横顔
二十九歳になったばかりの年の瀬。
忘年会を兼ねた同窓会を開くからと、誘いのメールが中学の同級生から届いた。
高校を卒業して大学に進学するのと同時にほとんど縁のなくなった地元に帰るのは、梨生にとっては少し億劫だった。
学生時代に友だちがいなかったわけではない。でも会って話したいと思える人もそんなにいない。
地元が嫌いなわけでもない。就職してからも何度だって帰省している。
ただ少しだけ、何も変わらないあの町で、変わってしまった人たちに会うことが、寂しく思えてならないのだ。
それなのに年末年始は連休が取れてしまい、親には早く帰ってこいと言われ、まるで同窓会に行けと言わんばかりだ。
梨生はため息混じりに、参加する旨の返事を返したのだった。
――やっぱり参加しなければよかった。
そう思ったのも後の祭で、忘年会兼同窓会は驚くほどの盛り上がりを見せて解散に至った。梨生も酒を飲み、久しぶりに会う友人らと会話をして、それなりに楽しんでいた。
とある報告を聞くまでは。
三次会へともつれ込むへべれけな友人たちとは居酒屋の前で別れた。しかしそのまま実家に帰る気分にもなれず、梨生はコンビニに寄って二本の缶ビールと少しのつまみを買い、幼い頃によく遊んだ小高い丘の上の公園へ向かった。
夜空には月が浮かんでいた。細くて小さい今にも消えそうな月が梨生を静かに見下ろしている。星の見えない暗い空を微かに照らすそれを、梨生は意味もなくぼんやり眺めていた。
途端、冷たい夜風が吹きつけ、梨生は首をすくめてマフラーに顔をうずめた。裾がはためくコートのポケットに手を突っ込んで、風から身を守るように前かがみになる。
何でこんなに、胸にぽっかり穴が開いたような物足りない気分が続いているのだろう。もう何年も前に諦めて、胸の中から消したはずの想いが、あの一言で蘇ってしまった。
こうなるからあまり参加したくなかったのだ。幸せそうで充実している友人たちの話を聞いていると、何も変わっていない自分を顧みて惨めな気分に陥ってしまう。その場では笑っていられるけれど、終わった後にため息が止まらなくなる。
黒く淀んだ思考に押し潰される感覚に襲われ、梨生はぶんぶんと頭を振って顔を上げた。
久しぶりに訪れた公園は何だかとても小さく見えた。
金網でできたフェンスも、ゾウの形をした滑り台も、木製のベンチも。同じ場所に変わらずあるのに。
懐かしいというよりも、焦燥感のような不思議な感覚がする。
でも酒を飲みながら感傷に浸るにはいい場所だ。人通りはなく、ひとつだけポツンと立っている街灯が淋しさを増長させていた。
梨生はベンチに向かいながらふと呟いた。
「ブランコなくなったのかぁ」
よく遊んだ記憶のある、青いブランコ。靴を飛ばして飛距離を競ったり、どのぐらいの高さから飛び降りられるか競ったり。基本的に危ない遊び方しかしてなかった気がするが、それでも愛着のある遊具がなくなっていると物悲しい。
「去年撤去されたんだよ、子どもがケガしたらいけないからーってさ」
突然、背後から返事が返ってきて、梨生は顔をしかめて立ち止まった。
彼がついてきていたのは分かっていた。居酒屋を出た時も、コンビニで買い物をした時だって彼は近くにいた。関わるのが面倒だったので今まで無視していたのだ。それなのにここまでずっとついてきた。
梨生はため息を吐いて振り返った。
「あんたストーカー? 警察に突き出そうか」
「俺の行き先とお前の行き先が同じだっただけだろ。たまたまだ」
ぶっきらぼうに言って肩をすくめた彼・孝成は、梨生が座ろうとしていたベンチにどかりと腰を下ろした。
梨生はむうと頬を膨らませ、ベンチには座らずにその背後にあるフェンスに寄りかかった。
そして買ってきたビールを一本取り出し、プルタブを起こす。プシュッという音がして、ベンチの方からも同じ音がした。孝成もさっき購入した缶ビールを開けたようだ。
