三日目③ リメンバー・パールハーバー
「気持ちは分かるよ、真雪ちゃん。気持ちは分かるんだけど、人間名・道宮とし子はしょせんペットであり、ニンゲンであり、すでに死んでいる。あの生き物の死に対するあたしの熱量が低下することがあっても、逆はあり得ない。よく考えてみなよ。誰が犬や猫に馬鹿高い手術費用を出す? 愛しい我が子ならともかく、犬や猫だぜ? ようするに、そういうことだ」
摩沙花さんは語り終えると、再び肩をすくめた。
そのあとに流れるのは、沈黙。緊迫した沈黙。
たっぷり一分くらい経ってからそれを破ったのは、美汐さんの音声つきのため息だった。
「なるほど、よく分かりました。ニンゲンがどういう存在なのかも、摩沙花さんにとってのニンゲンの位置づけも把握していなかったせいで、変な質問をしてしまいました。でも、おかげさまで、分からなかったことが完璧に分かりました。ありがとうございます」
……納得していない。
発言者の美汐さん自身も、話し相手の摩沙花さんも、横で聞いている僕も、誰もが聞いた瞬間に理解できる。美汐さんは、摩沙花さんの説明に絶対に納得していない。
「どういたしまして。喜んでくれてなによりだ」
「それで、わたしが小石くんを手伝う件に関しては? 許可してくださるのか、くださらないのか」
「もちろん構わないよ。バルの話を聞いて、君は信頼できる子だってよく分かったし、たとえそうでなくても協力者は多いほうがいい。真雪ちゃん、今後はよろしく頼むよ」
「こちらこそ」
美汐さんは作りもの感丸出しの、三日月のように冷たい微笑みを浮かべた。
話が終わり、辞去してもいい状況なのに、美汐さんはソファから立とうとしない。冷淡な微笑を維持して摩沙花さんを見ている。摩沙花さんは表情を消した顔でその顔を見返している。
僕は身じろぎ一つできない。口の中の唾を呑み込むことさえも。それほどの緊張感。緊迫感。
僕としては、諍いが起きる事態を未然に防ぎたい。二人の攻撃的な感情を少しでもいいからなだめたい。静めたい。
僕が発言するよりも先に、摩沙花さんが動いた。吹き口をテーブルにことんと置いたかと思うと、美汐さんに向かって右手を差し伸べたのだ。美汐さんの表情から冷気が薄れ、頭上にクエスチョンマークが浮かんだ。
僕は摩沙花さんの顔を見た。刹那、彼女の右手が目にもとまらぬ速さで、美汐さんの顔面を薙ぎ払った。
あっと思って摩沙花さんの手元を注視すると、いつの間にか赤いフレームの眼鏡を指でつまんでいる。
「あれ、わたしの……」
美汐さんはあたふたしている。摩沙花さんは眼鏡をテーブルにことりと置いて立ち上がる。僕へと歩み寄って僕の右手を掴み、
「リメンバー・パールハーバー!」
自らの胸に押しつけた。斜め下から押し上げるような軌道で、優しくも力強く。
指の腹と掌に柔らかな感触にはっとなり、僕は摩沙花さんの顔を見る。彼女はさびしげな表情で眼差しを受け止め、右手を解放してソファに座る。背もたれに背中を預けて、僕が触れたばかりの胸を突き出すように上体を軽く反らして。
正直、摩沙花さんの行動の意味はまったく分からないけど、僕や美汐さんになにをしてほしいかは分かった。
「――美汐さん、そろそろ帰ろう」
眼鏡を手渡し、もう一方の手を引っ張って立ち上がらせ、玄関へ。
ドアを潜る直前に振り向くと、摩沙花さんはうつむいて吹き口をいじっていて、去りゆく僕たちには見向きもしていない。
「いやぁ、バチバチだったね」
四種類のチーズが散りばめられたピザを頬張りながら僕は言う。なにとなにとなにとなにが使われているのかは知らないけど、とにかく四種類ものチーズが使用されたピザを。
場所は再び、美汐家。ただし、リビングではなくてダイニングだ。
昼食にピザをとろうと提案したのは美汐さんだ。ピザは昨日も摩沙花さんといっしょに食べたけど、トッピングは当然違うものになるだろうしまあいいか、と思って異議は唱えなかった。
