第15話 誰にも見えない亀裂
すべての亀裂が、
音を立てるわけじゃない。
静かな廊下で、
交わされない言葉の中で、
誰にも見られない場所で――
ゆっくりと、
開いていく。
そして、
誰にも気づかれない亀裂ほど、
壊すのは簡単だ。
ナナミが倒れてから三日後。
寮は、まるで葬式の後の家のようだった。
全員が、
そこにいる。
それなのに――
誰も、本当には話さない。
キアラは、
ほとんど眠れていなかった。
朝のレッスンが終わった直後、
マネージャーが
廊下で彼女を呼び止めた。
「キアラ。
終わったら俺の部屋に来い。
セットリストの話だ」
彼女は頷いたが、
胃の奥が
嫌なふうにねじれた。
トイレに逃げ込み、
急いでサヤカにメッセージを送る。
『呼び出された。
怖い』
すぐに返事が来た。
『大丈夫。
一人で行かなくていい。
できるだけ避けて』
続けて、
ヒロにも。
『ヒロ、今すぐマネージャーの部屋に行って。
キアラが中にいる。
何でもいいから理由つけて、
連れ出して』
キアラは、
足が震えるまま
執務室に入った。
マネージャーは
ドアを閉めたが、
鍵はかけなかった。
立ったまま、
彼女を見る。
目を細め、
口元だけ歪ませた笑み。
どこまで押せるか、
計算している顔。
「――座れ」
椅子へ向かう途中、
すれ違いざまに
腰に手が置かれた。
“何気ない”ふりをした、
長すぎる接触。
座った後も、
今度は
指の甲で頬をなぞる。
ゆっくり。
当然の権利のように。
キアラは、
凍りついた。
動けない。
声も出ない。
ただ、
吐き気だけが
身体を満たした。
マネージャーが
少し身を屈める。
低く、
粘つく声。
「オープニングだがな……
お前を外すこともできる」
一瞬、
希望がよぎる。
「――ただし」
「俺に、
少し協力してくれたら、だ」
ナナミの姿が浮かんだ。
床で痙攣する身体。
痛みに歪む、小さな顔。
喉を鳴らす。
「……わかりました」
「何でも……」
「だから……
オープニングだけは……」
「ナナミを……
これ以上苦しめたくない……」
マネージャーの笑みが、
大きくなる。
その瞬間――
ドアが、
勢いよく開いた。
ヒロが、
ノックもせずに入ってくる。
顔は赤い。
でも、声は強い。
「マネージャー!
すみません、急ぎです!」
「新しいブリッジのアレンジ、
今すぐキアラが必要で!」
「プロデューサーが待ってます!」
マネージャーは、
動きを止めた。
宙に浮いた手。
キアラは、
反射的に立ち上がり、
ヒロの後ろへ走った。
――――――――――
同じ頃。
ビルの屋上。
キョウカとハルナは、
少しだけ
抜け出していた。
縁に腰掛け、
足をぶら下げ、
東京の街を見下ろす。
キョウカが、
ハルナの肩を抱く。
「チリに行ったら……」
「一晩だけでいい」
「ホテルに逃げて、
誰にも怯えず、
抱き合って寝よう」
ハルナは、
涙を浮かべて笑った。
「……約束して」
ゆっくり、
キスをする。
離れた時、
手すりに
赤いリボンが揺れていた。
風は、
吹いていない。
――――――――――
その頃、
大阪。
ミズキは、
従兄のダイチの家に着いた。
胸が、
激しく鳴る。
昔みたいに、
二人きりでいられると
思っていた。
インターホンが鳴り、
ドアが開く。
ダイチの笑顔。
そして――
その後ろ。
彼の腰に手を回した
女性。
アヤ。
恋人。
完璧な笑顔。
「ミズキ!
ちょうど夕飯だよ!」
「入って!
アヤを紹介するね」
ミズキは、
礼儀正しく笑った。
内側で、
世界が崩れ落ちる。
夕方ずっと、
黙ったまま。
ダイチが
アヤの肩を抱くのを。
二人だけで笑うのを。
自分が、
透明になっていくのを。
そして――
彼女だけに聞こえた。
冷たく、
はっきりと。
『もう、
あなたは必要ない』
『邪魔なだけ』
振り向く。
誰も、
いない。
ダイチもアヤも、
何事もなく話している。
帰り際、
ダイチが
強く抱きしめた。
「また来いよ」
ミズキは、
頷いた。
帰りの電車で、
窓に額を押し当て、
涙が枯れるまで
泣いた。
――――――――――
寮。
ナナミは、
また飛び起きた。
今回は、
叫ばなかった。
ベッドに座り、
ぬいぐるみを強く抱きしめ、
クローゼットの鏡を見る。
短くなった髪。
自分で切った、
その夜を思い出す。
――サイくんが、
違う目で見てくれるかもって。
でも彼は、
何も変わらなかった。
あのまま、
優しくて、
守るようで。
それが、
胸を痛めた。
愛なのか。
それとも――
ただの庇護なのか。
突然、
肩に冷たい感触。
見えない手。
次に、
爪が頬をなぞる。
ゆっくり。
撫でるように――
印をつけるように。
振り返る。
誰も、
いない。
ナナミは、
小さな声で囁いた。
「……サイくん……」
「……一人にしないで……」
廊下で、
“それ”は
確かに聞いていた。
どれだけ、
持ちこたえられるのか。
誰にも、
わからなかった。
完全に壊れるまで――
あと、
どれくらいなのか。
影は、
叫ぶ必要なんてなかった。
聞くだけでいい。
恐怖は、
道を示す。
亀裂は、
入口になる。
そして今――
次に触れる相手を、
正確に知っていた。




