漂流〜満遍なく生きた僕に送るブルーズ〜
僕は今までの人生、生まれてこの方、ごく普通の人生を送ってきたと思う。
比較的恵まれているんじゃないかと思えるほどに、順風満帆だったわけで、軌道に乗っているというか、僕の背にはまるで帆でも張っていて、風が自然に陸地へと運んでくれるように、まさに順風満帆という何か流れのようなものに身を任せて、井の中の蛙が大海に出てもがいているうちに陸地にたどり着くように、しかし、とにかく世間知らずの田舎者であった僕は東京に出て大学生となったのち、無事に就職とまでいきつくことができたのは、やはりありがたいことと思わなければならないのだろうか。
それなりに楽しんで今までが積み重なってきてはいるものの、全く何が楽しくて生きているのか、常に流されて人並に人並に、そういう強制にも似た人波、世の中に前倣えの浮き沈みのないたゆたいがまさに僕の人生なので、それはもう僕と言う人間は何も考えていないんじゃないかと思われても仕方ないほど自己というものを抑圧して漂流してきたと見てもいいかもしれない。
何が趣味なんですか、という事を問われれば、僕の楽しみは漫画を読んだりアニメを見たりすることにあるのであって、しかし僕も社会人一年生、この年になってそう言う趣味のものは世間一般で言うところのオタクと呼ばれるべきものであるという事を、最近になって知った田舎者、とはいえ自分はオタクですと標榜するのもなにやら差し出がましく、だからとオタクであると言う事に何か卑屈になると言う事もないのだけれど、やっぱり趣味などを問われてアニメが好きですと堂々と答える気には、どうにもなれないもので、読書とかが好きですけど、音楽も好きですね、どんな音楽を聞かれるんですか、クラシックなんかを聞きます、と言うと、何がありますか、と来たらどうか、無難にベートーヴェンですだの、バッハですだの、答えたりする、何の面白みもないやりとりばかりが思い返され、そう言えば、まさに受験の面接も就職試験の面接も同様に、こんな面白さの欠片もない返答を返しておきながら、個性を伸ばしますなどというスローガンを掲げた学校の、のびのびとした学風のなかでも個性と言うものを何ら発揮することなく、どこにでもあるような地味な学生という役柄ですべてが過ぎ去ってしまったのだから、順風満帆という虚飾に彩られた空疎極まりない人生だったのだと、思うほかなくなってきた。
それだから、人間関係も希薄なのではと思われるかも知れないが、それなりに友人も持っていたし、休み時間には最近読んだ漫画の話などで人並に盛り上がりもしたし、週刊誌のグラビアを教室で眺めていたら風紀委員に没収されただの、全く面白みのない日常が想起されたりもするのだが、これだけ個性を尊重する学風の中では当然、意見が衝突することもあったり、譲れない一点を頑として遵守すべく戦うような生徒が周りにはそれほど珍しくもなく群がっていたもので、時には喧嘩が起こると言う事もあり、そしてお互いを認め合って、友情が生まれる一部始終が、またスライドのように思い起こされてはいても、そこに自分自身が投影されるかと言えば否であり、例えば昼休みに体育館で場所取りが起こったりした時に、教師が女子を贔屓したというような厳然たる不平等な処置が為された時にクラス一丸となって徹頭徹尾抗議することになった事件があったような気もするし、無かったような気もする、なぜならその時の僕の思い出はと言えば、事実巻き起こったクラス一致団結の輪からただ一人外れた、フェミニストの友人に捕まって、レディファーストの高説を賜っていたというような出来事でしかない訳で、これは皆とは共有していない個人的な思い出には違いないのかもしれないが、自分の意見意義主張を表立てたわけでもなく、いつものように他人に流される形で、実際問題、いったい何に流されるかの違いでしかない訳で、日常を語り明かしても僕の場合はそのようにしかならないのだった。
