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第四話.Shall We dance?

6/10 微修正しました。

それから数日。


あれ以来、女生徒から絡まれることはなくなった。

彼女たちもやり過ぎたと反省したのか、レイヴンの威圧が効いたのか──いや、もしかしたら。


最近、一人でいるときに妙に視線を感じる。

さりげなく周囲を見回しても、誰もいないように見える。けれど。


(まさかとは思いますが……)


そう思ったら、確認せずにはいられなかった。


今は授業の合間の短い休み時間。

廊下の奥、誰も通らない窓際の陰に身を寄せてみる。


小さく息を吐いて、気配を感じる方に声をかけた。


「……いるんでしょう、先輩」


直後、柱の影から、しれっとした顔がひょこっと現れる。


「……やっぱりバレてるか」


レイヴンは肩をすくめながら、気まずそうに笑った。


「先輩、なにやってるんですか?」


「えーっと……散歩?」


「そういう、すぐバレる嘘つかないでください」


リゼットは呆れ混じりの声でぴしゃりと言ったが、声にはどこか笑みが滲んでいた。


「最近、ずっと見てますよね」


「……気のせいじゃない?」


「授業はきちんと受けてるんですか?」


「も、もちろん」


視線が泳いでいるのは明白だった。

リゼットがじっと睨む。


「先ほど先輩のクラスは射撃訓練をしていましたが、先輩の姿が見えなかったのはなぜですか?」


「……いや〜いたんだけどな?俺って影薄いのかな?」


「嘘です。先輩のクラスは座学でした」


「……」


ぐうの音も出ないようだった。

リゼットは腕を組んでため息をつく。


「というか、上級生の時間割なんて私が把握してるわけないです」


その一言に、レイヴンの肩がほんの少し落ちた。


「……敵わないな」


どこか、照れ隠しと自嘲が入り混じったような声だった。


「……もしかして、この前のこと気にしてるんですか?」


リゼットは、軽く首をかしげながら尋ねる。

レイヴンは視線を逸らし、どこか気まずそうに頬を掻いた。


「……またリゼットに誰かがちょっかい出さないか、見張ってるだけ」


廊下に射す光の中、レイヴンの影が妙に頼りなく見える。


リゼットは、そっとため息をついた。


「心配してくださるのは嬉しいですが……」


その声は優しかったが、はっきりとした意志を含んでいた。


「何かあっても自分で対処できますので、先輩がそこまでしてくれなくても大丈夫です」


ぴたり、とレイヴンの動きが止まる。

間を置いて、ぽつりと呟くように返ってきた。


「でも、また俺のせいでリゼットが傷つくことになったら……」


「俺、自分のこと許せないと思う」


肩を落とし、うつむいた彼は、まるで雨に濡れた雀のようだった。

いつもの軽さも冗談も消え失せ、ただ不器用な真剣さだけがそこにあった。


この男は、自分のことには鈍感なくせに──

他人のこととなると、どうしてこんなに不安定になるのだろう。


その姿が、なんだか少し愛おしかった。

リゼットは、こっそりと笑みをこぼす。


「何かあったら、ちゃんと相談しますから」


「……うん」


「授業はちゃんと受けましょう?」


「……」


「先輩?」


「……わかったよ」


しょんぼりとした背中を向け、レイヴンはそのまま廊下を去っていった。

気配を消すのが得意なくせに、今はやけに足音が響いている。


(なんだか、子供みたいですね)


リゼットは小さく首を振って、その背中を見送った。



昼休みの鐘が鳴り、ざわめきとともに生徒たちが学食へと流れ込んでいく。

リゼットもその一人だった。


今日は、好物の“香草卵のとろとろ粥”が並ぶ日だ。

この日ばかりはダンスの自主練を休みにして、食堂へ直行すると決めていた。


二人がけのテーブル席に腰を下ろす。

もちろん、向かいには誰もいない。


(なんだか、一人の昼食も久しぶりですね)


ふと、そんなことを思う。

レイヴンは自作の弁当派で、学食に来るのは割引の日だけと決めているらしい。

だからこうして一人で食べるのは、むしろ自然なことのはずだった。


粥を一口運ぼうとしたそのとき、不意に声がかかった。


「ここ、いいかな?」


声の方を見ると、そこには見覚えのない男子生徒が立っていた。


「……はい?」


思わず呆けた声が出る。


(人違いでしょうか……)


