第三話.Catch Me If You Can
「……困りましたね」
リゼットは眉をひそめ、ため息をついた。
手にしているのは、今朝配られた一枚の通知書。
**《舞踏晩餐会 参加通達》**──そう大きく記されたその紙は、士官学校の伝統行事を知らせるものだった。
リゼットは、ダンスが大の苦手だった。
運動神経にはそれなりの自信がある。
剣術も弓もこなせるし、騎馬だって人並み以上に扱える。
だが──ダンスだけは、どうしてもダメだった。
相手との距離が近すぎて、体がこわばってしまう。
足が絡まり、視線の置き場にも困ってしまう。
ぎこちない動きしかできなくなる。
これまでこういった華やかなイベントは、何かと理由をつけてすべて回避してきた。
けれど今回は、“模範生として開会のペアダンスに出るように”と正式に通達されていた。
逃げ場はないらしい。
(そもそも、相手がいないのですが……)
リゼットは学内で男女問わず“遠巻きに敬われる存在”だった。
気安く話しかけてくる者はいないし、親しい男子生徒など皆無だ。
──ただ一人を除いて。
(先輩なら……)
ふと、銀髪の姿が脳裏をよぎる。
だがすぐに首を横に振った。
(もう、誰かに誘われてるに決まってますよね……)
軽く肩を落とす。
けれど思考は、なかなか先へ進ませてくれなかった。
(……でも、聞いてみるだけなら)
ほんの少しだけ勇気を振り絞って。
リゼットは、胸の奥で小さく決意を固めた。
◇
なぜだか最近、レイヴンと昼食を一緒にとるのが当たり前のようになっていた。
というより──リゼットが中庭で読書をしていれば、いつの間にかレイヴンが現れて隣に座っていたし、
演習場の屋根で寝転がっている彼に、リゼットの方から声をかける日もあった。
(……どうして、私なんかと?)
そう尋ねてみたい気持ちはあった。
けれど、それを口にするのはどこか怖くて、聞けずにいた。
ただ、彼と過ごすその時間が、自分が思い描いていた“理想の学生生活”にどこか似ていて。
だからこそ、心地よくて、少しだけ怖かった。
今日の昼休みも、そんなふうにして始まった。
(──聞くなら、今しかない)
リゼットは、静かに切り出す。
「あの、先輩」
「ん?」
「今度の……ダンスパーティーの件なんですけど」
「ああ、そんな時期だよな」
レイヴンは軽く空を仰ぎながら言った。
その何気ない反応に、リゼットは思い切って核心に踏み込む。
「……お相手、決まっているんですか?」
「んー。まあ、誘われたけど」
その言葉に、わずかに間が空く。
やっぱり、という思いとともに、リゼットは視線を伏せかけた。
「──でも、断った」
「え?」
思わず、素っ頓狂な声が出る。
「な、なぜですか?」
「なぜって言われても……」
レイヴンは少し考えるふうを見せてから、いたずらっぽく笑った。
「ほら。誰かさんに“誰彼構わず優しくするな”って言われたし?」
その“誰かさん”が自分だとすぐにわかって、リゼットは一瞬だけ言葉を失った。
「で、リゼットは?」
逆に問われて、今度はリゼットの番だ。
「……いるわけないです」
わざと拗ねたように答えると、レイヴンは小さく笑っただけで、特に何も言わない。
ぽつりと返ってきたのは一言。
「そっか」
静かな間が流れる。
(……なんだか、気まずい)
言葉がうまく出てこなくなって、リゼットは内心で焦りを覚える。
彼は誘われていた。
けれど断った。
それは──もしかして、誰か誘いたい相手がいるから……?
