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咎人の企望【Ⅲ】

 橙にほのかに揺れる炎がフラリとよろめき、瑠璃色の炎が飲み込んでいく。

 温かく闇を溶かしていた灯りは、一転して冷たく暗い闇と同化するように瞬きを変えていく。

 ユリウスはその変化にいち早く気がつき目を覚ます。完全に炎の色が変わり、少し経ってレオは自分の胸が重くなるのを感じて、夢の世界から引きずり出された。

「かはっ!?」

「おい、大丈夫か?」

「あ、ああ……」

 アクセリナ様の夢……。

 あの時以来、アクセリナの姿を見る機会はなくなっていた。公務のために民の前に姿を現す時には、騎士団は警備に回らなくてはいけない。レオのような下級騎士が王女の周辺に立つことなど考えられないことだった。

 頭ではわかっていても、レオの心にはモヤモヤとした不満に似た感情が渦を巻いた。

 国を守ること、治安を守ること、王家を守り、民を守る、それが騎士団の仕事、そう教育されたにも関わらず、レオの気持ちは満たされなかった。

 誰よりもアクセリナのために役に立ちたい……それは、その考えは不純なのだろうか?

 夢の甘い匂いを帯びた疑問は、押し寄せる現実を前に朧げに姿を消していく。

「ここは……」

 眠りが深かったのか、自分がどこにいるのか理解するまでに少しだけ時間がかかった。

 ユリウスはすでに立ち上がり、床に撒いた聖砂を足で散らしている。効力を失ったそれは今やただの砂であった。

「休めたか?」

「あ、ああ……ありがとう……」

 レオは軋む身体をすぐに立ち上げることができず、そのままの姿勢で一先ず礼だけ言って自分の感覚を確かめる。

 毒による痺れはかなりよくなっていた。

「レオ、どうしてこんな所まで来たんだ?」

「……?」

 いきなり問われ、言葉が出なかった。

「この国の惨状は他国にも伝わっているだろう? 名誉か? それとも隠された財宝でもあると思ったか? まさか冒険心だけではここまで来ないだろう?」

 軽い調子だが、誤魔化しの効かない鋭さがある。

 本当のことを言うべきか?

「俺は……」

 レオが言葉に困っているとユリウスは何かを察したように「ははぁん」と右手でアゴを撫でた。

「言いにくいってことは女か?」

「……」

「そんな顔をするな、男が危険を冒して戦う理由なんか、女のため意外にあるわけないからな」

 笑うユリウスにレオは黙って立ち上がる。

すると、レオのポーチからコロリと小瓶が転げ落ちた。瓶の転がりに少し遅れて紫紺色の液体がドロリと横たわる。その瓶を見た瞬間、ユリウスの顔色が険しく変わった。

「おい、それは!」

「えっ?」

「いや、それはどうしたんだ?」

 ユリウスは驚きの色をすぐに隠して静かな調子で問い直した。

「ここに来る前に無理矢理渡されたんだが……」

 レオは転がった瓶を拾いあげ、ユリウスに差し出す。ユリウスは何か恐ろしいものでも見たように身を引くと「……それを、飲んだのか?」と聞いた。

 その言葉にレオは目を丸くする。

「飲む? これは飲み物なのか?」

 ドロリとして濁りが強い紫紺色のその液体はとても味を楽しむものとは思えない。

「そうか、飲んでいないのか。なら、構わない……」

「これが何か知っているのか?」

「いや……」

 今度はユリウスの方が言葉を切ると、少し間をおいて「いつか使うかもしれない……無くさないようにしまっておいた方はいい」

 それ以上ユリウスはこの紫紺色の液体について触れなかった。

レオは疑問を感じたが、仕方なく小瓶を自分のポーチの中に戻した。

 ユリウスの反応は気になったが、レオは少しだけ安堵感を覚える。

もし、飲めるものだとわかっていたら、ここまでの道中で飲んでいたかもしれなった。

「ところでユリウス……だったか、どうしてあなたはこんな所に?」

 アランの話しによれば、すでに多くの人が王都を離れ、ギュルムに逃げたはず。もうギュルムに来る人間すらいなくなった……そう言っていたはずだ。確かにこの町は人影もなく廃墟そのものだが、彼がいる以上、逃げなかった人もいるということなのか?

 もしそうならこの先、王都グルダニアにもまだ人がいるかもしれない。

人がいれば、ストーンハートの原因や治療法を探す手立てが残っている可能性もある。

「俺は、人を探していたんだ」

「人を?」

 こんな場所で?

