当に頭を垂れたのは誰なのか?
我々はすでに取り込まれていたのか?
「ぜひ、グルダニアの王家に伝わるという禁呪を……」
「さっそく取り掛からせよう」
ああ、なんということだ……
王の気持ちは止まらなかった。
我々は動き出してしまった。
そう、まずはそれを行うのに揃えなくてはいけない。十二人の清らかな乙女を……
聖暦864年7月 書記官グスタフの日記より
★
「ケケッ、すっかり稼がせてもらった」
荷袋を抱えたオッシは口元を歪ませ、奇妙な声で上機嫌に笑う。
すっかり静かになったギュルムの町をオッシは我が物顔で歩いていく。
オッシはアラン達に連れられ町を出ていこうとした人間達を相手に物を売り利益を得ることができた。
背に担がれた荷袋の中には今や町の人間から巻き上げた戦利品が詰まっている。
肩に食い込むほどの重みにも関わらず笑いが止まらない。
「レオはカモにしそこなったが、まあいい」
オッシはそう言って紫紺色のドロリとした液体の入った小瓶を自分のポケットの中にしまいこむ。
レオの情報を売ったのも、町の人間やアラン達を焚きつけたのもすべてオッシの計画だった。
うまくいった。すべてうまい具合に動いてくれた。
アランも、町の人間も。
案の定、旅支度という名目で物を求める人間が押しかけた。値段などあったものじゃない。いくらでも高く売りつけることができた。
「みんな、ここを出ていきたくて仕方がないものなぁ」
オッシの足は黒霧の森に向かっていた。
彼は知っていた。この森が普通ではなく、一歩足を踏み入れれば、得体の知れない不気味な獣の餌食になるということを。だからこそ、アラン達とは行動をともにせず、町の外れまで足を延ばし、最後の商売に専念できた。
「怖いのは餓えた獣。餓えてなけりゃ安全ってもんだ、ケケッ」
こんなに簡単に安全が手に入るのになぜアランに護衛代を払わなきゃいけない? バカらしい。バカは損をする。
オッシはまた口元を歪ませ声を漏らす。
「頭のいい奴が勝つんだ。みんなここを出ていきたくても出ていけないが俺は出ていける! なぜなら俺は頭がいいからだ」
深く黒い霧の立ち込める森の入り口にオッシは意気揚々として立つ。以前は鉄格子のように見えた暗い樹々が、今は楽園へと続くアーチのようだ。
向かう先はアステリア。
そこで商売を始める。元手はある。もし足らなければ、レオに売ろうとしたアレを売ればいい。あれは金になる。
乾いた風がオッシの背中を押す。町からこれほど離れても町に異臭から逃れることはできない。その匂いも今日で最後だ。
「……うん?」
カシャン、カシャン……。
森の中から音が聞こえる。
音はちょうど、鎧を着た人間一人が歩いているようなリズム。
まだこんな場所に来る奴が? と、オッシは訝しむ。
カシャン、カシャン……。
いや、人間が来るということは、やはり森を抜けることができるという証明。むしろ喜ばしい。
カシャン、カシャン……。
そうだ、こいつを利用してやろう。金を握らせ、案内をさせるか? それともレオに使う予定だったアレを使うか……?
オッシの顔にまた笑みが浮かぶ。
黒い霧の中に人影がぼんやり見えた。
最初が肝心だ。まずは調子よく下手に出て、顔色を伺うんだ。うまくいく、俺は頭がいい、バカはみんな騙される。
やがて人影の輪郭がしっかりと形を見せ始める。あと数歩、霧を抜ける。
「……!」
オッシは口を開こうとしたその時、彼の胸に黒い剣がスルリと差し込まれた。
「……!?」
カシャン、カシャン……。
人影はその歩みを少しも緩めることなく、オッシの横を通り過ぎる。
剣を抜かれたオッシは支えを失いその場に崩れ落ちた。鈴色に濁るオッシの瞳が深く淀みを増していく。
こと切れるその瞳にうつるのは、アステリアの紋章が刺繍されたマントをまとう、逞しい右腕を露出した剣士の後ろ姿だった。
カシャン、カシャン……。
剣士は剣を携えたままギュルムの町へと消えていった。
レオがギュルムを旅立って三日後の出来事だった。