そう思ったら、自分から声をかけることなんてできなくなった。
そのときだった。
「じゃあさ、俺と組む?」
「……はい?」
素っ頓狂な声が、また出た。
「だから、リゼットと俺で踊る?って話」
あっけらかんとした声に、リゼットはしばし呆然とする。
その顔を見て、レイヴンがまた笑った。
「……いやいやいや」
ようやく口を開いて、リゼットは眉をひそめる。
「“誰彼構わず優しくするな”はどうなったんですか?」
「だから“誰彼構わず”じゃないって。リゼットだから、誘ってるんだけど?」
また、これだ。
この男はこういうことを、さらりと、臆面もなく言ってのける。
そこに、きっと他意なんてない。
──同情か、気まぐれか。
それだけのことだと、そう思い込もうとするのに。
でもどこかで、そうじゃない可能性を期待してしまう自分がいる。
それが、ひどく居心地悪くて、照れくさくて。
だからリゼットは、ほんの少しだけ唇をかみながら、小さく視線をそらした。
「私、ダンス苦手なんです……」
リゼットは申し訳なさそうに目を伏せる。
「へえ? 意外だな」
レイヴンが少し驚いたように言った。
「先輩の足を引っ張るかもしれません」
「そんなの、気にすんなって」
リゼットはチラ、と彼の横顔を盗み見る。
「……引っ張るどころか、踏んづけるかもしれません」
「それは困るな」
レイヴンが苦笑すると、リゼットはしゅんと肩を落とす。
「……やっぱり、困りますよね?」
レイヴンが笑う。
その顔がやさしくて、少しだけ救われた気がした。
「そんな顔すんなよ」
そう言って、彼はそっとリゼットの頭に手を置いた。
ぽん、と優しい音が響いた気がした。
「俺が教えてやるから」
その手は、思っていたより大きくて、あたたかくて──
リゼットは不意に、少しだけ笑った。
「……途中で投げ出さないでくださいね?」
冗談っぽく言いながらも、その声にはほんの少しだけ不安が滲んでいた。
「忍耐力には自信ある」
いつもと同じ調子で返したレイヴンの瞳は、どこか静かで、優しかった。
◇
こうして──リゼットとレイヴンの、ダンス特訓が始まった。
きっかけはささいな一言だったはずだ。
「俺が教えてやる」
たったそれだけの、軽い調子の提案。
けれどリゼットにとっては、それは途方もない挑戦であり、
なにより「二人きりで過ごす放課後」なんて、想像するだけで心臓が跳ねそうな事態だった。
場所は、人気のない講堂の片隅。
机と椅子が端に寄せられた空間は、即席の練習場としてはじゅうぶんだった。
「こうでしたっけ……?」
おそるおそる、レイヴンの手を取る。
その瞬間、手のひらから熱が伝わってくるような気がして、思わずぎこちなくなる。
距離が……近い。
「もうちょい右足引いて。……そうそう。で、俺の肩に軽く手を置く」
「ひゃっ……」
「今のは“置く”じゃなくて“飛びのく”だったな」
「す、すみません……!」
「緊張しすぎ。深呼吸、深呼吸」
レイヴンがリズムを取るように、かかとで軽く床を鳴らす。
その音に合わせて、ふたりの足がゆっくりと動き出した。
一歩、二歩──
なんとか進んではいるものの、ぎこちなさは隠しきれない。
「っ……ごめんなさい!踏みました!」
「あー……右の小指が、若干しびれてるかも」
「本当にすみません!」
レイヴンは苦笑いを浮かべながら、肩をすくめる。
「まぁ、慣れれば踏まないように立ち回れるから。お互いに、な」
「……はい、気をつけます」
くすっと笑うレイヴンに、思わずこちらも力が抜けた。
「……じゃ、次は回ってみるか」
「え、回るって……っきゃあっ!」
不意に、腰に添えられた手が軽く引かれ、身体が旋回する。
目が回るほどの近さに、彼の顔があった。
「な、なにするんですか!」
「ターンの練習。舞踏会で絶対やるやつ」
「予告なしでやらないでください!」
「じゃあ次から“いくよ?”って聞く」
「次もあるんですか!?」
「あるある。まだ一通り終わってないし」
「うぅ……もうだめかも……」
