第九章 しわだらけのスーツの男
恐怖が日常になった時、
本来、関わるはずのない人間が現れる。
歌わない。
カメラに笑わない。
遠いステージの夢も語らない。
ただ、そこにいる。
正確な瞬間に。
大きすぎる傘と、
歌より重い沈黙を連れて。
事務所が彼を雇ったのは、その日の朝だった。
どこから来たのかは誰も知らない。
外部サポート要員として、
いつの間にか社内にいた。
三十九歳。
アイロンのかかっていない灰色のスーツ。
早すぎる白髪。
常に消えないような隈。
名前は、斎藤。
多くは語らなかった。
質問よりも、観察。
午後五時。
今週一番長いレッスンが終わった。
オープニングは避けたはずだった。
それでも、
音響システムは六回、勝手に起動した。
その度に、音は強くなる。
技師は断言した。
――コンソールには、電源が来ていない。
ようやく解放された時、
外は不快なほどの豪雨だった。
数秒で全身を濡らす類の雨。
九人は、
屋根のない中庭を横切って
メインホールへ向かう。
髪も服も、
容赦なく水を吸う。
冷えが骨まで染み込んだ。
扉のそばで、
斎藤が待っていた。
一人用には大きすぎる、
黒い傘を持って。
「全員は入らない」
低い声で言った。
「二人ずつ、車まで送る」
許可は求めなかった。
ただ、始めた。
最初は、キョウカとハルナ。
傘の下で、
ハルナはキョウカの手を探し、
一瞬だけ、強く握った。
――そこにいることを確かめるように。
次は、サヤカとユイ。
その次は、リカとアヤメ。
ミヅキとキャラ。
最後に、ナナミ。
彼女の番になった頃、
ホールには、二人しか残っていなかった。
斎藤は傘を開き、
しっかりと持ち直す。
「行こう」
無言のまま歩く。
雨音は激しく、
気まずさをすべて飲み込むほどだった。
ナナミは近かった。
腕の熱を感じるほどに。
斎藤は傘を少し下げ、
彼女を覆う。
その代わり、
雨は彼の肩を濡らした。
雷鳴が、
異様に近くで鳴る。
ナナミは反射的に、
彼に寄り添った。
斎藤は空いた腕を下ろし、
触れずに、
彼女の背後に空間を作った。
見えない壁のように。
ナナミの心臓は、
暴れるほどに鳴っていた。
それでも――
数週間ぶりに、
震えが止まった。
車に着く。
斎藤はドアを開け、
先に彼女を通した。
「……ありがとう」
囁くように言う。
彼は、
小さく頷いただけだった。
傘を閉じた、その瞬間。
ガラスの反射に、違和感が走る。
ほんの一瞬。
彼が彼女を守っていた場所に――
灰色の影。
長いツインテール。
手は、
彼が立っていた場所に、
ぴったりと重なっていた。
瞬きをする。
何もない。
車内で、
ナナミは手に握らされた
苺ヨーグルトを見つめた。
いつ渡されたのか、
思い出せない。
その夜。
共有スペースで、
サヤカが沈黙を破った。
「このままだと……
私たち、壊れる」
すぐには誰も答えなかった。
沈黙は、
考えが根を張るには十分な長さだった。
「空気が必要よ」
続ける。
「今週末、二日間、海に行こう。
マネージャーなし。
カメラなし。
歌もなし」
キョウカは迷わなかった。
テーブルの上のスマホを取り、
誰も止められないうちに発信する。
画面が、
わずかに遅れて点灯した。
マネージャーの顔。
隈だらけで、張りつめている。
「今度は何だ」
挨拶もなく。
「海に行きたい」
キョウカは言った。
「休息が必要」
マネージャーは、
勢いよく身を起こした。
「海!? 今!?
こんな状況で無理だ!」
キョウカは腕を組む。
「じゃあ、行く。
何か起きたら、
休ませなかったあなたの責任」
重たい沈黙。
結局、
事務所が折れた。
「……分かった。
江の島のプライベートハウスだけだ。
スタッフが一人、同行する」
九人が、
同時に振り向いた。
その時、
斎藤が書類を抱えて入ってくる。
「斎藤さん」
ハルナが、
甘すぎる笑顔で言った。
「海、お好きですか?」
彼は瞬きをする。
「……たぶん」
「決まり」
キョウカが断言した。
「あなた、来てください」
返事をする前に――
建物中のスピーカーが、
同時に点いた。
「いい選択」
聞き覚えのある声が、囁く。
「彼、気に入った。今のところは」
消えていたテレビ画面が、
一瞬だけ光る。
闇の中で、
灰色の影が笑った。
そして、何も残らなかった。
プライベートビーチは、
もう休息ではない。
見えない同伴者付きの、
目的地になった。
彼は、
歌わない。
夢も語らない。
それでも――
嵐の前に現れる人間は、
必ず、意味を持つ。
そして、
“彼女”はもう知っている。
誰が守り、
誰が奪うのかを。




