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第二話.Drive

昼休みになったが、リゼットは食堂には向かわず、図書室へと足を運んでいた。

人気のある場所にいると、またあの男と出くわす気がして──


(……気にして行動してるみたいで、嫌なのですが)


棚を眺めながら、ひとつため息をつく。

例の本は、もはや持ち歩くにはリスクが高すぎる。

この数日で、それは痛感していた。


(せめて、人前で読んでも問題なさそうな……)


そう思いながら棚を物色していたとき。

図書室の扉が開く、わずかな音が聞こえた。


ちらりと視線を向けると──そこに立っていたのは、またしても。


(……また、ですか)


リゼットは思わず小さく息をついた。

どうしてこうも、タイミングよく現れるのか。


何か言おうと口を開きかけたその瞬間。

レイヴンが、口元に人差し指を立てて「しーっ」という仕草をしてきた。


「……?」


戸惑うリゼットをよそに、レイヴンはそそくさと中へ入り、書棚の影に身を隠す。


数秒後。再び扉が開いた。


入ってきたのは、今朝レイヴンの周囲にいた女子の一人。

彼女は図書室をきょろきょろと見回したあと、誰かを探していたらしいが──

やがて、何も見つからなかったようにそのまま出て行った。


「……行った?」


影からひょっこり顔を出しながら、レイヴンが小声で聞いてくる。


「行きましたよ」


リゼットは素っ気なく答えた。


レイヴンは大袈裟に肩の力を抜き、ため息をついた。


「ふぅ〜、助かった」


「……何か、やらかしたのですか?」


訝しげに尋ねると、レイヴンは肩をすくめて答えた。


「いや、別に。なにも」


「ただ、まぁ。静かに過ごしたい時ってあるじゃん? そういう感じ」


どこか嘘ではなさそうな、けれど全部でもなさそうな物言いだった。


「……私はあなたのせいで、その“静かに過ごしたい時間”を邪魔されているのですが?」


リゼットの声には、ほんの少し刺が混じっていた。

だが、レイヴンは気にも留めず、くすっと笑った。


「なんか最近、よく会うよな」


「ええ、困ったことに」


即答する。

しかし、レイヴンは意に介した様子もなく、何気ない調子で言った。


「いつも、一人だよな?」


その言葉に、リゼットの眉がわずかに動いた。


「それが、何か?」


「友達いないのかな〜って」


さらりとしたその一言に、リゼットは一瞬だけ言葉に詰まる。


「……おりませんけど、問題ありますか?」


語尾をわずかに強めて言い返す。

すると、レイヴンはまるで面白がるように口角を上げた。


「じゃあ、俺と友達になる?」


「お断りします」


即答した。

けれど、またしてもレイヴンはひるまない。


「……なんか怒ってる?」


「生まれつき、こういう顔なんです」


感情を押し殺すように、淡々と。


だが──


「でも、今朝は笑ってたよな」


「……は?」


その一言が、不意を突いたように胸に刺さる。

リゼットの目が、すこしだけ見開かれる。


「笑った方が、可愛いよ」


ぽつりと、何気ないようでいて、妙にまっすぐな声だった。


その瞬間、時間がふっと止まったような感覚に包まれる。


リゼットは咄嗟に言葉を返せなかった。

手にしていた本の背表紙を、ただ静かに、ぎゅっと握りしめる。


(……また、そういうことを……)