「じゃあ──休憩がてら、次は俺が全部リードする」
「えっ」
声を出す暇もなく、手がすっと引かれた。
さっきまでのふざけた調子が消えている。
レイヴンの顔は、どこか真剣で──その目が、まっすぐリゼットを見ていた。
「力抜いて。俺の動きに、合わせてみて」
その声音がやけに優しくて、リゼットは思わず黙ってしまった。
胸の鼓動が、どくん、と跳ねる。
声を出す暇もなく、手がすっと引かれた。
さっきまでのふざけた調子が消えている。
レイヴンの顔は、どこか真剣で──その目が、まっすぐリゼットを見ていた。
ふわ、とレイヴンが一歩踏み出す。
それに合わせて、自然と身体が引かれる。
「……上手いじゃん」
「……そんなこと、ないです」
「いや、ちゃんとついてきてる。ぎこちないけど、それもリゼットっぽくていい」
「よくないです。全然……様になってない……」
うつむきかけたその顔を、レイヴンの指がすっと顎をすくって止めた。
「顔、上げて。目線落ちると崩れる」
「……」
「俺の目、見て」
見られてる。
違う、覗き込まれてる。
視線が、手のひらが、呼吸が、全部レイヴンに引っ張られる。
なんでもないように動いてるくせに、ずるいくらい近い。
「……うん。いい感じ」
そう言って、レイヴンがゆっくりとステップを踏む。
リゼットの靴が、かすかに床をこすった。
「……ふ、踏んでないですか?」
「ちょっと危なかったけど、ギリギリセーフ」
「……っ、やっぱり、うまくできません……」
「焦ると、余計にぎこちなくなる。深呼吸して」
その言葉に、リゼットは肩を上下させながら息を吸う。
レイヴンの手が、そっと背中に回った。
「……っ」
「姿勢、崩れそうだったから。大丈夫、ちゃんと支えてる」
(……どうして、そんなに、優しいんですか)
そう言えればいいのに。
でも、心臓の音が邪魔をして、何も言えなかった。
◇
練習とは思えないほど、リゼットは真剣だった。
顔を上げ、まっすぐにレイヴンを見つめる。
ぎこちないステップも、何度も繰り返すターンも、
まっすぐすぎて、見ているだけで胸がつまる。
──そんな様子が、なんだか可愛らしくて。
レイヴンは、ふと悪戯心を抑えきれなくなった。
ふっと身を寄せ、彼女の耳元に顔を近づける。
「……なあ、ちょっと耳、赤いぞ?」
その囁きと同時に、わずかに吐息を吹きかける。
びくん、とリゼットの肩が跳ねた。
「……っ!?」
たちまち顔が真っ赤になり、次の瞬間にはリゼットが勢いよく彼から離れた。
「……なに、してるんですか!」
「え?いや……」
「ふざけないでください!」
彼女の声が震えていたのは、怒りだけじゃなかった。
悔しさと、恥ずかしさと、必死で積み上げたものを壊されたような──そんな痛みがにじんでいた。
レイヴンが何か言いかけたときには、もう遅かった。
リゼットはくるりと背を向け、そのまま駆け出していく。
「リゼッ──」
名前を呼ぶ声は届かず、彼女の背中はすぐに建物の陰に消えていった。
残されたレイヴンは、片手を宙に伸ばしたまま、深く息を吐いた。
「……やっちまったな」
◇
その後、リゼットは戻ってこなかった。
追いかけようと思った。
だけど、追いかけたところで──何を言えばいいのか、わからなかった。
(……なんで、俺ってこうなんだよ)
女の子の扱いには、それなりに慣れてるつもりだった。
「こうすれば喜ぶ」「こうしたら引かれる」──なんとなく、感覚でわかる。
好かれたいわけじゃない。
でも、嫌われるのは──怖い。
だから、今までだって求められるままに応えてきた。
深く踏み込まれないように、ちょうどいい距離で。
それで、うまくやってこれた。
リゼットにも、そうするつもりだった。
ちょっとからかえば、恥ずかしがって、笑って、可愛く怒って──
……それで済むと思ってた。
(──本気で怒らせちまった)
思わず、顔を覆う。
冷たい空気が頬に触れて、やけに痛かった。
(……顔合わせたら、なんて言えばいいんだ)
謝る?冗談のつもりだったって言う?
