第三章 壊れた笑顔
ステージの後に訪れるのは、沈黙ではない。
――残響だ。
観客がいなくなり、
メイクが崩れ、
照明が赦しを失ったとき、
笑顔は静かにひび割れていく。
人前で見せるものは、訓練で支えられる。
だが、楽屋までついてくるものは――
本物でなければ、残らない。
そして、
あまりにも多くの耳に届いてしまった声は、
もう“なかったこと”にはできない。
楽屋は狭く、天井からぶら下がる裸電球がやけに低く感じられた。
その光が壁に長い影を落とす。
まるで指のように、誰かを指差し、責め立てているかのようだった――言葉は、何ひとつ発せられていないのに。
拍手の余韻は、まだ空気の中に残っていた。
けれど、それはもう祝福の音ではない。
遠く、空虚で、閉ざされた扉の向こうに閉じ込められたような響きだった。
Kiyora+の九人は、黙ったままメイド衣装を脱いでいく。
レース、フリル、リボンが無造作に床へ落ち、
まるで、もう触れたくもないもののように積み重なっていった。
テーブルの上には、彩芽の紫が置き去りにされていた。
崩れたメイクと、半分ほど残ったペットボトルの間に挟まれ、
誰もそれを引き取ろうとしない。
伽羅は椅子に身を落とした。
喉が焼けつくように痛む。
声を、肉体の限界を越えて押し出してしまった感覚が残っていた。
観客は叫び、拍手し、熱狂していた。
隠していた顔をさらし、生歌で歌い切った。
すべてが――完璧だった。
……あれさえ、なければ。
スクリーンの不具合が、瞬きを許さない映像のように脳裏に焼き付いている。
沈黙を破ったのは七海だった。
水色のバングルをつけたままの手で、
震えの止まらないスマートフォンを持ち上げる。
「……みんな、見て」
画面には、客席から撮られた映像。
オープニングが再生される。
彼女たちの声は、澄んでいて、現実そのものだった。
息遣いも、わずかなズレも、すべてが記録されている。
――だが、サビに差しかかった瞬間、映像が揺れた。
九人の中に、灰色のシルエットが現れる。
色がない。
奥行きもない。
人間とは思えないほどの正確さで、動きをなぞっている。
そして、伽羅の声の下に、別の音が滲み出す。
ざらついた、やけに近い囁き。
「……それは、あなたの声じゃない」
「借りただけでしょう」
春菜が画面に身を乗り出す。
緑のアクセサリーが、割れたガラスのように光を反射した。
「そんなの、なかった……」
低い声で言う。
「生で歌ってた。ほかに、何もなかった」
ドアの近くでは、莉花が黄色のアクセサリーを指で弄んでいた。
無意識に折り、伸ばし、
ぎこちない笑顔が、最後まで形にならない。
京香は、ピンクのリボンを乱暴に外した。
背筋を伸ばし、いつもの姿勢を取り戻そうとする。
「……エラーよ」
断言するように言うが、
その声は、自分自身すら納得させられていなかった。
「技術的な問題。すぐ別の話題に流れるわ」
楽屋の奥で、美月が別の動画を開く。
次に、また別の一本。
濃い青のアクセサリーが、動かない顔の横で沈んでいた。
どの映像にも、あの影は映っている。
しかも、少しずつ――輪郭がはっきりしていく。
笑みは、より大きく。
囁きは、わずかに変化しながら、同じ意味をなぞっていた。
「……その声は、あなたのものじゃない」
「……盗まれた影」
伽羅は無意識に喉へ手を伸ばし、強く握りしめる。
何かが、内側に貼りついたまま離れない感覚。
「……私の声に似てる」
呟く。
「でも、違う。……古いの。前から、そこにあったみたいな」
鏡にもたれかかりながら、結衣は黙って様子を見ていた。
銀色のアクセサリーは光を跳ね返すだけで、
この場の温度をまるで持たない。
沙耶香が、短く乾いた笑いを漏らす。
黒いリボンが、その音を吸い込む。
「誰かの悪ふざけじゃない?」
「編集とか……古いグリッチを使ったとか」
返事はなかった。
通知音が楽屋を埋め尽くす。
コメント、憶測、切り取られた映像。
疑う声もあれば、笑って誤魔化す声もある。
だが、繰り返される言葉は同じだった。
――声が、二重に聞こえる。
七海は、スマートフォンを強く握りしめた。
「……“借りた”って」
小さく呟く。
「もし、あの曲が……最初から、私たちだけのものじゃなかったら?」
京香が携帯を奪い取り、画面を乱暴に消した。
「もういい」
強く言い切る。
「明日も練習する。この話は終わり」
「形にしたら……喰われるわ」
誰も、反論しなかった。
ふと、誰かが楽屋の鏡を見上げる。
ほんの一瞬――
本当に、一瞬だけ。
灰色のシルエットが、彼女たちの間に映り込んでいた。
誰のものでもない笑みを浮かべて。
次の瞬間には、消えていた。
冷気が、ゆっくりと楽屋に満ちていく。
遅く、しかし確実に。
――まるで、何かが
見えない境界線を、越えてしまったかのように。
その夜――
いや、それ以降。
鏡を見るたびに、
誰もが一瞬、息を止めるようになった。
そこに映っているのが
本当に“自分”なのかを、
確かめずにはいられなかったからだ。
映像は消せても、
記憶までは消えない。
声は拡散し、
影は輪郭を持ち、
否定は、静かに崩れていく。
誰も口にしなかった。
だが、全員が理解していた。
これは、ただのトラブルではない。
――もう、招いてしまったのだ。
越えてはいけない境界を。