 レオは眉をひそめる。

「俺は、俺と一緒に王都に向かってくれる人間を探している」

「王都に?」

「この国がこんなになっちまった原因は王都にある……だが、俺一人ではどうすることもできない。協力者がいる」

 協力者を求めて。ユリウスはそのために自分を助けたのか。

「レオ、お前はどこに向かおうとしている?」

「俺は……」

 王都グルダニア。

 今はそこに行くしかない。

 ユリウスとともに行く、それは心強いが……。

 レオはアランやパウリの記憶が蘇り、心に強張りが生まれるのを感じていた。彼がいなければ自分はこの町にすら辿り着くことはできず、風に飲まれ砂に消されていたに違いない。そうは言っても、水で喉を潤し、干し肉を胃に受け入れた今でも彼に対する警戒心がなくなったわけではない。

 視線を泳がせるレオをユリウスは静かに目を向け、言葉を待っている。何かを見定めるようなその目をレオが見ることはなかった。

 行かなくてはいけない。この先に……

 レオはまだわずかに痺れの残り利き手を握りしめる。一人で向かうのは危険だ。

 この国のこと、この先のことを自分は知らなすぎる。

「俺も、王都グルダニアに向かっている」

 レオは意を決したように顔を上げた。

 ユリウスは得体がしれないが、今は手段を選ぶほどの余裕はない。

 レオはユリウスともに王都に向かうことを提案した。ユリウスはニヤリと笑うと「よろしく」と言って左手を出し握手を求めた。

 左手? グルダニア式か?

 レオは一瞬ためらったが、そのためらいを見せないように左手で応えた。

 レオはすぐに出発するのかと思っていたが、彼は意外にも

「いや、あと一人くらいはここに来るかもしれない。少し待とうと思う」

 と提案する。

 ここに来るかもしれない……何か当てがあるのか? レオは首を傾げたが彼の意見に従うことにした。ユリウスは様子を見て来る、と言ってパルフットの町を出て行った。

 それはレオとユリウスが出会った方角。

 その方角はギュルムと黒霧の森、そしてアステリアのある方角だ。

 その方向からまだ人がくるだって? 当てでもあるのか?

 一人パルフットに残されたレオは、調査団として帰国した時に報告することも考え、町の中を調査することにした。

 見れば見るほど、歩けば歩くほど、この町は歪だった。なんとか形を保っている崩れかけた簡素な家、それとは対照的な巨大な建造物。しかし、その建造物も、完成をしないままに終わりを迎えている。

 教会の中の壁画も制作途中。荘厳に、権威を持つはずったそれは志半ばで投げ出され、生まれる前に、不完全なまま、望まぬ形になってしまったようだ。

 建物の間を吹き抜ける風の音か、常に泣いているような声が反響する。

「……?」

 ふとレオは視線を感じたような気がして振り返った。そこには巨大な円形な建物がたたずむだけで誰もいない。

 ……?

 いるはずがない。レオが見上げたのは建物の上だ。誰かがいると思えない。

「お、おい、あんた……」

「……!」

 レオはいきなり声をかけられ思わず剣に手をかけた。視線を感じた方とは全く別の方、巨大な建物が地に落とす影に隠れるようにその男は立っていた。

「あ、あんた、今一人か……?」

 薄汚れた痩せた小柄な男はやけにおどおどした様子で、ギョロリとした瞳を忙しなく動かしながら周囲をうかがっている。

「……?」

「あの右腕の男はいないんだな? そうなんだな?」

 右腕の男? ユリウスのことか?

 レオは右腕だけ甲冑をつけたユリウスの姿を思い出す。まさに右腕の男だ。

「ああ、いないんだな。よかった、よかった」

「……」

 小柄な男はボロボロの服装に荷袋を背負い、両手で大事そうに薄い本を抱えている。

 男はよかったと言いつつも、常に周囲気にするようにおどおどと視線が定まらない。

「ああ、あんた、この国の人間じゃないだろう? 私にはわかるよ」

「……?」

「あんたみたいな格好をした人が少し前にここに来たんだ」

「なに?」

「ああ、だけど、恐ろしい、恐ろしいんだ。あの右腕の男がさ。あんたみたい鎧を着た男に酷いことをしたんだ」

 俺以外にも森抜けて、この町にやってきた人がいる? 考えられないことじゃない。調査団のメンバーは自分を上回る使い手ばかり。いち早く森を抜け、ギュルムで待たずに足を進めたならば充分にありうる。