それで──許してもらえる?
ふと気づいた。
この期に及んで、ただ“嫌われたかも”ってだけで悩んでる、自分に。
今までだって、愛想を尽かされたことは何度もある。
寄ってきて、勝手に冷めて、いなくなる。
それだけの関係だった。
でも、リゼットは──
もっと知りたかった。
もっと、そばにいたかった。
(……嫌われたくない)
それだけは──はっきりしていた。
◇
翌朝、レイヴンは校門の近くで、リゼットが来るのを待っていた。
彼女の登校時間は、いつもくかなり早い。
だからレイヴンも、それよりさらに早く家を出た。
(……なんで、こんなに必死になってんだか)
遅刻ギリギリが常の自分が、誰かに会うために早起きして登校するなんて。
それだけで、どこか自分らしくない気がした。
そのとき、見覚えのあるピンクの髪が目に入った。
「──リゼット!」
思わず声をかける。
リゼットはびくっと肩を震わせ、こちらに視線を向けた。
目が合う。
でも──すぐに、走り去ってしまった。
追いかけることもできた。
けれど、なぜか足が動かなかった。
(……避けられた、か)
胸の奥がずきんと痛む。
(……そりゃそうか)
小さく笑ってみせたが、その笑みは乾いていた。
昨日のリゼットの表情が蘇る。
怒り、羞恥、そして──失望。
(あんな顔、させるつもりじゃなかったのに)
いつもなら、こういうときはさっさと身を引く。
面倒になる前に、距離を置いて、なかったことにしてしまう。
その方が、楽だから。
──けれど。
今回は、どうしてもそうしたくなかった。
理由なんてわからない。
ただ、このまま終わらせたくなかった。
◇
昼を知らせる鐘の音が、石造りの校舎に反響する。
リゼットとは学年が違う。
つまり登校のタイミングを逃せば、次のチャンスは、昼休みしかない。
最近は、中庭で一緒に過ごすのが暗黙の了解になっていた。
だが、今日はその姿が見えない。
……やっぱり、避けられてる。
レイヴンはリゼットの行動パターンを思い返す。
今日は、香草卵のとろとろ粥が学食に並ぶ日ではない。
ならば学食には行かないだろう。
そうなると、次に行きそうな場所は──
(図書室、か)
迷っている暇はなかった。
レイヴンは図書室へと歩き出す。
◇
図書室の扉をそっと開ける。
昼下がりの静けさが広がっていた。
室内を見回すと、一見人影はないように思えたが、
ひとつの書棚の陰から、わずかにピンク色の髪がのぞいていた。
(……隠れてるつもり、なんだな)
口元に、自然と笑みが浮かぶ。
レイヴンはゆっくりと足音を忍ばせ、書棚へと近づく。
そこにはリゼットが、まるで自分を隠すようにして立っていた。
「……リゼット」
名前を呼んだ瞬間、リゼットはぴくりと肩を揺らし、
次の瞬間には駆け出そうとする。
「待って」
レイヴンは咄嗟に彼女の腕を掴んだ。
「っ……離してください」
リゼットは顔をそむけたまま腕を振り払おうとする。
さらに横へ逃げようと身をひねった。
このままではまた逃げられる。
そう思った瞬間、レイヴンは反射的にもう一度手を伸ばしていた。
気づけば、彼女を壁際に追い込む形になっていた。
片手はリゼットの肩のすぐそばの壁に添えられ、もう片方の手は、まだ彼女の腕を軽く掴んだまま。
思わぬ距離の近さに、ふたりとも動きを止めた。
視線が絡み合う。
リゼットはすぐに目を逸らすが、もう逃げるようなそぶりはなかった。
逃げられない状況なのか、それとも──逃げないと決めたのか。
「……昨日は、ごめん」
レイヴンが、囁くように言った。
距離の近さに合わせた声。いつもの軽さはそこにはなかった。
「傷つけるつもりじゃなかった」
リゼットは目を合わせない。
細い指先が制服の裾をぎゅっと掴む。
