第四話.Shall We dance?
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それから数日。
あれ以来、女生徒から絡まれることはなくなった。
彼女たちもやり過ぎたと反省したのか、レイヴンの威圧が効いたのか──いや、もしかしたら。
最近、一人でいるときに妙に視線を感じる。
さりげなく周囲を見回しても、誰もいないように見える。けれど。
(まさかとは思いますが……)
そう思ったら、確認せずにはいられなかった。
今は授業の合間の短い休み時間。
廊下の奥、誰も通らない窓際の陰に身を寄せてみる。
小さく息を吐いて、気配を感じる方に声をかけた。
「……いるんでしょう、先輩」
直後、柱の影から、しれっとした顔がひょこっと現れる。
「……やっぱりバレてるか」
レイヴンは肩をすくめながら、気まずそうに笑った。
「先輩、なにやってるんですか?」
「えーっと……散歩?」
「そういう、すぐバレる嘘つかないでください」
リゼットは呆れ混じりの声でぴしゃりと言ったが、声にはどこか笑みが滲んでいた。
「最近、ずっと見てますよね」
「……気のせいじゃない?」
「授業はきちんと受けてるんですか?」
「も、もちろん」
視線が泳いでいるのは明白だった。
リゼットがじっと睨む。
「先ほど先輩のクラスは射撃訓練をしていましたが、先輩の姿が見えなかったのはなぜですか?」
「……いや〜いたんだけどな?俺って影薄いのかな?」
「嘘です。先輩のクラスは座学でした」
「……」
ぐうの音も出ないようだった。
リゼットは腕を組んでため息をつく。
「というか、上級生の時間割なんて私が把握してるわけないです」
その一言に、レイヴンの肩がほんの少し落ちた。
「……敵わないな」
どこか、照れ隠しと自嘲が入り混じったような声だった。
「……もしかして、この前のこと気にしてるんですか?」
リゼットは、軽く首をかしげながら尋ねる。
レイヴンは視線を逸らし、どこか気まずそうに頬を掻いた。
「……またリゼットに誰かがちょっかい出さないか、見張ってるだけ」
廊下に射す光の中、レイヴンの影が妙に頼りなく見える。
リゼットは、そっとため息をついた。
「心配してくださるのは嬉しいですが……」
その声は優しかったが、はっきりとした意志を含んでいた。
「何かあっても自分で対処できますので、先輩がそこまでしてくれなくても大丈夫です」
ぴたり、とレイヴンの動きが止まる。
間を置いて、ぽつりと呟くように返ってきた。
「でも、また俺のせいでリゼットが傷つくことになったら……」
「俺、自分のこと許せないと思う」
肩を落とし、うつむいた彼は、まるで雨に濡れた雀のようだった。
いつもの軽さも冗談も消え失せ、ただ不器用な真剣さだけがそこにあった。
この男は、自分のことには鈍感なくせに──
他人のこととなると、どうしてこんなに不安定になるのだろう。
その姿が、なんだか少し愛おしかった。
リゼットは、こっそりと笑みをこぼす。
「何かあったら、ちゃんと相談しますから」
「……うん」
「授業はちゃんと受けましょう?」
「……」
「先輩?」
「……わかったよ」
しょんぼりとした背中を向け、レイヴンはそのまま廊下を去っていった。
気配を消すのが得意なくせに、今はやけに足音が響いている。
(なんだか、子供みたいですね)
リゼットは小さく首を振って、その背中を見送った。
◇
昼休みの鐘が鳴り、ざわめきとともに生徒たちが学食へと流れ込んでいく。
リゼットもその一人だった。
今日は、好物の“香草卵のとろとろ粥”が並ぶ日だ。
この日ばかりはダンスの自主練を休みにして、食堂へ直行すると決めていた。
二人がけのテーブル席に腰を下ろす。
もちろん、向かいには誰もいない。
(なんだか、一人の昼食も久しぶりですね)
ふと、そんなことを思う。
レイヴンは自作の弁当派で、学食に来るのは割引の日だけと決めているらしい。
だからこうして一人で食べるのは、むしろ自然なことのはずだった。
粥を一口運ぼうとしたそのとき、不意に声がかかった。
「ここ、いいかな?」
声の方を見ると、そこには見覚えのない男子生徒が立っていた。
「……はい?」
思わず呆けた声が出る。