 ただ……

 男の言葉には疑問が残る。

レオのような格好をした人物というだけなら言うのは簡単だ。それを見たという証拠がない。しかし、レオはそれでも男の前から無碍に立ち去ることができないでいた。

「あんたの仲間、そうあんたみたいな鎧を着て、マントを羽織った人を私はパルフットで見かけているんだ」

 マントを羽織った……ダン隊長、シェルもマントを羽織っていた……。二人なら、例え一人でもここまで来ることはできるはず。

 レオの脳裏に二人の歩く後ろ姿が浮かぶ。

「長身で、女みたいに髪が長い人だ。スラリとして、腰には細い長剣を差している……」

 長身で長い髪、腰に細身の長剣……?

 思い浮かんでいた二人が一人に絞られる。森に入るまでの隊列でダンの後ろ、二番手を歩いていたシェル=カッセルだ。

 もしそうなら……!

「その人がここに来たのか?」

「ああ、来ている。今もいるんだ!」

「今も?」

「ああ! ああ! そうなんだ! あの右腕の男にやられたんだ! ひどい傷を負ったんだ! 私は恐くて見ていたんだが、その人は今も隠れている、あんた、あの人の仲間だろう? 違うのか?」

 シェルさんがここにいる?

 でも、ユリウスがシェルを?

 頭の中でユリウスとシェルの姿がグルグルと回った。どうして? ユリウスがシェルを襲わねばならない?

 彼は仲間を求めていたのではないのか? シェルがそれを拒んだのか? なぜだ?

「ああ、そろそろあいつが帰って来るんじゃないのか? 私が言えるのはここまでだ」

「お、おい……!」

 どこからか聞こえた風の泣き声に男は落ち着きを失い、キョロキョロと辺りを見回しては、抱えていた薄い本をさらにギュッと両腕で抱き締める。

「ああ、気をつけろ気をつけろよ、あの男は危険だ。離れた方がいい、あいつは邪魔だ」

 そう言いながら男は、いつでも走り出せるように腰をかがめている。

「どこに行くんだ?」

「あんたの仲間のところさ、この建物の中にいるんだ、この建物の広間にいる。あとで来い、一人で来い」

 またどこかで低く風が泣く。獣のような風の泣き声にレオはゾクリとした。

「お、おい! お前の名は?」

 レオが呼び止めると男はチラリと振り向き、「リスト」と言った。

 リストが去ったのと入れ替わるようにユリウスが帰ってきた。成果は無かったらしく一人だった。

「やれやれ、もう一人くらい来ると思ったんだがな、俺の勘違いだったのかな?」

「……」

「どうした? 何かあったか?」

 レオはユリウスの甲冑に包まれた右腕を凝視しそうになり、すぐに視線を逸らした。

 右腕。指先から前腕、肘、上腕に肩を厚い銀色の甲冑が包み込み、少しの隙間も存在しない。弓を得物とする者にあれほどの重厚な甲冑が必要なものだろうか?

「……いや、何でもない」

 レオはリストの怯えた表情が脳裏にこびりつき、ユリウスの顔を見ることができなかった。

 レオとユリウスは昨日の教会に帰り、そこで野宿をすることにした。

 もう一人くらい来る……? ユリウスはどうしてそう思ったんだ?

 もしかしてそのもう一人とは、リストの言っていたシェルさんのことなのか?

「今、リストという男に、仲間が倒れていると言われた」

 たったその一言が喉につかえる。胸に湧き上がる疑念がユリウスへの言葉を鈍らせた。

 荒野で砂に消される寸前だった自分を助けてくれたのはユリウスだ、彼を信用したい気持ちは高まっている。そう思いながらも、どうしてもギュルムでのアランやパウリのことが脳裏をかすめていく。

 ダメだ……完全に信用するわけにはいかない。

 なぜ右腕だけ甲冑をつけているのか? 

 なぜここに人が向かったと思ったのか? 

 なぜ食料のないグルダニアで食料を持っているのか?

 問えば、答えによっては今の関係は壊れ、彼も敵になるかもしれない。

 リストのことを言うべきか? シェルのことを言うべきか?

