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六日目③ とし子ときみ江

 斜面の登り口から百五十メートルほど進むと、直径十数メートルほどの、膝よりも高い植物が生えていない、楕円形に開けた空間に出た。その中央にぽつんと一軒の小屋が建っている。木製のみすぼらしい外観で、僕は掘っ立て小屋という言葉を連想した。老朽化したというよりも、くたびれた木材を使って建てられたといった雰囲気で、壁や屋根もきれいな直線ではなくて歪んでいる。素材は天然ものなのに山に調和していない。

「この小屋、誰が建てたんですか? まさか手作りじゃないですよね」

「建てられるわけがないだろう、この老体で。もともとこの場所にあったんだよ。誰かが建てて、放置していたものを勝手に拝借している」

「本当ですか? それはそれで信じがたいなぁ」

「嘘をついて私になんの得があるというんだい? あんたは私の味方なのに」

「まあ、そうですけど」

 存在している以上は信じるしかないけど、それにしても、このおばあさんの周囲では常識外れのことばかりが起きるなぁ。

 蝶番がきしんでドアが開かれた。中は薄暗い。そして狭い。四畳半ほどだろうか。

 きみ江の手が明かりを点ける。家具は中央に置かれた小汚い卓袱台のみ。紙箱やビニール袋や衣類など、雑多なものが壁に沿って積み上げられていて、ただでさえ狭い室内をさらに狭く見せている。

 臭いような臭くないような、どちらともつかない臭いが室内を満たしている。加齢臭とは似て非なる臭気だ。人生に疲れた人間から立ち昇る臭いかもしれない、とも思う。

 きみ江は座布団をすすめてくれた。これ一枚しかないらしいけど、薄汚かったので、「高齢者ファーストですから」と言って辞退した。座布団の次に出してくれたのは、グラスに移したペットボトルの茶。賞味期限が怪しかったしグラスが汚かったので、飲むふりだけだな、と心に決めた。

 老婆がとし子の祖母だと知った直後は心が昂ったけど、住まいの汚さの前にすっかりテンションが下がってしまった。

 もしとし子が生きていたら、今の祖母を見てどう思うだろう。

 そんなことをぼんやりと考えていると、奥でなにやらがさごそやっていたきみ江が戻ってきた。茶菓子でも用意してくれたのかと思ったら手ぶらで、卓袱台を挟んで僕と向かい合う。

 忘れていた。僕は民生委員として一人暮らしのおばあさんの様子を見に来たんじゃない。探偵役としてとし子の話を聞きにきたんだった。

 きみ江は天板の上で両手を組み合わせる。インチキな占い師のように、パワーハラスメントをスキルに持つ上司のように。

「どこから話せばいいのかねぇ。あの子は、とし子は――」


 とし子は幼いころから病的に引っ込み思案な性格。重圧に弱く、逃げることを簡単に選び、責任をとりたがらない傾向があった。本質的には挑戦する人、トライする人だから、将来的には必ずや勧告する人へと変身を遂げるときみ江は信じていたが、いかんせん内気すぎる。手段を問わず、自らの意思を示すことが極端に少ないため、他者と良好な関係を築くのに苦労してきた。

 学校では友だちを作ることができず、日常的にからかわれる。意思表示をしないせいで、教師からは過小評価されることも珍しくない。挨拶をしても無反応なので、近所の住人からは風変わりな子だと思われていた。両親はそんな娘を肯定し尊重もしていたが、一方で「あの子はなにを考えているのだろう」と思い悩み、機会を見つけてはその問題について話し合ってきた。

 唯一の例外が、夫に先立たれたのを機に娘夫婦と同居を始めた祖母のきみ江。祖母の前でも、よし子が大人しい、無口な子どもなのは変わりないが、「なにで遊びたい」「なにが食べたい」といった欲求を、きみ江に対しては比較的積極的に口にした。ときにはわがままでさえあった。放課後や休日は年齢が近い少年少女とではなく、もっぱら祖母と時間をともにした。家の外に一歩出ると引っ込む笑顔も、家の中で祖母といるときは常に見られたし、外にいるときでも、祖母といっしょであればときどきは見せた。とし子が世界一心を許している人間は、両親ではなくきみ江だった。

 たった一人、家族以外でとし子と遊ぶことがある人間が道宮家の近所に住んでいて、それが美汐真雪だ。真雪はとし子の三歳上で、姉のような面倒見を発揮してきみ江の孫娘と交流した。道宮家に遊びにきたことがある人間は、記憶するかぎり真雪だけだ。

 友人を作れず、いつも一人でいるとし子が心配で、放っておけなくて、と真雪は動機を述べていた。しかし実際は、真雪はとし子ほどではないが人付き合いが苦手で、友人と呼べる関係の人間が存在せず、孤独感を解消したい。さらには、年下の世話を焼くことで自己満足に浸りたい。その二つが真の動機であって、とし子を純粋に愛しているわけではないときみ江は見抜いていた。純然たる友情ではなかったとしても、友だち付き合いをしてくれる人間がいるのは喜ばしいことだし、真雪が弱者を決して傷つけない心根の優しさと思いやりを持つ人間なのも分かっていたが、複雑な気分ではあった。

