1章 1000万円のカード
◆ プロローグ ——一千万円のカード
エルドラシア。
世界中で大人気のトレーディングカードゲームだ。
ドラゴン、英雄、エルフ、妖精、精霊、天使、悪魔、果ては神や魔神など、種族なんでもあり。
豪快なロマン砲から、神経を削るコントロールまで、プレイヤーの数だけ戦い方がある——俺はそんなエルドラシアに、人生そのものを捧げてきた。
そんなカードゲームオタクである俺は、今日一世一代の瞬間を迎えようとしていた。
そう、それは——
ショーケースの中で、淡い光を放つ一枚のカード。
《氷界の大天使セラフィエル》。
世界に五枚しか存在しない、エルドラシア史上最高峰の限定配布カード。
イラストの端に描かれた繊細な氷の欠片、少しだけあどけなさの残る横顔、巨大な大剣を軽々と構えるシルエット——その全てが、俺の“性癖”にぶっ刺さっていた。
俺はその前で、数分どころか数年分のため息を吐いた気がする。
「……本当に、買っちゃうのか……?」
喉が乾く。胸が痛い。
けれど、それ以上に胸が高鳴っていた。
二十歳で就職をしてから十五年間。
仕事をしてはカードを買い、生活費以外はすべて貯金。
恋愛なんて経験しないほど、カードゲーム「エルドラシア」にのめり込んだ人生だった。
世界大会出場経験もある。
だが、プレイングも構築も語り尽くした俺にとって、最後に残っていた“夢”は——このカードを手に入れることだった。
そして今日。
ついにその“推し”が手の届く位置にある。
「お待たせしました。ご購入でよろしいですね?」
カウンター越しに、店員が柔らかく微笑む。
俺は震える手で、ゆっくりと頷いた。
「……お願いします」
カードが白い手袋に包まれ、慎重に専用のマグネットローダーへ収められていく。
まるで儀式だ。俺の十五年間が、この数秒に凝縮されている。
「こちらが《氷界の大天使セラフィエル》になります」
テーブルに置かれた瞬間、鼓動が跳ねた。
会計は——一千万円。
決済音が鳴る。
スマホの残高が一瞬で削られる感覚に、手が震えた。
だが、不思議と後悔は一度もなかった。
「セラフィエル……ずっと欲しかった」
透明なケース越しに見える、微笑む天使。
イラストの微笑みが、何よりも美しかった。
それだけで、人生が報われた気がした。
店を出て、ルンルン気分で夜道を歩く。
街灯のオレンジ色の光が、ケースの中のカードをきらりと照らした。
「さあこのカード、どうするかな……飾るだけじゃもったいないよな……いやでも傷とか怖いし……神棚買うか? いや、ガチで神棚買うのもアリでは……?」
完全にテンションが上がっていた俺は、ひとりでブツブツとカードの将来について語り続ける。
そんな時だった。
背後から、足音が近づいてきたのは。
コツ、コツ、と硬い靴底の音が、夜の路地裏に響く。
「……カード、持ってるよな。それ、渡せ」
低い声。
振り向くと、男がひとり。フードを被り、手には輝くもの——ナイフ。
心臓が凍りついた。
でも、反射的に俺は、胸に抱えたケースをぎゅっと強く抱きしめていた。
「これだけは……絶対に渡せない」
口が勝手に動いていた。
うわ、俺何言ってんの? って頭のどこかで思う。
ここでカードを差し出せば、多分生き残れる。それぐらいの判断力はある。
けれど、十五年分の時間と感情と執着が、それを許してくれなかった。
「なら死ね!」
鋭い痛みが胸を貫く。
「っ……!」
声にならない悲鳴が喉の奥に引っかかった。
膝が崩れ、視界がぐにゃりと傾く。世界がスローモーションのように遠ざかっていく。
胸元のパーカーが、生ぬるい感触で濡れていくのが分かった。
呼吸がうまくできない。肺に空気が入ってこない。
そんな騒ぎを聞きつけたのか、周りの家から人が飛び出してくる。
犯人は人の気配を感じると、俺を蹴飛ばすようにして道端に転がし、そのまま走り去った。
手に握りしめていたケースに、べったりと血が付いている。
それでも、カードは傷ついていなかった。
「……守れた……よかった……」
胸が焼けるように痛いのに、安堵の息が漏れる。
バカだな、俺。