一人で飲み直すつもりだったのにと、内心文句垂れながら梨生はビールを喉に流し込んだ。
冷えたビールは美味しいが、冬空の下で飲むとさすがに寒い。缶を下ろした梨生はブルリと震えた。
でも今は凍えるぐらいがちょうどいい。このまま心まで凍らせてくれればもっといい。そう考えて、また同窓会でのあの話を思い出してしまい、梨生は盛大にため息を漏らした。
――発端は、話題が恋愛話にもつれ込んだことからだった。顔馴染みが揃えば仕事と並んで上がる話題でもあるから、梨生が尋ねられた時は適当に流して誤魔化した――実を言うと彼氏と呼べる人を作ったことは今までになかった。皆酔っ払っているので追及されることもなかった。たぶんそこまで興味もないのだろう。
中には結婚している友人も当然いて、そのことを初めて知る人も少なからずいた。そして、結婚を報告する友人の中に、彼もいたのだ。
仲が良かった訳でもない、単なるクラスメイトだったのだけれど、梨生にとっては初恋の人だった。
彼の醸しす雰囲気が好きだった。クラスの中心でいつも笑っているような人だった。子どもの頃からどこか大人びていて自己主張の少ないタイプの梨生にとっては、輝かしくて眩しい存在だった。憧れでもあった。
性格が正反対だからこそ、すごく惹かれていたのだ。
その彼が知らない内に結婚していた。相手はひとつ年下で、職場で知り合った女性らしい。嬉し恥ずかしそうに報告する彼があまりに衝撃すぎて、そこから先の話はあまり覚えていない。
彼と顔を合わせるのも、彼のことを思い出すのも久しぶりだったのに、どうしてこんなに胸が苦しくなるのだろう。高校では勉学に、就職してからは仕事に打ち込んで、昔の恋心などとっくに忘れていたはずなのに――。
「忘れられてなかったのかな……」
梨生は誰に向けるともなく小さく呟き、ゆるゆると白い息を吐き出した。
丘の上にあるこの公園からは、麓の町がよく見える。今もフェンスの向こうには町の明かりがクリスマスイルミネーションのように輝いている。
しかし目には綺麗に映っていても、心が全く楽しめていなかった。
「結弦のことだろ」
いつの間にか孝成が隣に並んでいて梨生は驚き飛び上がった。反動でビールが僅かに溢れ、梨生の手を濡らした。
いや、そんなことよりも。
梨生は恐ろしい物を見るかのような目で孝成を凝視した。
自分が何を考えていたのかを、何故この男が分かるのだ。結弦に対する梨生の気持ちは誰にも、現在上京先でルームシェアしている親友にさえ話したことはなかったというのに。
図星だなとばかりに、こちらを見ていた孝成が口の端を上げる。そのことにも僅かに動揺していると、彼はビールを一口飲んでから話を続けた。
「お前ずっと結弦のことばっか見てたもんなぁ、保育園から恋しちゃってたんだっけ? そんで久しぶりに会ったらあいつが結婚してて? 可哀想に、失恋か。ははん、ザマーミロ」
同情しているのかと思いきや、暴言とも取れる言葉を孝成は付け足した。
梨生はムッとして眉を上げた。図星を突かれたことの恥ずかしさよりも、苛立ちの方が勝ってしまった。言い返さないと気が済まない。
「別に好きでも何でもないから。……例え好きだったとしても、何年も会ってなかったんだよ? そんなのすぐ冷めるに決まってんじゃん。ってか何であんたにそんなこと言われないといけないの? むかつくんだけど」
「あっそ」
と素っ気なく呟いて、孝成はまた缶ビールを傾けた。
何なのあんた、と吐き捨てて梨生もビールを一気飲みした。
認めてしまえば楽になるのは自分も分かっている。素直じゃないことぐらい、分かっている。でも孝成に指摘されたから認めてしまうというのは、何だか無性に腹が立つ。
もう忘れるぐらい好きじゃなかったんだから、失恋じゃないし。