 もし、リストが言うように本当にこの男が危険なら、下手に動くわけにはいかない。 

 リストの奇怪な態度も信用に値はしないが、もし、リストが言うようにシェルがこの町にいるのなら、一刻も早く合流すべきだ。

 重傷を負っているとなれば、なおさらに。

「……限界だな」

「えっ?」

 教会の一角で昨日のように火を起こしたユリウスがたき火の前でポツリとつぶやく。昨日とは違い、瑠璃色の炎が冷たくユリウスの顔を闇から浮かび上がらせている。

 瑠璃色の光のせいか、ユリウスの姿は命のない者のように青白く浮かび、炎の呼吸に合わせて陰影が揺れている。

「もう少し待ってみたかったが、どうやらそうもいかないみたいだ。レオ、明日にはパルフットを出たい。体調はどうだ?」

「あ、ああ、そうだな。だいぶいい。出発できると思う」

 ユリウスの言葉にレオの心はざわついた。

 明日になればパルフットを出る。そうなれば、シェルのことはどうする?

 やはりユリウスにリストのことを言うべきか? それとも……

 恩人でもあるユリウスの対し言葉を飲み込み続けるのは居心地が悪い。レオは自分の剣を抱いたまま揺れる炎を見つめ続けた。

 リストはユリウスに怯えている。

 リストは何を見たんだ?

 ユリウスは得体がしれない。

 ユリウスは何を知っているんだ?

 レオは炎を見つめながら答えの出ない問いを繰り返した。

 ただ、一つ言えることは、もし、ここにシェルがいるのならば、シェルに会わなくてはいけない、ということだ。

 レオは、ギリッと自分の剣を握りしめる。 

 やがて夜が深くなると二人は瑠璃色の炎の近くで眠りについた。教会の外では慟哭に似た風の音が眠りの安らぎを奪っていく。ギュルムの夜よりもこの町の夜は暗くて深い。しかし、逆毛立つような不気味な泣き声の響き渡る中でさえ、ユリウスは平気で寝息を立てている。

 レオはユリウスの深くゆったりと揺れる肩に眠りを確認して、ソッと教会を抜け出した。

 リストが何を見ていようと、ユリウスが何者であろうと、シェルを見捨てるわけにはいかない。

 レオはリストの言われた通り、一人であの建造物へ向かうことにした。

 巨大な建造物は夜の闇をさらに吸い込み、黒く佇んでいる。

 レオは入口を探し出し、建物の中へと忍び込んだ。切り出された石を精緻に整え、積んだのだろう。少しの隙間もない通路は石工技術の高さを感じさせる。過去には、この国がそれだけの技術を有し繁栄していた証拠だ。

 通路はレオの到来は待っていたかのように灯りが灯されていた。減ることのないロウソクが瑠璃色の炎を冠し、通路の闇を等間隔に溶かしていた。

 通路は呼吸でもするかのように風が流れ、そのたびにロウソクの炎がかすかに揺れる。

 レオは通路を慎重に進んだ。

「……?」

 巨大な外観に対して建物の中は入り組み、通路は枝分かれを繰り返している。ロウソクの灯る通路もあれば、まばらに灯る通路、全く闇に飲まれた通路もある。

「リスト! どこにいる!」

 レオが叫ぶと通路の中を声が反響しては消えていく。レオはシンッとした通路で耳を澄ます。すると、微かに何かが聞こえたような気がした。

 レオの呼びかけに応えるような声。だが、何を言っているのかは聞き取ることができなかった。ただ声のようなものが聞こえたのだ。レオはその声がした方向を目指す。

 進めば進むほど方向感覚は失われていくような気がする。何か目印でもつけておけばよかったとあとになった後悔した。

 レオはまたリストの名を呼んだ。すると、また声が返って来た。泣き声のような悲しみを感じさせる声だ。

 その声にレオは焦りを感じた。

 何かあったのか? もしかして、シェルさんに……!

 シェルは重傷を負っているとリストは言っていた。そのシェルに何かあったのかもしれない。急がなくてはいけない。

「リスト! どこだ! 教えてくれ!」

 レオは駆け出していた。

 アステリアの仲間に会いたい。この国以外の者と話しをしたい、この光景が如何に異常であるかを分かち合いたかった。

「シェルさん!」

 レオはそこに辿り着いた。

 空が見える。煌々とした松明に囲まれ、そこは闇夜に浮かび上がっていた。

 周囲を囲む無人の観客席。その最も底にあるステージにレオは立っていた。

 ここは……闘技場……?

