三日目⑦ 煎じて飲め
「ちょっと、小石くん。なに呑気にサボってるの?」
「いや、これは……」
可能なかぎり素早く体を起こし、座ったまま体ごと美汐さんに向き直ったのはいいものの、返答に窮してしまう。
怒っている。いや、憤怒している。あの温厚な美汐さんが。
「聞き込みは? 聞き込みはどうしたの?」
「し、したよ。聞き込みならちゃんとした。今は休憩していただけだから」
「ふーん、休憩ね。居眠りをしちゃうくらい全力で聞き込みをしたんだ。開始して二時間半くらい経つけど、何人?」
「正確には覚えてないけど、えっと――二十人。少なくとも二十人には話を聞いたと思う」
嘘だ。申告の半分どころか、五分の一だ。
「ふーん、二十人ね。ふーん。ふーん」
美汐さんはくり返しうなずく。目も口も笑っていない。誰がどの角度から見ても、僕の発言を信じていない顔だ。
おもむろに腕組みを解いたかと思うと、歩み寄ってきた。目の前で足を止めて、ワンピースの胸元に手を入れてなにかを取り出す。
鍔のない短い刃物――匕首。
七月の太陽光を浴びて怪しく輝く鈍色の刃の、その鋭利なきっさきが、僕の喉元へと突きつけられる。予行演習を何度も行ったかのような淀みのない動作で。
「え……?」
熱い汗が噴き出した。きっさき周辺の空気は、対照的に心臓が縮こまるくらいに冷たい。
唾を呑み込めないほどの緊張を覚えながら、ぎこちなく首を動かして美汐さんを見上げる。炎のように赤いフレームに縁どられた、氷のように透明なレンズの向こう側で、彼女の瞳は冷たく燃えたぎっている。
「ねえ、お願いだから真面目にやって? こっちはね、友だちが殺されてるの。必死で、本気で、犯人を探しているの。いっしょにやるからには、小石くんも本気でやってくれないと困るんだけど」
「ちょっと、美汐さん。落ち着いて。とにかく落ち着いてよ。お願いだから……」
「落ち着け? 落ち着いていないのは小石くんだよね。わたしは死ぬほど冷静だけど」
「そうかもしれないけど、そういうことじゃなくてさ。ていうか、短刀? 匕首? そんなものをなんで持ち歩いているの。まるで人をおどすために使うみたいな――」
「正解。わたしが凶器を持ち歩いているのは、人をおどすため。とし子を殺した件について、情報を隠すような素振りを見せる島民に出会ったら、無理やり吐かせるために使うつもりで携帯しているの。幸か不幸か、使うのはこれが初めてだけどね」
汗はひっきりなしに噴き出し、肌を伝ってしたたり落ちる。僕の喉と匕首のきっさきの位置関係が不変であるかぎり、永遠にでも流れ続ける気がする。
発言を信じるなら、美汐さんは僕を殺すつもりは毛頭ない。きっさきを突きつけているのは、僕の尻を叩くため。それは理解できるのだけど、突きつけられてみて初めて分かった。
おどされる側からすれば恐怖しかない。凶器を握る人間がちょっと手を動かせば喉が切り裂かれる間合いから、一刻も早く脱したい。その一念に心をハイジャックされてしまう。
もっと正確に言えば、
やばいやばいやばいやばいよまじでごめんなさい赦して命だけはお願いします神さま仏さま美汐さま――。
そんな情けない声が胸の中で暴れ回って、同時並行で思案できているのがちょっとした奇跡に思える。
ハラキリ岬に僕たち以外の人間は影も形もない。つまり、救援は期待できない。
美汐さんの感情がこれ以上高ぶると、まずい。どう考えてもまずい。
「ごめんなさい。サボった僕が悪かったです。すみませんでした。だから、あの……。これからは真面目に取り組むので、その、凶器と狂気を引っ込めてはいただけないでしょうか? それを突きつけられていると、恐怖がすさまじくて、できることもできないので……」
誠心誠意懇願したつもりだったのだけど、美汐さんの表情に変化はない。怒りの激しさをアピールするためにあえて感情を押し殺した、というわけでもなさそうだ。
視界の隅で、匕首の柄を握る右手に力が込められた。
「ぼ、暴力はやめようよ。そんなことしたら、とし子ちゃんを殺した犯人と同じになっちゃうよ。そんなことは、やめよう。ね? ね?」
とし子の名前を出したのは悪手だったかもしれない。そんな思いが過ぎり、夏らしからぬ冷たい汗がどっと噴き出した。
美汐さんは顔を四十五度ほどうつむけた。考え込んでいる顔つきだ。時の流れが極端に遅くなった。体感時間にして四分三十三秒後、彼女はおもむろに顔を上げ、
「まだ正午には早いけど、仕方ないな。わたしが小石くんのために手料理を作るから、うちに来て」
僕はちゃんと覚えている。美汐さんが昨日、「料理の腕前は小学生レベルだ」という趣旨の発言をしたことを。
悪夢はまだまだ続くらしい。
昨日、美汐さんと二人でチーズピザを食べたダイニングで、食事ができるのを僕は待っている。入学式に臨む新入生のような礼儀正しい姿勢。面持ちはたぶん、誰がどう見ても「あっ、緊張していますね」と分かるものになっているはずだ。