――少し泣きそうだ。
隣に立つ孝成を恨めしく思いながら梨生は一本目のビールを飲み干した。
「梨生って実は酒豪か? 飲み屋でもずっと飲んでたよな」
「別に。普通だよ」
「普通のやつがジョッキ何杯も空にするかよ」
くつくつと笑いながら孝成はビニール袋を探ってつまみのスナック菓子を取り出した。それを横目に見ながら梨生はせせら笑う。
「おつまみがポテチとかお子ちゃまねぇ」
「ポテチバカにすんなよ。お前も何か買ってたろ?」
「スルメですが」
「……おっさん臭えな」
孝成が呆れたような顔をするものだから、梨生は五分ぐらいスルメの素晴らしさを語っておいた。
そして孝成が買ったポテチを二人で食べながら、しばらく黙り込んだ。
今こうして普通に隣に立っている孝成は、梨生とはご近所さんだった。いわゆる幼馴染――腐れ縁だ。同い年ということもあって昔からよく一緒に遊んだが、どちらかというとからかわれて嫌がらせを受けた記憶の方が多い。
でも小学校中学校と学年が上がるにつれて少しずつ疎遠になっていった。高校は別々だったため、高校生になってからは顔を合わせることすらなくなった。
それなのに、何故か今日は幼い頃のように一緒にいる。
孝成が隣で何を考えているのかはさっぱりだが、少しずつ梨生にも昔を懐かしむ思いが蘇ってきていた。
たくさん遊んだこの公園を始め、学生時代をずっと過ごしてきたこの町には、あちこちに思い出の欠片が散らばっている。消したい記憶――主に黒歴史というやつ――もあるけれど、楽しかったことだってもちろんある。忘れていたわけではなくて、何かと理由をつけて思い出そうとしないだけだった。
叶わなかった初恋だって、いつかきっと、いい思い出になるのかもしれない。
そう考えて、梨生は微かに笑った。億劫だったはずの帰省が、悪くないように思えた。
「……梨生は結婚しないのか」
一人で浸っていたところに唐突に投げかけられた質問に、梨生は軽くむせた。
「彼氏もいないってのに結婚なんかできると思うんですかねぇ……孝成は? 彼女いるの?」
「いたらこんな寒いとこいねーよ」
孝成がふんと鼻を鳴らし、「ですよね」と梨生は短く笑った。
「お互い独り身かー。結婚とか考えたことないんだよね、来年は三十路なのに。……あーあ、このままいき遅れちゃうのかなぁ。いやまず彼氏を作らないことには……」
この先不安でしかないとばかりに梨生がぶつぶつ嘆く一方で、孝成はハアとため息を吐いた。
「せいぜい頑張れ。……ま、いつまでも貰い手がつかなかったら、俺が貰ってやるよ」
「うん…………へあっ?」
考え込みすぎて聞き流すところだった。梨生は勢い良く振り返って素っ頓狂な声を発した。
孝成はフェンスに頬杖をついたまま、明かりの灯る町を眺めている。その横顔はよく見えなかった。こちらは戸惑っているというのに、彼は顔すら向けずにまた繰り返す。
「俺が貰ってやる」
梨生は目を丸くしたまま硬直した。
貰ってやる?
貰ってやるって、結婚するってこと?
誰と?
私と?
孝成が?
どうして?
冗談?
本気?
彼がそう告げた理由がわからなくて、梨生は疑問符を並べ続けた。
自分が浮かない顔をしていたから励ますために言っただけなのだろうか。もしかして幼心に戻ってからかっているのだろうか。それともまさか本当の本当に真面目に――。
孝成は昔から変なやつだった。嫌がらせをしたかと思えば、優しくしたり。私物を取り上げたかと思えば、急にプレゼントをくれたり。
本当に、変な人。
ただ、彼の言動には毎回理解に苦しむものの、今回は不思議と悪い心持ちにはならなかった。むしろ心臓の動きが速くなっている気がするし、心なしか顔も熱い。
返答に困った梨生は視線をそらし、マフラーに顔を埋めて縮こまった。
――少し泣きそうだった。
(花咲く季節が待ち遠しい)