(人違いでしょうか……)
滅多にないことだ。リゼットに相席を申し出る者なんて、
一部の物好きか、罰ゲームでもやらされている者ぐらいのものだ。
「リゼットさん、だよね?」
人違いではなかった。
「……どこかでお会いしましたか?」
「あれ、覚えてない? よく一緒になるじゃないか」
リゼットは記憶をたぐる。
おそらく、顔を合わせたのはお茶会やパーティーなどの貴族の社交場だろう。
だがそういった場では、最低限の礼儀だけをこなし、当たり障りなく過ごすよう心がけていた。
そこにいる人間の顔など、いちいち覚えてはいない。
「そうでしたか……それは、どうも」
曖昧な笑みを浮かべて応じる。
男子生徒はリゼットの向かいに座った。
「今度のダンスパーティー、君も参加するんだろう?」
「ええ……なぜか、そういうことになってしまって」
「相手は決まってるの?」
リゼットは少し目を伏せた。
レイヴンとは一応“組む予定”だった。
けれど、あの人は本気で踊るつもりなんてないかもしれない。
そもそも、貴族の子女が誰と組むかは周囲にも注目される話題で──下手に名前を出して、迷惑がかかってもいけない。
なにより、自分がまだその「資格」に見合うだけの相手なのか、確信がなかった。
「……まだ、はっきりとは……」
その曖昧な答えに、男子生徒は笑みを深める。
「じゃあさ、僕と組まない?」
その言葉を遮るように──
「悪いけど、彼女の相手は決まってる」
低く、よく通る声。
空気がぴりりと張り詰める。
リゼットが驚いて顔を上げると、すぐそばの列のあいだ──ちょうど配膳を終えたあたりに、レイヴンが立っていた。
いつからそこにいたのだろう。
ほんの偶然、食事を取りに来ただけのようにも見える。
けれど、彼のまなざしは確かに、まっすぐこちらを向いていた。
「先輩……!?いつからいたんですか」
そう言った瞬間、思わず背筋が伸びる。
レイヴンは、いつものように気怠げな表情を崩さず、さらりと答えた。
「今」
まるで、たまたま通りかかっただけ──そんな素振り。
けれどその声には、ごく微かに棘のような硬さが混じっていた。
(そんなわけないでしょう……!)
今来たとして、こんなにも的確に話に割って入れるものか。
──きっと、ずっと見ていた。
偶然を装って、会話の一部始終を聞いていたのだ。
男子生徒は少し呆気にとられていたが、すぐに態度を立て直すと、冷静に問いかけてきた。
「リゼット、そうなの?」
「ええと……」
返事に迷う。
ここで肯定すれば、また妙な噂が立つかもしれない。
貴族の子女が平民の青年と“そういう関係”だなんて、目をつけられるには十分な話題だ。
だからといって──目の前で否定することなんて、できなかった。
言葉に詰まるリゼットを横目に、レイヴンが口を開いた。
「彼女のエスコートは俺の役目でね。他を当たってくれるか?」
さらりと、しかしどこか突き放すような言い回しだった。
「せ、先輩……!」
声がうわずる。
レイヴンは少しも動じることなく、ただ静かに立っていた。
いや、落ち着いて見えるその表情の奥に、何か別の感情が見えた気がする。
まるで、言葉の一つ一つを選びながら、感情の波を必死に抑えているような──そんな眼差しだった。
「君、レイヴン……だっけ?」
男子生徒の声が、今度は冷たく沈む。
「平民が貴族の令嬢と踊るなんて、随分勇気があるじゃないか」
学食のざわめきが、ふいに遠く感じられた。
視線を向ける者もいたが、空気が凍りつくような緊張感に誰も割って入ろうとはしない。
レイヴンは一歩も引かず、真っ直ぐに相手を見つめた。
「身分なんて関係ない。リゼットだから誘った。それだけだ」
短く、はっきりと。
誰のためでもなく、彼女自身の名を選んで口にしたその一言に──リゼットの胸がかすかに鳴る。
(まずい……このままじゃ、喧嘩になる)
言葉にできない焦りを押し込め、リゼットは意を決して立ち上がった。
「……先輩、いきましょう」
そのまま、彼の手首をそっと掴み、学食の出口へと歩き出す。
レイヴンは何も言わず、ただ静かにその手に引かれた。
◇
リゼットはレイヴンの手を引いて、中庭までやってきていた。
春先の風が、ふたりの間をすり抜けていく。けれど、胸の内はそれどころではない。
