初日② 須田倉摩沙花
須田倉家は大きくて立派な日本家屋だ。屋根つきの駐車スペースに停めてある、ボンネットに大きな凹みがある黒いワゴン車が相対的にちっぽけで、みすぼらしく見える。
門にインターフォン的の類は備わっていないので、「失礼します」とつぶやいて敷地内に足を踏み入れる。
飛び石の小道が玄関へと続いていて、庭に植えられているのは、松の木、柿の木、その他名称不明の木々。枝葉がきちんと刈り込まれているのが一目で分かるし、植木の配置が計算されているのが素人目にも分かる。実益優先で丸ごと家庭菜園に変えてしまっている小石家とは大違いだ。
「旦那さんの趣味、だったかな」
摩沙花さんの夫はアメリカ合衆国出身で、僕と両親とはまあまあ仲がよかったんだけど、残念ながら二年前に島外で起きた交通事故で帰らぬ人となった。
僕自身は交流はほとんどなくて、道で顔を合わせたら挨拶していた程度。記憶に残っているのは、ジョージというファーストネームと、彫りの深い端正な顔立ちくらいのもの。「造園が趣味」というのも、日本在住の外国人だから日本的な文化が好きですよね、自分なりの愛で方で愛好していますよね、という偏見まがいの固定観念にもとづくものでしかなかったりする。
なにはともあれ、玄関ドア横のインターフォンを鳴らす。
「――どちらさま?」
応答したのは若い女性の低い声。億劫そうで、虫の居所が悪そうで、少し眠たそうな。
「小石昴流です。ついさっき島まで帰ってきたので、摩沙花さんにお土産を持ってきました」
「ああ、バルか」
声がぱっと華やいで、僕が知る須田倉摩沙花にぐっと近づいた。
この世界で僕のことを「バル」と呼ぶのは、摩沙花さんただ一人だ。
近所と呼べるほど家が近いわけじゃない。年齢はたぶん一回り以上離れている。共通の趣味は持たない。親同士はある程度親しくしていたみたいだけど、子どもの僕たちのあいだの交流はそう親密でも頻繁でもなかった。
それにもかかわらず、幼いころからずっと須田倉さんに深い親しみを感じてきたのは、彼女が僕をオンリーワンな呼び方で呼んでくれるのも一因なのだろう。
「鍵開けるから、ちょっと待ってて」
通話が切れた。
庭を眺めながら待っていると、奥のほうに生えた松の木の根本に奇妙なものを見つけた。
石だ。拳よりも一回り小さく、球体を縦方向に少し引き伸ばしたような形。表面に黒のサインペンかなにかで文字が書いてあって、「ニンゲンの墓」と読める。
ああ、と思った。
切ないような、やるせないような、気楽な大学生活を送っている中ではなかなか出会うことのない、哀愁に満ちた感情がまたたく間に胸を満たした。
直後、玄関ドアが開く音にはっと我に返る。
「やあ、バル。よく来てくれたね」
表情も声もにこやかに現れたのは、透き通るような白い肌の女性。銀色の筋が何本も入った黒髪を後頭部の高い位置で結ぶという髪型。純白のタンクトップは特大のメロンに内側から圧迫され、ハーフパンツから覗く太ももは肉感的だ。
僕はもちろん、彼女が魅惑的な肉体の持ち主だという事実は把握していたけど、久しぶりにお目にかかると、隠すどころか見せつけるように呈示されると、やはりどぎまぎしてしまう。
摩沙花さんは、咥えていたシャボン玉を作るための細長いプラスチック製の道具――「吹き口」という名称らしい――を手で外し、僕に微笑みかけた。憎らしいまでに落ち着き払った、それでいていたずらを企んでいる子どものようでもある、年齢不詳の不敵な微笑。
「久しぶりじゃん。一年ぶりかな?」
「ですね。去年のお盆休みに帰省したときに、ちょっと立ち話をして以来です」
「飯食ってけよ、みたいな言葉を交わした記憶すらないな。あたしかバルのどっちかが急いでいたのかな? ……んー、もう覚えてないや。あたしが覚えていないんだから、当然バルも記憶していない。そうだろう?」