滅多にないことだ。リゼットに相席を申し出る者なんて、

一部の物好きか、罰ゲームでもやらされている者ぐらいのものだ。


「リゼットさん、だよね?」


人違いではなかった。


「……どこかでお会いしましたか?」


「あれ、覚えてない? よく一緒になるじゃないか」


リゼットは記憶をたぐる。

おそらく、顔を合わせたのはお茶会やパーティーなどの貴族の社交場だろう。


だがそういった場では、最低限の礼儀だけをこなし、当たり障りなく過ごすよう心がけていた。

そこにいる人間の顔など、いちいち覚えてはいない。


「そうでしたか……それは、どうも」


曖昧な笑みを浮かべて応じる。

男子生徒はリゼットの向かいに座った。


「今度のダンスパーティー、君も参加するんだろう?」


「ええ……なぜか、そういうことになってしまって」


「相手は決まってるの?」


リゼットは少し目を伏せた。

レイヴンとは一応“組む予定”だった。

けれど、あの人は本気で踊るつもりなんてないかもしれない。


そもそも、貴族の子女が誰と組むかは周囲にも注目される話題で──下手に名前を出して、迷惑がかかってもいけない。

なにより、自分がまだその「資格」に見合うだけの相手なのか、確信がなかった。


「……まだ、はっきりとは……」


その曖昧な答えに、男子生徒は笑みを深める。


「じゃあさ、僕と組まない?」


その言葉を遮るように──


「悪いけど、彼女の相手は決まってる」


低く、よく通る声。

空気がぴりりと張り詰める。


リゼットが驚いて顔を上げると、すぐそばの列のあいだ──ちょうど配膳を終えたあたりに、レイヴンが立っていた。


いつからそこにいたのだろう。

ほんの偶然、食事を取りに来ただけのようにも見える。

けれど、彼のまなざしは確かに、まっすぐこちらを向いていた。


「先輩……!?いつからいたんですか」


そう言った瞬間、思わず背筋が伸びる。

レイヴンは、いつものように気怠げな表情を崩さず、さらりと答えた。


「今」


まるで、たまたま通りかかっただけ──そんな素振り。

けれどその声には、ごく微かに棘のような硬さが混じっていた。


(そんなわけないでしょう……!)


今来たとして、こんなにも的確に話に割って入れるものか。

──きっと、ずっと見ていた。

偶然を装って、会話の一部始終を聞いていたのだ。


男子生徒は少し呆気にとられていたが、すぐに態度を立て直すと、冷静に問いかけてきた。


「リゼット、そうなの?」


「ええと……」


返事に迷う。

ここで肯定すれば、また妙な噂が立つかもしれない。

貴族の子女が平民の青年と“そういう関係”だなんて、目をつけられるには十分な話題だ。

だからといって──目の前で否定することなんて、できなかった。


言葉に詰まるリゼットを横目に、レイヴンが口を開いた。


「彼女のエスコートは俺の役目でね。他を当たってくれるか?」


さらりと、しかしどこか突き放すような言い回しだった。


「せ、先輩……!」


声がうわずる。

レイヴンは少しも動じることなく、ただ静かに立っていた。


いや、落ち着いて見えるその表情の奥に、何か別の感情が見えた気がする。

まるで、言葉の一つ一つを選びながら、感情の波を必死に抑えているような──そんな眼差しだった。


「君、レイヴン……だっけ?」


男子生徒の声が、今度は冷たく沈む。


「平民が貴族の令嬢と踊るなんて、随分勇気があるじゃないか」


学食のざわめきが、ふいに遠く感じられた。

視線を向ける者もいたが、空気が凍りつくような緊張感に誰も割って入ろうとはしない。


レイヴンは一歩も引かず、真っ直ぐに相手を見つめた。


「身分なんて関係ない。リゼットだから誘った。それだけだ」


短く、はっきりと。

誰のためでもなく、彼女自身の名を選んで口にしたその一言に──リゼットの胸がかすかに鳴る。


(まずい……このままじゃ、喧嘩になる)


