初日① 帰島
短いトンネルを抜けると、行く手に白亜の吊橋が見えた。
子眉橋という名称のその橋を渡れば、僕の生まれ故郷の子眉島だ。
年末年始もゴールデンウィークもずっと神戸にいたから、これが一年ぶりの帰省になる。
橋を渡ると大きなカーブに差しかかる。そこを曲がりきると、視界が開ける。
左手に見えるのは、ガソリンスタンド、土産物屋、いつまで経っても工事中の建設現場。右手に広がるのは、子眉海岸。今年も大勢の海水浴客で賑わっているのが車窓越しに見える。
夏らしい景色だ。
帰ってきたんだな、と思う景色だ。
実家の最寄りのバス停まであと十分弱。車内に僕以外の客は一人もなくて、聞こえてくるのは眠気を催すような空調音と走行音のみ。
僕はあくびをしながらジーンズからスマホを取り出し、無料通信アプリを立ち上げる。そして、僕にとっては大変貴重な、同年代の女子からのメッセージを見返す。
『島に帰れるかはぎりぎりまで分からない。でも今日中には見通しがつくから、決まったらまた連絡するね』
予定、空くといいんだけど。
スマホをポケットに戻し、入れ替わりに取り出したメモ用紙を読み返す。
子眉島の住人・須田倉摩沙花は人間の少女をペットとして飼っていた。
呼び名、ニンゲン。
人間名、道宮とし子。
摩沙花さんは夫を交通事故で亡くし、月日が流れても癒えない悲しみと喪失感を解消するために、人間・道宮とし子をニンゲンとして、つまりはペットとして飼うことにした。
摩沙花さんいわく、「人間ではなくニンゲンなら、死に別れても悲しくはないから」。
しかし、飼い始めて約半年後の今年の六月下旬、とし子は何者かに全身をめった刺しにされて殺されてしまう。
摩沙花さんはとし子に対するしつけが充分ではなく、近隣住人に迷惑をかけていた。直接抗議をした者こそ多くないものの、とし子と飼い主を快く思っていない住人は何人もいたという。
摩沙花さんは警察に通報したものの、ニンゲンは人間ではないので、殺人事件として取り扱ってくれない。
摩沙花さんはショックを受けるとともに憤慨した。独自に捜査をはじめたものの、島民たちは軒並み非協力的だ。捜査は一向にはかどらず、これという手がかりは見つからない。
そこで彼女は、彼女の夫と親交があった小石総一郎、すなわち僕の父親に協力を要請した。
『総一郎さんの息子さん、今は大学生だっけ。大卒の総一郎さんはご存じだと思うけど、子眉島民って、大学に通った経験がある人間がほとんどいないんだよね。だから息子さんの頭脳を見込んで、ぜひとも捜査に協力してほしいんだけど、頼んでもらえないかな?』
『摩沙花ちゃんは息子を買いかぶっているね。あの子は平凡な青年で、優れた知能は持ち合わせていないよ。ただ、私はあなたの旦那さんと生前親しかったから、あなたの力になりたい気持ちはある。息子は今年の夏に七日間の予定で帰省するから、捜査に協力するのはその期間だけ。解決できなくても罰は与えない。この二つを約束してくれるなら、必ず息子に手伝わせるよ』
摩沙花さんは総一郎が提示した条件を快諾した。
こうして僕・小石昴流は探偵役を引き受けることになったのだ。
停留所でも交差点でもなんでもない場所で、バスがクラクションをぷっと鳴らして停車した。
僕はメモ用紙から顔を上げ、フロントガラス越しに前方に注目した。
バスのすぐ目の前の車道を、モンペのような服を着た女性が横断している。横断歩道もなにもない場所なのに渡ろうとしているのだ。
女性の歩みは足首に鉄球を括りつけられたかのように遅い。顔がよく見えないから断言はできないけど、まず間違いなく高齢者だろう。
老婆はバスの目の前に差しかかったところで足を止めた。前髪に隠れた顔を運転手に向けてお辞儀し、横断を続行する。
運転手は黙って待っている。僕も黙って待つ。少子高齢者が爆速で進行するこの島ではよくある光景だから、腹は立たない。
ようやく渡りきった老婆は、また運転手に向かって深々と頭を下げた。
気だるそうなエンジン音を奏でながらバスが走り出す。
僕は財布を取り出して小銭の用意を始めた。
実家の最寄りのバス停・網々海岸停留所にバスが到着した。
料金ぴったりの運賃を払い、短いステップを下りる。むわっとした暑気が僕を包み込む。
「あっちぃな……」
率直なつぶやきが三十度超えの外気に溶けた。
排気ガスをまき散らしながらバスが走り去る。
停留所名の由来となった網々海岸が目の前に広がっている。人っ子一人いない不人気ぶりだけど、眺めはお世辞抜きに美しいし、文句なしに夏らしい。抜けるような青空、日射しを受けてきらきらと光る海、波が寄せては返す白い砂浜――浮かぶのが月並みな表現ばかりなのがもどかしい。