左胸の側面を指でかく。大きな膨らみはババロアのように揺れ、心身ともに健康な青年の心も揺らす。
「手に持っているのが土産か。食いもの? それとも土? あるいは煙?」
「饅頭と言っていました」
「その言い方、さてはママに用意してもらったな。神戸の土産じゃなくて」
「ばれましたか。ひよこ饅頭です。なんか、すみません。徳島にも神戸にも無関係なお菓子で」
「いいじゃん、ひよこ饅頭。あたしは洋菓子のほうが好きだけど、バルが持ってきた菓子だからね。コーヒーを淹れるから、入りな」
いつもは居間なのだけど、今日は応接室に通された。
僕は黒革のソファに腰を下ろし、摩沙花さんは饅頭の箱を受けとって応接室の外へ。後ろ姿がドアの向こうに消えるのを見届けて、ひよこ饅頭じゃなくて毒饅頭のほうを渡すボケをやっておくべきだったかな、なんてくだらないことを思った。
はじめて入る応接室は、整理整頓と清掃が行き届いていて清潔感がある。ガラスケースに収容された日本人形、壁に飾られた鹿の頭部の剥製、骨董品の壺に活けられた黄色い造花。外国人に偏見を抱きがちな日本人の典型である僕は、これも旦那さんの趣味かなと考えてしまう。もちろん、ストレートに摩沙花さんの好みの反映である可能性もあるわけだけど、真っ先に疑った可能性はそちらだった。
僕にとって、今は亡き須田倉ジョージさんは謎の人だ。でも、よくよく考えれば、摩沙花さんのことだって詳しく知っているわけじゃない。夫が仲よくしている夫婦の息子ということで、なにかとかわいがられていたけど、友だちと呼べるほど親密な付き合いはしていなかった。
「おまたせー」
トレイを手に摩沙花さんが戻ってきた。花柄のコーヒーカップにたたえられたホットコーヒーが二杯。ひよこ饅頭は箱から出され、個包装されたまま白い皿にぞんざいに盛りつけられている。
摩沙花さんはトレイをテーブルに置き、僕の向かいのソファに腰を下ろした。すぐさまコーヒーカップに唇をつけ、「あちっ」と言ってテーブルに置く。
話が始まるのを待ち受ける僕に、彼女は顎をしゃくった。コーヒーを飲めという意味らしいので、砂糖とミルクを入れる。熱くて飲めないリアクションだったので、カップに口をつけるのをためらっていると、摩沙花さんはソファに軽く座り直して話し始めた。
「用件はパパから聞いていると思うけど、あたしからも直接伝えさせてもらうよ。バル、君に依頼したいのはずばり、あたしが飼っていたニンゲンを殺した犯人を突き止めることだ」
存じております、というふうに僕はうなずく。
直後、メモ帳とペンの存在を思い出し、急ぎがちにトートバッグから取り出した。依頼を引き受けると決めたあと、ディスカウントストアで適当に選んで買った、「問題解決に真剣に取り組んでいますよ」とアピールするための小道具だ。
摩沙花さんは満員電車で指揮をとる指揮者のように両手を振りながらしゃべる。さながら愛煙家にとってのパイプのように、パステルピンクの吹き口を右手に持ったままで。
「死体を発見したのは、忘れもしない、約一か月半前の六月二十四日。全世界的にUFOの日の朝だった」
「そんな記念日があるんですね。初耳です」
「世代じゃないバルは知らなくて当然だから気にするな。二十四日の前日は、夕方から夜遅くにかけて雨が降り続いていて、玄関ドアを開けた瞬間に強い湿気を感じたのを今でも覚えているよ。あたしはニンゲンを、一般的な犬のように庭に小屋を建ててやって、そこに繋いで飼っていたんだよ」
ニンゲン。
詳細不明のまま、こうして摩沙花さんの話を聞くことになったわけだけど、本当に飼い犬扱いをしていたらしい。
