三日目⑤ 夏のせい
記憶がたしかなら、明日こそは犯人探しに対して前向きな気持ちになれると信じて、僕は眠りについた。多くの人間と同じように、睡眠という行為が持つ魔法の力を信奉しているゆえに。
ただ、僕を含む信者の多くが見て見ぬふりをしていることだけど、睡眠によって白紙化された心の状態は、必ずしもよい方向にかたむくとは限らない。
今朝の僕の心は、残念ながら残念な方向にかたむいた。
もう聞き込みをしたくない、炎天下を歩き回りたくない、摩沙花さんからの依頼を放り出したい――。
眠りから覚めた瞬間から、そんな思いに頭が支配されていたのだ。
そのせいで、せっかく早起きしたのに、なんと一時間以上もベッドの上でぐずぐずしてしまった。寝床から決別できないのは毎朝の恒例行事だけど、今朝はさすがにひどすぎる。
そんな朝でも、ちゃんとした朝食が用意されているから実家はありがたい。おかずが昨夜の残り物ばかりだとか、そんなのは取るに足らない些事だ。
「犯人探しが中止になってくれたら、もっとありがたいんだけどなぁ」
ぶつぶつ言いながら八枚切りの食パンにいちごジャムを塗りつけていると、インターフォンが鳴った。
父さんが忘れ物をとりに戻ったのかな、と最初は考えた。しかし、聡子がスリッパを鳴らしながら応対に出て、ドアが開く音とともに聞こえてきた声に、僕はトーストを取り落とすという古典的なリアクションをしてしまった。
「あら真雪ちゃん、久しぶり。こんな早い時間にどうしたの?」
「真雪」という言葉を聞くと同時、僕は椅子から腰を浮かしていた。トーストを皿に戻しながら聞き耳を立てたけど、聡子の声が邪魔で内容を掴めない。僕は玄関へ走った。
「あっ、小石くん」
美汐さんが着ているのは昨日と同じワンピースで、今日も水色。昨日も思ったことだけど、胸元が開いていないのも、ノースリーブなのも、裾が長めなのも、全てが僕の好みに合致していて、刺さる。お忍びで田舎まで遊びに来た名家のお嬢さまみたいだ。高慢ちきではない、ピュアで清楚で心優しいお嬢さま。
……ニンゲン殺しのことがなければ、美汐さんは最高に素敵な女の子なんだけど。
「朝食を食べていたら美汐さんの声が聞こえてきたから、びっくりした。どうしたの?」
「昨夜は作戦会議に夢中で、明日の予定のことはちゃんと決めてなかったでしょ。朝早くから聞き込みをしたかったから、小石くんに伝えなきゃと思って」
「そういえば、そうだね。ごめんね、わざわざ」
「こっちこそ、ごめん。連絡事項なら電話で伝えれば済むのに、逸る気持ちを抑えられなくて、朝も早いのに押しかけちゃった」
「わざわざ来てくれたということは、できれば今すぐにでも聞き込みをはじめたい感じ? だったら急いで支度しないと」
「そこまで急がなくてもいいよ。おばさんと話をして時間つぶすから」
美汐さんは聡子と顔を見合わせて親友同士のように微笑む。やりとりを親にしっかり聞かれていたことに遅まきながら気がつき、顔が熱くなった。
普段の一・五倍速で朝のルーティンをこなし、するべきことの全てを迅速に片づけて再び玄関へ。
「小石くん、早かったね。じゃあ、出発しよっか」
美汐さんは昨日の僕を打ちのめしたやる気を今日も見せつけ、靴を履いている途中の僕を置き去りにしてさっさと歩き出す。僕はスニーカーの踵を踏んだまま追いかける。
「美汐さん、ごめんね。かなり待たせちゃったよね」
「ううん、平気。小石くんのお母さん、おしゃべりが面白いから、時間が経つのがあっという間だったよ」
美汐さんは黒髪を耳にかけて屈託なく微笑む。僕をなかば置き去りにするくらいにきびきびと行動しているのは、もしかしたら長々と待たされた怒りのせいなのかもと思ったのだけど、違ったみたいだ。
「でも美汐さん、母さんとなにを話していたの? 大学生の女の子と五十近いおばさんが盛り上がれる話題、この濁世に存在したかな」
「盛り上がるっていうか、途切れることなく滔々と続いていく感じかな。それも盛り上がっていると言えるのかもしれないけど」
「なるほど。ちなみに、僕のことじゃないよね」
「それもあるよ。それだけじゃないけど、それもある。内容は秘密だけどね」
「えー。それ、なんか怖いね」
「悪口を交わし合ったわけじゃないから、怖くはないよ。ざっくばらんに意見を出し合っただけだから」
「ざっくばらんって、逆に気になるね、その表現は」
「小石くん以外のことだと、面白い話を聞いちゃった。子眉山の近くに霊園、あるよね。島唯一の霊園」
「あるね。それがどうかしたの?」
「おばさんいわく、『お墓参りに行くと困難な道も拓かれる』んだって。まだ今日で二日目、小石くんが一人でやっていたのを含めても三日目だけど、ぶっちゃけ行き詰まってるでしょ。だからご先祖さまに神頼みしておかない? 聞き込みの前に足を運んでおこうよ。個人的にお墓参りがまだだっていうのもあるし」
「母さんは出任せを言っただけだと思うよ。僕も帰省早々それと同じようなことを言われたし。たぶん、面倒くさがる僕にお墓参りに行かせるための方便じゃないかな」
「それは分かってる。でも行こうよ、お墓参り」