 そこは未完成のままに役目を終えた闘技場。本来であれば、奴隷や闘士がどちらかの命がなくなるまで戦い見せる娯楽施設になるはずだった場所だ。

 そのステージの中央に横たわる人影が一つ。 

「シェルさん?」

 レオは数歩近づき、覗き込むようにシェルの名を呼んだ。横たわる人影は応えない。

 身体を覆うマントの隙間から見える銀色の鎧、横に置かれた細身の長剣、表情は見えないが床に広がる女のように長い髪。

紛れもなくシェルだ。

「シェルさん!」

 レオは思わず駆け寄りグッタリ力の抜けたシェルの身体を抱き起こした。すると、どうしたことだろうシェルの身体がひどく軽い。

 シェルの身体を覆っていたマントがハラリと落ちる。

「なっ……!?」

 シェルの腹は裂かれ、腹の中は空洞になっていた。

 レオは思わず息を飲み、顔をそむける。

 見られるような傷ではない。強引に腹を裂かれ、内臓を引きずり出された。そんな感じだ。多くの女性を魅力したシェルの美しい顔には苦悶が刻まれていた。

 その傷にレオはハッとする。

 血が乾いている……。

 リストは言った。「ひどい傷を負っているんだ……」と。ひどい傷には違いない。しかし、シェルはすでに死んでからかなりの時間が経っている。リストは死んだシェルが死んでいるのを知っていたはずだ。

 レオはジワリと全身に汗が噴き出した。

「だとしたら俺は……!」

「一人で来てくれたかい?」

「リスト……!?」

 闇から浮き出るように足音もなく小男が姿を現した。

「なあ、あんた一人かい?」

「リスト、これは一体!」

 その時、ふわりと生温かい腐敗臭が漂った。肉が腐るような鼻の奥を刺すような臭い。これはシェルの身体からではない。

 目の前にリストがいるのも忘れてレオは思わず振り返り、不気味に蠢き始めた闇を凝視した。形もとどめないほどに腐敗した何かが発するような濃い匂い。そして、闇から零れる、何か重い物を引きずるような音。

「近づいてくる……」

 レオは息を殺してゆっくりと立ち上がる。

 なんだ、これは? 

 暗闇から漏れ出る重い音は一定のリズムを刻んでいる。

 歩いている? これは足音? だとしたら……?

「俺、画家なんだ……」

 ザリ、ザリ……。

 足音。

「誰も見た事のない絵を描きたいんだ」

 ザリ、ザリ……。

 間違いない。

「だけど、絵を描くにはモデルがいるだろ」

 ザリ、ザリ……。

 来る……!

 口がカラカラに乾いていた。心臓が頭の中に飛び込んだみたいに拍動が耳についた。

 危険だ。

 姿は見えなくとも本能がそう告げる。

 逃げるべきだ。理性がそう語る。

 しかし、レオは躊躇する。

 この場を逃げるべきか、近づいてくる何かの姿を確認するべきか?

 もし、それがシェルを殺した犯人だとしたら……。

 逃げなくてはいけない。

 手練れのシェルをこんな風にした奴を自分が相手に出来るはずがない。シェルの傷はとても人の力でどうにかなるようなものではない。

 そう頭で解っていてもレオの足は動かず、手は剣を握りしめていた。シェルが殺された、怒りが退こうとするレオを引き留め、闇に向かい背中を押している。

 次の瞬間。

 人のものとは思えぬほどの巨大な右腕が暗闇から姿を現した。


   ★


 ジワリと熱気の籠もる法衣が鬱陶しい。

クラウスは汗を拭い、熱気を逃がすようにため息をつく。

 威圧感のある正騎士団の相手にするのは神経がすり減った。

 人手不足のこのパルフットでは、教会の掃除、壁絵を描きに来た画家や職人達の世話、騎士団員の接待のための料理の配膳までやらなくてはならず休まる時がない。

 司祭の補助をするのが役目とはいえ、ここでは儀式や祭事以外のことがほとんどだ。神学校で学んだことの大半がここでは役に立たない。

 クラウスはたおやかに湯気の上る料理を八人掛けのテーブルに料理を並べていく。

「……」

 料理は行方不明になった十二人の乙女達を捜索する騎士団員達のために準備されたもの。

 料理の中にはグルダニア真聖教祭司が食べることを禁じられている肉類も並ぶ。

 焼き網の刻印が刻まれ、裂け目から溢れ出る肉汁に濡れたその塊は、葡萄ソースの下着をまとい、艶めかしくそばによる者の鼻と心を惹きつける。

 普段その誘惑から離れているクラウスであっても口の中が湿っていくのを止めることができなかった。

 肉を食べないことは慣れている。肉を体内に入れることは身体を穢す行為。それが真聖教の教えである。

 グルダニアの国教であるグルダニア真聖教の祭司となる者は肉食、飲酒、妻帯を禁じられ、異性との交わりも禁じられている。

 クラウスも幼き頃に神学校に入学した時からその教えを守り、身体に染み込ませてきた。しかし、 彼も今年二十四歳になったばかりの若者である。

 肉汁と程よい酸味を含むソースが絡む料理とトロリとした上等のワインが魅力的に映らないはずがない。

 肉は幼い頃に口にしただけで、それ以降口にしたことがない。この歳になるまで一度も。それなのに体に刻まれた味の記憶がどこか疼くように求めてしまう。

 この料理はどんな味なのか?