すぐに返事は返ってこない。
けれど、それも責めているように感じる沈黙だった。
「……そんなの、嘘です」
ぽつりと零れた声は、小さいのに、突き刺さるほどまっすぐだった。
「からかってるんでしょう?……私のこと」
「違うよ」
レイヴンはすぐに否定する。
けれど、その「違う」は、思いのほか脆く聞こえた。
「……じゃあ、どうしてあんなことしたんですか?」
リゼットの問いには、返す言葉が見つからない。
沈黙は、否定よりも残酷に響く。
「……弄んで、楽しんでるんですよね?」
その言葉とともに、リゼットの目に涙が滲む。
怒っているというよりも、傷ついた人の顔だった。
(……傷つけて、泣かせて。俺って……最悪だ)
そう思っても、何かを言う前に、レイヴンの手が動いた。
指先で、そっとリゼットの涙をぬぐう。
その仕草に、リゼットはびくりと肩を震わせ、身をこわばらせる。
「……なんとも思ってないくせに」
「どうして、そんな風に触れてくるんですか……」
声がかすれている。
それでも、責めるように口を開くリゼットに、レイヴンは言葉を返した。
「リゼットが、特別だから」
ほんの少しだけ顔が上がった。
リゼットの瞳が、揺れている。
「嘘です」
「嘘じゃない」
そのやり取りの間、ふたりの距離は変わらなかった。
目は合わせないが、気持ちが揺れているのがわかる。
まだ──嫌われてはいない。
そう思えた瞬間、胸の奥にほんの少し、安堵が灯った。
「……どうすれば信じてくれる?」
レイヴンが静かに尋ねる。
「……知りません」
リゼットの声は、さっきより少しだけ弱々しい。
けれど、頑なに目は合わせようとはしない。
「俺の目、見て言ってよ」
そっと彼女の顎に触れ、顔を上に向かせる。
至近距離で見上げてくるヘーゼルの瞳。
呼吸が触れ合いそうなほどの近さに、睫毛がかすかに揺れる。
「誰にでも、こうしてるんでしょう……」
リゼットの小さな囁きとともに、微かな息が肌に触れた。
胸の奥が少しだけ熱くなる。
でも、言葉は迷いなく出た。
「してないよ」
今まで、求められれば応えてきたことはあった。
でも──自分から、触れたくなるなんて。
「こんなこと、リゼットにしかしない」
囁くようにそう告げて、そっと彼女の耳元へと顔を寄せた。
その吐息が触れた瞬間──
「……やめて」
リゼットが、かすれた声でそう言った。
拒絶の言葉。だけど、力はこもっていない。
逃げようともしない。睫毛は震え、唇は結ばれている。
「やめない」
レイヴンは、囁くようにそう返す。
その声は、低くて熱を帯びていた。
「リゼットが信じてくれるまで、やめない」
リゼットは首をふる。ほんのわずかに。
でも、その動きに拒絶の強さはなかった。
「……離れて、ください……」
震える声で言う。
けれど、レイヴンの手を振り払おうとはしない。
「やだ」
レイヴンは短く言った。
その目は、獲物を逃がさないという意志で満ちている。
「それに、リゼット……」
そっと髪に指をかける。
ふれた耳の裏が、あたたかくてやわらかくて──
まるで、触れてはいけない何かをなぞっているみたいだった。
「さっきから、ずっと震えてる」
更に顔を近づける。
「いつもみたいに、突き放したら?」
本気で口説いてるはずなのに、声だけは妙にやさしくなる。
「できないなら……教えてよ。今のリゼットは、なんで逃げないのか」
リゼットが息を呑む。
しん、とした沈黙が落ちた。
リゼットは何も答えない。
けれど、その目だけが揺れていた。
そして――リゼットは、その場にへたり込んだ。
足がもつれたのか、力が抜けたのか。
とにかく、もう立っていられないようだった。
「リ、リゼット……?」
レイヴンが戸惑い混じりに声をかける。