「あたしは毎朝目が覚めたら、真っ先にニンゲンの様子を確認しにいくことにしていたんだよ。というのも、ニンゲンは最近――ああ、事件があった日基準で最近ということだけど、よく暴れるようになってね。物を壊したり、地面を掘り返したり、松の木の皮をばりばり剥いだり。とにかく気性が荒くて、夜のうちに首に鎖が絡まって死んでいるんじゃないかと思うと、気が気じゃなくてね。わーわーと喚くこともあるから、近所迷惑にならないように黙らせたいという思いもあって」
「……えっと。そのやんちゃな犬みたいなことをした動物は、犬じゃなくて人間なんですよね」
「そうだよ。そう言ったはずだぜ」
さらりと答える。どうしてそんな当然の事実を確認するのか、というふうに軽く目を剥いて。
「事件の朝はいやに静かで、とうとう悪い予感が的中したかと思って駆けつけたら、想像していたのとは違う形で悪い予感が当たっていたよ。すなわち、小さな体のあちこちに刺し傷をこしらえて、周囲に血しぶきを撒き散らして息絶えていたんだ。脈をはかってみるまでもなく死んでいるのが分かったよ。それくらいひどい死にざまだった」
「警察に通報したんでしたよね」
「もちろんしたさ!」
八の字になっていた柳眉が「きりっ!」という擬音とともに角度を上げた。
「うちの大事なペットが殺されましたよ、殺人事件が発生しましたよって、あたしは血相を変えて被害を訴えた。しかし連中は、あの憎たらしい犬どもは、ああ飼っていた動物が殺されたんですか、それでは動物愛護法違反ですねって、うちのニンゲンをペット扱いしやがるんだ。ニンゲンはあくまでもニンゲンであって、人間ではないというわけだ。
当然抗議したよ。ニンゲンはニンゲンといっても、元は人間なんだから人間として扱ってくれ。いやむしろ人間として扱うのが筋だろう、とね。だけど連中は四角四面だから、『ニンゲンはニンゲンです』の一点張りで、取りつく島がなくてね。それでもしつこく食い下がったら、『島民の前でニンゲン宣言をして、人間だったとし子さんをニンゲンにしたのは、他ならぬ須田倉さんでしょう。潔く諦めてください』だなんて、小学生に言い聞かせるような口をききやがる。まったく、思い出すだけでも忌々しい」
「ニンゲン宣言、ですか」
知らない言葉が出てきたぞ。
「人間をペットのように扱うのは、人権やらなにやらの観点から問題があるだろう。だから先手を打って、近隣住人やら島の偉いさんなんかを呼んで、彼らの前で『道宮とし子は今後、人間ではなくニンゲンとして生活します。飼い主としての責任は全て須田倉摩沙花が負います』と宣言したんだ。学も文才もないのに原稿を書いて、リハーサルまでしてね。大変だったよ。すさまじく大変だった」
漢字の人間と、カタカナのニンゲン。発音的にはまったく区別がつかないけど、話の筋を追っていればどちらの「にんげん」を指しているのかがちゃんと分かるから不思議だ。
「しかし、まさかまさか、ニンゲンが殺されるとは想像もしていなかったよ。犯人はそれを逆手にとったのかもしれない、なんてあたしは漠然と考えているんだけど」
「摩沙花さんの想像が正しいなら、ニンゲン殺しの犯人は、ニンゲン宣言を行った場にいた人間の中にいるかもしれない、ということになりますね」
「おっ、さっそく推理か。頼もしいじゃないか」
「あくまでもその可能性もあると言っただけですよ。ニンゲン――ええと、とし子さんですか。とし子さんが人間からニンゲンになったという情報は、おそらくニンゲン宣言の場にいた島民の口から他の島民へと伝えられたと思うので、その場にいた人間の中に犯人がいるとは限らないと思います」
「ああ、なるほど。それもそうだな」
摩沙花さんは無表情になってうつむく。しかしすぐに顔を上げて上機嫌そうに頬を緩めた。
「でも、頭の切れるところを見せてもらって、依頼した立場としては安心したよ。いや、期待が高まったと言うべきかな」