昼食を食べ始めるまで、僕たちのあいだに会話はなかった。一人は静かに憤り、一人はお通夜モード。その組み合わせが引き起こす沈黙は、二人揃ってお通夜に参列するよりもずっと酸素濃度が薄かった。
美汐さんの憤りの対象は、言うまでもなく摩沙花さんだろう。でも、僕が摩沙花さんの胸を触った、もとい触らされたことに対してでもあるような気もして、居たたまれなかった。
それを救ったのは、その雰囲気を生み出した主犯である美汐さんの「お昼はピザをとろうよ」の一言だった。
空気を変える必要を感じたからなのか、単に空腹だったからなのかは分からないけど、どちらにせよファインプレーなのは間違いない。怒ったときは腹が減るものだけど、逆に言えば、空腹さえ解消されれば怒りも和らぐのだから。
「指摘はしなかったけど、美汐さん、怒っていたよね。とし子ちゃんが軽く扱われていることに、すごく怒ってた」
「分かった? あれでも理性的に振る舞ったつもりなんだけど」
「さすがにオーラまでは消しきれていなかったからね。美汐さんがいつ声を荒らげて怒り出すかと思って、ずっとはらはらしていたよ」
「ごめんね、心配かけちゃって」
眉を八の字にしたかと思うと、それが引き金となって腹立たしい過去を思い出したというように、一転して吊り上げる。しかしすぐにまた力なく垂れ下がった。
「わたし、犯人探しを依頼したくらいだから、須田倉さんはとし子に深い思い入れを持っていて、死を深く悼んでいると思っていたの。たしかに小石くんからは、『摩沙花さんはニンゲンをそれほど大切に思っていないみたいだよ』と聞かされてはいたけど、実際に話をしてみたらそんなことはないんじゃないかなって。
実はとし子のことが大好きだから、楽しかったころを思い出して悲しくなるのが嫌で、気持ちを抑えつけて、あの子が死んだことなんてなんでもないことのように振る舞っているだけだって、話を聞いているうちに明らかになる。
そんな展開になると想像していたんだけど、そうであってほしいと祈っていたんだけど、実現しなかったね。……須田倉さんのあの態度、本当に、心の底から、とし子が死んだことなんてなんとも思っていなかった」
眉をさらに降下させ、耳だけになったひと切れを口に放り込む。
僕はどう答えればいいか分からない。どうとでも受けとれる曖昧な首肯を示し、ピザを黙々とかじる。
「腹が立った。須田倉摩沙花のあの態度には、本当に、本当に腹が立った。よくなにもしでかさなかったよね、わたし」
急に声が低くなったので、はっとして美汐さんの顔を凝視する。新たなひと切れを手にしたばかりの彼女は、僕の視線を泰然と受け止め、口元を緩めて頭を振った。ピザを持っていないほうの手で眼鏡のフレームを押し上げようとしたけど、油でぎとついているのに気がついたらしく触れる寸前でやめ、指先をペーパーナプキンになすりつけてからピザの鋭角をかじる。
「どうしたの、小石くん。顔色がちょっと悪いよ。ピザの食べすぎ?」
「まだふた切れしか食べてないよ。美汐さんの声が殺気立っていたから、ちょっと驚いて。……まさかとは思うけど、摩沙花さんに復讐しようだんなんて考えていないよね?」
「まさか! わたしが復讐したいくらい憎んでいるのは、とし子を殺した犯人であって、須田倉摩沙花じゃないから。たしかにあの人の態度にはむかついたけど、でもそれだけ。復讐なんて、そんなの大げさすぎる」
「安心したよ。これで心置きなくピザが食べられる」
「ていうか小石くん、わたし、そんなに危ないことをするような人間に見える? ちょっと傷ついたかも」
「ごめん。摩沙花さんと話をしている最中に、美汐さんの目がぎらついているのを見ちゃったから、そのインパクトに引きずられたんだと思う」
「ぎらついてた? 大げさだなぁ。光の加減でそう見えただけだよ」
「……そうかな」
「小石くんは、島民に聞き込みをしていたんだよね」
美汐さんはペーパーナプキンで指先と口の周りをていねいに拭い、天板に肘をついてこちらへと軽く身を乗り出す。中指で眼鏡のフレームを少し上げる。