リゼットはうつむいたまま、ぽつりと呟いた。
「……嫌い」
かすれた声だった。
「先輩なんか、嫌い……!」
今にも泣きそうな声。
いや、もう泣いていた。
ぽろぽろと、涙がこぼれていく。
「どうして、そんなに……いじわるなの……?」
その震える声に、レイヴンは胸を締めつけられる。
黙って、リゼットをそっと抱きしめた。
彼女は抵抗しない。
むしろ、自分からもそっと、レイヴンの背中に腕を回す。
「……ごめん」
レイヴンは静かに呟いた。
◇
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。
けれど、二人は抱き合ったまま動こうとしなかった。
「……午後の授業、始まるよ」
レイヴンが静かに言う。
言葉にしたことで、現実がそっと背中に触れる。
「行かなくていいの?」
口ではそう言いながら、腕の力は緩めなかった。
「……先輩が離してくれないので、動けません」
そう言いながら、リゼットはレイヴンの背に回した腕の力を少しだけ強めた。
そのぬくもりに、レイヴンの胸の奥がわずかに締めつけられる。
応えるように、レイヴンもそっと腕に力を込める。
「……授業サボるのなんて、はじめてです」
リゼットの呟きが、首筋に触れる。
「そっか……ごめん」
レイヴンは、思わず謝っていた。
「……許しません」
リゼットの声は、怒っているわけじゃない。
ただ、拗ねたように、照れたように、少しだけ揺れていた。
「責任、とってください」
その言葉に、レイヴンの胸が小さく跳ねる。
リゼットは顔をうずめたまま、さらに続ける。
「……ダンス、今度はちゃんと教えてください」
「私が踊れるようになるまで、最後まで面倒みてください」
レイヴンは、ふっと笑った。
どこか苦くて、それでもあたたかい笑みだった。
「ああ、もちろん」
「俺が、ちゃんと教えるよ。リゼットが踊れるようになるまで」
◇
それから。
2人は、ダンスの練習を再開した。
昼休みや放課後──人目を避けるように、人気のない場所で。
時々、レイヴンが茶化すようなことを言ってくるのは相変わらずだった。
けれど、その言葉の奥には、ちゃんと“教えよう”という意志があるのがわかった。
レイヴンの考えていることは、今もよくわからない。
でも、あのとき言われた言葉が、全部冗談だったとも思えなかった。
特別だとか、そういう話も──
本気なのか、気まぐれなのか。
自分がその真意を知りたいのかどうかさえ、わからなかった。
今日も、放課後に練習の約束をしていた。
いつものように中庭へ向かう。
──けれど、途中で足を止めることになる。
「……ちょっと、いいかしら?」
声をかけられて、そちらを見る。
数名の女生徒。
見覚えのある顔もあった。
いつか、レイヴンと一緒にいた女子──笑顔ではあるけれど、その目は笑っていなかった。
「……何か?」
リゼットは、わずかに身構える。
友好的な“お喋り”ではないことは、すぐに察せられた。
「最近、随分レイヴンと親しげじゃない?」
女生徒が言う。
「……そうですね」
リゼットは、あくまで穏やかに返した。
「親しくしていただいてます」
事実だった。否定する理由はない。
だがその言葉を聞いた女生徒の顔色が、わずかに変わった。
「まあ、彼って誰にでも優しいから」
リゼットは、それには答えず目を伏せる。
(……知ってます)
言い返すほどのことでもなかった。
だが、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚があった。
女生徒はわずかに唇を歪めて、続けた。
「可哀想だから、忠告してあげるけど……」
声の温度が下がる。