隣り合ったキッチンでは、有言実行、美汐さんが調理に励んでいる。先ほどまでは食材を刻んでいて、今は刻み終えたものを炒めているところだ。斜め後方から見たかぎり、手つきはお世辞にも巧みとは言えないけど、危なっかしいというほどでもない。
『チャーハンだよ。わたし料理が下手くそだから、それ以外にまともに作れる料理がなくて』
僕が着席してすぐの美汐さんの発言だ。
なにを作ってくれるのか、という質問を失い、それ以外の話題が思いつかない僕は、ずっと沈黙している。
そもそもの話、昼食に手作り料理を振る舞うという行動が不可解だ。聞き込みをサボるという、美汐さんからすれば腹立たしい怠慢を演じた僕に、なぜ好意を施すのか。励ましの意味が込められているという解釈も可能だけど、得意ではない料理で激励するというのは不自然だ。
加熱された食材の匂いがキッチンから漂ってくる。悪臭に属するのかは微妙なラインの、個性的で独特な匂い。調理をしくじったのか、僕にとって未知の調味料や食材を使っているのか。食材が焦げた臭いではないみたいだけど……。
なにを作っているのか、自分の目でたしかめるのが無性に怖くて、テーブルの天板の木目をじっと見つめながら完成を待つ。
「できたよ」
調理の音が途絶えたと思ったら、美汐さんがキッチンから呼びかけた。
美汐さんがキッチンからダイニングへと進み出てきた。二人分くらいは装えそうな大きな皿を手にしていて、チャーハンがドーム状に盛りつけられている。
車のボンネットを八割の力で殴りつけたような音を立てて、皿がテーブルに置かれた。
絶句した。
これを見て、絶句する以外の反応ができる人間が存在するのだろうか?
卵でコーティングされた米粒。小さくカットされたハム、ピーマン、ニンジン。
使われている具材が普通なら仕上がりもごく普通、なのだけど、たった一種類の異物が普通をぶち壊している。
爪。
一般的な爪切りで普通に切ったと思われる、三日月型の人間の爪が、ハムやピーマンやニンジンと同様、あたかも正規の具材然として、米と米の狭間に混ざり込んでいる。米や他の具材と調和し、一体化している。
本日の昼食、爪チャーハン。
「爪の垢を煎じて飲む、ということわざがあるけど」
美汐さんの声からは感情が排斥されている。そこはかとなく脅迫的であり、強圧的だ。顔は無表情だけど、邪悪な笑いの噴出を懸命に自制した結果の無、に見える。
「垢は汚くて抵抗感あるだろうから、爪そのものにしてあげる。カニバリズムね、合法的なカニバリズム。さあ、食べて」
「いや、それはさすがに……」
「できないの?」
「食べるのだけは勘弁して。お願いだから……」
「だったら、次からは真面目にやってくれる?」
「や、やるよ。真面目にやる。心を入れ替える。絶対に約束するから」
僕は食い気味に答えた。必死だったし、即答することが誠意だと信じてもいた。
しかし、それは罠だった。
僕が発言した瞬間、美汐さんは口角を大きく吊り上げた。抑え込んでいた邪悪な笑みがアウトプットされたのだ。露出した歯は、色、質感ともに、チャーハンにたっぷりと入っている爪のそれに似ている。
「ありがとう。双方の合意のもとで契約を交わせて、よかったよ。じゃあ、今後のことを決めようか」
美汐さんは右手を薙ぎ払った。チャーハンの皿が吹き飛び、米や具材が床に四散した。ふざけた奇跡のように、テーブルの上には一つも落ちていない。
彼女は僕の向かいの席に着き、眼鏡のフレームを指で押し上げてから天板に肘をつき、さらには両手を組んだ。そして、気味が悪いくらいにはきはきとこう言った。
「小石くん、あなたが心を入れ替えると約束してくれたから、わたしも気合いを入れ直さないといけないね。そのためにはまず、心機一転改名するべき。そうは思わない?」
「改名?」
「そう。もう決めてあるの。国を憂えて荒れ果てた丘を平らに均す――平丘憂国。これからわたしの名前は、美汐真雪じゃなくて平丘憂国だから。よろしくね、小石くん」
「えっ? ……はあ? いや、名前を変えるって、そんな……」
「分かるよ。言いたいことは分かる。勝手に名前を変えても周知しなければ意味がない、でしょう。だったら、すればいい。ほら行くよ」
手振りで僕に起立を促し、手本を見せるように椅子から立つ。戸惑いながらも指示に従いつつ、「どこへ行くんですか?」と間抜けのような質問をすると、美汐真雪改め平丘憂国はこう答えた。
「役場」
美汐さんはたぶん、もともとおかしかったわけじゃない。大切な友人の死を知らされたことで、歯車が狂い始めたのだ。
そして、今となっては、後戻りできない領域に足を踏み入れてしまった。
せめて、無理やり付き合わされている被害者の僕だけでも、あのころに戻れないだろうか?
このさい、救いの手を差し伸べてくれるのが、ハラキリ岬にちょくちょく遊びにくるUFOの操縦者である、エイリアンだとしても構わないから。