言葉にできない焦りを押し込め、リゼットは意を決して立ち上がった。


「……先輩、いきましょう」


そのまま、彼の手首をそっと掴み、学食の出口へと歩き出す。

レイヴンは何も言わず、ただ静かにその手に引かれた。



リゼットはレイヴンの手を引いて、中庭までやってきていた。

春先の風が、ふたりの間をすり抜けていく。けれど、胸の内はそれどころではない。


「なんであんなこと言ったんですか!」


真っ先に口をついて出たのは、抑えきれなかった戸惑いだった。


「あんなことって?」


まるで悪びれる素振りがない。いつも通りの調子でレイヴンは返してくる。


「……『エスコートは俺の役目』とか……」


自分で言い返しておいて、顔が熱くなる。

言葉の響きが、今さらじわじわ効いてくる。


「だって本当のことだし」


さらりと言われて、思わず言葉が詰まる。


「そうかもですけど……」


リゼットは視線を落とし、足元の芝を見つめた。


「リゼットは、嫌なの? 俺と踊るの」


そう問われた瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。

レイヴンの声は、どこまでも穏やかで、それゆえにまっすぐ心に届いた。


「嫌というわけでは……」


答えながら、思わず目をそらす。

真正面から見られたら、顔がもたない。


「ふーん……」


レイヴンの声が、少しだけ拗ねたように響く。


「でも、相手いるかって聞かれたとき、即答しなかったよね」


リゼットの肩がぴくりと揺れた。


(やっぱり……最初から聞いてたんですね……)