「なんであんなこと言ったんですか!」
真っ先に口をついて出たのは、抑えきれなかった戸惑いだった。
「あんなことって?」
まるで悪びれる素振りがない。いつも通りの調子でレイヴンは返してくる。
「……『エスコートは俺の役目』とか……」
自分で言い返しておいて、顔が熱くなる。
言葉の響きが、今さらじわじわ効いてくる。
「だって本当のことだし」
さらりと言われて、思わず言葉が詰まる。
「そうかもですけど……」
リゼットは視線を落とし、足元の芝を見つめた。
「リゼットは、嫌なの? 俺と踊るの」
そう問われた瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。
レイヴンの声は、どこまでも穏やかで、それゆえにまっすぐ心に届いた。
「嫌というわけでは……」
答えながら、思わず目をそらす。
真正面から見られたら、顔がもたない。
「ふーん……」
レイヴンの声が、少しだけ拗ねたように響く。
「でも、相手いるかって聞かれたとき、即答しなかったよね」
リゼットの肩がぴくりと揺れた。
(やっぱり……最初から聞いてたんですね……)
「だって……あることないこと言われたら、先輩に迷惑が……」
ごにょごにょと、どこか苦し紛れの言い訳を口にする。
「いいよ、かけても。」
レイヴンは、あっさりと言った。
「そんなの……いいわけないです」
「リゼットになら、なにされても嫌じゃない」
ドクン、と音がした気がした。胸の奥で、確かに跳ねた。
「またそうやって、からかって……」
平静を装って返すものの、声が少し震えているのをごまかせない。
「こっち、見てよ」
レイヴンの手がそっと頬に添えられる。
あたたかくて、優しい。ふわりと顔の向きを直されて──視線が、重なる。
「リゼットは、俺と踊りたい?」
そう聞かれて、言葉が出てこなかった。
でも、この目で見つめられて、嘘なんて──もうつけるはずもなかった。
「……はい」
ぽつりと、こぼれ落ちるように。
「先輩と……踊りたいです」
その瞬間、レイヴンの口元が、やわらかくほどけた。
「……最初からそう言えばいいのに」
微笑んだ彼の声は、冗談めいていて、それでいて、やけにあたたかくて。
それだけで、リゼットの胸がじんと熱くなる。
──たった一言で、こんなにも嬉しくなるなんて。
そう気づいた自分に、また少しだけ恥ずかしくなった。
「あっ、そういえば……先輩、礼服ってお持ちなんですか?」
リゼットがふと思い出したように言うと、レイヴンはあっさりと答えた。
「逆に、持ってるように見える?」
「えっ、でも……ダンスパーティーって、ちゃんとした格好じゃないと──」
「……制服でなんとかならない?」
「なりませんよ……」
レイヴンは「だよね〜」と肩をすくめる。
「……あの、先輩がよければですけど……お父様の礼服を……。昔のものですけど、使ってないのが残ってるはずです」
「へえ、いいの?」
「はい。……先輩に着てもらえたら、嬉しいです」
「ふーん……じゃ、ありがたく借りとくわ」
言いながら、レイヴンはふっと笑った。
本気とも冗談ともつかない表情だったが──どこか照れ隠しのようにも見えた。
「礼服なんて似合う気しないけど……」
「……先輩なら、なんでも似合うと思いますよ」
リゼットは、もごもごと視線をそらした。
風に髪が揺れて、その横顔はほんの少しだけ赤い。
それを見たレイヴンが、軽く眉を上げたかと思うと、いつもの調子で言葉を返す。
「よーし、じゃあ本番で惚れ直してもらえるようにがんばるかぁ」
「もう……すぐそういうこと言うんですから……」
レイヴンの言葉に、リゼットは口をとがらせてそっぽを向いた。
けれど、その横顔には、たしかに笑みの気配があった。
来たるダンスパーティーが、ほんの少しだけ──待ち遠しくなった。
◇
とうとう、この日がやってきた。
窓の外は、まだ少し青みの残る朝の光。
外は静かで、けれど、空気のどこかに高揚と緊張が混ざっている気がした。
やれることは、やったつもりだ。
最初に比べたら、幾分踊れるようになったという自覚もあった。
足も、踏まなくなった。……ある程度は。
それでも、不安は拭いきれない。
(本当に……うまく踊れる……?)