「小説、わりと読んでるんだけどな。日本の名作とか」
スポーツバッグを肩にかけ直して僕は歩き出す。
遠いような近いようなセミの声。ボリュームたっぷりの入道雲。放っておいてもにじみ出てくる汗。
夏だなぁ、としみじみと思う。
季節になるとらっきょうの匂いが漂う、曲がりくねった細道。砂地で葉を広げた夏野菜や雑草を横目に、ひたすらに道なりに五分ほど歩くと、行き止まりに図体だけはでかい木造家屋が建っている。そこが僕の実家だ。
「あら、おかえり」
玄関で「ただいま」と発声しておよそ十五秒後、居間の襖がようやく開いて、母親の聡子が顔を覗かせた。
「昴流、あなたねぇ、実家に帰るときくらい気配を出しなさいよ。しゃべっていないときのお父さん並みに存在感薄いわよ」
「以下じゃなくて安心したよ。父さんは仕事?」
「気楽な大学生と違って忙しいの。荷物を置いたらお茶にしましょう」
「ほーい」
一年ぶりの自室は懐かしい匂いがした。居間に行くまでは遠回りをして、家の中のあちこちを見て回ったけど、変わらないもののほうが圧倒的に多い。洗面所の泡タイプのハンドソープなんて、一年どころか、僕が物心ついたときから同じ商品が使われている。親が二人とも墓に入るまで使っているんじゃないかと思う。
「セールで安かったからロボット掃除機を買ったんだけど、音がうるさくて、うるさくて。今は箱の中で一生お留守番してる」
聡子は豆おかきを噛み砕きながらどうでもいい報告をする。
「あまりにもむかついたから、サイトにネガティブなレビューを書いてやったわ。今では☆2にもなってないわよ、その商品」
「ちょっと、いい歳してなにやってんの。恥ずかしいなぁ」
「目には目を、歯には歯をよ」
「母さん、その言葉はね、罪人に与える罰はルールにのっとった罰じゃないといけませんよっていう意味だよ。私的な復讐を推奨しているわけじゃないから」
「ああ、そうだったの。物知りなのねぇ、昴流は。そういう賢そうなことを言えるのなら、摩沙花ちゃんも心強く思うでしょうね」
他人事丸出しの声音でそう言って、二個目の豆おかきに手を伸ばす。僕は思ったよりも甘くない栗饅頭の最後のひとかけらを嚥下してから、
「『賢そうな』っていう言い方は賢そうじゃないね。この程度で知的って、逆に恥ずかしくないかな」
「摩沙花ちゃんだって、大学生だから云々は本気で言っているわけではないでしょ。頼みごとをするにはもっともらしい理由が必要で、白羽の矢が立ったのが大学生という身分だっただけで。最低限、知的な雰囲気が漂っていれば誰でもよかったんでしょうね」
「母さんにしては鋭い分析じゃん」
「知的な昴流の母親なんだから、このくらい当然よ。
手土産を用意してあるから、夕飯までに摩沙花ちゃんのところに挨拶に行ってきなさいよ。一週間お世話になるんだから」
「了解」
「ついでにお墓参りも済ませてきてね。毒団子、用意してあるから」
「毒団子? ……ああ、動物対策か」
そうそう、と聡子。小石家の墓がある霊園は、子眉山になかば食い込む形で敷地が広がっているので、鳥や虫が嫌というほど出るのだ。
「摩沙花さんのお土産と毒団子をいっしょに持っていくっていうのも、なんかあれだな。間違えて摩沙花さん、殺めちゃわないかな」
「大丈夫、摩沙花ちゃんは毒に耐性があるから」
「勝手に特殊能力付与すな」
「冗談よ。毒団子はビニール袋に入れてあるから」
「ちょっと、母さん。そこは『お土産はビニール袋に入れてあるから』ってボケるところでしょ。
真面目な質問だけど、毒団子ってガチで毒団子なの? それとも、比喩的な意味での毒ということ?」
「本物に決まっているじゃない。そうじゃないと対策にならないでしょ」
「それ、やばくない? 子どもとかが勝手に食べたらどうするの。普通に刑事責任を問われる案件じゃん」
「人の墓に供えた食べものを勝手に食べる子どもなんて、死ねばいいのよ。そんなお猿さん以下の子どもは。とにかく、面倒くさがらずにちゃんとお墓参りはしてきてね」
「嫌がってるの、ばれてた?」
「ばればれよ。お墓参りをしておくと必ずいいことがあるから、そういう意味でもしておきなさい」
「いいことがあるって、パワースポットじゃあるまいし。私利私欲のために死者を利用するって、なんかバチが当たりそうで怖くない?」
「そうなったときは、そうなったときよ」
相変わらず適当だなこの人は、と思いながら、二個目の栗饅頭をむんずと掴む。