六日目④ さよならの前
……とし子が須田倉家に住所を移し、一人暮らしを余儀なくされたことで、きみ江の体調は急激に悪化した。世話をしてくれる人間がいなくなったからではなく、精神的なショックが要因なのは明らかだった。
道宮家に定期的に様子を見に来ていた親戚は、きみ江の急激な体調悪化を受けて、彼女を本土にある特別養護老人ホームに入所させた。
最後の最後で嫌な思い出を作った子眉島とは決別し、見ず知らずの施設で死ぬのも一興かもしれない。最初はそう考えたが、やはり島が恋しい。帰りたい。
きみ江は夜陰にまぎれて特別養護老人ホームから脱出し、島に帰還した。さすがに体力を使い果たし、自らの死がいよいよ目前に迫ったと確信。力尽きる前に先祖が眠る墓に手を合わせておこうと霊園に赴いたところ、よろめいた拍子に足を踏み外して斜面を滑落。全身を強打したが、幸いにも死は免れた。霊園に戻る道を探してさ迷い歩いたところ、小屋を発見。そこを本拠地と定め、暮らし始めた。
静かな環境で心身を休め、墓の供物や、野草や果実を食べているうちに体力が回復したので、ときどき須田倉家まで様子を見に行った。
ニンゲンになったとし子は吹っ切れたように奔放になり、「行幸」などと称して、裸になって須田倉摩沙花とともに島内を練り歩くなどして、島民にさんざん迷惑をかけている。
須田倉摩沙花はとし子を完全にペット扱いしていて、少しでも命令に背くと、散歩用のリードで鞭打ったり、しつけと称して食事を抜きにしたりと、よき飼い主ではなく暴君として君臨し、暴力的で嗜虐的な振る舞いを日常のものとしている。飼われている側が幸福だとはとても思えない。
しかし、きみ江は体調がいい日ではないと出歩けない。島民に見つかればただちに施設に連れ戻され、二度と子眉島に帰れなくなる可能性が高いため、大胆な行動は慎まなくてはならない。実質的になす術がなかった。
そして、六月も終盤に入って突如として舞い込んできた、とし子が何者かに殺されたという一報。
最愛の孫娘を失ったこと、一人きりで生きていかなければいけないこと、どちらにも強いショックを受けた。そして、とし子がまだ人間だったころにしていたように、きみ江は我が家であるボロ小屋にひきこもった。
余命一か月と宣告されてから二か月が経ち、三か月が過ぎ去ったが、きみ江はまだ死んでいない。
今となっては外出はごくまれにしかしない。出たとしても小屋の周りをうろつくだけだが、例外的にハラキリ岬には頻繁に遠征する。UFOから降りてきたエイリアンに殺されることで、一刻も早く、のんべんだらりと続くこの人生にけじめをつけたいから。
きみ江は語り終えた。古い蛍光灯が見苦しい明滅なしに寿命を終えたような終わり方だった。
見苦しくないのはさびしいことなのだ、と僕は学習した。小屋の中を、悪臭でも薫香でもない独特の匂いとともに、諦めに満ちた沈黙が満たしている。
暗澹たる現状を、きみ江は自ら打破する意思がないように見える。ただでさえ残り少ない寿命を、長広舌を振るうことに費やしたことで力尽きてしまったかのようだ。余命一か月の宣告を受けてからすでに三か月が経っていると言っていたけど、語らなければ、伝えなければという使命感が命を長らえさせていたのだろう。語り終わると同時に果てる、などというマンガ的な事態はさすがに起きなかったけど、燃え尽きた様子は息絶えた姿よりも痛ましく、終わった感がある。
きみ江の命は近いうちに尽きるのだろう。もはやハラキリ岬に出かけることもなく、死病に一方的に肉体を蝕まれるままに、この忘れ去られた小屋で死んでいくのだろう。
追加の発言はどうやらなさそうだ。ただ、話は終わったから帰ってくれ、というメッセージは発信されない。
だから僕は、よい映画を観たあとはしばらく座席に座ったままでいるように、もう少しここにいることにした。やはり映画鑑賞のときと同じく、インプットしたばかりの情報、味わったばかりの体験を振り返りながら。