最後に見たセラフィエルは、気のせいか、いつもより優しく微笑んでいるように見えた。
誰かの悲鳴。誰かの「救急車を!」という声。
遠くで響くサイレンの音を聞きながら、俺の意識は静かに闇に沈んでいった。
——ああ、でも。
せめてあのカードだけは、誰にも奪われませんように。
⸻
——暗闇の中に、突然無機質な音声が響いた。
【エクストラジョブ《カードゲーマー》を確認】
【特例ルートによりジョブ適性を付与します】
【召喚スキル:デッキ構築/カード使用/現界】
【前世のデッキ50枚を引き継ぎます】
「……は?」
意識が浮上する瞬間、強烈な光が弾けた。
⸻
「……っ、は……!?」
俺は地面に伏せた状態で目を覚ました。
鼻を刺す、湿った土の匂い。
風に揺れる木々のざわめき。
高い場所から鳥の鳴き声が聞こえる。
どこを見ても、見覚えのない森。
「……あれ?」
ゆっくりと手を見つめる。
皺が、ない。
血管も浮いていない。
肌はくすみもなく、ハリすら感じる。
試しに頬へ触れると——
つるつるだ。
「ま、待て……俺、三十五だよな?」
慌てて立ち上がろうとした瞬間、
身体が軽すぎてバランスを崩しそうになった。
筋肉が、よく動く。
腰も痛くない。
膝も軋まない。
そして——胸元のパーカー越しに触れた腕は、
十五年前、社会人なりたての頃と同じ太さ、同じ弾力だった。
「……夢、じゃないよな」
思わず独り言が漏れる。
胸に手を当てる。
さっきナイフで刺されたはずの場所——パーカー越しに触れても、痛みも、傷跡もない。
そして服装は——
ジャージ、Tシャツ、パーカー。会社帰りの、いつもの格好のままだった。
「え、夢? 夢だよな? いや、現実で刺されて、ここが夢……? でも痛くないし……いやでもさっきの音声何?」
状況を理解しきれないまま、俺はふらつきながら立ち上がる。
木々は高く伸び、幹は太く、見たこともない葉の形をしている。
風はひんやりと肌を撫で、土は柔らかく、ところどころ水たまりが光っていた。
ファンタジーゲームによくある“最初の森”——そんな言葉が頭に浮かぶ。
そのとき、背後の茂みが揺れた。
ガサッ。
「……誰だ?」
反射的に振り向く。
そこにいたのは——
緑色の肌、膨れた腹、棍棒を握った小柄な人型の怪物。
目はやたらとギラギラしていて、口元には涎が光っていた。
俺は、その怪物に見覚えがある。
そうだ、こいつは——!
ゴブリン。
エルドラシアでも雑魚中の雑魚、★1の弱小種。
スターターデッキによく入っていて、初心者が真っ先に抜くやつ。
……なんで、そいつが、目の前にいるんだ。
「……マジかよ」
ゲーム画面で見慣れたゴブリンと違い、こいつは“生きている”。
肌は汗と脂でぬめり、歯は黄色く濁り、獣臭と血の匂いが混ざったような悪臭が漂ってくる。
その口元がニチャアと歪み、ギラついた目が俺を捉えた。
「ギィッ!」
「うわ、ちょっ、待て待て待て!!」
ゴブリンが棍棒を振りかざし、勢いよく突進してくる。
俺は反射的に逃げ出した。
体は二十代の若さに戻っているとはいえ、戦闘経験なんてあるわけがない。
「無理無理無理無理! 現実ゴブリンとか聞いてないから!!」
森を駆け抜けながら、頭の中で警報が鳴り響く。
背後からは、荒い息遣いと、ずしんずしんという足音。
木の根につまずきそうになりながら、必死にポケットを探る。
「何か……何か武器になるもの……!」
ジャージのポケットにあるのは鍵と財布だけ——
と思った瞬間、指先が“固いカード状のもの”に触れた。
「……え?」
取り出すと、それは光り輝くカードだった。
薄い板のようなそれは、見慣れた枠とロゴ、そして——
《氷界の大天使セラフィエル》
「本物……? いや、夢じゃ……」
あの死ぬ間際に命を懸けて守りきったカード。
血に濡れたケースごと、消えていったはずの一枚が——今、俺の手の中にある。
「いやいやいや、おかしいだろこれ……」
そう呟いた瞬間、視界の前に半透明の青いウィンドウがポン、と浮かんだ。
【召喚可能カードを確認】
「……は?」
意味がわからない。召喚?