そう、なぜか、僕は仕事帰りの電車内で、吊革につかまりながら、窓の外で見えるマンションの一室がはっきりと覗けたりした時に、その団欒への関心から自己を鑑みることになってしまった。
疲れているのかもしれない。そう思い、ふと視線を落とすと、座席に座っている少し頭の禿げた小太りのサラリーマンを見とめて、自分も将来はこういう姿になっているんだろうかなどと思いこそすれ、興味を引いたのは彼の読んでいた一冊の本であり、いかにも怪しい自己啓発本であると言う事は、その文体からも明らかであったが、意味の不明なカタカナ語の概念に、我々の呈示したアイディンティフィケーションのなんたらかんたらのコンストリクトを認識することが出来たなら、新たなプロセスの第一歩です、などとあり、まったく何を説明していたら、その四六版の本一冊のページの半数を費やせるというのか、実に鬱陶しい気がして、やっぱり自己啓発本というものは心持次第で価値が左右されるもので、必要ない人間にとっては全くあてにならないのだな、とは思ったものの、今の今まで自分の人生を考えていた所、この本の一節にあった新たなプロセスという胡散臭い箴言が妙に心をくすぐるのが解ってきて、自ずと、こんな本に頼らざるを得なくなるであろう自分の姿が、トンネルに入った列車の窓に映っているのが見える気がして、僕は亦気が滅入って実に暗鬱なな心持になるのだった。
いつもの乗り換え駅、人ごみにながされながら、歩きたくもないエスカレータを急かされながら足早に進み、向かい側の、高架に位置しているため進行方向で立体交差することになる、切り替え工事が終わったばかりのホームへ降り立ち、ちょうど定刻どおりに入ってきた列車が停車したところで、僕の携帯はバイブレーションした。
着信を見てみると、とはいえ見る前からだいたいどこから連絡が来たかなどは見当がついてしまうくらいのものであるので、何だろう、などと思う事もせずに表示を見てみたところ、会社の上司からであったので、僕は列車の戸が開き、駅員のアナウンスがうるさく響く中で、携帯を開いて通話ボタンを押した。
「もしもし」
「もしもしじゃねェばかやろうが。てめェなに帰ってャがるんだ」
「おっしゃっている意味がよく解りませんが」全くわからない、こんなに怒号を浴びせられる覚えなんて全くないのであるが、何かの間違いかもしれないと思い、そのように返答した。これがまずかったのかもしれないが、どうせ後の祭りである。
「なにがおっしゃっている意味が解りませんだ大学出てんだろうが、てめェ、ゆとりはこれだから駄目なんだよな、外ツラいいかっこしてェからと役に立ちもしねェ若造を採用なんてしャがるから、俺たちがしりぬぐいする羽目になるんだ、くそったれ」
「あの、電車に乗りますから後でかけ直してもよろしいですか」
「フザケたことヌかすな、残業だ馬鹿野郎ォ、定刻通りに帰っていいなんて、自惚れてやがるのか、新人だからこれ以上はやることもねえとか、えェ、考えてんじゃァないだろうな」
「よしてください、今電車に乗りましたから、かけなおします」
「ふざけんなよ、切ったらくびにしてやる、帰って来ャアがれ、残業だ」
「もう扉が閉まりました。わかりましたから、かけ直しますから」
「電車に乗ってるだと、嘘ばっかり言いャがる、そんな言い逃れ聞けるか、だったら早く降りろ、馬鹿野郎」僕はそれなりに長い人生で、誰かに疑われると言う事はなかったと言ってもいいのだが、こんな事で疑われようとは、夢にも見なかったことだ。
「首にするですって。どうぞご勝手に。僕は電車内で電話するなんて非常識は断固拒否します」そのまま携帯電話をたたみ、鞄に押し込んだ。
僕は、初めて自分の意見と言うものを人に伝えたのだった。そのかわり、仕事を失うことになるのだろう。
しかし、得たものはきっと大きい、なぜかそんな気がした。