リゼットは自分の頬を軽く叩いた。
それくらいでは震えは止まらないけれど、気持ちだけでも切り替えたかった。
(先輩が、あんなに真剣に教えてくれたんだから……)
思い出すのは、いくつもの日々。
ぶつかって、泣いて、照れて、笑ったあの時間。
初めて会ったときは、まさか一緒に踊ることになるなんて思ってもいなかった。
最初は、大嫌いだったのに。今は──
言葉にできない何かが胸に浮かぶ。
それを振り払うように、リゼットは衣装ケースを抱え、扉を開けた。
さあ、行こう。ダンスパーティーへ。
◇
レイヴンとは、パーティー会場で落ち合うことになっていた。
リゼットは受付を済ませ、会場へと足を踏み入れる。
すでに大勢の生徒で賑わっていたが、その中にレイヴンの姿はまだなかった。
彼は寮暮らしではない。
到着に時間がかかるのは、べつに不思議なことじゃない。
(また、おせっかいして遅れてたり)
そんな想像をして、思わず小さく笑みがこぼれた。
けれど、どこか胸の奥に、ひとしずく、不安のようなものが落ちる。
パーティーの開始までは、まだ少し時間がある。
リゼットはドレスに着替えるため、控室へと向かった。
──けれど。
レイヴンは、開始の時刻になっても姿を現すことはなかった。
◇
(先輩……どうしたんでしょうか)
パーティーの開幕はすでに告げられていた。
けれど、模範生としてステージに立つそのプログラムまでは、まだ少しだけ猶予が残されている。
(もう会場に来てるけど、見つけられてないだけだったり……?)
参加は任意とはいえ、ほとんどの生徒が集まっている。
これだけの人混みだ、どこかですれ違ってしまった可能性もある。
そんな想像に、少しだけ胸が軽くなった気がして──リゼットは受付に向かった。
「あの、せんぱ……レイヴンさんはもう到着されていますか?」
受付の生徒は、きょとんとした表情を浮かべた。
「えっと……レイヴンさんって、参加予定でしたっけ?」
「はい。お名前、リストにありませんか?」
生徒は手元の名簿をめくり、指でなぞるようにして確認したあと、眉をひそめた。
「……あ。リストから外れてますね。直前で、参加取り消しになってます」
「……え?」
言葉が、うまく飲み込めない。
「たしか、上の方から連絡があったって聞いてます。参加資格に関して──ちょっと、って」
「どういう、ことですか?」
リゼットの声が震えた。
生徒は戸惑ったように視線を泳がせたが、やがて、言いにくそうに続けた。
「……このパーティーって、“貴族の社交行事”っていう建前があるらしくて……」
「だから、場にふさわしくないって判断されたのかもしれません」
「……そんなの、おかしいです」
声は出たけれど、自分のものじゃないみたいだった。
胸の奥で何かがぐらぐらと揺れている。怒りか、戸惑いか、それとももっと別の──。
「すみません、私も詳しいことまでは……。上から通達があっただけなんです」
上から。
つまり、レイヴンの意志じゃない。
何者かの“判断”で、彼はここに来ることを拒まれた。
(私と、組んだから……?)