「食べながら考えてみたんだけど、他のアイディアはちょっと思いつかなくて。聞き込みって、二人で協力したら人数をこなせると思うし、その方向でいってみない? それとも他になにかアイディアがある?」
「残念ながら、ないかな。ぶっちゃけ、二日連続で聞き込みをやったのは、他にこれという案が特に浮かばなかったからだから」
「そうだったんだ。つまり、実質一択なわけだね。じゃあさっそくだけど、出発しようか」
「えっ、もう?」
「うん、もう」
きっぱりと言い切って椅子から立つ。
『なんか美汐さん、やる気満々だね』
そんな一言が喉元までせり上がってきたけど、吞み込んだ。否定的な発言をするのがはばかられるオーラが彼女から発散されているからだ。
怒られそうだとか、そういうのとはまた違う、決して邪魔をしてはならないこの感じ――。
なにかが狂い始めている。そんな気がしてならない。
「じゃあ、二手に分かれようか」
「えっ、二手?」
八月の抜けるような蒼穹の下、素っ頓狂な声が僕の口から飛び出した。外に出て、それじゃあ出発しますか、と彼女と目を合わせた直後のことだ。
「驚くようなこと? 二人いっしょに行動するよりも、そうしたほうが絶対に効率的でしょ」
美汐さんはきょとんとした顔で言う。「なにおかしなことを言っているの? 冗談のつもり?」とばかりに。
「まあ、それはそうだけど」
「わたしはあっち方面を聞き込みしてみるから、小石くんはそっち方面をお願い。日没を目安にわたしの家の前に集合ね」
「日没までやるんだ……」
思わずこぼれたつぶやきに、美汐さんは相変わらずのきょとんとした顔で、
「暗くなってからも聞き込みを続けたら、住人に迷惑がかかるでしょ。迷惑をかけてもやりたい気持ちはあるけど、心証を悪くしたら今後に響きそうだし。わたしにとっては初日でもあるから、今日のところはそのくらいでいいかなって」
「いや、あの、長すぎるっていう意味なんですけど」
「漫才みたいな掛け合いもいいけど、今は行動しよう。じゃあ、五時間後くらいに」
僕の抗議の声が聞こえていなかったのか、聞こえたが無視したのか、美汐さんは顔の高さで小さく手を振って歩き出した。きびきびとした四肢の動かし方だ。この暑さにもかかわらず、ああいうふうに動けるということは、
「やる気満々じゃないすか……」
気持ちの入り方が僕とは根本的に違う。親友が殺されたのだから当然だ。一時停止を求める声をかけることさえもはばかられる、すさまじいやる気。
美汐さんは、摩沙花さんが打ち出した「がんばりすぎないように、がんばれ」という方針を失念している。
それとも、まさか、摩沙花さんが気に食わないからあえて逆の行動をとっている?
なんにせよ、僕が理想とする犯人探しの形からは遠く隔たっている。
今朝、バス停から美汐家に二人で向かう道中を僕は思い返す。
あの時間は楽しかった。気分爽快だった。小説に関する知識量や読書熱への差が露呈したことで、気まずい沈黙が下りる場面もあったけど、振り返ってみれば束の間の、取るに足らないつまずきでしかなかった。肩の力を抜いて話ができる美汐さんとだからこそ、リラックスできる最高の雰囲気を保てたんだと思う。
二人で島内を歩き回って、島民と遭遇するたびに話しかけながら、ときには寄り道なんかもしつつ、のんびりと二人きりの時間を過ごす。
美汐さんが「ニンゲン殺人事件」の解決に協力してくれると確定した時点で、そんな未来が訪れると信じていた。
なのに、別々に聞き込みだなんて。
そう簡単に成果が期待できそうにないのは、僕一人で行動した二日間で判明している。僕にとって聞き込みはもはや苦行でしかない。その苦行を、パートナーもなしにこなさなければならないのだから、苦行を通り越して拷問だ。
美汐さんのやる気と本気は、暇つぶしが目的で犯人探しを引き受けた僕とは水と油、壊滅的に反りが合わない。
有益な情報を得られるのかとか、そんなことはどうでもよくて、未来に対する不安、それだけだった。