最終日① 犯人のゆくえ
午前十時半に網々海岸停留所を出発する便に乗る予定だ。
最終日の朝くらいゆっくりしたい。一人暮らし初年度だった去年の今日は、九時ごろまで布団で過ごし、聡子に叩き起こされて、慌ただしく荷物をまとめて実家に別れを告げた記憶がある。
しかし今年の夏は、朝の六時過ぎに目が覚めた。今夏どころか、人生で五本の指に入るくらいに寝覚めがいい。
待ち受けているイベントが心躍るものだから、ではない。むしろ展開によっては我が身に災いが降りかかる可能性もある。
心境としては大学入試当日の朝に近い。不安はある。緊張もしている。しかし魂が高ぶっていて、不安を感じ緊張を覚えながらも、気持ちは前のめりだ。言うなれば躁状態。怖いもの知らず。当たって砕けろ、とはまた違った向こう見ずさ。無鉄砲さ。
食事を終えた十分後には、僕はもう須田倉家のインターフォンを鳴らしていた。
「おお、バルか。おはよう」
摩沙花さんは機械越しに訪問者と言葉を交わすひと手間を省いて、僕の前に姿を見せた。ポニーテール、タンクトップにホットパンツ、右手にはパステルピンクの吹き口。小石家のハンドソープのように十年後も変わらないのだろうな、と思いながら「おはようございます」と返す。
「ところで、バルはあたしになんの用だい」
「今日が神戸に帰る日なので、お世話になったお礼と、ニンゲン殺し事件の捜査についての報告を兼ねて、朝も早いですが訪問させていただきました」
「そうか、わざわざすまないね。別に帰ったあとで電話で報告とかでもいいんだけど、礼儀正しいのはいいことだ。時間は大丈夫?」
「はい。出発は一時間半後ですから」
「支障はないわけだね。じゃあ、上がりな」
応接室に通された。本日の茶請けはバタークッキーで、飲み物はいつもどおりホットコーヒー。摩沙花さんは最後まで摩沙花さんというわけだ。
よっこいしょ、と摩沙花さんが向かいのソファに腰を下ろす。青みがかっているようにも見える褐色の瞳で僕を見つめながら、穏やかな口調で切り出した。
「バル。君はあたしになにかを伝えたくて、伝えたくてたまらない顔をしているね。一秒でも早く伝えたいと逸るんじゃなくて、神戸に帰る前に伝えなければ後悔するから伝えたいという意味での『伝えたい』かな。問題は、それがポジティブなものなのか、ネガティブなものなのかということだけど」
「よい意味でもあるし、悪い意味でもありますね」
「ほほう。意味深長で小説的な表現だね」
「小説を読むのはわりと好きなので。でも、よい報告であり悪い報告でもあるというのは本当です」
「あたしも小説を一冊も読まないわけじゃないが、たぶんバルほどは好きじゃないし、推理小説はむしろ嫌いなんだ。まどろっこしくて、結論を先延ばしにするのは悪徳だとは思っていないところがね。根本的に価値観が合わないんだよ。というわけで、ちっぽけな子眉島が生んだ希代の名探偵の小石昴流くん、単刀直入に結論を述べてくれ」
「それでは、お言葉に甘えて」
口元に拳を宛がって空咳をし、摩沙花さんの目を見つめる。
「ニンゲンを、道宮とし子を殺したのは、摩沙花さん、あなたですね?」
双眸が見開かれた。緊迫感を孕んだ沈黙が数秒間漂い、
「どうしてそう思ったんだい? ぜひとも理由を聞きたいものだね」
僕はジーンズのポケットから紙切れを取り出し、摩沙花さんに手渡す。彼女さんはそれを読む。
『摩沙花さんの発言:ニンゲンは人間ではないから、死んでも悲しくない』
摩沙花さんは口を半分開けた顔で僕を見返した。メモの文言が言わんとすることを理解しきれていないこと、僕に説明を求めていること、二つの情報が読みとれる。
「摩沙花さんはニンゲンが死んでも悲しくないんですよね? つまり、殺すことをためらう理由はない。だから、殺した」
「……それだけ? 他に根拠は?」
「いっしょに住んでいたから殺しやすいとか、いっしょにいる時間が長かったからこそ憎悪が湧いたとか、一応いろいろありますよ。自信満々に『犯人は摩沙花さんです』と断言すれば、摩沙花さんが犯人だった場合は動揺するかと思って言ってみたのですが――反応を見たかぎり、犯人は別人みたいですね。……すみません」
摩沙花さんは双眸をしばたたかせる。その動きがすぐに止まり、それを機に、口元は急激に表情を変えていく。無表情から、笑顔へと。
はっきりと笑顔だと識別できる形に変化を完了すると同時、笑い声が響き出した。呵々大笑という表現がしっくりくる大笑いだ。
ただし、狂気の笑いではない。理性はしっかりと保っている。ただ単にボリュームがばかでかいだけ。
摩沙花さんはなぜ急に?