その瞬間、冷たいものが背筋を走った。
取り消し──なんて、そんな仕打ち。
あの人は、どんな気持ちでそれを聞いたんだろう。
平民だから。
ふさわしくないから。
そんな理由で。
そんな理不尽で。
自分と組もうとしなければ、彼にこんな思いをさせずに済んだんじゃないか。
そう思った途端、胸が締めつけられた。
目の前がぐらりと揺れるような感覚に襲われる中、
リゼットは受付を後にした。
◇
リゼットの出番が近づいていた。
けれど、肝心の相手──レイヴンは、どこにもいない。
リゼットは会場の片隅の椅子に腰掛けたまま、呆然としていた。
(先輩……)
目元にじわりと涙が浮かぶ。
ずっと、ふたりで頑張ってきた。
その成果を、今日、この場で、一番近くで見てほしかった。
「リゼット」
不意に声をかけられ、顔を上げる。
そこにいたのは、レイヴンではなかった。
以前、学食で声をかけてきた男子生徒だった。
「そろそろ出番なのに、そんなところにいていいの?」
微笑みながら言うその口調は、どこか勝ち誇ったようだった。
「……」
リゼットは返せず、うつむく。
「お相手の姿が見えないようだけど?」
声はやわらかいのに、どこか挑発するような響きがあった。
「……先輩は……来られなくなりました」
「へえ、そうなのかい?」
わざとらしい驚き。演技だ。
確信に近い感情が、胸にざらついた。
「まぁ、場に相応しくないと判断されたのかもね」
その言葉に、リゼットの中で何かがカチリと音を立てた。
「……あなたのせいですか?」
「え?」
「あなたが、先輩の参加を取り消すように、根回ししたんですね?」
男子生徒は肩をすくめて、わざとらしく目をそらす。
「さぁ、なんのことか。僕は知らないよ?」
その言葉が、とぼけている以上に──確信を裏づけるように響いた。
(……最低です)
食堂でのあの一件。
あれで彼のプライドを傷つけてしまった。
そして、巻き添えを食ったのはレイヴンだった。
「でも、リゼット。出番はすぐそこだ」
「相手がいないと困るだろ? 僕が組んであげるよ」
そう言って、手を差し出してくる。
怒りが、ふつふつとこみ上げる。
でも、リゼットはそれをぎりぎりのところで押し殺して、静かに言った。
「あなたと踊るくらいなら、一人で恥をかいたほうがマシです」
言い放って立ち上がる。
けれど──
「そろそろ準備をお願いします! 模範生の方、舞台袖へ!」
係員の声が響き、音楽が会場にゆるやかに流れ始める。
会場がざわめき、明かりが少しずつ落とされていく。
「さあ、時間切れだ。ほら、行こうか」
男子生徒がリゼットの手を強引に取って引っ張る。
舞台袖に向かうその勢いは、拒む暇も与えてくれなかった。
(嫌……!)
足が動かない。
それでも無理やり引き出されるまま、ステージの光のほうへと引き寄せられる──
そのときだった。
「女性の体に許可なく触れるのは、どうかと思うぜ?」
高い天井に響いたのは、落ち着いた抑揚で空気を攫うような、よく通る声だった。
その一言だけで、ざわついていた会場が静まり返る。
ざわめく会場。
誰かが叫ぶ。
「窓……!? あそこ!」
パーティーホールの巨大な窓のひとつが、軋むように開いていた。
風が一陣、吹き抜ける。
そしてそこに──
礼服を纏ったレイヴンの姿があった。
髪は風に揺れ、息は少し上がっている。
けれど、その目はまっすぐ、リゼットだけを見つめていた。
風がふわりと舞い込んだそのすぐあと──
ステージの上に、レイヴンがひらりと舞い降りた。
滑らかな動きで、音もなく床に着地するその姿に、ざわめいていた会場が一瞬で静まる。
目を奪われる。否応なく。
「ちょっと、待たせちゃったかな?」
低く、落ち着いた声がホールに響いた。
張り詰めていた空気が、その一言でやわらぐようだった。
レイヴンは、何事もなかったかのように立ち、口元に微笑を浮かべていた。
「……先輩!」
リゼットの声が、思わず漏れる。
言葉にできない感情が一気にあふれ、目の奥が熱くなる。
「遅刻は俺の悪い癖でね」
レイヴンは肩をすくめ、飄々とした口調で言った。