「あなた、遊ばれてるだけなんじゃない?」
瞬間、リゼットの心臓が小さく跳ねた。
けれど、表情は崩さない。
他人の口から出た言葉ひとつで揺らぐほど、脆くはない。
「そうだとして、それがあなたに関係ありますか?」
静かに、しかしはっきりとした口調で返す。
女生徒がわずかにたじろいだのが、目の端に映った。
「──ああ、もしかして。『援助』してるの?」
まるでささやくように、毒を垂らす。
「平民の学費って大変でしょうし。あの人も、『お世話になってる』から優しくしてるのかしら?」
その言葉に、リゼットの全身がぴんと張り詰めた。
拳が握られる。
鋭く、相手を見据える。
「……今の発言、取り消してください」
冷たい声だった。
「先輩を、侮辱しないでください」
女生徒が目を見開く。
「……先輩は、そんな人じゃありません」
「私が上級貴族だとか、そんなこと関係なく、ちゃんと一人の人間として見てくれているんです」
「そんな風にしか人を見られないあなたこそ──よほど心が貧しいのですね」
静かな怒気をはらんだ言葉だった。
──その直後。
乾いた音が、中庭に響く。
女生徒の平手が、リゼットの頬を打っていた。
◇
今日も、ダンスの練習をする約束をしていた。
それなのに、時間になってもリゼットが来ない。
(……珍しいな)
彼女が遅れるなんて、ほとんどなかった。
数分だけ待って、レイヴンは立ち上がる。
(何かあったのか?)
足早に、いつもリゼットが通る方角へ向かう。
その途中──妙に静かな一角で、ふと人の声が聞こえた。
「……そうですね。親しくしていただいてます」
(この声……リゼット?)
草陰の奥。
ぴんと張ったような空気と、張りつめた声。
聞き慣れた、けれど、どこか違う響きだった。
「あなた、遊ばれてるだけなんじゃない?」
その一言が、鋭く耳を打った。
(俺のこと……だよな)
そういうふうに見られてるのは、最初から分かってた。
教室でも廊下でも、あからさまな視線は感じていた。
だけど──リゼットには。
リゼットにだけは、そんなふうに思ってほしくなかった。
「そうだとして、それがあなたに関係ありますか?」
その声に、レイヴンの胸がきゅっと締めつけられた。
怒り、戸惑い……でも、それだけじゃない。
彼女の奥からにじみ出る、まっすぐな何かが、確かにそこにあった。
(止めたほうが、いいよな)
そう思う。でも、動けない。
自分が否定するより先に、
リゼットがどう思ってるのか――
それを、聞きたいと思ってしまった。
「──ああ、もしかして。『援助』してるの?」
「平民の学費って大変でしょうし。あの人も、『お世話になってる』から優しくしてるのかしら?」
(……そうくるか)
平民ってだけで。
相手が上級貴族ってだけで。
どこにもない話が、まるで最初から決まっていたかのように、当然みたいな顔で言われる。
(……笑えるな)
そう思いながらも、苦笑すら出なかった。
ただ、静かに舌打ちした。
「……今の発言、取り消してください」
その声は不思議とまっすぐで──痛いほどに、誠実だった。
「先輩を、侮辱しないでください」
リゼットの声は、静かに、けれど確かに震えている。
だが、言葉の端に熱があった。
「先輩は、そんな人じゃありません」
(リゼット……)
嬉しかった。
同時に、ぞわりと背中をなぞるような、罪悪感のようなものもあった。
「先輩は、私が上級貴族だとか、そんなの関係なく接してくれてるんです」
「そんな風にしか人を見られないあなたこそ、よほど心が貧しいのですね」
ぱちん。
乾いた音が、中庭に響いた。
一瞬、時間が止まったようだった。
誰も動かない。誰も、何も言わない。
「──そのへんにしとけよ」
草陰から一歩、足を踏み出す。