つまり、セラフィエルを“こっちの世界に”呼ぶということか?
そんなゲームみたいな、とツッコミを入れる余裕もなく、足はもう限界だ。
走り続けて数分、肺は焼けるように苦しく、足も鉛みたいに重い。
背後のゴブリンの足音は、どんどん近づいてくる。
【《氷界の大天使セラフィエル》を現界しますか?】
【はい/いいえ】
「……はいに決まってるだろ!!」
俺は迷わず“はい”をタップした。
——その瞬間、世界の色が変わった。
周囲の温度が、一気に下がる。
さっきまで汗ばんでいた肌に、刺すような冷気がまとわりついた。
空気が凍りつくような冷たさが渦巻き、青白い光が天へと伸びる。
風が爆ぜ、氷の羽根が吹雪のように舞い散った。
ゴブリンが驚いたように足を止め、目を細める。
眩すぎる光の柱。その中心に——
ひとりの少女が浮かんでいた。
俺の目線と同じ高さ、いや、少しだけ下。
水色のミディアムヘアがふわりと揺れ、その頂点からは、ぴょこんと一本、アホ毛が跳ねている。
瞳は澄んだシルバー。その奥に、凍てつく冷たさと、不思議なあどけなさが同居していた。
背中には、重なるように四枚の透明な氷翼。
光を受けてきらきらと輝くその姿は、まさにカードイラストの再現そのもの——いや、イラストよりもずっと、立体的で、美しかった。
そして何より目を引くのは、彼女の身丈をはるかに超える巨大な大剣だ。
氷を削り出したようなその大剣は、人間が持てるサイズを完全に超えている。
分厚い刃には、無数の氷晶が埋め込まれており、振るわれる前から空気を震わせていた。
俺が大好きで、大金を叩いてまで買った推しのカード。
大天使セラフィエル。
それが、そこにいた。
召喚された余波なのか、勢いよく辺りを風が吹き抜けていく。
ゴブリンも、急な光と風に驚いたのか、目を細めながら一歩後ずさった。
「初めましてマスター。大天使の一柱、セラフィエルで——キャーッ!」
優雅に自己紹介をしようとしたその瞬間、バランスを崩した。
ふわり、と浮いていた身体が前のめりになり、そのまま——
ドサッ。
「いったぁ……」
見事に着地に失敗して、地面に突っ伏した。
氷の羽根がぱたぱたと揺れ、彼女は涙目で起き上がる。
その銀色の瞳と、俺の視線が合った。
思わず、息を呑む。
(……綺麗すぎない?)
直感で、そう思った。
「だ、大丈夫……?」
「あっ……は、ハッ! 大丈夫です! お見苦しいところをお見せしてすいません! 着地に失敗しました!」
ぺこぺこと頭を下げる。
この子はポンコツなんだろうか?
いや、天使だよね? 大天使だよね? 大天使って着地に失敗するの?