でもその眼差しだけは、ずっとリゼットから離れなかった。
「君に参加資格はないはずだ!」
男子生徒が血相を変えて詰め寄る。
「どうやら、そうらしいな」
レイヴンは軽く返すと、舞台袖を振り返りながら小さく笑った。
「だったら、今すぐ出ていってくれないか?」
その言葉に、レイヴンは一瞬だけ目を細め──
「……ああ、わかってるよ」
そう静かに言ってから、再びリゼットの方を向いた。
その笑みは、さっきより少し優しくて、少しだけ意地悪だった。
「俺のお目当ては、ダンスパーティーじゃなくて……彼女だからな」
そう言ったかと思うと、ふいに一歩、近づいてきた。
「え──きゃっ……!」
リゼットが驚く間もなく、レイヴンはその細い腰に片腕を回し、もう片方の腕で彼女の膝裏をすくい上げた。
軽々と、お姫様抱っこの姿勢に持ち上げる。
「しっかり捕まってろよ」
いたずらっぽく目を細めると、レイヴンはそのまま窓の縁へと向かって歩き出した。
さっき飛び込んできた、あの高い窓へ──
「……後で、一緒に怒られてくれよ?」
「ちょ、ちょっと待っ……!」
リゼットの抗議も最後まで聞かずに、レイヴンはふわりと宙へと身を躍らせた。
ひときわ強く風が舞い、カーテンがはためく。
光の中、二人の姿が夜の外気に溶けるように消えていった。
残された会場には、唖然としたままのざわめきだけが、しばらく残っていた。
◇
リゼットは、レイヴンに抱えられたまま中庭へと連れてこられた。
風がまだざわついていて、足元には芝が広がっている。
どこか現実感のないまま、ふたりきりの空間にぽつりと放り出されたような感覚だった。
「先輩……! そろそろ降ろして……!」
リゼットが抗議するように言う。
「……もう少しこのままでもよかったのに」
レイヴンは少し名残惜しそうに言いながらも、そっとリゼットを地面に降ろした。
自分の足が地面を踏んだ瞬間、リゼットはようやく息を吐いた。
けれど──
自分で走ったわけでもないのに、呼吸は妙に乱れている。
それはきっと、さっきまでずっと彼に抱きかかえられていたせいだ。
二人して、その場にへたり込むように腰を下ろした。
夜の空気がようやく落ち着きを取り戻し、ざわめいていた心に染み込んでくる。
「……あんなことして、どうなっても知りませんからね」
リゼットは言った。少しだけ声が震えていた。
「はは。本当に、とんでもないことしちゃったかも」
レイヴンが笑いながら返す。
いつも通りの飄々とした調子──だけど、どこか空元気のようにも聞こえた。
「……最悪、退学になったりして」
冗談めかしたその声には、かすかに怯えが混じっていた。
軽口の奥にある本音に、リゼットはそっと視線を向ける。
「そんなこと、私がさせません」
静かに、けれどきっぱりと告げたその声は、リゼット自身でも驚くほど強かった。
本当は、そういう“力”なんて使いたくない。
親の名前を盾にするのは、何よりも嫌だった。
でも──
レイヴンがこのまま、いなくなってしまうくらいなら。
誰にどんな風に思われたって構わない。
何をしてでも、離れるなんてことだけは、絶対に受け入れたくなかった。
レイヴンはしばらく沈黙していたが、やがてふとしたように口を開いた。
「……ドレス、似合ってるよ」
まっすぐな視線がリゼットに向けられる。
「あ、ありがとうございます……」
レイヴンは、人の目を見て話す癖がある。
それは誠実さでもあるのだけれど、まるで内面まで覗き込まれているようで──
リゼットはいつも、つい視線を逸らしてしまう。
「せ、先輩も……似合ってます」
ごにょごにょと、どこかに逃げるようにそう言った。
でも、それは本心だった。
礼服に身を包んだレイヴンは、まるで別人のように見えた。
深い黒の上着が、青みがかったシルバーの髪をいっそう引き立て、
ターコイズブルーの瞳にいつもより強く光が宿っている。
「やっぱり上質なものは違うな。俺みたいなのでも、様になるってことかな?」
軽口を叩くその声も、どこか照れを隠しているようで。
リゼットは静かに首を振った。
