序章
見つけた!
男はそれを前にして膝から崩れ落ち、溢れ出る涙を零した。
男は確かにそれを見た。
柄にまかれたボロ布を風にたなびかせる、石畳に突き刺さった朽ちた剣を。
「誰か! 誰かいないのか!」
すがるように声を上げる。誰も答えぬその場所で、男の声だけが空に消える。
「誰か、ここに訪れた者の事を教えてくれ、誰か、ここで起きた事を教えてくれ、ここで……」
男はさらに願いを込め叫んだ。
「ここで何かが起きたのかを知る者はいないのか!?」
★
ここを訪れた心優しき者よ、良識と清き心を持つ旅人よ。
ここで泣き崩れる哀れな男に、手を差し伸べ、慈悲を与えてはくれまいか?
君がその目で見て、耳で聞き、そして肌に感じた事……ここで何が起きて、何が終わったのかを彼に伝えてほしい。
そして少しでも彼の心に救いを与えてはくれまいか?
★
生命に溢れた緑の野とそれを包む蒼穹は遥か彼方まで無垢なる雲を巡らせ、訪れた者の心に、自らの心にもそれと同等の広がりがある事を自得させる。
神々の住まう気高き山と命を育む穏やかな河には力強き精霊が宿り、その霊力は訪れた者の心を癒し、住む者の胸には誇りを与える。
その国の名はグルダニア。今は闇が覆う。
春の女神が微笑むその地は突如として失われた。春は冬に、昼は夜に、光は闇に蹂躙される。
疾風が走るそれよりも速く、朝陽の大翼が光を大地に温もりを届けるよりも速く、漆黒の闇が国を駆けた。
空の、山の、河の彩色は失われ、抗うすべなくただ押さえつけられ穢される。
温かな風がどこからやってきて、どこに向かうのかを我らが知ることもなく、ただ身を任せるままにその温もりを享受できるように、どこからともなく押し寄せた影はグルダニアの民に恐怖と驚きを与え、混乱の中へと心を引きずり込んだ。
逃げ惑い、もがき、喘ぎながら、絶望と失意の嗚咽が地にいくつもの赤黒い染みをつくる。
その国の名はグルダニア。今は死が覆う。
あれほどまでに瑞々しく、さわやかな香気を放っていた実りは姿を消し、かすかに残った果実は命を終えて朽ちおちる。
川は淀み、潤いをなくした水音の不快さに耳を疑い、わずかに触れる事すら躊躇われる。
飢え。病。命。人。
渇く、喉。渇く、口。渇く、心。
ある者は黒き水に口をそそぎ、またある者は赤き水で喉を潤す。力強き者は痩せた肉を食み、弱き者は糧となる。
その国の名はグルダニア。
今は腐臭が覆う。
嘆きと不安は、その鋭き大鎌で人々から信頼と友情を奪い、不審と裏切りを与えた。
震えの中で目を凝らし、耳を塞ぎながら耳を澄ます。
痛みを得る事でしか「生きている」事を知る事ができず、痛みを与える事でしか「生きている」事を知るすべをもたない。
現実と夢が混じる。
微睡みの中で足を立て、呼吸を荒げ歩む。死を忘れるように生きている証を求める。
こんな現実があるものか!
誰かの叫びを背中で聞く。
それは誰の心にもある叫び。心の吐露を聞きたがる者はいない。もう、聞き飽きた。
人々は現実に別れを告げ、虚構の中にある現実を求めて、幻想へと誘う薬に酔いしれる。幻想は現実を遠ざけ、彼らは一時の安堵と安らぎに身を投じた。
濡れた花弁から零れる蜜に酔い、貫かれるような衝動に声を漏らす。
消える。すべてが消える。
幻想の終末は狂乱の始まりとなる。
渇いた温もりのない世界が聖母のように両手を広げ、ズルリと引き出された瞬間に肉体の枷を幾重にも結んでいく。
それを服する人はまたそれを求め、ただこの世界との隔絶を願う。
一度足を踏み入れれば、その者は道を失い、回廊の闇夜を歩む屍の如くただただ歩かされる。
この国の名はグルダニア。今は……
★
多くの者がこの地を訪れ、そして還らなかった。
光を遮る深い闇と濃霧は、娼婦のように向かう者の腕を引き、亡者の如く足に絡む。幼子の戯れのようにその手は行く者の目を覆い、心に焦りと不安を生む。
みんなは?
濡れた闇の中で目を凝らし、耳を澄ます。
ジワリと頬を伝う生ぬるい汗を拭うことも忘れほどの緊張感の中で、体の奥に染み込むような疲労と 息苦しさを押し殺す。焦りが早馬のように走りだし、不用意な行動で判断を誤らないように、彼は自分の心の手綱を懸命に引き続けなくてはならなかった。
みんなはどうなった?
周囲を囲む濃霧はほんの数メートル先の視界も許してくれない。唯一の頼りであるランタンに起きている異常が、ゾクリとした冷たい感覚を背筋に与えていた。
霧に包まれてからというもの橙色に輝きを灯していたランタンの火がいつの間にか瑠璃色に色を変えていたのだ。
それが何故なのか?
……仲間の姿がみえない。
何故、ランタンの火の色が変わったのか?
……仲間のランタンの火も。
何故、はぐれた?
考えがまとまらなくなってきている。考えるのを投げ出さないよう、自分自身への問いかけを繰り返す。
穢れに染まったプレートアーマーの中で身をよじり、ヘルムのバイザーを閉じたまま呼吸を整えようと必死に酸素を求めた。
構えた剣が呼吸に合わせて揺れるのが気にかかる。重く感じる自分の腕が持ち慣れた剣を支えきれなくなってきているのか、それとも恐怖の震えなのかわからない。
まだ、いる……。
何者かの気配を含む湿る足音。臭気を含む荒い呼吸。
全身の皮膚が触れた音の在り処を求めて固く尖る。
草を踏み、泥を蹴る。
音。音。音。
近い。もうすぐそばに!