そこまで言うなら、と僕は了承した。
線香や供え物などを用意していないことに、霊園に到着してから気がついた。
一応済ませた僕はともかく、美汐さんの墓はちゃんとしなくてはいけないのでは? そう思って確認をとると、
「ま、今回はいいんじゃない? こういうのは気持ちだからね、気持ち」
とのことだったので、安上がりに気持ちと合掌だけで済ませることになった。
美汐さんは大ざっぱなところもある人だと、再会二日目にして僕は理解し始めていた。
元からこんな性格だったけど気づかなかった? 五年という歳月が人格に修正を加えた? どちらが正解なのかは、なんとも言えない。
たどり着いた美汐家の墓は、普通だった。さっそく横並びになって手を合わせたのだけど、
「なんまいだ、なんまいだ……」
唱えはじめたのは美汐さんだ。ふざけているのか、勘違いしているだけか、目をつむった横顔からは判断がつかない。迷ったけど、「なんまいだ」の連呼が終わらないうちに肩を叩き、
「美汐さん、墓前でそれはちょっと違うんじゃないかな。仏教には詳しくないけど、たぶん違うと思う」
「知ってるよ、浄土宗でしょ。南無阿弥陀仏って唱えるだけで極楽に行けるっていう」
「あ、浄土宗なんだ。なんまいだって」
小学生か中学生のときに習ったから名前は知っている。でも、教義までは記憶していなかった。
「唱える人間が誰でも効果はあったはず。故人が極楽へ行けるように祈っているんだから、別に間違ってなくない?」
「そう、だね。間違っていたのは僕でした。ごめんなさい……」
「なんで敬語なの?」
美汐さんはくすりと笑い、僕を促して通路を歩き出した。
「気になったんだけど、とし子のお墓ってこの霊園にあるの?」
小石家の墓に向かう道中、美汐さんがおもむろに問うてきた。
「美汐さんは気づいていなかったみたいだけど、摩沙花さんの庭にはとし子ちゃんの墓があるよ。石ころを暮石代わりにした、死んだペットのために子どもが建てたみたいな墓が」
そう答えると、彼女は言葉を失った。
とし子は死亡時に人間ではなくニンゲンだったこと、摩沙花さんのニンゲンに対する愛情の度合い、以上を考え合わせれば、ちゃんとしたとし子の墓は用意されていない可能性が高いと思う。そう私見を伝えると、
「……そっか。なんとなく想像はついていたけど、やっぱりそうだったんだね」
美汐さんは仁王のように顔をしかめたあとで、お気に入りのマグカップを壊してしまったみたいに眉尻を下げた。
ああ、これは、とし子のことを心から想っている人のリアクションだ。
そう思った瞬間、昨日、「道宮とし子のことをもっと知る」という目標を立てていたことを思い出した。
二人の関係を考えれば、美汐さんは必ず、とし子の情報を洗いざらい話してくれるはずだ。
ただ、怖さを感じる。写真のとし子が死んだ魚のような目をしていたからなのか、とし子に対する美汐さんの思いが強いからなのか。それはちょっと判断しかねるけど、とにかく怖い。
対応を決めるよりも先に小石家の墓に到着した。二秒後、とんでもない間違い探しの正解に気がつき、絶句してしまう。
「小石くん、どうしたの?」
「……ない。毒団子が消えてる……」
毒を混ぜ込んだ真っ白な団子が消失しているのだ。いっしょに手向けた名もなき白い花は、ミイラのように干からびて同じ場所に横たわっているというのに。
頭上にクエスチョンマークを浮かべている美汐さんに毒団子について説明すると、
「こわっ! 小石くんのおばさん、やることが怖すぎでしょ」
「やっぱり?」
「うん。だって毒だよ? 食べると死んじゃうんだよ? そんなものを、不特定多数の人間が訪れる場所に放置するなんて」
「そう、それだよ。問題はそれだ。なくなった毒団子、まさか人間が食べてないよね。死人、今日昨日おとといと、島で出たかな。僕、ローカルニュースはチェックしないから」
「出てなかったと思う。たぶん鳥が食べたんだよ」
「……そうだといいんだけど」
道が拓けるどころか、精神力をごっそり持っていかれてしまった。
午前九時過ぎ、聞き込み開始。
三人目を終えたところで、うんざりしてきた。天気予報を信じるなら、最高気温は昨日と同程度のはずなのだけど、昨日と比べて圧倒的に体内の水分を失ったし、足取りも気分も三時間みっちり聞き込みをした直後のように重たい。
木陰すらも見当たらない田舎道をとぼとぼと歩きつつ分析するに、「聞き込みをしたところで結果には繋がらない」という思いが腹の底にあるから、らしい。
なにせ、犯人探しをはじめて今日で三日目。特に二日目はがっつり取り組んだにもかかわらず、これまでのところ手がかりらしい手がかりは得られていない。
さらには、異次元のやる気を見せる美汐さん。そして、その熱量についていけていない僕がいる現実。
やる気満々の美汐さんに一任して、僕は適当にやっておけばいいんじゃね? そんな狡い気持ちになりかけている。
それにしたって手を抜きすぎている感がある現状があるのは、やはり盛夏の日中の炎天下が暑すぎるからなのだろう。
夏のせい。
そう、全ては夏のせいだ。