「そうじゃありません。……先輩だから似合うんですよ」
その姿にあったのは、身分でも格式でもない。
たしかな自尊と、目には見えない“気高さ”だった。
レイヴンは、きょとんとした顔を見せ、それから少しだけ照れたように笑った。
「……折角だし、踊る?」
軽くごまかすような言い方に、リゼットは思わず吹き出す。
「なんですか、その誘い方」
「……だめだった?」
「はい、雑すぎます」
指摘されて、レイヴンが気まずそうに頬をかく。
そういうところもまた、彼らしいとリゼットは思った。
「私をエスコートするのは、先輩の役目なんでしょう?」
そう言うと、リゼットは少しだけ身を引いた。
レイヴンは「それじゃあ……」と呟きながら、一歩前に出る。
片膝をつき、丁寧に手を差し出した。
「よろしければ、お相手していただけませんか?」
リゼットは、その手を見つめたまま一拍おき──
少し照れたように、けれどやわらかく微笑んだ。
「……はい、喜んで」
夜の空気は少し肌寒かったが、それがかえって、鼓動の熱を際立たせていた。
二人だけの中庭。灯りはほとんどなく、淡い月光が、静かに石畳を照らしている。
「……じゃあ、始めようか」
リゼットは小さく頷き、差し出された手に、自分の手を重ねた。
ゆっくりと、ふたりの足が動き出す。
音楽はない。
けれど、歩幅は合っていた。
無言のまま、呼吸と、視線と、手の温度だけで進むステップ。
ぎこちなさは少しだけ残っている。
だけど、それを気にする余裕もないほどに、今はただ、目の前の“この人”だけに意識が向いていた。
「……緊張してない?」
レイヴンが、控えめな声で訊ねる。
「少しだけ。でも……前より、ずっと平気です」
リゼットは、ふわりと微笑む。
「最初の頃は、思いきり足踏まれたからなぁ」
「す、すみませんでした……」
慌てるリゼットに、レイヴンはくすっと笑った。
どこか誇らしげに。
「冗談。でも、本当にうまくなったよ。……努力家なとこ、俺は好きだよ」
その声に、リゼットの胸がわずかに跳ねる。
けれど今は、目をそらさなかった。
「……先輩がいてくれたから、頑張れました」
自然に、ステップが速くなる。
月明かりの下で、ひらりとドレスの裾が舞った。
何度も繰り返した練習の記憶が、身体の奥からあふれてくる。
喧嘩した日、涙をこらえた瞬間──それでも、少しずつ二人で乗り越えてきた。
静かな中庭に、足音と布の擦れる音だけが響いている。
やがて、ふたりの動きが、自然に止まった。
距離は、ほんの数十センチ。
お互いの鼓動が伝わるほど近い。
時間が止まったかのように、ふたりはただ、見つめ合っていた。
どちらからともなく、けれど自然に、少しずつ距離が縮まっていく。
レイヴンの右手がそっとリゼットの頬に触れた。
指先が肌をなぞるだけで、リゼットの鼓動が跳ねる。
彼は真っすぐに、彼女の瞳を覗き込んでいた。何も言わず、問いもせず――
けれど、その顔が、ほんの少しだけ近づいた。
リゼットは迷いながらも、目を閉じかけて――
「……待ってください」
小さく、けれど確かな声で制した。
静かに息を吸い込む。胸の奥を整えて、リゼットは口を開いた。
「……貴婦人の心得、その10」
少し間を置いて、リゼットが続ける。
「安易に口づけを許すような女性は……品格を疑われます」
レイヴンは一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。
「……『真の貴婦人は、相手が本当に自分を大切に思ってくれるかを見極めてから、そのような親密さを許すものです』」
まるで自然と口をついて出たかのように、彼もその一節を続ける。
リゼットはそっと距離を取る。名残惜しさを隠すように、姿勢を整えて口を開いた。
「……私、先輩のこと、嫌いでした」
ぽつり、と吐き出す言葉は、真っすぐだった。
「無神経で、軽薄で、人の心を見透かしてるみたいで……」
レイヴンは反論せず、ただ静かに聞いていた。
「でも、今は……」
一度だけ瞬きをして、リゼットは彼の顔を見つめ直した。
「意地悪だけど、不器用で……時々、子どもみたいで……」