考えようとしたとき、笑い声がぴたりとやんだ。
摩沙花さんの顔を食い入るように見つめる。口元が笑みの残滓に痙攣している。視線に反応したとでもいうように、痙攣がにわかに活動を停滞させた。注視すれば動きが見てとれるけど、一見しただけでは見抜けないレベルだ。
形のいい唇が歪んで隙間が生じ、息を吸い込む。
「実はあたしが犯人だけど、動揺を露わにしていないだけかもしれないよ。バルほどの頭脳の持ち主が、その可能性を見落とすはずがないよね。それなのに、どうしてそう簡単に白旗を挙げたんだい? もう少し手を替え品を替えして揺さぶってみたら、ぼろを出したかもしれないのに。なにか理由があるんだろう。教えてくれよ、探偵くん」
「それは――」
「それは?」
「そこまで必死になって犯人を突き止める理由がないからです」
「ほう。その心は?」
「だって、僕にとって道宮とし子は赤の他人なんですよ? 共通点はといえば、島で生まれ育って、まだ十代ということくらいで。交流もまったくなかったし」
口に出してはいけない言葉たちがするすると出てくる。
もう、おしまいだから。
事件に関わることもなくなるから。
「摩沙花さんからはペット扱いされて、友だちだったはずの美汐さんにも見捨てられて……。不憫に思って、同情して、絶対に犯人を突き止めてやる! なんて意気込んだこともあったけど、今になって考えると、『とし子ちゃんの味方は自分一人しかいない』っていう特別感に目が眩んで、酔っぱらっていただけなんだと思います。あなたが犯人ですねと人差し指を突きつけたのに、摩沙花さんが平然としていた時点で、意欲が萎えました。じゃあもういいや、事件は迷宮入りってことで、みたいな。摩沙花さんにはコーヒーやピザをご馳走になったし、そういう意味でも、犯人が不明のままこの件は幕引きってことでいいのかなって」
「なるほどね。……で、話はもう終わり?」
「はい。バスの時間もあるし、そろそろ帰ったほうがいいですよね」
僕はソファから腰を上げる。とたんに「バル」と呼びかけられた。「どうしました?」というふうに見つめると、摩沙花さんは吹き口を持った手を「座りな」というふうに上下に動かす。言われたとおりにすると、彼女はどこか微笑ましそうにため息をついた。
「いつ切り出すか、いつ切り出すかと思って待ち構えていたんだが、まさかまさか、訊かれないまま話し合いが終わることになるなんてね。探偵役としての義務を怠慢していると言わざるを得ないよ」
「訊かれないまま? ……どういうことですか」
「君は殺人事件の犯人を突き止めようとしているんだから、人の死というものに敏感にならなくちゃいけない。捜査に関する君の話を聞いたかぎり、深堀りしていない死が一つだけある。あたしの旦那だ」
摩沙花さんの旦那――ジョージさん。僕は彼とは生前ほとんど交流がなく、彼のことはほとんどなにも知らない。それもあって、彼にまつわる情報を誰かから訊き出したいな、という気持ちは漠然とあったのだけど、ニンゲン殺し事件と直接関係ないということで後回しにしているうちに、すっかり訊くのを忘れてしまっていた。
「あたしの死んだ旦那に関して、なにが知りたい? なにを訊いたら真相に近づけると思う?」
「じゃあ……。たとえばですが、死因は? たしかジョージさんは――」
「交通事故だよ。本土をドライブしていたさいに、信号無視の乗用車と正面衝突して即死だ」
同じだ、と思った。道宮とし子の両親の死因とまったく同じ。死因が交通事故だというのも、死んだ場所が子眉島ではなく本土なのも知っていたけど――まさか、信号無視の車と衝突したのが死因、というところまで同じだったなんて。
「愛する旦那の敵をとってやりたいと、旦那の葬式のときからずっと思っていてね。いつやろうか、どんなふうにやろうかって、ずっと考えていたんだけど」
「……まさか、とし子ちゃんの両親がジョージさんを?」
「いや、旦那を殺ったのはニンゲンの両親じゃない。どこの町にでも何人かはいるような、肉体労働に従事するひとり者のおっさんだ。そのおっさんは、被害者もろとも死んだよ。仲よく自分の愛車とともに潰れて、くたばったんだ。復讐の対象がいなくなったのに、どうすれば復讐を果たせるのか。あたしにとって難しい課題だったわけだけど」
「加害者の代わりにとし子ちゃんの両親を事故死させた、ということですね」
「違うね。連中は向こうから勝手にあたしの車にぶつかってきたんだよ。赤信号を無視してね。で、勝手に死んだ。あたしに過失がないのは裁判で確定している。だからあたしはブタ箱に行かずに済んだし、慰謝料も払わずに済んだ」
「でも、摩沙花さん。実はとし子ちゃんのおばあちゃんから話を聞いたんですけど、摩沙花さんは加害者だと言っていましたよ」
「道宮のばあさんならあたしも話をしたことがある。会話が部分的に通じないこともあったから、きっと認知症だったんだろうね。自分の都合のいいように真実を解釈するって、いかにも認知症の高齢者らしいよな。典型的な認知症の病状だ。それとも、バルはあたしのほうが嘘をついていると思っているわけ? だとすればショックだけど、なにが正しいと信じるのかは個人の勝手だから、あたしは文句をつける気はないけどね」
認知症だろうが健康体だろうが、高齢者だろうが若者だろうが、誰しも真実を捻じ曲げる可能性はある。それは分かっていたけど、僕は「摩沙花さんのほうが正しい」と思った。
……思ってしまった。
根拠は、よく分からない。
よく分からないなりにあえて答えを出すとすれば、摩沙花さんのとは昔から良好な関係を築いていて、きみ江はしょせん昨日知り合ったばかりの赤の他人だから、なんだと思う。