 きみ江としては、自分のような年寄りではなく、真雪などの年齢の近い子どもともっと仲を深めてほしかった。しかし、そう説教をすれば、とし子の愛情が祖母から遠ざかるかもしれない。きみ江はたまに遠回しに、同年代の友だちを持つ大切さについて話すだけにとどめて、孫と過ごす時間を楽しんだ。

 やがてとし子は中学生になり、本土の中学校に通うようになった。島民以外の同年代の少年少女が多数集う環境に、内気で非社交的なとし子は適応できず、どうやらクラスメイトからいじめられているらしい。

 耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んだとし子だったが、やがて学校に行かなくなり、自室にひきこもるようになった。義務教育だから、授業に出席しなくても卒業できるとはいえ、やはり登校してほしいし授業を受けてほしい。悩みを取り除いてあげられるものなら取り除いてあげたいと思い、本人に聞きとりを行ったところ、

「グンブが悪いの。全部グンブが……」

 いじめの首謀者らしき名前を挙げたが、具体的な被害状況や、名前以外の個人情報は断固として口にしようとしない。中学校に問い合わせたところ、とし子のクラスどころか学校全体を見ても、「グンブ」という名前の生徒は在籍していないと判明。問題解決は絶望的になった。

 そのころから、とし子はきみ江相手にも満足に口をきかなくなった。中学校進学により世界が広がり、世界にあふれる悪や不正や醜さを数多く見聞きし、体験したことで、悲観的な思いに支配されたらしい。

 きみ江はどうにかしたいと願ったものの、有効な手を見つけられない。

 そんな折、とし子の両親が交通事故に遭って急死する。休日、本土の幹線道路で愛車を走らせていたところ、須田倉摩沙花が運転するワゴン車と正面衝突。運転していた父親、助手席に乗っていた母親、ともに即死だった。須田倉摩沙花は左腕を打撲する軽傷。裁判の結果、道宮夫妻の過失と認定。慰謝料等々はいっさい支払われず、二つの尊い命が失われるだけの結果に終わった……。


 摩沙花さんの名前がいきなり出てきたときは耳を疑った。確認をとると、あんたがよく知っている須田倉摩沙花だよ、ときみ江。あんたにとし子殺しの犯人を見つけてくれと依頼した須田倉摩沙花で間違いないよ。

 ぶつけたい質問はいくつもあったけど、きみ江は話を先に進めた。


 ……きみ江は息子夫婦とは良好な関係を築いていたので、喪失感と悲しみは甚大だった。しかし、両親を亡くしたとし子のことを思えば、泣いてばかりもいられない。老い先短い身ではあるが、孫娘を守らなければ。少なくとも、独り立ちするまでは死ねない。

 そう意気込んだものの、老婆と少女の二人暮らしは不安要素だらけだ。体力の衰えから家事もままならず、むしろきみ江のほうがとし子の助けを必要としている。

 祖母として、たった一人の家族としてきみ江が考えなければならないのは、とし子の幸福だ。人見知りのとし子には精神的負担が大きいだろうが、本土の親戚のもとで暮らしたほうが幸せかもしれない。親戚に相談したところ、「成人するまでなら面倒を見る」という確約を得られた。

 きみ江はさっそくとし子にこのことを伝えた。すると、とし子は大粒の涙をはらはらと流しながら、

『おばあちゃんといっしょがいい。ずっと子眉で暮らしたい』

 不安がらせてはいけないから、孫の前で泣いてはいけない。そんな密かな決意は呆気なく崩れ去り、きみ江は滂沱と涙を流しながらとし子をひしと抱きしめた。自らの命に替えてでもとし子を守ろう。そう固く胸に誓った。

 しかしその数日後、きみ江は庭掃除をしているさなかに意識を失い、救急車で病院に搬送される。

 医者から下された診断は、末期の膵臓癌。余命は一か月。

 きみ江はショックを受けた。しかし比較的スムーズに、残された時間の全てを孫に捧げよう、短くても孫のためにできることがあるはずだ、と気持ちを切り替えられた。

 それも束の間、新たな事件がきみ江を襲う。とし子を自宅から病院へ、病院から自宅へと送り届ける役割を担った親戚が、きみ江が余命一か月であることをとし子にもらし、ショックを受けたとし子が自室にひきこもったのだ。

 きみ江は孫に自室から出てきてもらうべく試行錯誤した。しかし、閉ざされた扉は強固で、何度挑んでもびくともしない。きみ江は絶望した。

 そんな折、悲劇の連鎖の始まりとなった女である、須田倉摩沙花が道宮家を訪問した。手にはパステルピンク色の吹き口。サングラスをかけた口元には、無表情なようでも、薄ら笑いを押し殺しているとも、控えめに反省の念を表明しているともつかない、複雑怪奇な表情が浮かんでいる。