 興味がないはずがない。

 クラウスは女の胸のような香味含む湯気に顔をうずめ、ゴクリと喉を鳴らしたが、すぐにかぶりを振って自分を振るい立たせた。

「何をしているんだ私は……」

 身体を立て、アゴを上げる。両手で自分を胸に抱き寄せようとする誘惑を断ち切り、一度大きく息を吸い込んだ。

 こんな誘惑に負けるわけにはいかない。これは自分の食べるものではない。

 これは自分を堕落させるものだ。

 クラウスは気持ちを切り替えるように努めた。まだ自分は諦めたわけじゃない、そう言い聞かせる。

 このパルフットに赴任になると聞いた時、周囲の声が嫌でも耳に入って来た。

「パルフットか……」

「かわいそうに」

「脱落者」

「あいつも終わったな」

 終わった。

 そう言われた。

 庶民の出であるクラウスだが、神学校での成績は常に上位にいた。教会に所属することになってもその道のりは順調だった。戒律を守り、規則正しい生活を守りながら、真聖教が定める模範的な信徒としての姿を貫いた。

 神学への関心も教えにも忠実な彼は仲間内でも一目置かれる存在であった。クラウス自身も将来に明るい未来を予感していた。

 このまま司祭、やがては司祭長、教皇の座も夢じゃない。その願望が卑しいものだと思っていても夢を抱かずにはいられなかった。

 それが突然のパルフットへの赴任。

 王都を離れ、大規模な建設が進んでいると言っても、そこはまだ小さな宿場町に過ぎない。この決定はクラウスが真聖教の中で出世の道から外れたことを意味していた。

 それも寄りにもよってあのアルコとともに。神学生時代からの同期であるアルコは貴族の出。出自だけでなく、その性格や素行までクラウスとはまるで正反対。

 禁じられた酒を飲み、奔放に肉を喰らう。夜な夜な金銭を賭けてのカードに興じ、礼拝に来る若い女と関係を持つことも一人や二人ではなかった。アルコのそういった背徳的行為を同期の者ならば知らないものはいない。

 三男坊でわがまま放題の彼に手を焼いた両親が教会に押し付けたのだ。教会は彼の両親から多額の寄付を受け取っているという噂もあった。それが信心によるものなのか、息子の世話料なのかはわからない。そんなアルコとクラウスは助祭となった時期も同じであり、パルフットに飛ばされたのも一緒だった。

 なぜ?

 納得がいかなかった。

 自分とアルコは違う。色々な意味で。家柄も財も違えば、グルダニア真聖教信徒としての態度と目標にも大きな違いがある。

 ただ余暇を過ごすだけのアルコと神に身を捧げた自分が同じはずがない。

 なぜ、私がパルフットに行かなくてはいけない?

 腹の中でグツグツと音を立てて感情が煮え立った。それが漏れ出ないように口を閉じて抑え込む。納得はいかなくても口に出すわけにはいかない。苦々しい想いを飲んでこれを受けた。

 もし、ここに来たのが自分だけだったら……。 

 もしそうだったならば、どれほど気持ちが軽かっただろう、と思う。もしそうなら、まだ上に昇る前に見聞を広めさせるための赴任と考えを改めることもできたはずだ。

 クラウスは食事の準備が出来たことを司祭に伝えようと部屋を足早に出る。蜘蛛の巣のように自分の身体にまとわりついてくる穢れた匂いから一刻も早く逃れたかった。

 騎士団とは名ばかりの無能集団のために、なぜ私が働かなくてはいけない?

 こんな時ですら、アルコの姿はない。

 ちっ……。

 クラウスは内心舌打ちをする。

「……」

 人の陰口、悪口は自らを穢す行為と真聖教では禁じられている。

 クラウスは心の中で罵倒はしても堅く口を閉ざす。歯を食いしばり、音に出してしまう前に胃の中に沈める。その感情が胃液で溶かされ、消えてしまうことを祈る。

 いくつかの場所を探し回ったが、騎士団員の姿は見つけることができなかった。

 ちっ、どこにいるんだ、あいつら!

