第五章 眠らない影
眠らない夢がある。
繰り返され、滲み出し、
やがて“聞くこと”を覚える夢が。
あまりにも強く望まれた声。
存在する前から思い描かれた舞台。
――その未来に、
何かが応えてしまうことがある。
邪魔するためではない。
奪うためでもない。
ただ、
“自分のものだ”と告げるために。
その夜、地下で。
**Kiyora+**は初めて――
決して眠らなかった声を、耳にする。
地下の練習室には、重たい匂いがこもっていた。
古い汗、積もった埃、熱を帯びたケーブル。
本来、人がいるべき時間ではない。
蛍光灯は、彼女たちと同じように疲れ切った音を立てていた。
時計は、午前3時17分を指している。
九人は一緒にここまで降りてきた。
誰一人、眠れなかったからだ。
目を閉じるたびに、同じ映像がよみがえる。
歪んだスクリーン。
合わない声。
消えない残響。
デビュー映像は、今も無数のスマートフォンで再生され続けている。
――そして、彼女たちの頭の中でも。
京香は何も言わずに音響機材の前に立った。
動きは正確で、ほとんど無意識のようだった。
システムを接続し、
今回は一切のプリミックスなしで、オープニング曲を読み込む。
「――ヘッドホンをつけて。
そのままの音を、聞く」
九人は従った。
外界から切り離された瞬間、
彼女たちは歌と一対一になる。
曲は、きれいに始まった。
明るく、軽やかで、
何百回も歌ってきた“いつもの音”。
だが、二番に差しかかった瞬間――
キャラの主旋律の下に、何かが滑り込んだ。
明確なノイズではない。
あまりにも正確すぎた。
同じ音色。
同じ呼吸。
――ただ、薄い。
――ただ、古い。
まるで、
時間だけが削れた同じテイク。
キャラは動けなかった。
最初に音量を下げたのは、春菜だった。
顔色は、完全に失われている。
「……あれは……
私たちの誰でもない」
七海は床に座り込み、膝を抱えたまま、
無言でスマートフォンを開いた。
タイムラインは、燃え続けている。
ほとんど反射的に、読み上げた。
「#KiyoraGlitch……
#彼女たちの声じゃない……
#KiyoraViña……」
顔を上げ、困惑したように言う。
「……もう、怖がってるだけじゃない。
みんな、私たちの“夢”の話をしてる……」
コメントの中で、
ある言葉が何度も繰り返されていた。
過去の配信やインタビューの切り抜きと共に。
――
「Kiyora+は、ずっと“ビニャ・デル・マル”を目標にしてきた。
日本の名前を世界に届けるって。
デビューしたばかりなのに、もう“怪物”を見据えてる。」
キャラは唇を噛んだ。
その夢は、最近のものじゃない。
名前も、観客もなかった頃から。
研修生だった最初の日から。
誰も聞いていなくても、
何度も口にしてきた。
「……Dialogue+……」
思わず、口からこぼれる。
「ビニャの話はしてなかったけど……
歌い方とか、繋がり方とか……
抱きしめるみたいな曲を作るところ。
あれが……
私たちが、あそこに持っていきたいものだった」
美月が、ゆっくりと立ち上がった。
「……これを、聞いて」
音量を最大まで上げる。
インストのブリッジ部分に――
0.8秒の空白。
ライブで、
彼女たちが一度も作ったことのない“沈黙”。
その隙間で、
声が囁いた。
――はっきりと。
「ビニャは、あなたたちのもの……
でも、私も行く」
誰も、動けなかった。
沙耶香が、乾いた笑いを漏らす。
最後まで、形にならない。
「……最高ね。
今度は、私たちの夢まで知ってる」
練習室奥の鏡が、曇り始めた。
縁からではない。
中心から――
まるで、向こう側で誰かが息を吐いているかのように。
文字が、ゆっくりと浮かび上がる。
――
ストーカーじゃない。
最初から、私だった。
霧は、一瞬で消えた。
理香が壁にぶつかるまで後退する。
「……もう、事故じゃない……
返事してる……」
京香が、強く音楽を止めた。
「……明日、マネージャーに話す。
誰も投稿しない。
誰も、触れない」
ヘッドホンを、無言で片付ける。
――その時。
システムが、勝手に起動した。
音楽はない。
楽器もない。
ハーモニーもない。
あるのは――
声だけ。
完璧だった。
一音も揺れない。
誰一人、録った覚えのない歌唱。
そして、
完全な沈黙の直前。
声は、囁く。
「ビニャは、あなたたちのもの……
でも、最初の音は――私が歌う」
灯りが、落ちた。
その瞬間、
**Kiyora+**にとって最大の夢――
日本の名を、ビニャ・デル・マルへ届けることは。
目標ではなくなった。
それは、
彼女たちが生まれるより前に書かれた
“招待状”のように、感じられた。
その夜明け、
誰も“夢”という言葉を口にしなかった。
消えたわけではない。
ただ――
もう完全に、自分たちのものではなくなったのだ。
歌は、同じまま。
だが、彼女たちは知ってしまった。
ある声は、寄り添わない。
先に――
辿り着こうとする。
そして、
未来の名前を知ってしまった影は、
許可など待たずに――
歌い始める。