「だって……あることないこと言われたら、先輩に迷惑が……」


ごにょごにょと、どこか苦し紛れの言い訳を口にする。


「いいよ、かけても。」


レイヴンは、あっさりと言った。


「そんなの……いいわけないです」


「リゼットになら、なにされても嫌じゃない」


ドクン、と音がした気がした。胸の奥で、確かに跳ねた。


「またそうやって、からかって……」


平静を装って返すものの、声が少し震えているのをごまかせない。


「こっち、見てよ」


レイヴンの手がそっと頬に添えられる。

あたたかくて、優しい。ふわりと顔の向きを直されて──視線が、重なる。


「リゼットは、俺と踊りたい?」


そう聞かれて、言葉が出てこなかった。

でも、この目で見つめられて、嘘なんて──もうつけるはずもなかった。


「……はい」


ぽつりと、こぼれ落ちるように。


「先輩と……踊りたいです」


その瞬間、レイヴンの口元が、やわらかくほどけた。


「……最初からそう言えばいいのに」


微笑んだ彼の声は、冗談めいていて、それでいて、やけにあたたかくて。

それだけで、リゼットの胸がじんと熱くなる。


──たった一言で、こんなにも嬉しくなるなんて。

そう気づいた自分に、また少しだけ恥ずかしくなった。


「あっ、そういえば……先輩、礼服ってお持ちなんですか?」


リゼットがふと思い出したように言うと、レイヴンはあっさりと答えた。


「逆に、持ってるように見える?」


「えっ、でも……ダンスパーティーって、ちゃんとした格好じゃないと──」


「……制服でなんとかならない?」


「なりませんよ……」


レイヴンは「だよね〜」と肩をすくめる。


「……あの、先輩がよければですけど……お父様の礼服を……。昔のものですけど、使ってないのが残ってるはずです」


「へえ、いいの?」


「はい。……先輩に着てもらえたら、嬉しいです」


「ふーん……じゃ、ありがたく借りとくわ」


言いながら、レイヴンはふっと笑った。

本気とも冗談ともつかない表情だったが──どこか照れ隠しのようにも見えた。


「礼服なんて似合う気しないけど……」


「……先輩なら、なんでも似合うと思いますよ」


リゼットは、もごもごと視線をそらした。

風に髪が揺れて、その横顔はほんの少しだけ赤い。

それを見たレイヴンが、軽く眉を上げたかと思うと、いつもの調子で言葉を返す。


「よーし、じゃあ本番で惚れ直してもらえるようにがんばるかぁ」


「もう……すぐそういうこと言うんですから……」


レイヴンの言葉に、リゼットは口をとがらせてそっぽを向いた。

けれど、その横顔には、たしかに笑みの気配があった。

来たるダンスパーティーが、ほんの少しだけ──待ち遠しくなった。



とうとう、この日がやってきた。


窓の外は、まだ少し青みの残る朝の光。

外は静かで、けれど、空気のどこかに高揚と緊張が混ざっている気がした。


やれることは、やったつもりだ。

最初に比べたら、幾分踊れるようになったという自覚もあった。


足も、踏まなくなった。……ある程度は。


それでも、不安は拭いきれない。


(本当に……うまく踊れる……?)


リゼットは自分の頬を軽く叩いた。

それくらいでは震えは止まらないけれど、気持ちだけでも切り替えたかった。


(先輩が、あんなに真剣に教えてくれたんだから……)


思い出すのは、いくつもの日々。

ぶつかって、泣いて、照れて、笑ったあの時間。

初めて会ったときは、まさか一緒に踊ることになるなんて思ってもいなかった。


最初は、大嫌いだったのに。今は──


言葉にできない何かが胸に浮かぶ。

それを振り払うように、リゼットは衣装ケースを抱え、扉を開けた。


さあ、行こう。ダンスパーティーへ。



レイヴンとは、パーティー会場で落ち合うことになっていた。


リゼットは受付を済ませ、会場へと足を踏み入れる。


すでに大勢の生徒で賑わっていたが、その中にレイヴンの姿はまだなかった。


彼は寮暮らしではない。

到着に時間がかかるのは、べつに不思議なことじゃない。


(また、おせっかいして遅れてたり)


そんな想像をして、思わず小さく笑みがこぼれた。

けれど、どこか胸の奥に、ひとしずく、不安のようなものが落ちる。


パーティーの開始までは、まだ少し時間がある。

リゼットはドレスに着替えるため、控室へと向かった。


──けれど。

レイヴンは、開始の時刻になっても姿を現すことはなかった。



(先輩……どうしたんでしょうか)


パーティーの開幕はすでに告げられていた。

けれど、模範生としてステージに立つそのプログラムまでは、まだ少しだけ猶予が残されている。


(もう会場に来てるけど、見つけられてないだけだったり……?)


参加は任意とはいえ、ほとんどの生徒が集まっている。

これだけの人混みだ、どこかですれ違ってしまった可能性もある。


そんな想像に、少しだけ胸が軽くなった気がして──リゼットは受付に向かった。


「あの、せんぱ……レイヴンさんはもう到着されていますか?」


受付の生徒は、きょとんとした表情を浮かべた。


「えっと……レイヴンさんって、参加予定でしたっけ?」


「はい。お名前、リストにありませんか?」


生徒は手元の名簿をめくり、指でなぞるようにして確認したあと、眉をひそめた。


「……あ。リストから外れてますね。直前で、参加取り消しになってます」


「……え?」


言葉が、うまく飲み込めない。


「たしか、上の方から連絡があったって聞いてます。参加資格に関して──ちょっと、って」


「どういう、ことですか?」


リゼットの声が震えた。

生徒は戸惑ったように視線を泳がせたが、やがて、言いにくそうに続けた。


「……このパーティーって、“貴族の社交行事”っていう建前があるらしくて……」

「だから、場にふさわしくないって判断されたのかもしれません」


「……そんなの、おかしいです」


声は出たけれど、自分のものじゃないみたいだった。

胸の奥で何かがぐらぐらと揺れている。怒りか、戸惑いか、それとももっと別の──。


「すみません、私も詳しいことまでは……。上から通達があっただけなんです」


上から。

つまり、レイヴンの意志じゃない。

何者かの“判断”で、彼はここに来ることを拒まれた。


(私と、組んだから……?)