 イラつきが胸を突き上げる。悪態を何度となく胸の中へ、自分の六腑の中に飲み込み落とす。 

 悪態を吐けばその言葉により自分が穢れる。穢れた人間のために自分が穢れる。それが自分の未来を、将来を変えてしまう。

 他人のせいで、自分の未来を?

 そんなことが許されるものか!

 クラウスは早足になっていた歩みを一端止め、深呼吸をして自分の気持ち落ち着ける。 

 この気持ちの乱れも許せない。

 彼は神を称える祭壇の前を歩くようにゆっくりと歩いた。熱を持った気持ちに息を吹きかけ冷ます。

 これは試練なのだと言い聞かせる。すると、幾分心が落ち着きを取り戻した。

 ふと司祭室の前を通りかかると、この教会を預かる司祭の声が聞こえてきた。誰か会話をしているらしい。

「そうでしたか。では調査を終えて、明日には王都へ?」

「ああ、世話になった。王都へ戻るが伝言などあれば承ろう」

 なんだ、ここにいたのか。クラウスはすっかり落ち着きを取り戻し、姿勢を正してからドアをノックしようとした。

「では、王都大聖堂のアルヴィさまに、この書簡をお願いできますか?」

「アルヴィさま……大司教だな」

 司祭に声にクラウスの手が思わず止まる。

「ええ、ここで働くアルコ君を王都に戻してもらうための推薦状です」

 い、今、何と言った?

 アルコが? 王都に? 推薦?

「ほう?」

「彼は貴族の出身でしてね。本家の方から要請があったのです」

 本家の方から? まさか、そんなことで王都に戻れるはずが……。

 激しく鼓動を繰り返す心臓とは裏腹に、血の気を失い指先が冷え切っていく。

「アルコ君は王都に変えれば司祭の席が約束されている。ここで類まれな信仰を積んだことになっていますからね」

「なぜ、それを私に?」

「彼はパシオ家の三男。あなたなら、うまくことを運べるのではないですか?」

 クラウスは心臓を掴まれたような息苦しさを覚えた。

 司祭の声は下卑た笑みを含む。

 パシオ家はグルダニア王都でも貴族中の貴族。アルコがどのような経緯で王都に戻って来たのか、 その事実を知っていれば、この事実を利用して甘い汁を吸うことも可能だろう。ドアの向うの騎士団隊長は察したようにうなずく。

「よかろう。こちらも今後便宜をはかろう」

 クラウスは眩暈がしたような気がした。

 アルコが、あのアルコが、王都に還る?

 信仰を積んで?

 馬鹿な! 馬鹿な! 馬鹿な!

 落ち着いたはずだった心はかき乱された。 

 ここに来てアルコが何をしたというのだ。

 何もしていない。

 何もしていないことが信仰なのか?

 貴族だから、アルコは貴族だからか?

 私が貧しい家の出であるから、王都に戻れないのか? だったら、だとしたら、生まれた時からすべて運命は決まっている! 私の今までは一体何だったんだ!

 クラウスは静かに気配を殺して司祭室の前を離れた。

外に出たい、風に当りたい、誰にも気づかれずに。足音を立てず、早足に廊下を歩く。

 この気持ちをどこかに吐き出さなくては、どうにかなってしまう。自分の胃に落としきれない感情が口から洩れないようにクラウスは必死に歯を食いしばる。

 もはや騎士団員のことなどどうでもいい。少しでも早く人のいないところに行きたい。

ふと、窓の外を見ると、茂みと木々に隠れるように立つアルコの姿が見えた。

「あ……」

 アルコ!

 汗に濡れた法衣が身体にまとわりつく。こんな忙しい時にでさえ、アルコは教会に姿を見せなかった。

 それなのにアルコは王都に還れる。

 司祭への道も開けている。その先の真聖教の教皇への道も閉ざされたわけではない。教皇になれば、その権限は王にも並ぶほどの絶大なもの。

「アルコ……!」

 クラウスは拳を握りしめていた。

 クラウスがいくら声を上げようと、アルコを引き留め、これから下される決定を覆すことはできない。それでも、このままにしておけない。

 クラウスはアルコに詰め寄ろうと窓から外に出ようと手をかけた。

「えっ?」

 アルコの身体から昇る熱気にハッとする。甘い匂いと声、そこにいたのはアルコだけではなかった。茂みに隠れ、木に押し付けられながらスカートを上げた女の姿。

 アルコは年端もいかぬ少女と交わっている最中だった。

「……!」

 クラウスは得意気に男を振るうアルコの姿にグサリと刺されたような気がした。

 熱を帯びた感情がしぼんでいく。怒りは劣等感へと姿を変えた。

 権力、名誉、金、女。自分は何も持っていない。アルコに見せつけられ、クラウスはその場から駆けだしていた。

 信仰! 信仰! 信仰!

