初日③ ニンゲン
それにしても、と僕は考える。
総一郎の話ではたしか、摩沙花さんは独自に犯人探しをしたそうだけど、成果はなかったらしい。だからこそ、大学に通っているのだからまあ頭は悪くないだろう、なんていう理由にもなっていない理由から僕に白羽の矢が立ったわけだけど。
そもそもの話、捜査の素人とはいえ、被害者の遺族が血眼になっても探して見つけられなかった犯人を、知恵も人脈もない若造が突き止められるのか?
普通に考えれば、無理だ。
ニンゲンが起こしてきた数々のトラブルのせいで、島民は摩沙花さんには非協力的だったそうだ。探偵役が僕に替われば彼らからの協力を得やすい、と彼女は踏んだのかもしれない。
でも、仮に協力を得られたとしても、大きなプラスにはならない気がするのだけど――実際はどうなのだろう?
……考えれば考えるほど、摩沙花さんが僕に依頼した理由が分からなくなる。
他に頼れる人間がいなかったから、消去法? それとも、摩沙花さんだけが見抜いた、僕がまだ自覚していない、難問を解決に導く類まれな能力に期待している?
「警察は捜査に協力してくれないし、あたしは明智小五郎やシャーロック・ホームズにはなれそうにない。諦めろ、運命を受け入れろと周りの人間は言うが、大切にしていた所有物が殺されたというのに黙っていられるか? いられるわけがないだろう。須田倉摩沙花の立場に自分を置いて考えてみれば秒で分かることだ。
ニンゲンだろうがペットだろうが、人のものを壊したんだから犯罪だ。犯人にはどうしても罪をつぐなってもらわなくちゃいけない」
「大切にしていた……」
口にするつもりがなかった言葉が僕の唇からこぼれた。
念頭にあったのは、庭にあったニンゲンの墓。
自宅の庭に手造りの墓を建てる。ある意味、愛情があるといえるのかもしれない。だけど、だとしてもあれはちょっと……。
「バル、どうした? 不細工な顔して。なにか引っかかることでも?」
「話を聞いているうちに、摩沙花さんがニンゲンに愛情を持っているのか、いないのかがよく分からなくなって」
触れにくい話題だったけど、摩沙花さんから尋ねてくれたので助かった。
「人に依頼して犯人を探し出そうとしている一方で、名前をつけずにただニンゲンと呼んでいるじゃないですか。犬を飼っていたとして、ポチでもシロでもなくて犬と呼ぶ、みたいな」
「バルの家が犬を飼っていたことなんて、あったけ」
「飼っていなくてもだいたい分かりますよ。異常とまでは言えないかもしれないけど、正直、愛情はあまり感じられないんですよね。だから、どっちなのかなって」
「あたしがニンゲンを飼いはじめた動機、君のパパの口から聞いたはずだよ。旦那を失った悲しみやさびしさや喪失感が癒えないから、その埋め合わせだって」
「もちろんうかがっています。摩沙花さんの旦那さんが亡くなったのは、たしか――」
「ちょうど二年前の夏だね。学生時代から、かれこれ二十年以上連れ添ってきた人だから――おっと、歳がばれるな」
吹き口を左手に持ち替え、フリーになった右手でコーヒーカップを掴む。
「時間的にも長いし、もちろん密度も濃かった。だからショックはばかでかくて」
「赤ちゃんが成人するだけの歳月ですからね。無理もないです」
「事故が起きた当時のあたしは、時間が傷を癒してくれるものと楽観していたんだけど、とんだ見当違いだったよ。実際には少しずつ癒えているのかもしれないけど、いまだに全快には至っていないんだから」
摩沙花さんは音を立てずにコーヒーをすすり、テーブルに置く。無意識のように吹き口を右手に戻し、同じく無意識のように弄ぶ。
「話が逸れたけど、とにかくこれではいけないと思って、飼いはじめたのがニンゲンだったわけだ」
「なぜニンゲンだったんですか。犬とか猫とか、選択肢はいろいろありますけど」
「再婚するなり養子をもらうなりしても、人間である以上はいつ死ぬか分からないだろう。あたしは旦那の死によって、愛する人が死んだから途轍もなく悲しいし、心を立て直すのに途方もなく時間がかかるって、身をもって知ったわけ。だからこそ、人間じゃなくてペットなんだ。動物のほうが先にくたばる確率が高いけど、死んでも人間ほどは悲しくないからね」
うんうんとうなずきながらメモをとっていたのだけど、途中で「あれ?」と思った。
人間ではない生き物だと、死んでも人間の場合ほど悲しくない――。
人間ではない生き物の中からニンゲンを選んだ理由を僕は訊いたのに、その答えでは答えになっていないじゃないか。
そもそもニンゲンは元人間だったのに、死んでも悲しくないと言い切っている時点でおかしい。普通じゃない。
気がつくと、僕は首筋に粘っこい汗をかいている。
僕は七日間の予定で帰省した。島には娯楽がなにもないので、期間中はすこぶる暇。暇つぶしにはもってこいだし、探偵ごっこを引き受けるのも悪くないかな。そんな軽い気持ちで依頼を引き受けたわけだけど。
もしかすると。
僕は、考えていた以上に厄介な事態に巻き込まれてしまったのでは……?