乾いた音がまだ、空気に残っていた。
「……まだ続けるか?」
声は低く、しかし淡々としていて、逆に冷たい迫力があった。
「レ、レイヴン……?」
女生徒たちが驚いて振り返る。
「俺がどう思われてようが、どうでもいい。でも──」
一瞬、リゼットを見る。
彼女は頬を押さえたまま、唇を噛んでいた。
「リゼットを傷つけるなら、話は別だ」
女生徒たちは数歩、後ずさる。
「……もう、行こ?」
平手を飛ばした女生徒の肩を、取り巻きの一人がそっと引いた。
誰も何も言えないまま、その場をそそくさと立ち去っていく。
残されたのは、レイヴンとリゼットの二人だけだった。
沈黙の中、リゼットがゆっくりと顔を上げる。
「……来るの、遅いですよ、先輩」
微笑みを浮かべながらも、その頬には赤い手形が残っていた。
レイヴンは答えなかった。
ただ静かに歩み寄ると、無言のままリゼットの頬に手を伸ばす。
指先が触れた瞬間──リゼットの肩が小さく震えた。
「先輩……離れて……」
掠れるような声でそう言いながら、リゼットはレイヴンを押し返そうとする。
だが、その手には力がこもっていなかった。
レイヴンは、頬に触れたまま、そっと彼女の腰を抱き寄せる。
リゼットの目が見開かれる。
「……こんなところ、誰かに見られたら……また、誤解されます……!」
反射的に抗おうとするが、その動きはすぐに止まった。
「誤解?」
レイヴンは静かに問い返す。
「何も誤解じゃない」
まっすぐにリゼットの目を見る。
その視線が、逃げ場を奪うように深くて優しい。
リゼットの動きが止まる。
レイヴンは、彼女の頬を親指でなぞった。
わずかに腫れた感触が、指先に残る。
「……また、傷つけた。俺のせいで」
低く、苦しげな声だった。
「先輩のせいじゃ、ないです」
リゼットはそっと首を振る。
「黙ってやり過ごせばよかったのに、言い返したのは私の意思です」
「だから……そんな顔、しないでください」
小さな声だったが、はっきりとした意思が込められていた。
その言葉が、胸の奥に刺さる。
痛みではない。
けれど、何か大事なものを揺さぶられるような、妙な感覚だった。
リゼットの瞳が揺れていた。
怯えてはいない。拒絶でもない。
ただ──困っていた。
彼の手を受け入れたまま、どうしていいかわからないまま、彼女はその場に立ち尽くしている。
(……ほんとに、馬鹿だな、俺)
こうなることなんて、分かってたはずだ。
でも、止められなかった。
怒りでも、正義感でもない。
彼女の“信じてくれた言葉”が、たまらなく嬉しかった。
それが、たまらなく──苦しかった。
「……リゼット」
レイヴンは囁くように彼女の名前を呼ぶ。
触れていた手を頬から下ろし、そのまま、彼女の肩にかかる髪に指を添える。
顔が、近づく。
息が触れる距離。
鼻先が、すれ違うほどに近づく。
お互いのまばたきさえも感じられるほどの距離で──レイヴンの動きが止まった。
リゼットも、目を閉じなかった。
ただ、静かに、彼を見ていた。
逃げようともしない。
けれど、求めてはいなかった。
(……だめだ)
レイヴンは、そっと息を吐いた。
違う。
この子は、そういう目で俺を見ていない。
信じて、慕って、期待してくれてる。
だったら──今は違う。
彼は、そっと彼女の髪をなぞりながら、ほんの数センチだけ距離を取る。
「……ありがとな」
それだけ言うと、彼は手を離した。
もう一度、彼女の目を見る。
今度は、きちんと自分を律した目で。
「行こっか。ダンスのステップ、忘れる前に」
まるで、何もなかったかのように。
でも、確かに何かがあったとわかるように。
リゼットは、ゆっくりと頷いた。
まだ頬の赤みは残っていたけれど、どこか安堵したような顔だった。