 自分を殺し、自分を偽り、自分を抑えて、我慢して、見ないようにして、聞こえないようにして、時には遠ざけ、時にはそれそのものが存在しないものと思うようにした。

 ほしい! ほしい! ほしい!

 本当はほしいものを諦めてきた。食べたい物も食べず、触れたいものにも触れずに諦めた。

 ほしかった!

 触りたかった!

 味わいたかった!

 どれも犠牲にしてきた。

 それなのに、すべてを諦めてきた私が、何も手に出来ず、好き勝手にしているあいつが手にしようとしている。なぜ?

 涙すら出なかった。

 ただ情けなく、孤独だった。

 気がつくとクラウスは食堂に戻っていた。まだ微かに湯気の上がるあの料理の前に。

 あいつはいつも食べていた。

 禁じられたもの。

 食べたとしても私が望む道を行こうとしている。その道をあいつが望んでいなかったとしても。あいつはそこにいける。

 食べたい……。

 今まで我慢してきたものを。

 食べたい……。

 穢れたとしても。

 食べたい……!

 クラウスは肉を手で掴み貪った。

 穢れを知らぬクラウスの白い歯が、肉を千切り、噛み潰す。溢れる肉汁が喉を流れる。

 その鮮烈な味わいが舌を伝い脳の奥へと到達し、クラウスは歓喜した。口から溢れて零れてしまう美酒が法衣を汚しても、クラウスはひたすらに流し込みつづけた。

 その時、闇が駆けていた。

 パルフットを闇が覆うとしていたのだ。闇の蛇のような艶美で黒く長い舌は、クラウスの足に絡み昇り、ジワリと飲み込んでいく。

 ワインと肉が絡み合う。恍惚に酔いしれ、至福が腹を膨らませていく。

 ああ、ああ! なんて美味いんだ!

 舌が、脳が、身体が求めていた。血液が逆流しそうなほど身体が熱くなる。

「うっ……!」  

 突然の吐き気。

 クラウスは手にしていた盃を落し、膨れた腹を抱える。

「ああああっ!」

 激痛。

 クラウスは苦悶に顔を歪め、滝のような汗を流した。

 異物が身体を穢す……。

 脳裏にその言葉が蘇る。

 クラウスの身体は口にしたものを受けつけなかった。胃は重く、こみ上げる獣臭が全身の毛穴から噴き出してくる。

 出さなければ! 今すぐ、出さなければ! 

 クラウスはもがいた。しかし、一度取り込んだ物を身体は簡単に手放したりはしない。異物はクラウスの清廉な胃の中で瞬く間に腐敗する。平らかで白い腹が歪に膨れあがるのを、クラウスは必死に抑えた。

「あ、あああっ!」

 膨らみ続ける腹は両腕では抑えきれず内側からミシリと音を立てはじめた。

「苦し……誰か、誰か助けてくれ! 私の腹を誰か!」

 助けを求めようにも、もはや腹の重さで足は動かず、寄りかかるテーブルの料理を床にバラまいただけだった。

 自分の周りに散乱した料理の匂いにクラウスは思わず顔を背ける。あれほど妖艶にクラウスの心を奪った芳香は、嫉妬に狂った魔女にようにユラリと立ち昇る。クラウスの体内から奪われたわが身を引き出そうと、細い喉に強引にその身を突き入れ、クラウスの喉から胃を犯し荒らす。

 苦しい、苦しい、苦しい!

 喉から侵入したそれは食道を伝い、胃に降り、腸を巡ったその時、クラウスの白い腹は裂けた。

 外界に放たれた彼の内臓は、異臭を放ちながらべしゃりと床に堕ちる。

 ああ、ああ!

「私はなんということを!」

 親からもらったこの身が、ここまで我慢をしてきて、少しも汚れを知らなかった私の身体が……。

 内臓のあった部分はすっかり空洞となり、クラウスは抜け落ちた愛しいわが身をかき集めようとした。しかし、手でかきよせるほどにそれは穢れ、傷つき、形を崩す。

失われたそれは二度と戻らない。

「うあああっ!」

 その叫び声は、すでにクラウスのものではなくなっていた。

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