そんなツッコミが脳内を駆け巡る。
と、そのとき——背後から、あの嫌な声が聞こえた。
「ギィッ……!」
そうだった。今はそんなことを悠長に考えている場合じゃない。
さっきの光と風で怯んでいたゴブリンだったが、今は完全に臨戦態勢。
棍棒——いや、今度は腰に差していた短刀を引き抜き、こちらに飛び掛かろうとしていた。
避けるか、逃げるか、叫ぶか。
身構えようとした時には、すでにゴブリンの短刀が、俺の目の前まで迫っていた。
(あ、これ刺されるやつだ——)
脳がそう理解した瞬間、本能的に目をつぶる。
だが、いつまで経っても、その刃が俺の体に触れる感覚はなかった。
「……え?」
恐る恐る目を開ける。
そこには、さっきのポンコツ天使がいた。
ゴブリンの短刀を、素手で掴んでいる。
小柄で華奢な腕。
それなのに、その手からは信じられないほどの力強さが滲んでいた。
ゴブリンは掴まれた短刀を引っ張ろうとするが、ビクともしない。
セラフィエルの指は、短刀の刃をしっかりと挟み込み、その場から一歩も動かない。
金属が軋む嫌な音だけが響く。
やがて、ゴブリンは短刀を諦めたのか、一度距離を取ると、今度は体勢を低くして再度臨戦態勢へと移行した。
「アナタ……マスターを刺そうとしたんですか? コレで?」
セラフィエルの声色が変わった。
さっきまでのドジっ子っぽさは消え失せ、
代わりに、底冷えのするような静かな怒りが混じっている。バキンと音を立て短刀が小さな手によって粉砕される。
周りの空気がびりびりと震えだした。
「マスターに危害を加えるものは——容赦しませんよ」
彼女はそう告げると、手を離した短刀など一顧だにせず、背中の大剣の柄に手をかけた。
氷の大剣が、ぎしりと音を立てて持ち上げられる。
彼女の身体に対して明らかにオーバーサイズなその武器は、本来なら持ち上げることすらできないはずだ。
だが、セラフィエルはそれを片手で軽々と構えた。
その瞬間、彼女の足元からパキパキと音を立てて地面が凍っていくのが見える。
(あ——これヤバいやつ)
直感が告げる。
これは雑魚相手に出す火力じゃない。
セラフィエルは軽やかに一歩、前へ踏み込み——
そのまま地を蹴って跳躍した。
空中で体をひねり、巨大な大剣を大きく振りかぶる。
俺が知っているカードイラストの構図と、同じだ。
だけど、今目の前で起きているのは、紙の上じゃない。
現実だ。
氷の大剣が、うなりを上げて振り下ろされた。
「——消えなさい」
ズバァァァンッ!!
ゴブリンは、一瞬で両断されていた。
断面から血が吹き出すより早く、その体は白く凍りつき、砕け散る。
だが、それで終わりではなかった。
斬撃が地面に触れた瞬間、そこから氷の波紋が広がる。
白い霜が瞬く間に地面を這い、木々を駆け上がり、空気ごと凍らせていく。
息をするたびに肺が痛い。
視界の端から端まで、森が——一面、氷に覆われていく。
一帯が、一瞬で氷漬けになった。
「お、おおおおい!! 待て待て待て! やりすぎ!!」
つい叫んでしまった。
ここまで来ると爽快感よりも、災害の光景だ。
「はうっ……や、やりすぎました!!」
セラフィエルは、大剣を地面に突き立てたまま、ポンコツ気味に頭を抱えた。
今のは絶対に雑魚処理の範囲火力じゃない。
★1相手に使っていいスキルじゃない。
俺は凍りついた森を見て、ただ呆然と立ち尽くした。
白く凍った木々、地面、砕け散った氷の欠片。
さっきまで生ぬるかった空気は、すっかり真冬のような冷たさに変わっている。
「で、でも! マスターを守れましたよ!」
セラフィエルは、エヘヘと照れくさそうに笑った。
氷の世界の中心で、その笑顔だけが、不思議と温かく見えた。
——ああ、そうか。
俺はやっと、理解した。
ここはもう、
俺が命をかけて追い続けてきた、あのカードゲームと同じ名前の世界で。
そして今、目の前にいるのは——
俺が一千万円と、命まで賭けて守った“推し”の大天使なんだ、と。