 きみ江は須田倉摩沙花を応接室に上げ、厳しい口調で用件を問い質した。須田倉摩沙花は口角にそこはかとなく淫らな笑みをにじませてこう答えた。

『裁判の結果、あたしはあなたたちに一銭も払わなくてもいいことになったが、それではおちおち夜も眠れない。単刀直入に言うと、道宮さんになにかしらの援助をしたい。金がいくら欲しいのか、金銭的な援助以外ならなにをしてほしいのか、遠慮なく言ってくれ』

『私はなにも望まない。強いて言うなら、あんたの顔は二度と見たくない。一秒でも早く帰ってくれ』

 きみ江は毅然とそう告げた。しかし、須田倉摩沙花は笑みを深め、

『あんたはそうかもしれないが、お孫さんは違うみたいだぜ?』

 いきなり襖が開き、とし子が姿を見せた。ひきこもって以来部屋着と化したパジャマ姿だが、その顔は服装に不釣り合いな凛とした表情に包まれている。人を恐れ、いつもなにかに怯えているとし子が、そのような表情を浮かべているのは珍しく、きみ江は息を呑んだ。

 とし子はきみ江ではなく、須田倉摩沙花に向かってこう言った。

『わたしは極度の人見知りで、人とまともにコミュニケーションがとれないから、一人では生きていけない。おばあちゃんが癌で死んだら、あとは死ぬのを待つだけになってしまう。三人で知恵を出し合って、わたしが一人になっても生きていける方法を考えてほしい。お願い、できるかな』

 きみ江は悟った。

 両親の事故のあと、とし子が『おばあちゃんといっしょに暮らしたい』と泣いて訴えたのは、きみ江に愛情を抱いていたからではなく、自分が生きるにはきみ江の助けが必要不可欠だからに過ぎなかったのだと。

 とし子はきみ江ではなく、須田倉摩沙花を見ている。血の繋がりがある、生まれたときからずっと同じ家で暮らしてきた、現時点で唯一の家族ではなく、愛する両親を殺した張本人を見つめている。

 とし子はたしかに内向的で、人見知りで、臆病な少女かもしれない。しかし、自らの人生がかかったときには、人前に出て、主張するべきことを主張するだけの胆力と、したたかさを併せ持っている。

 この子はもともと、祖母の助けなど必要なかったのかもしれない。

 きみ江は激しい脱力感を覚えた。失望に極めて近い感情だった。強い表現を使うなら、騙された気もしていた。そのせいで、とし子に物申す気力を捻出できなかった。

 須田倉摩沙花はとし子の申し出を了承し、さらに詳しく話を聞いた。話すほう、聞くほう、どちらも真剣な面持ちだ。

 きみ江一人が流れから取り残された。自分はあと一か月で死ぬ人間で、この二人はこの先何十年にもわたって生き続ける人間なのだ。そう痛感した。

 とし子の話を聞き終えたあと、須田倉摩沙花はすぐさまとし子にこう告げた。

『君はようするに、人前に出るのが怖いんだろう。一人の人間として恥ずかしくない、立派な振る舞いができる自信がない、だから怖いんだ。だったら発想を転換して、人間をやめてニンゲンになってしまえばいい。ニンゲン宣言だ。人間ではなくニンゲンなのだから、人前に出ても怖くない。なにをやっても恥ずかしくない。違うかい?』

 きみ江は絶句した。一方のとし子は、勝手に宣言してもみんなに受け入れられるか分からない、という意味の懸念を表明した。須田倉摩沙花はからっと笑った。

『宣言なんて、したもの勝ちさ。もちろん、他の人間は最初戸惑うだろうが、自分に害が及ばないと分かればきっと受け入れる。ニンゲン宣言をしたあとは、ペットとしてあたしが責任をもって飼おう。餌代なんかはもちろんあたしが全て負担する。だからとし子はニンゲンとして、大人しくあたしに庇護されておけばいい。大船に乗ったつもりでね』

 須田倉摩沙花はとし子をニンゲン扱いするつもりらしい。人間扱い、ではなくて。

 とし子は不幸になる、ときみ江は確信した。しかしとし子は、須田倉摩沙花の提案を全面的に受け入れる意を表明した。

 とし子の意思には逆らえないし、逆らいたくない。きみ江は孫娘の考えを尊重する旨を表明し、かくして道宮とし子の運命が確定した……。


「そんな事情があったなんて」

 僕は思わずつぶやいていた。

 ニンゲン宣言。初めて聞いたときは突拍子もない概念だと思ったけど、順を追って経緯を説明されると、それしか方法がなかったように思えてくるから不思議だ。

 きみ江のかさついた唇が蠢き、声が流れ出した。話はまだ続くらしい。

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