その瞬間、冷たいものが背筋を走った。


取り消し──なんて、そんな仕打ち。

あの人は、どんな気持ちでそれを聞いたんだろう。


平民だから。

ふさわしくないから。


そんな理由で。

そんな理不尽で。


自分と組もうとしなければ、彼にこんな思いをさせずに済んだんじゃないか。

そう思った途端、胸が締めつけられた。


目の前がぐらりと揺れるような感覚に襲われる中、

リゼットは受付を後にした。



リゼットの出番が近づいていた。

けれど、肝心の相手──レイヴンは、どこにもいない。


リゼットは会場の片隅の椅子に腰掛けたまま、呆然としていた。


(先輩……)


目元にじわりと涙が浮かぶ。


ずっと、ふたりで頑張ってきた。

その成果を、今日、この場で、一番近くで見てほしかった。


「リゼット」


不意に声をかけられ、顔を上げる。


そこにいたのは、レイヴンではなかった。

以前、学食で声をかけてきた男子生徒だった。


「そろそろ出番なのに、そんなところにいていいの?」


微笑みながら言うその口調は、どこか勝ち誇ったようだった。


「……」


リゼットは返せず、うつむく。


「お相手の姿が見えないようだけど?」


声はやわらかいのに、どこか挑発するような響きがあった。


「……先輩は……来られなくなりました」


「へえ、そうなのかい?」


わざとらしい驚き。演技だ。

確信に近い感情が、胸にざらついた。


「まぁ、場に相応しくないと判断されたのかもね」


その言葉に、リゼットの中で何かがカチリと音を立てた。


「……あなたのせいですか?」


「え?」


「あなたが、先輩の参加を取り消すように、根回ししたんですね?」


男子生徒は肩をすくめて、わざとらしく目をそらす。


「さぁ、なんのことか。僕は知らないよ?」


その言葉が、とぼけている以上に──確信を裏づけるように響いた。


(……最低です)


食堂でのあの一件。

あれで彼のプライドを傷つけてしまった。

そして、巻き添えを食ったのはレイヴンだった。


「でも、リゼット。出番はすぐそこだ」

「相手がいないと困るだろ? 僕が組んであげるよ」


そう言って、手を差し出してくる。


怒りが、ふつふつとこみ上げる。

でも、リゼットはそれをぎりぎりのところで押し殺して、静かに言った。


「あなたと踊るくらいなら、一人で恥をかいたほうがマシです」


言い放って立ち上がる。

けれど──


「そろそろ準備をお願いします! 模範生の方、舞台袖へ!」


係員の声が響き、音楽が会場にゆるやかに流れ始める。

会場がざわめき、明かりが少しずつ落とされていく。


「さあ、時間切れだ。ほら、行こうか」


男子生徒がリゼットの手を強引に取って引っ張る。

舞台袖に向かうその勢いは、拒む暇も与えてくれなかった。


(嫌……!)


