第12話 影もまた、歌う
歌には、
分かち合うために生まれるものがある。
そして――
告白として生まれるものもある。
許されないまま響いた声。
言葉にならなかった想い。
その瞬間、
影はもう隠れる必要がなくなる。
歌うことは――
呼び寄せることでもあるのだから。
江の島からの帰りは遅かった。
肌にはまだ潮の匂いが残り、
胸には――
もっと落としにくい何かが貼りついていた。
バンの中で、
誰も話さなかった。
音楽も流れなかった。
疲れは、
身体のものではなかった。
火曜日。
議論の余地はなかった。
「渋谷で無料ライブです」
「屋外の広場。
ファンへの感謝と……ダメージコントロール」
夜の広場は人で埋め尽くされていた。
無数のスマホが掲げられ、
白い光がビルに反射し、
歓声が波のように押し寄せる。
衣装は、
柔らかなゴシックロリータ。
黒いレース、
膨らんだ袖、
夜風に揺れるチュールの層。
腰には大きなリボン。
それぞれの色。
ナナミは、
古いショーケースから出てきた人形のようだった。
淡い水色。
果てしないフリル。
肩を隠してしまうほど大きなリボン。
騒がしすぎる世界の中心に置かれた、
壊れやすい存在。
ライブは滞りなく進んだ。
計算された笑顔。
正確なフォーメーション。
観客も、
期待通りに応えた。
――最後までは。
照明が一段、落とされる。
彼女たちは整列し、
挨拶の準備をする。
ナナミだけが、
動かなかった。
両手でマイクを握る。
いつもより、
ずっと重そうに。
「……少しだけ」
「時間、いいですか」
広場が、
ゆっくりと静まっていく。
「もう一曲、歌わせてください」
「グループの曲じゃありません」
「……今の私の気持ちです」
ざわめきが、
期待に変わる。
メンバー同士、
視線を交わす。
誰も止めなかった。
ナナミは目を閉じた。
最初の音は、
ひとりでに零れ落ちた。
か細く、
裸のまま。
――To you… yes, my love, to you…
ピアノが、
恐る恐る寄り添う。
ナナミは観客を見なかった。
カメラも、
照明も。
視線はただ一つ、
ステージの向こう。
技術スタッフの中で、
動かずに立つ斎藤。
声は震えなかった。
前列で、
誰かが叫ぶ。
「後ろに、もう一人いる!」
「見える! 赤いリボンの子!」
瞬き。
誰もいない。
リカがアヤメに身を寄せる。
「……見て」
「恋してる」
アヤメは頷いた。
視線を外せない。
サヤカが、
小さく笑う。
「……大きくなったね」
最後の音が、
一秒、宙に留まる。
そして――
爆発するような拍手。
叫び声。
理由もなく泣く人たち。
ナナミは、
両手を揃えて小さくお辞儀し、
仲間の元へ戻った。
バックステージの通路で、
斎藤が待っていた。
一人ずつ、
短く、
仕事として褒める。
――ナナミまでは。
彼女をそっと抱き寄せ、
強く抱きしめ、
髪をくしゃりと撫でる。
そして、
額に口づけた。
ナナミは、
彼のシャツを掴んだ。
「……あの歌」
「あなたのためだった」
斎藤の身体が、
一瞬だけ固まる。
それから、
さらに強く抱き寄せた。
見えない何かから、
守るように。
「大丈夫だ」
低く、
静かに。
「俺は、ここにいる」
バンに乗り込む。
出口へ向かう通路で、
冷たいものが流れた。
触れられた気配。
首元の吐息。
存在しない指。
全員が、
同時に振り返る。
窓ガラスの暗い反射に、
長いツインテールと赤いリボン。
音もなく笑い――
消えた。
ナナミは前の席に座り、
斎藤の隣。
疲れが一気に押し寄せ、
彼の膝に頭を預ける。
子どもが、
もう起きていられない時のように。
斎藤は、
ゆっくりと髪を撫でた。
ナナミの視線が、
床に落ちる。
折り畳まれた写真。
拾い上げる。
若い斎藤。
腕の中には、
背が高く、美しい女性。
自信に満ちた笑顔。
裏返す。
《Sayu ♡
愛してる》
胸が、
音もなく締めつけられる。
自分の小さな身体。
細い肩。
決して、
なれないもの。
写真を、
両手で返す。
「……落ちました」
斎藤は慌ててしまい込み、
彼女が見ていないと信じている。
ナナミは再び目を閉じた。
涙が、
音を立てずに流れる。
彼は、
変わらず髪を撫でていた。
バンのスピーカーは、
切れている。
それでも――
歌が流れた。
Stay with me…
ナナミの声ではない。
彼女は、
斎藤の手を強く握る。
そして、
彼の耳元で。
声が、
囁いた。
「可愛いわね」
「彼女、あなたに歌った」
「でもあなたは、裏切ってる」
「幸せには、してあげられない」
バンは、
光に満ちた街を進み続ける。
そして――
影は、
彼女たちと一緒に歌っていた。
愛は、
守ることも、
壊すこともできる。
歌われた想いは、
必ず届く。
たとえ――
それを受け取ったのが、
影だったとしても。