「……なんか、ずっと悪口言われてる気がするんだけど?」
レイヴンが笑うと、リゼットははっとして、慌てて一歩引いた。
「す、すみません……」
言いかけて、彼女は言葉を選び直す。
「……私のこと、“貴族の娘”としてじゃなくて、一人の人間として、見てくれたのは先輩が初めてでした」
彼の優しさが演技ではなく、臆病さの裏返しでもなく、誠実な想いから来ていることを、リゼットは知っていた。
「先輩が、優しい人だから。そうしてくれたって、ちゃんとわかってます」
「リゼット、それは――」
レイヴンが何かを言いかけるのを、遮るように重ねた。
「……いいんです」
きっぱりと、でもどこか柔らかく。
「……私、先輩のこと、ちゃんと知りたい」
今までなら言えなかった。
でも今は、ちゃんと自分の気持ちを、伝えたいと思えた。
「だから……これからも、先輩の側にいさせてください」
少しだけ笑って、そっと言葉を添える。
レイヴンは、一拍だけ間を置いて、視線をそらした。
まるで、何かを飲み込むように、静かに息をついて──
それから、ふっと笑って言う。
「ああ、俺も……そのつもりだよ」
彼の声が静かに夜気に溶ける。
それは、約束でも、誓いでもなく――ただまっすぐな、レイヴンの“意思”だった。
「……いつか、胸を張って隣に立てるようになりますから」
言葉の余韻だけを残して、夜がふたりを静かにのみこんでいった。
◇
春の空気はまだ肌寒いのに、中庭にはやわらかな陽が差していた。
リゼットは一人、ベンチに座って本を読んでいた。けれど、目は文字を追っていなかった。
あの日、二人は何事もなかったかのように別れ、それぞれの場所へと帰っていった。
レイヴンは、形式上の処分を受けただけで、大事にはならなかった。
「反省文、三枚で許された」なんて笑っていたけれど、それだけじゃない。
……上層部にも、彼をかばう声が多かったらしい。
そしてまた、いつもの学校生活が始まった。
リゼットは変わらず、彼の側にいる。
いつもみたいにからかわれ、怒って、笑い合う。
以前と同じ、けれど――ほんの少しだけ、違う日々。
リゼットは、本のあるページをそっと開いた。
貴婦人の心得 その十一
真の愛情とは、相手の幸せを一番に考えることです。
愛というのは与えるものであり、求めるものではありません。
相手を悩ませる告白は、愛という名の自己満足にすぎません。
だからこそ、まずは相手にとって良き友人であり、良き理解者であることを心がけましょう。
そうして築かれた信頼と絆こそが、真の愛の土台となるのです。
リゼットはふっと息をついた。
「……またそれ読んでるの?」
背後から聞き慣れた声。
振り向けば、レイヴンが立っていた。
気配にはとっくに気づいていたけれど、あえて気づかないふりをしていた。
「私にとっては『聖書』みたいなものですから」
少しだけ、誇らしげにそう言うと、レイヴンがふっと笑った。
「俺にとっても、『聖書』みたいなもんかもな」
そう言った彼の声は、いつになく穏やかだった。
冗談っぽくはあるけれど、笑いを含まず、まっすぐに届いてくる。
リゼットはふいに、息を呑みそうになる。
けれどすぐに、彼はいつもの調子を取り戻したように、頭をかいた。
「……これのおかげで、今もリゼットの側にいられるし」
さらりと告げながらも、その目は逸らさずに、まっすぐこちらを見ていた。
リゼットはほんの一瞬だけ、彼の顔から視線を逸らした。
頬にじん、と熱がこもる。
見られていないことを祈りながら、そっと目元に髪をかけ直す。
(また、そうやって……)
本気なのか、からかっているだけなのか。
──あの目を見れば、嘘じゃないことは分かるのに。
「先輩のそういうところ――」
呆れたようにため息をつきながらも、唇の端がほんのりと緩む。
そのまま、ほんの少しだけ彼の顔を見上げて。
「……大嫌いです」
けれどその瞳には、言葉とは裏腹の恋しさと、隠しきれない愛しさがにじんでいた。
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