足が動かない。

それでも無理やり引き出されるまま、ステージの光のほうへと引き寄せられる──


そのときだった。


「女性の体に許可なく触れるのは、どうかと思うぜ?」


高い天井に響いたのは、落ち着いた抑揚で空気を攫うような、よく通る声だった。

その一言だけで、ざわついていた会場が静まり返る。


ざわめく会場。


誰かが叫ぶ。


「窓……!? あそこ!」


パーティーホールの巨大な窓のひとつが、軋むように開いていた。


風が一陣、吹き抜ける。


そしてそこに──


礼服を纏ったレイヴンの姿があった。


髪は風に揺れ、息は少し上がっている。

けれど、その目はまっすぐ、リゼットだけを見つめていた。


風がふわりと舞い込んだそのすぐあと──

ステージの上に、レイヴンがひらりと舞い降りた。


滑らかな動きで、音もなく床に着地するその姿に、ざわめいていた会場が一瞬で静まる。

目を奪われる。否応なく。


「ちょっと、待たせちゃったかな?」


低く、落ち着いた声がホールに響いた。

張り詰めていた空気が、その一言でやわらぐようだった。


レイヴンは、何事もなかったかのように立ち、口元に微笑を浮かべていた。


「……先輩!」


リゼットの声が、思わず漏れる。

言葉にできない感情が一気にあふれ、目の奥が熱くなる。


「遅刻は俺の悪い癖でね」


レイヴンは肩をすくめ、飄々とした口調で言った。

でもその眼差しだけは、ずっとリゼットから離れなかった。


「君に参加資格はないはずだ!」


男子生徒が血相を変えて詰め寄る。


「どうやら、そうらしいな」


レイヴンは軽く返すと、舞台袖を振り返りながら小さく笑った。


「だったら、今すぐ出ていってくれないか?」


その言葉に、レイヴンは一瞬だけ目を細め──


「……ああ、わかってるよ」


そう静かに言ってから、再びリゼットの方を向いた。

その笑みは、さっきより少し優しくて、少しだけ意地悪だった。


「俺のお目当ては、ダンスパーティーじゃなくて……彼女だからな」


そう言ったかと思うと、ふいに一歩、近づいてきた。


「え──きゃっ……!」


リゼットが驚く間もなく、レイヴンはその細い腰に片腕を回し、もう片方の腕で彼女の膝裏をすくい上げた。

軽々と、お姫様抱っこの姿勢に持ち上げる。


「しっかり捕まってろよ」


いたずらっぽく目を細めると、レイヴンはそのまま窓の縁へと向かって歩き出した。

さっき飛び込んできた、あの高い窓へ──


「……後で、一緒に怒られてくれよ?」


「ちょ、ちょっと待っ……!」


リゼットの抗議も最後まで聞かずに、レイヴンはふわりと宙へと身を躍らせた。


ひときわ強く風が舞い、カーテンがはためく。

光の中、二人の姿が夜の外気に溶けるように消えていった。


残された会場には、唖然としたままのざわめきだけが、しばらく残っていた。



リゼットは、レイヴンに抱えられたまま中庭へと連れてこられた。

風がまだざわついていて、足元には芝が広がっている。

どこか現実感のないまま、ふたりきりの空間にぽつりと放り出されたような感覚だった。


「先輩……! そろそろ降ろして……!」


リゼットが抗議するように言う。


「……もう少しこのままでもよかったのに」


レイヴンは少し名残惜しそうに言いながらも、そっとリゼットを地面に降ろした。

自分の足が地面を踏んだ瞬間、リゼットはようやく息を吐いた。


けれど──

自分で走ったわけでもないのに、呼吸は妙に乱れている。

それはきっと、さっきまでずっと彼に抱きかかえられていたせいだ。


二人して、その場にへたり込むように腰を下ろした。

夜の空気がようやく落ち着きを取り戻し、ざわめいていた心に染み込んでくる。


「……あんなことして、どうなっても知りませんからね」


リゼットは言った。少しだけ声が震えていた。


「はは。本当に、とんでもないことしちゃったかも」


レイヴンが笑いながら返す。

いつも通りの飄々とした調子──だけど、どこか空元気のようにも聞こえた。


「……最悪、退学になったりして」


冗談めかしたその声には、かすかに怯えが混じっていた。

軽口の奥にある本音に、リゼットはそっと視線を向ける。


「そんなこと、私がさせません」


静かに、けれどきっぱりと告げたその声は、リゼット自身でも驚くほど強かった。


本当は、そういう“力”なんて使いたくない。

親の名前を盾にするのは、何よりも嫌だった。


でも──

レイヴンがこのまま、いなくなってしまうくらいなら。


誰にどんな風に思われたって構わない。

何をしてでも、離れるなんてことだけは、絶対に受け入れたくなかった。


レイヴンはしばらく沈黙していたが、やがてふとしたように口を開いた。