「ところで、若き名探偵くん」
摩沙花さんの声に我に返る。少しくぐもっていると思ったら、いつの間にか吹き口をくわえている。コーヒーカップに浸してコーヒー色のシャボン玉を作る、なんて妄想をしたけど、そんなことはもちろんなくて、パステルピンクのそれをゆっくりと唇から離して、
「なにかあたしに訊いておきたいことはない? 依頼者としてバルには惜しみなく協力したいと思っているから、遠慮なく言いなよ。いつでも気軽に訪問してくれていいけど、手間だし、この機会を利用するといいと思うぜ」
「そうですね……。とし子さんの顔が分かるもの、なにかありますか」
「ああ、あるよ。アナログの写真が一葉だけ。ちょっと待ってな」
吹き口をペン回しのように指で回しながら応接室から出ていく。
摩沙花さんは二分ほどで戻ってきた。
「あたしとニンゲンのツーショット写真だ。ニンゲン宣言を行ったときに記念に撮影したものだよ」
横長の長方形の中で、背景が襖で床は畳という空間に、摩沙花さんと小柄な少女が並んで立っている。
少女――とし子は、中学生か高校生だろうか。体つきは貧相で、顔つきは不幸そうで、死んだ魚のような目をしている。色濃い負のオーラを発散していて、見るからに陰気だ。
「どうだい、うちのペットは。なかなか愛嬌がある顔をしているだろう。美人は三日で飽きるというが、ニンゲンの顔は毎日見ても見飽きなかったよ」
「はあ……」
「写真を見て、なにか気がついたことは?」
「特にない、ですかね。でも、被害者の顔を知れたのはよかったかな」
「写真はバルが持っておくといい。返却する必要はないから、自由に活用してくれ。時間が経ってから見返してみると、またなにか発見があるかもしれないからね」
「ありがとうございます」と会釈してトートバッグにしまう。
大切なものだけど、捜査に協力してくれるのだから君に託す。ニンゲンが写った写真は他にもたくさんあるから、一葉くらいならあげてもいい。
そう好意的に解釈することもできるけど、とし子に対する思いを聞いたあとでは、大事ではないからこそプレゼントしたとしか思えない。
「バル、まだ早いけどいっしょに夕食はどう? 宅配にしようと思っているんだけど」
ほんの少し迷ったけど、頭を振った。
「お気持ちはうれしいですけど、今夜は家族といっしょに食べさせてください。なにせ一年ぶりの帰省なので」
「分かるよ。バルの気持ちはよく分かる。家族と過ごす時間は大事だからね。旦那に先立たれたからこそよく分かるよ」
失礼します、と言って腰を上げる。ちょっと後ろめたかったけど、でも、家族と食べたい気持ちも嘘じゃない。
摩沙花さんは腰を上げない。客を玄関まで見送りに出ないのが彼女のスタイルだったな、と思い出す。コーヒーカップに典雅に唇をつける姿に向かって会釈し、応接室から出て行く。
「あっ、そうか」
須田倉家を辞して約二分、樫原さん所有の鉄工所に差しかかったところで思い出した。
「墓参りだ、墓参り」
密度の濃い時間を過ごしたせいで失念していたけど、それも義務として課せられていたのだった。
墓参。ニンゲン殺しの犯人探し。実家に帰省した目的が、二つとも死にかかわるイベントというのは、なんというか、
「なんとも言えない気分だな……」
子眉山を目指して炎天下を歩く。アスファルトの照り返しが身を焼いてくるけど、農作業に励んでいる人間すらも不在の、田舎の夏ののどかな風景が苦痛を相殺する。今にも井上陽水の『少年時代』が流れてきそうだ。
霊園にたどり着いた。盆だというのに誰もいない。
墓に供えられている花と線香を見て、墓参りに必要なものは毒入りの団子しか持ってきていないことに気がつく。
「しょうがないな」
駐車場の隅に咲いていた、名もなき小さな白い花を摘み、墓と墓のあいだを縫って進む。
小石家の墓は平凡でデザインで、これという特徴はない。白い花と毒団子を供える。少し灰色がかったなんの変哲もない団子だけど、手で直に触らないように注意した。
瞑目、合掌。
義務、完了。
先祖の霊に思いを馳せる態勢を解除し、墓の背後からはじまっている子眉山へと視線を転じる。
標高は分からない。これという特徴のない、ありふれた小高い山という印象だけど、間近から眺めるとある種の迫力を感じる。圧迫感と言い換えてもいい。
当たり前だけど山は生きていて、日々成長している。小石家の墓との距離を年々縮めてきている。近い将来、霊園を呑み込むかもしれない。所有者が自治体なのか個人なのかは知らないけど、管理はどうなっているのだろう。このまま侵攻が進めば、真っ先に犠牲になるのは小石家の墓だというのに。
ニンゲン殺しの犯人がもし生きているのだとしたら、子眉橋を渡って本土に逃げたんじゃなくて、島内にとどまって、子眉山のような場所に身を潜めている気がする。
ただ、足を踏み入れて探してみる気にはなれない。刺したり噛んだりする虫が嫌というほどいそうだし、道なき道を歩かなければならないのは想像するだけでしんどい。怪しげな人物が山を出入りしているといった、目撃情報でもあれば話は別だけど。
そこまで考えたところで、物思いから覚める。
炎暑の日向で突っ立っていたのに、不思議と汗はかいていない。目の前では子眉山の最前線が生暖かい風に揺れている。
「……帰るか」