三日目① 美汐真雪
美汐さんが帰ってくるまでは暇だ。
到着予定時刻は午前十時。今は夏休みシーズン、交通渋滞などによって遅くなることはあっても、早まることはまずない。つまり十時までは確実に暇なわけだけど、そんな日に限って、二日間かけてため込んだ疲労などどこ吹く風で早起きをしてしまった。
僕は美汐さんと会うのがそんなに楽しみなのだろうか? 十九歳児と呼ぶべき自分の無邪気さが少し恥ずかしい。
出発までだらだらしていようと、居間のソファに寝ころがってテレビのワイドショー番組を観ていると、
「昴流、摩沙花ちゃんとの約束はもういいの? あと二日くらいのんびりしたら神戸に帰りますっていう雰囲気だけど」
台所で野菜を刻んでいる聡子が声をかけてきた。冷蔵庫にある適当な野菜を一口サイズにカットしてマヨネーズベースのドレッシングで和えるという、彼女がよく作るサラダを準備している。
「美汐さんが来るまでごろごろしていようと思って」と答えようとして、美汐さんと会う予定を家族にはまだ言っていないと気がつく。
隠していたことがもしばれた、よりも恥ずかしい時間が訪れそうだし、ここは腹をくくるしかない。気恥ずかしさを感じながらもありのままを伝えると、
「ぎりぎりまで秘密にしていたなんて、親に知られるのがそんなに恥ずかしかったの? 珍しくかわいいところを見せたわねぇ、昴流」
「なんていうか、予想どおりの反応をするよな、母さんは」
「あらあら、恥ずかしがっちゃって」
「そう思いたいならそう思えばいいよ。別にいいよね? 昔のクラスメイトとデートくらい」
デートではないけど、ニュアンスとスタンスを正確に伝えるのは骨が折れるので、そういうことにしておこう。
「もちろん。お互いにもう成人しているんだから、親のことなんて放っておいて好きにやればいいのよ」
にこにこ顔をちらちらと肩越しに僕へと振り向けながら、聡子は言う。
「でも昴流、真雪ちゃんが来るまで時間があるんだったら、摩沙花ちゃんからの依頼に少しでも取り組んだらどうなの」
「摩沙花さんからは肩の力を抜いてやってくれって言われているし、昨日はがっつりやったし。だからまあ、今日はそれなりでいいかなって」
「でも、がんばるなとは言われてないでしょ」
「まあ、そうなんだけどさ」
そういう言い方をされると、だらだら過ごすのが後ろめたくなってくるから不思議だ。
同時に、危惧の念も抱いた。
摩沙花さんは「がんばりすぎるな」とは言ったけど、実際は熱烈に犯人探しの成功を強力に願っていて、うちの両親にはその本心を伝えている。犯人が見つかったあかつきには報酬を与えると告げられていて、両親はそれに目が眩んで、僕にはそのことを秘密にしたうえでプレッシャーをかけている――そんな可能性はないだろうか?
うちの両親に報酬が与えられるのなら、小石家の利益になるわけだからそれはまあいい。問題は、僕ががんばらなければいけないかもしれない、ということ。
昨日一日がっつり聞き込みをしたにもかかわらず、まったく手がかりを得られなかった難事件の解決を強要される、だって?
とんでもない! こっちは暇つぶし目的、空気よりも軽い気持ちで引き受けたというのに。
午前十時でも八月にもなるとしっかりと暑いし、セミもやかましい。
美汐さんの到着までまだ一時間以上ある。聞き込みをする気にはなれないけど、とりあえず自宅を出る。
おとといはあまり気にとめなかったけど、改めて見ると、網々海岸停留所は去年と比べて格段の進化を遂げているのが分かる。雨と日射し除けの屋根が新設され、ベンチは夏にぴったりな空色に塗り替えられ、さらには飲料の自動販売機まで。
どれもこれも、このくそ暑い中、暇を持て余している僕のような人間にとっては大変ありがたい。スポーツドリンクを買ってちびちびやりながら、時おり「暇だなぁ」とひとりごちつつバスの到着を待つ。ある意味夏休みらしい、お気楽で優雅なひとときだ。
ベンチに横になってみると、日陰と海風の相乗効果でかなり快適で、ついうとうとしてしまった。
はっと目覚めてスマホを確認すると、到着予定時刻を五分過ぎている。
スポドリはベンチから落下し、中身をあらかた吐き出している。わずかばかりとなった中身を砂浜に捨て、こぼれた箇所に足で砂をかけて隠蔽する。直後、道の彼方に大型車の銀色のボディが見えた。
十数秒後、バスは僕が待つ岸停留所に停車した。空気が抜ける音とともにドアが開き、約二十秒後に降車口から降り立ったのは、
「小石くん!」
二日連続で夜に聞いたのと同じ声に、あたり一面に薄桃色の花びらのエフェクトが散った。ワンテンポ遅れて、淡くもかぐわしい花香。純真の象徴みたいな白亜のワンピースの裾が、麦わら帽子から飛び出した長い黒髪が、ともにそよ風にさらさらと揺れる。
美汐真雪さんだ。
歳月の経過が彼女の顔立ちを大人びさせていた。五年前はしていなかったメイクだってちゃんとしている。かけている眼鏡も、視力を補うためだけに生まれたようなレンズがばかでかいやつじゃなくて、スタイリッシュな赤いフレームのもの。
地味な田舎娘が、垢抜けた都会の少女へと見事に変身を遂げているではないか!