「……ドレス、似合ってるよ」


まっすぐな視線がリゼットに向けられる。


「あ、ありがとうございます……」


レイヴンは、人の目を見て話す癖がある。

それは誠実さでもあるのだけれど、まるで内面まで覗き込まれているようで──

リゼットはいつも、つい視線を逸らしてしまう。


「せ、先輩も……似合ってます」


ごにょごにょと、どこかに逃げるようにそう言った。


でも、それは本心だった。


礼服に身を包んだレイヴンは、まるで別人のように見えた。

深い黒の上着が、青みがかったシルバーの髪をいっそう引き立て、

ターコイズブルーの瞳にいつもより強く光が宿っている。


「やっぱり上質なものは違うな。俺みたいなのでも、様になるってことかな?」


軽口を叩くその声も、どこか照れを隠しているようで。


リゼットは静かに首を振った。


「そうじゃありません。……先輩だから似合うんですよ」


その姿にあったのは、身分でも格式でもない。

たしかな自尊と、目には見えない“気高さ”だった。


レイヴンは、きょとんとした顔を見せ、それから少しだけ照れたように笑った。


「……折角だし、踊る?」


軽くごまかすような言い方に、リゼットは思わず吹き出す。


「なんですか、その誘い方」


「……だめだった?」


「はい、雑すぎます」


指摘されて、レイヴンが気まずそうに頬をかく。

そういうところもまた、彼らしいとリゼットは思った。


「私をエスコートするのは、先輩の役目なんでしょう?」


そう言うと、リゼットは少しだけ身を引いた。

レイヴンは「それじゃあ……」と呟きながら、一歩前に出る。


片膝をつき、丁寧に手を差し出した。


「よろしければ、お相手していただけませんか?」


リゼットは、その手を見つめたまま一拍おき──

少し照れたように、けれどやわらかく微笑んだ。


「……はい、喜んで」


夜の空気は少し肌寒かったが、それがかえって、鼓動の熱を際立たせていた。


二人だけの中庭。灯りはほとんどなく、淡い月光が、静かに石畳を照らしている。


「……じゃあ、始めようか」


リゼットは小さく頷き、差し出された手に、自分の手を重ねた。

ゆっくりと、ふたりの足が動き出す。


音楽はない。

けれど、歩幅は合っていた。


無言のまま、呼吸と、視線と、手の温度だけで進むステップ。

ぎこちなさは少しだけ残っている。


だけど、それを気にする余裕もないほどに、今はただ、目の前の“この人”だけに意識が向いていた。


「……緊張してない?」


レイヴンが、控えめな声で訊ねる。


「少しだけ。でも……前より、ずっと平気です」


リゼットは、ふわりと微笑む。


「最初の頃は、思いきり足踏まれたからなぁ」


「す、すみませんでした……」


慌てるリゼットに、レイヴンはくすっと笑った。

どこか誇らしげに。


「冗談。でも、本当にうまくなったよ。……努力家なとこ、俺は好きだよ」


その声に、リゼットの胸がわずかに跳ねる。

けれど今は、目をそらさなかった。


「……先輩がいてくれたから、頑張れました」


自然に、ステップが速くなる。

月明かりの下で、ひらりとドレスの裾が舞った。


何度も繰り返した練習の記憶が、身体の奥からあふれてくる。

喧嘩した日、涙をこらえた瞬間──それでも、少しずつ二人で乗り越えてきた。


静かな中庭に、足音と布の擦れる音だけが響いている。


やがて、ふたりの動きが、自然に止まった。


距離は、ほんの数十センチ。

お互いの鼓動が伝わるほど近い。


時間が止まったかのように、ふたりはただ、見つめ合っていた。

どちらからともなく、けれど自然に、少しずつ距離が縮まっていく。


レイヴンの右手がそっとリゼットの頬に触れた。

指先が肌をなぞるだけで、リゼットの鼓動が跳ねる。


彼は真っすぐに、彼女の瞳を覗き込んでいた。何も言わず、問いもせず――

けれど、その顔が、ほんの少しだけ近づいた。


リゼットは迷いながらも、目を閉じかけて――


「……待ってください」


小さく、けれど確かな声で制した。


静かに息を吸い込む。胸の奥を整えて、リゼットは口を開いた。


「……貴婦人の心得、その10」


少し間を置いて、リゼットが続ける。


「安易に口づけを許すような女性は……品格を疑われます」


レイヴンは一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。


「……『真の貴婦人は、相手が本当に自分を大切に思ってくれるかを見極めてから、そのような親密さを許すものです』」


まるで自然と口をついて出たかのように、彼もその一節を続ける。