「……」
闇にその身を溶かしながら蠢きを繰り返す。蠢くそれはむき出しの殺気を少しも隠そうとしない。
逃げられない。
背を向ければ、もはや逃げる術はない。
一つ、二つ、三つ……まだいる?
三つは確実。四つ目は気のせいか?
無表情な闇の奥にいる相手を探る。
左前腕にラウンドシールドを装着し、両手で剣を握るのが、彼の繰るアステリア剣術の一対多数の時の基本形だ。
ここに来るまでにこの形で二体を切り伏せている。そして二体を倒した時点で、新たな一体の姿をすでに確認していた。
「おちつけ」と繰り返す。
他の二体はあとに駆けつけた……。近くに仲間? いや違う……。
思考に意味はなくとも問答を繰り返す。思考を投げ出さないうちはまだ大丈夫なのだと信じている。統率のとれた動きではなかった。
つまり、個々がそれぞれ単独に狩りをしている。
しかし、だとすればどうしてここを知る? 音? 気配? 匂い? 何をもとにここに集まった?
次の瞬間、ギリギリまで満たされた殺気が溢れ、闇が揺れた。闇が抑えきれなくなった殺気が決壊する。
乾いた洞窟に風が吹き抜けるような呻き声。先ほどと斬った奴に似ている。わかっていたはずなのに驚きを隠せないほど異様な呻き、息、匂い。
人間? 獣?
彼はすでに二体を斬っているにも関わらず、それが何者なのかを判別する事ができないでいた。
「……!」
薄っすらと闇を裂くランタンの灯りの奥で影が人の形に似た影が揺れ、に瑠璃色の光のもとに人の手に似た獣の一撃が垣間見える。その瞬間に彼の剣は手の先にあるであろう獣の頭部を砕いていた。 獣臭と唸り、地を這うような影は獣を思わせる。しかし、その姿は人に似る。
一体目を皮切りに、背後、左手側の二体が少しの遠慮もなく動いた。彼は振り向きざまに一体を盾で弾き、続けて獣の脇腹から肩にかけて逆袈裟に斬り上げた。その苛烈な一撃に瞬時に獣を絶命させる。
肉を裂く手応えを充分に感じる間もなく、力のかぎり剣を返し、もう一体に叩き付けた。たたらをふむ獣に追い打ちをかけ、厚みのある剛剣がたわむ程の勢いで、獣の胸を突いた。剣は背後の古木に突き刺さり、獣は串刺しとなった。
獣は貼りつけにされた虫のように両手足で空を掻きもがく。破られた胸からは風が漏れ、微かに人に似た悲鳴を上げていた。
さらに剣を捻り、抉り入れる。得体の知れない者を目の前にした恐怖心が充分な止めを与える事を望んでいた。
終わり告げる最後の律動が剣を伝う。口がかすかに唸りとも悲鳴とも違う形に動いた。何を言っているのかはわからない。
獣は間もなく糸が切れた人形のように力を失った。
「はぁはぁ……」
安堵。ドッと汗が噴き出した。彼は崩れ落ちそうになりながら、獣の姿を確認するためにランタンの灯りを近づける。すると亡骸は光を嫌うように瞬く間に風化し、砂塵の如く闇に溶けていく。彼が目にする事ができたものは、枯れ木のような亡骸だけだった。
「……どうなっているんだ?」
この枯れ木があれほどの動きをしていたとは到底信じがたい。
一瞬にして、この獣は枯れた。そんなことが起きるのか?
ゾクリとした冷たい疑問が沸き起こる。彼はこの残骸が今まで命を宿し、貪欲に何かを求めていた事を理解しようと努めた。同時にこの残骸がもとはおそらく人であったという事も。
「!」
彼はハッとして振り返った。
背後から射抜かれるような視線、気配。
振り返り、剣を構える。
その本能的ともいえる動作で起きた自身の鎧の擦れる音を最後に、辺りは深沈として静まり返っていた。
「……」
いる。
それはそこにいる。確実に。
意志のない闇の奥に、異質な存在感を放つそれはいる。騎士として勘、動物的な勘、直感が告げている。
今までの奴らとは明らかに違う……。
闇の中から生まれたようなそれはそこに立っていた。
穢れた歪な黒い鎧。黒い騎士。
匂う。
鉄クサい血の匂いに彼は顔をしかめた。
それはその騎士がまとう鎧に幾層にも塗り重ねられた穢れのもの。
闇に太く逞しい生身の右腕が幻のように浮かぶ。少しの隙間なく………顔さえもすべて隠す全身甲冑でありながら、腕だけが露出している。その腕の先には柄も、刀身もすべてが黒い大剣。
「ちっ、どうなっていやがる」
黒い騎士は悠然と歩く。すでに間合い。
互いに飛び込めば、お互いの剣が触れあい金切り声を上げるだろう。
背を見せれば、叫ぶのは自分の方。
そんな姿が脳裏に浮かぶ。
やるしかない。
逃げられない。
戦慄が渇いた喉を絞めつける。
「こんな奴、他にもいたりしないだろうな?」
黒い鎧が地を蹴った。
黒い騎士はギシリと錆の擦れる耳障りな音とともに血の匂いを振りまく。
それに遅れをとるまいと彼もまた前に踏み出した。
もはや、それしか道はない。