きみ江の語りは、愛する孫への献身の記録だった。とし子への愛がひしひしと伝わってきた。溺愛しているといってもいいだろう。きみ江は美汐さんを指して、とし子を純粋に愛していないと評したけど、とし子に対するきみ江の愛はまぎれもなく本物だ。
特定の個人にこんなにも愛されたのだから、とし子は幸せだった。とし子は生来の気質が桎梏となり、この世界に適応しきれなかったようだけど、それでも幸せだったと思う。
しかしきみ江の語りには、ポジティブな部分にも見逃せない陰が潜んでいた。きみ江がとし子を指して、「責任をとりたがらない」とか「困難に直面するとすぐに逃げる」とか「冷酷だ」などと評価したことがそれだ。必ずしもストレートな表現は使っていなかったけど、明らかに否定的なニュアンスで使われていた。
とし子がひきこもったのも、不登校になったのも、自分が施設に入所させられたのも、煎じ詰めればとし子の弱さと狡さが原因。きみ江はそう認識している節がある。
「とし子への愛は本物」という発言と矛盾するようだけど、愛憎という言葉もある。とし子を「純粋に愛している」のは事実。一方で、いくばくかの憎しみを抱いているのもまた事実。たぶん、そういうことなんだと思う。
きみ江の指摘は正鵠を射ているのかもしれない。祖母が暗に指摘したような弱さを、広義の狡さとでも呼ぶべきものを、道宮とし子は持っていたのかもしれない。
しかし、それらの要素は、人間ならば誰しも大なり小なり所有しているものだ。その人が死んだあとで、わざわざまな板に載せて糾弾するのはいかがなものか。
きみ江はもう少し、とし子を神格化して語ってもよかったのでは? 非の打ちどころがない被害者として語ってもよかったのでは? かつて美汐さんがそうしたように。
美汐さんも「お口をぱくぱくするから、ぱくちゃん」だとか、悪口とも受けとれることを言っていたけど、悪意は感じられなかった。結果的に悪口になっていただけだった。
しかし、きみ江の場合はそれがあった。とし子をあからさまに非難することこそなかったものの、少量ではあるもののしっかりと有毒成分が含有されていた。
老人特有のくどくどしい、とりとめのない話し方だったために、遠回しに皮肉を言っているように感じただけ。その可能性を考慮したとしても、引っかかりを覚えるし、全面的には受け入れがたい、そんな長広舌だった。
僕がこうしてきみ江にあれこれけちをつけているのは、たぶん、きみ江が最後の砦だと認識していたからなんだと思う。
摩沙花さんは飼い主だったにもかかわらず同情的ではなく、美汐さんは捜査続行を断念して島を去った。きみ江と知り合った時点で、とし子の心からの味方になる人間は、僕自身ときみ江しかいない。そう認識していた。
しかしきみ江は、とし子という人格を全面的に肯定しなかった。悲劇に見舞われた原因はとし子自身にもあるとほのめかせるような言葉をところどころで吐いた。
きみ江はとし子と血の繋がりがあるし、いっしょに暮らしていたのだから、存命の人物の中ではもっとも深く、とし子に対する愛情を抱いているはずだ。
そう信じていただけに、失望は大きかった。
人間はもとより不完全な存在。全肯定なんて、そもそもできるはずがない。少しばかり否定的な考えを抱いていたからといって、きみ江はとし子を愛していないと断罪するのは酷だ。
そんな正論を自分自身にぶつけても、抱いてしまった失望はどうにもならない。
そして、ある意味ではこのこと以上に僕を失望させたのは、きみ江が役立たずだと明らかになったこと。
末期癌を患い、余命は残りわずか。体力もなければ気力もない。とし子を殺した犯人を見つけ出す意欲がないことも判明している。
孫娘を今も愛しているのはたしかだけど、そんなものは事件解決には猫の手ほども役に立たない。
どうやら現状、とし子のために行動できる人間は僕だけらしい。
「あの、僕はそろそろ帰りますね。きみ江さんはお疲れのようなので」
僕は立ち上がる。きみ江は項垂れたままだし、黙り込んだままだ。