リゼットはそっと距離を取る。名残惜しさを隠すように、姿勢を整えて口を開いた。


「……私、先輩のこと、嫌いでした」


ぽつり、と吐き出す言葉は、真っすぐだった。


「無神経で、軽薄で、人の心を見透かしてるみたいで……」


レイヴンは反論せず、ただ静かに聞いていた。


「でも、今は……」


一度だけ瞬きをして、リゼットは彼の顔を見つめ直した。


「意地悪だけど、不器用で……時々、子どもみたいで……」


「……なんか、ずっと悪口言われてる気がするんだけど?」


レイヴンが笑うと、リゼットははっとして、慌てて一歩引いた。


「す、すみません……」


言いかけて、彼女は言葉を選び直す。


「……私のこと、“貴族の娘”としてじゃなくて、一人の人間として、見てくれたのは先輩が初めてでした」


彼の優しさが演技ではなく、臆病さの裏返しでもなく、誠実な想いから来ていることを、リゼットは知っていた。


「先輩が、優しい人だから。そうしてくれたって、ちゃんとわかってます」


「リゼット、それは――」


レイヴンが何かを言いかけるのを、遮るように重ねた。


「……いいんです」


きっぱりと、でもどこか柔らかく。


「……私、先輩のこと、ちゃんと知りたい」


今までなら言えなかった。

でも今は、ちゃんと自分の気持ちを、伝えたいと思えた。


「だから……これからも、先輩の側にいさせてください」


少しだけ笑って、そっと言葉を添える。


レイヴンは、一拍だけ間を置いて、視線をそらした。

まるで、何かを飲み込むように、静かに息をついて──


それから、ふっと笑って言う。


「ああ、俺も……そのつもりだよ」


彼の声が静かに夜気に溶ける。

それは、約束でも、誓いでもなく――ただまっすぐな、レイヴンの“意思”だった。


「……いつか、胸を張って隣に立てるようになりますから」


言葉の余韻だけを残して、夜がふたりを静かにのみこんでいった。



春の空気はまだ肌寒いのに、中庭にはやわらかな陽が差していた。

リゼットは一人、ベンチに座って本を読んでいた。けれど、目は文字を追っていなかった。


あの日、二人は何事もなかったかのように別れ、それぞれの場所へと帰っていった。


レイヴンは、形式上の処分を受けただけで、大事にはならなかった。

「反省文、三枚で許された」なんて笑っていたけれど、それだけじゃない。

……上層部にも、彼をかばう声が多かったらしい。


そしてまた、いつもの学校生活が始まった。

リゼットは変わらず、彼の側にいる。

いつもみたいにからかわれ、怒って、笑い合う。

以前と同じ、けれど――ほんの少しだけ、違う日々。


リゼットは、本のあるページをそっと開いた。


貴婦人の心得 その十一


真の愛情とは、相手の幸せを一番に考えることです。

愛というのは与えるものであり、求めるものではありません。

相手を悩ませる告白は、愛という名の自己満足にすぎません。


だからこそ、まずは相手にとって良き友人であり、良き理解者であることを心がけましょう。

そうして築かれた信頼と絆こそが、真の愛の土台となるのです。


リゼットはふっと息をついた。


「……またそれ読んでるの?」


背後から聞き慣れた声。

振り向けば、レイヴンが立っていた。

気配にはとっくに気づいていたけれど、あえて気づかないふりをしていた。


「私にとっては『聖書』みたいなものですから」


少しだけ、誇らしげにそう言うと、レイヴンがふっと笑った。


「俺にとっても、『聖書』みたいなもんかもな」


そう言った彼の声は、いつになく穏やかだった。

冗談っぽくはあるけれど、笑いを含まず、まっすぐに届いてくる。


リゼットはふいに、息を呑みそうになる。

けれどすぐに、彼はいつもの調子を取り戻したように、頭をかいた。


「……これのおかげで、今もリゼットの側にいられるし」


さらりと告げながらも、その目は逸らさずに、まっすぐこちらを見ていた。


リゼットはほんの一瞬だけ、彼の顔から視線を逸らした。

頬にじん、と熱がこもる。

見られていないことを祈りながら、そっと目元に髪をかけ直す。


(また、そうやって……)


本気なのか、からかっているだけなのか。

──あの目を見れば、嘘じゃないことは分かるのに。


「先輩のそういうところ――」


呆れたようにため息をつきながらも、唇の端がほんのりと緩む。

そのまま、ほんの少しだけ彼の顔を見上げて。


「……大嫌いです」


けれどその瞳には、言葉とは裏腹の恋しさと、隠しきれない愛しさがにじんでいた。

読んでいただいてありがとうございます!

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