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微笑む反映  作者: KageNoOto
10/14

第10話 誰もいないはずの浜辺

休息は、いつだって危険な約束だ。

特に――

それが遅すぎた時は。


浜辺は、空っぽに見えた。

空は澄み、

海は静かだった。


だが、一度“見られた”場所は、

決して完全に孤独には戻らない。

正午少し前、

車は江の島のプライベートハウスの前で止まった。


雲一つない空。

海は静かすぎて、

作られた絵葉書のようだった。

平穏を約束しているようで、

決して保証はしない――そんな光景。


数週間ぶりに、

誰もマイクやグリッチ、

囁きのことを考えなかった。


最初に靴を脱いだのはサヤカだった。

砂浜へ駆け出し、

まるで音そのものが自分のものだと

言わんばかりに笑う。


ハルナがズボンの裾をまくって続き、

キョウカは、

自分でも気づいていなかった息を吐いた。


潮の匂い。

海藻。

生きている何かの気配。


斎藤はテラスに腰を下ろし、

ノートパソコンを開いた。

“見えない監視役”を

最後まで務めるつもりらしい。


「だめだってば」


振り返ってきたサヤカが言った。

返事を待たず、

彼の手首を掴む。


「ここでは全員遊ぶの。

ね、しわだらけスーツさん」


抗議する間もなく、

彼は熱い砂の上へ引きずられた。


一日は、

笑い声と叫び声にほどけていった。


即席のビーチバレー。

四方八方に飛ぶ水しぶき。

濡れた肌に張りつく砂。


リカとアヤメはルールで口論し、

ミヅキは誰かがバケツを構えるたび、

ユイの背後に隠れる。


砂の城は、

いつの間にか形になっていた。


それぞれが塔を選び、

棒でイニシャルを刻む。


ナナミは黙々と作業していた。

彼女の塔は一番小さく、

不釣り合いなほど繊細だった。


小さな窓。

完璧な堀。

ピンクのバケツで水を満たす。


唇を噛みしめながら、

少しずつ縁を整える。

失敗すれば、

すべてが崩れそうだった。


斎藤が隣にしゃがみ、

橋を補強しようとする。


ナナミは、

ぴたりと動きを止めた。


大きく見開いた目。

赤くなる頬。


どうしていいか分からないまま、

彼が指差した砂の亀裂に、

小さく頷く。


彼女は何も言わず、

ただ彼の動きを見つめていた。


それから――

誰かが砂を投げるたび、

ナナミは真っ直ぐ彼のもとへ走った。


背中に隠れ、

シャツを両手で掴む。


「斎藤さん……守って」

重さのない、小さな声で囁く。


彼は多くを語らない。

ただ、

彼女を覆う位置に立つ。


広い影が、

ナナミをすっぽり包んだ。


太陽はゆっくり沈み、

空は橙から紫へ変わる。


家のそばで焚き火を起こし、

昼の熱は火の温もりに置き換わった。


笑いながら、

パジャマに着替える。


最後に現れたのはナナミだった。


ピンクのうさぎ柄のパジャマ。

裾付きのズボン。

耳付きフード。

胸には小さなクマの刺繍。


うさぎのぬいぐるみを

体の一部のように抱えている。


斎藤の隣に座り、

床に届かない足を揺らす。


夜風が冷たくなると、

彼は黙って上着を脱ぎ、

彼女にかけた。


丈は足首まで。

袖は、

役に立たない翼のように垂れる。


ナナミは鼻先まで埋もれた。


「斎藤さん……

斎藤さんの匂い。

すごく、好き……」


彼は一瞬、

必要以上に彼女を見つめ、

壊れ物に触れるように

そっと頭を撫でた。


午前二時五十分。

家は眠っていた。


広間に敷かれたマットレス。

床の毛布。


ナナミはフードを被り、

ぬいぐるみを頬に押し当て、

斎藤の上着に包まれて眠る。


うさぎの靴下のつま先が、

少しだけ覗いていた。


斎藤は廊下のソファで眠っていた。

背中を広間に向けて。


「見張りのため」

そう言っていた。


午前三時十一分。


ナナミが叫んだ。


空気が胸の中で

壊れたような、

詰まった悲鳴。


夢の中で、

斎藤は事務所の屋上にいた。


夜は重く、

向かいには、

背の高い美しい女。


長い黒髪。

耐えがたいほど穏やかな笑顔。


ナナミは走る。

だが、足は進まない。


地面が伸びる。


女はナイフを取り出す。


切り口は、

正確だった。


温かく、

濃い血が溢れ、

斎藤のシャツを染める。


彼は膝をつき、

もう存在しない何かを探す。


「斎藤さん!」


ナナミは本当に泣きながら叫ぶ。

掴むもののない空に、

手を伸ばして。


目を覚ました時、

彼女は嗚咽していた。


斎藤が廊下から駆け込み、

考えるより早く、

彼女を抱き上げる。


ナナミは彼のシャツにしがみつく。

世界で唯一、

現実のもののように。


「行かないで……お願い……

傷つけられる……」


震えながら泣く。


「……大丈夫」

彼は囁く。

「夢だ。ここにいる」


少しずつ、

ナナミは落ち着いた。


顔を彼の胸に埋めて。


斎藤は、

視線を上げた。


海に面した窓。


外側から、

まだ滴る新しい血で、

文字が書かれていた。


――

「小さい子は、もう見た。

次は、本物になる」


風が突然、

家を揺らした。


その瞬間、

浜辺はもう、

避難場所ではなくなった。

守られる夢には、

終わりがある。


そして――

一度、見られてしまった未来は、

必ず現実になる。


ナナミは、

もう知っている。


次は、

夢では終わらない。

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