第四章 薄闇の回廊
ステージは、やがて離れることができる。
拍手も、いつかは消える。
――だが、置いていけないものもある。
照明の届かない場所で、
廊下は嘘をつかない。
約束もしなければ、
守ってもくれない。
一度、声が聞かれてしまえば。
一度、影が認識されてしまえば。
沈黙は、もはや避難所ではなくなる。
薄闇の中では、
かすかな足音さえ――
“追うもの”を目覚めさせてしまう。
ホテルは、長く静かな廊下を幾重にも伸ばしていた。
淡い照明は、今にも消えそうになりながら必死に光を保っている。
足音の反響が壁に跳ね返り、歪んだ形で戻ってくる。
まるで、この建物が“自分のものではない音”を返しているかのように。
Kiyora+の九人は、それぞれの部屋へと散っていった。
デビューの疲労を引きずるように、拍手では拭えない重さを抱えたまま。
カワイイメイド衣装は布袋にきれいに畳まれている。
それでも、ステージの感触はまだ肌に張りついて離れない。
高揚感ではなかった。
――もっと、冷たい何か。
キオマラは一人で歩いていた。
首元には、外し忘れた赤いリボン。
少しきつく締まり、存在を主張している。
一歩進むごとに、足音が必要以上に響く。
まっすぐで狭い廊下は、進めば進むほど伸びていくように感じられた。
スマートフォンが震えた。
名前も、写真も、履歴もないアカウントからのメッセージ。
――その声は、あなたのものじゃない。
――借りただけ。
添付されていたのは、あのライブの映像。
何度も見た断片だった。
彼女の声は澄んでいて、生きている。
バックトラックもない。
だが、その下に――
かすかに、異質な音が混じっている。
引きずるような音程。
自分が歌った覚えのない、何か。
キオマラは足を止め、窓の前に立った。
ガラスに映る自分の姿が、一瞬だけ歪む。
目は不自然なほど静かで、輪郭も曖昧だった。
瞬きをすると、像は元に戻る。
「……被害妄想よ」
自分に言い聞かせるように、呟いた。
背後から、慌ただしい足音が近づく。
「キオマラ」
七海だった。
水色のバングルが手首に食い込み、
声は、本人が思っている以上に震えている。
「私も来た」
画面を見せながら言う。
「“盗まれた影”って……これ、偶然じゃないよ」
キオマラは苛立ったようにスマートフォンを閉じた。
「生で歌ったのよ。
あれを操作できるはずがない」
七海が何か言い返そうとした、そのとき。
壁際の小さなテーブルから、グラスが転がり落ちた。
誰にも触れられていないのに、
ゆっくりと床を進み、二人の足元で止まる。
乾いた音が、場違いに響いた。
七海が一歩、後ずさる。
「……リハーサルのときと、同じ……」
突然、部屋のドアが勢いよく開いた。
春菜が顔を出す。
緑のアクセサリーが、青白い表情と強く対比していた。
「今の音……聞こえた」
「私じゃない」
次々と、ほかの部屋のドアも開いていく。
京香が腕を組んで廊下に出た。
疲労が、その表情を硬くしている。
「今度は、何?」
「メッセージ」
七海が答える。
「動画も。……みんな、同じことを言ってる」
濃い青のアクセサリーを光に反射させながら、
美月が強張った指で画面をスクロールしていた。
「もう、SNSで話題になってる」
「“二重の声”だって。
曲の中に、何かが隠れてるって」
沙耶香が短く、荒れた笑いを漏らす。
黒いリボンが、光を吸い込む。
「最高ね。
初ステージで、もう不正疑惑?」
黄色と紫――
莉花と彩芽は、言葉を持たないまま後ろで立っていた。
結衣は、まだ輝く銀色を身につけたまま、
壁に手を当てる。
まるで、何かを感じ取ろうとするかのように。
その瞬間、廊下の温度が一気に下がった。
キオマラは、肩に何かが触れるのを感じた。
強くはない。
ほんのわずか――それだけで、肌が粟立つには十分だった。
周囲を見回す。
誰も、そんな近くにはいない。
スマートフォンが、再び震えた。
同じ映像。
だが今度は、音がはっきりしている。
――知らないだけ。
――でも、代償は払ってもらう。
七海がふらつき、キオマラの腕につかまった。
「……いる」
囁く。
「どうやってかは分からない。でも……」
突然、照明がすべて落ちた。
重く、完全な闇。
その中で、
オープニングの旋律によく似た何かが、
壁伝いに滑るように流れていく。
歪み、引き延ばされ、
――誰かが、間違った記憶で口ずさんでいるかのように。
次の瞬間、明かりが戻った。
廊下には、誰もいない。
ドアはすべて閉じられ、
何事もなかったかのように静まり返っている。
それでも、冷気は消えなかった。
空気の中に食い込み、
頑なに、そこに居座り続けている。
――何かが、
見えない境界線を越えてしまった。
その夜――
誰一人、深く眠ることはできなかった。
部屋に戻っても、
ベッドに横になっても、
耳の奥で“引きずる音”が消えなかった。
メッセージは消せる。
動画も、やがて埋もれる。
だが――
一度、触れられてしまった感覚だけは、残る。
廊下は、何もなかったかのように静まり返っていた。
それでも、あの冷気だけは確かだった。
もう、ステージの外だから安全だとは言えない。
それは――
歌と共に、境界を越えてきたのだから。