もう二度ときみ江と会うことはないだろう。そう思いながら小屋をあとにした。
転がり落ちた斜面のあたりをうろちょろしていたら、霊園に戻る道が見つかった。上り坂だけど険しくなく、苦もなく元の場所に戻ってこられた。きみ江はハラキリ岬によく行くと言っていたから、体力のない彼女にも登れる道が必ずあると踏んではいたけど、それでもほっとした。
せっかく霊園まで来たのだからということで、小石家の墓の前で手を合わせる。この六日間で早くも三回目だ。四回目は、ご先祖さまのほうが願い下げだろう。僕が帰省初日に供えた白い花は、すっかり枯れて植物性の紐と化していたので、捨てた。これでこの場所に来る理由が完全になくなったわけだ。
とし子の墓を作るという目的を思い出したのは、霊園を出ようとしたときのこと。
やる気は萎えていたけど、義務感に操られて石を探す。どこにも見当たらない。子犬のように目線を低くしても、ちょっとした茂みをかき分けても。まるで神隠しにあったみたいだ。
とし子の墓は摩沙花さんの庭にすでにある。あの人はとし子をペットとしか見ていないけど、ペットとしては愛していた。「必ずしも見つけ出さなくてもいい」と言いながらも、僕に犯人探しを依頼するくらいには愛していた。その摩沙花さんが建てた墓があるのだから、それでいい。
僕は霊園をあとにした。
明日は神戸に帰る日だ。
けっきょく、なにも得るものはなかったな、と思いながら荷造りをする夜。
そもそも僕は、どの程度の成果を上げられると想定していたのだろう。
摩沙花さんが独自に捜査をして、結果が芳しくなかったので僕を頼った、という話は聞いていた。
まあ、難しいだろうな。というか、たぶん無理だ。大事なペットを殺されて憤り、血眼になって探しても突き止められなかったのに、頭脳も情熱もない僕が探したところで。
そんな諦めは最初からあった。心の中ではっきりとつぶやいたことはなかったけど、早い段階でそんな考えが確立されていた。
予想どおりの結果だったのに落胆しているのは、余分な収穫を得てしまったからだ。
人間の、狡さと弱さ。利己的であること。孤独であること。
羅列したらきりがないけど、どれもこれもネガティブなものばかりだ。
当たり前といえば当たり前の事実なのかもしれない。ただ、今年でやっと二十歳になる若造の僕には、いささか重い。もう少し、この世界に夢を見ていたかったのに。きれいな景色ばかり見ていたかったのに。
捜査のことを再び強く意識したのは、床に転がっていたメモ帳を発見したのがきっかけだった。
「懐かしいな」
最初にメモをとったのは、聞き込みを開始した帰省二日目だから、まだ四日前。それなのに懐かしいと感じるのは、メモを読み返したのが初日だけだったからだ。
昨日までの四日間、かなりの数の島民から話を聞いた。美汐さんほどはがんばらなかったけど、それでも累計百人近くに達しているはずだ。
僕が話しかけた島民はおおむね好意的で、ざっくばらんに話をしてくれた。顔を見たことがあるようなないような、くらいの関係の島民と、冗談みたいに話が弾んだこともある。質問をする側のはずが逆に質問を浴び、答える必要があるのか疑問な疑問に律儀に答えたところ、「あなたのことを知れてよかった」と謎の感謝をされたこともあった。島民との絆を深められたという意味では確実によかった。
ただ、犯人探しという意味では、得たものはないに等しい。
「……メモ帳、見返すんじゃなかったなぁ」
少しでもポジティブな収穫を見つけたくて回想したのに、逆に気が滅入ってしまった。さっさとバッグにしまって、荷造りを終わらせて、全てを忘れてしまおう。
メモ帳を放り込もうとして、取り落とした。その拍子に、ページとページのあいだから一枚の紙切れが滑り出てきた。拾い上げてみる。メモ帳からちぎりとって挟んでおいたものらしい。表は真っ白だけど、裏面に文字が書いてあるのが見え透く。
裏返してみて、僕は瞠目した。
『摩沙花さんの発言:ニンゲンは人間ではないから、死んでも悲しくない』