八月の日射しの厳しさも、海から運ばれてくる潮の香りも、足を少し動かすたびに靴底に感じる砂の感触も、一切合切が消し飛んだ。吹き抜けたさわやかな真夏の突風がさらっていったのだ。
「待っていてくれたんだね。ありがとうね、この暑い中」
「約束したし、どうせ暇だから。美汐さん、なんていうか……」
人差し指でこめかみをかくワンクッションを挟んで、
「変わったね、美汐さん。あ、もちろん、いい意味でってことね」
「そう? その言い方、まるで変わる前のわたしが魅力的じゃなかったみたいだね」
「えっ? いや、そういうことでは――」
「冗談だよ。ちょっとからかってみただけ」
美汐さんは小首をかしげてくすりと微笑んだ。
あっ、同じだ、と思った。
たしかに外見に変化はあったけど、中身は全然変わっていない。笑うとあふれ出す優しさも、穏やかで柔らかな物腰も、ただいっしょにいるだけで人を安心させる雰囲気も。
たった一回の微笑みがそれを教えてくれた。おかげさまで、肩に入っていた余分な力が抜けた。
「外見は変わったけど、優しくて人当たりがいい美汐さんのままだね。変わってほしくないところが昔のままだったから、すごくほっとしたよ。うれしくなった」
「どういたしまして。小石くんはいい意味で五年前と同じだよね。性格とか、雰囲気とか、しゃべり方とか。今でも同年代の子といっしょにサッカーボールを追いかけて走り回っていそうな、そんな感じがする」
強いて言うなら、美汐さんは昔よりも受け答えが堂々としている。僕のような比較的親しい人間相手でもどこか遠慮がある人だったけど、人怖じをしなくなった。話し相手と合わせた目を一瞬たりとも逸らさないし、目元口元にたたえられた微笑は屈託がない。時おり黒髪を上から下へと撫でる白い指の動きは、何気ないけど美しいと感じる。つい目を奪われてしまう。
「立ち話もなんだし、そろそろ移動しようか。その前に飲み物を買う?」
「ううん、大丈夫。水分補給はバスの中でもしたし。話は歩きながらしよう。荷物、片方だけお願いできる?」
「了解」
小さいほうのバッグを差し出してきたけど、頭を振って大きいほうを引き受けた。これくらいかっこつけてもバチは当たらないだろう。
「それじゃあ、行きますか」
僕たちは肩を並べて歩き出した。
真っ先に互いの大学生活のことが話題に上った。寡黙な読書家だった美汐さんは、イメージどおり文学科に在籍しているのだそうだ。
「文学部ってことは、詩とか小説とか? 意外かもしれないけど、僕もたまに小説を読むよ」
「えっ、ほんとに?」
美汐さんは瞳をらんらんと輝かせて、怒涛のように質問をぶつけてきた。この作家の作品は読む? このタイトルは知っている?
挙げられたのは海外の作家・作品が多い。僕はそのほとんどを知らなかったし、かろうじてタイトルを知っていても一文字も読んだことがないものばかり。共通の趣味で盛り上がれると思って話を振ってくれたんだろうけど、残念ながら知識量にはかなり開きがあるみたいだ。
夢中になってただ言葉を吐き出すといった様子だった美汐さんは、僕の異変を察して我に返り、気まずそうに口をつぐんだ。なんだかこちらまで気まずくなって、慌ててフォローを入れる。
「美汐さんは小さいころから本を読んでいたけど、僕は高校生になったくらいからやっとだから、同じ『読書の習慣がある』でも差が出ちゃうのは無理もないよ。
でも、いいよね。いいっていうか、すごいよ。自分が好きなことを勉強しているなんて。僕なんて、学びたいくらい好きなことがなくて、将来にやりたいことが特に浮かばないから、結論を先延ばしにするためだけに大学に通っているからね。経済なんて興味のかけらもないのに経済学部に入っちゃった人間だから」
「わたしだって同じようなものだよ。仕事として文学に携わりたいかって問われたら、正直、自信を持ってイエスとは答えられないし。それに、周りを見たら小石くんみたいな人のほうが多いよ。全然おかしくないし、恥ずかしくないんじゃないかな」
美汐さんがすぐに温かな言葉を返してくれたおかげで、気まずい雰囲気はあっという間に解消された。
ローティーンのころまでの彼女は内気で口下手だった。僕だってそう上手いほうじゃない。すぐに持ち直せたのは、ひとえに美汐さんの成長のおかげだ。
僕はさっき「変わらないのはいいことだ」という趣旨の発言をしたけど、ポジティブな方向に変わるのはもちろん大歓迎だ。
雑談に花が咲いた。五年間の空白を埋めるような情報のギブ・アンド・テイク。一時間後には跡形もなく忘れているような他愛もない話。そのくだらなさが逆にいい。
もっと言ってしまえば、夏空の下、かわいい女の子と二人きりで、和気あいあいと談笑しながら田舎道を歩く。このシチュエーションを体感できているだけで、僕は心の底から満足だ。右隣からほのかに漂ってくるシャンプーの香り、澄んだ空に響くのどかな鳥の声、したたる汗が肌を滑る感触。
僕は確信する。今この時間こそが、僕の青春のハイライトだと。