第一章 影の中の声
声は――
誰かがそれを“聞こうとした瞬間”に、生まれるのだと言われている。
ステージの上では、笑顔が輝き、照明が視界を奪い、
未来は簡単に信じられる約束の形をしている。
けれど、拍手でも、歓声でも、
そして心の奥からでもない――
そんな“響き”が、確かに存在していた。
デビューよりも前。
名前が呼ばれるよりも前。
何かは、すでに待っていた。
ガラスの向こうで微笑む、もう一人の自分。
存在する前から、歌われていたかのような旋律。
これは、
“見られること”を夢見た九人の少女たちの物語。
そして――
彼女たちから、決して視線を逸らさなかった
“何か”の物語でもある。
リハーサル室は、今にも切れそうに明滅するスポットライトの下で、凍りついたような空間だった。
巨大な鏡はすべての動きを吸い込み、映し返すのは緊張した身体だけではない。
足音の隙間に染み込む、重く澱んだ沈黙までも抱え込んでいる。
音楽――カワイイ系メイドアニメのオープニング――が、眩しいほどのエネルギーで鳴り響く。
もう誰も驚かない。
何度も、何度も繰り返してきた曲。
リズムはすでに筋肉の奥に刻み込まれていた。
それでも、明るい旋律の下には、別の何かが滑り込んでいるように感じられる。
古びた振動。
まるで、この曲が決して消えきらない層を内側に抱えているかのように。
九つの影が、完璧なシンクロで踊っていた。
そこに熱はない。
あるのは、ただの習慣。
色違いのアクセサリーが手首や首元、腰を飾り、薄暗い空間の中でわずかに主張する。
顔は闇に溶け、表情は見えない。
長年、それが彼女たちの約束だった。
姿を見せずに練習し、誰の視線も届かない場所で磨き続ける。
京香が先頭に立ち、テンポを刻む。
髪に結ばれたピンクのリボンが、ほとんど機械のような正確さで揺れていた。
「もう一回」
短く、命令する声。
「メインの声が震えちゃだめ」
手首に緑のアクセサリーをつけた春菜が、黙ってうなずく。
ターンの途中、彼女の指先が京香の指に一瞬だけ触れた。
それも、振り付けの一部のように計算された動き。
「……いつも完璧じゃなきゃいけない」
小さく呟く。
「まるで、誰かが失敗するのを待ってるみたい」
メインボーカルは伽羅だった。
首元の赤が、深く息を吸うたびに際立つ。
その声は強く、まっすぐだったが――サビに入った瞬間、わずかに踏み出す位置を誤った。
近くの譜面台が、誰にも触れられていないのに倒れる。
床に叩きつけられた音が、異様なほど大きく響いた。
音楽は続いている。
だが、その旋律の隙間に、何かが混じった。
――囁き声。
それは伽羅の声を、不気味なほど正確に真似ていた。
同じ……なのに、違う。
空っぽで、遠い。
擦り切れた録音のように。
水色のバングルを強く締めた七海が、一瞬だけ動きを止める。
「……今の、聞こえた?」
声を潜める。
「なんか変……前と違う」
他のメンバーも固まった。
恐怖ではない。
最初に広がったのは、違和感だった。
この曲は、ずっと同じだった。
変わるはずがない。
京香が、音楽を強引に止めた。
「集中して」
振り返りもせずに言う。
「もう、十分時間を無駄にした」
伽羅は、肩に何かが触れた感触を覚えた。
冷たい――。
彼女は、鏡を見る。
そこには、確かに自分が映っている。
……けれど、どこか違う。
ツインテールが、少し長い。
瞳は、感情を失ったように空虚だった。
鏡の中のそれは、歪んだ笑みを浮かべ、オープニングのリズムに合わせて唇を動かしている。
音程を、ほんのわずかに外しながら。
まるで、そこが自分の居場所だと言わんばかりに。
照明が激しく瞬いた。
光が落ち着いたとき、鏡の中の姿は元に戻っていた。
だが――囁きは消えない。
拍の間に潜み、しつこく残り続けている。
七海は脚から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
悲鳴を必死に噛み殺しながら。
京香が音楽を切る。
「無視して」
冷たく言い放つ。
「デビューは近い」
誰も答えなかった。
残された沈黙の中で、
曲はまだ、どこか見えない場所で鳴り続けているようだった。
――音楽とともに、何かが目を覚ましたかのように。
そこに、いるはずのない何かが。
その夜、
建物が完全な静寂に沈み、照明が一つずつ落とされたあとも――
練習室は、空にはならなかった。
鏡はそこにあった。
動かず、闇を飲み込み続けていた。
音楽は止まっているはずなのに、
旋律の残滓だけが、呼吸のように空気に漂っていた。
もし誰かが見ていたなら、
ガラスの向こう側で“何か”が動くのを目にしただろう。
それは、踊らない。
立ち位置も、振り付けも、直さない。
ただ――笑っているだけ。
誰も歌っていないはずの歌詞に合わせて、唇が動いた。
擦り切れた、古い声が、床を這うように響く。
――もうすぐ。
スポットライトが、最後に一度だけ瞬いた。
そして、満足したかのように、
その“映り込み”は静かに目を閉じた。