動揺を見せまいとする自分と、揺れてしまう心の板挟み。

それが顔に出てしまっていないか──それだけが、いまのリゼットの心配だった。


リゼットが言葉を探していると、不意に──


「……っ危ない!」


レイヴンが声を上げた。


次の瞬間、視界がぐらりと揺れる。


棚の上から、本が──数冊まとめて、落ちてきたのだ。


避ける暇もなかった。

だが、落下する直前、レイヴンの腕がすっと差し出され──


「……っ」


どさり、と音を立てて床に落ちたのは、本ではなく、二人の身体だった。


リゼットは目を瞬かせた。


いつの間にか、レイヴンに抱き寄せられるような形で、彼の腕の中に収まっていた。

肩口に回された手。

すぐ近くにある、心臓の音。

そして……顔を上げれば、ほんの数センチ先にあるレイヴンの顔。


「……無事?」


低く囁かれた声が、耳に触れる。

思わずびくりと肩が震えた。


「っ、……は、はい……」


顔が、熱い。

鼓動の音が耳の内側に反響するようだった。


「よかった。……でも、ちょっと、近いかもな」


そう言って、レイヴンが腕を緩めた。

けれど、すぐに離れてはくれなかった。


そのとき──

昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。


「おっと、そろそろ戻らないとな」


軽い調子でそう言って、レイヴンは立ち上がる。


「じゃ、またな」


手をひらひらと振りながら、何事もなかったように図書室を後にした。


その場には、まだ床に座ったままのリゼットだけが残されていた。


立ち上がろうとした足が、わずかに震える。


胸の奥に残る熱に気づかないふりをしながら、リゼットはゆっくりと体勢を起こす。

そして、ふらふらとした足取りで教室に向かった。



リゼットは、自室のベッドの上でぼんやりと天井を見上げていた。


今日の昼休みにあった出来事が、頭から離れない。


図書室でのやりとり。

すぐそばで感じた、あの声。

細身に見えて、意外としっかりとした腕。


──そして。


(……いい匂いだった)


香水のようなきつさではなく、自然で、どこか懐かしいような香り。

森の匂いと、少しだけ残る日なたのような温もり。


(……って、なにを思い出してるんですか、私は!)


リゼットは慌てて布団をかぶり、その中でジタバタと足を動かす。


(ほんとに。どうしちゃったんですか、私……)


こんな気持ちは初めてだった。


勉強なら教科書を開けばいい。

戦いのことは、実戦で覚えるものだ。


でも――自分の心のことは?


(明日、また会ったら……どうすれば……)


不安とも、期待ともつかない感情が胸を占めていく。

ただひとつ、わかっているのは。


あの男のことが、“不快”じゃなくなってきている、ということだった。



それから数日。

リゼットはなぜか、レイヴンとやたら顔を合わせるようになった。


たとえば──


朝の廊下で、すれ違う瞬間に。


「おはよう、リゼット嬢」


「……おはようございます」


最低限の返事しか返していないのに、レイヴンは毎度満足そうな顔をして去っていく。


──昼休み、食堂の列に並んでいると。


「おすすめ、ある?」


「ありますけど、あなたには教えません」


「なんで?」


「私が困るので」


やり取りのたびに、周囲の女子の目線が痛い。


(……あの人と一緒にいると、妙に目立つんですよね)


それでも、レイヴンはめげない。

リゼットが突き放せば突き放すほど、どこか楽しそうな顔をする。


──そして、放課後。


中庭のベンチに腰かけていたリゼットは、草むらの影からこそこそと近づく男の気配に気づいた。


案の定、現れたのはレイヴンだった。


「よ。偶然だね」


「嘘だとバレていますよ」


「バレても困らないし」


リゼットは深くため息をついた。

なぜこの男は、こうも毎日現れるのか。


(嫌いなら、無視できるのに)


なのに、なぜか心が落ち着かない。


それだけ言葉を飲み込んで、リゼットはその場を離れた。

まるで逃げるように。


──けれど、次に彼を見かけたのは、そんな自分を皮肉るような場面だった。


中庭の隅、人気のない場所。

レイヴンが、一人の男子生徒に詰め寄られていた。


「女取っ替え引っ替えしやがって、いい身分だな」


男子生徒が胸ぐらを掴む。

レイヴンは、それを振り払うこともなく、なすがままだった。


「そんなつもりはないよ」


淡々と言い返す。


「人の女に手出しやがって……」


男子生徒が凄むが、レイヴンはその目をまっすぐ見つめている。


「……俺は何もしてないって」


「ただ、相談に乗ってあげてただけ」


そう言って、微笑んだその瞬間。


「ヘラヘラしてんじゃねえよ!」


殴打音と共に、レイヴンの頬が弾けた。

衝撃に身体が揺れ、そのまま地面に倒れ込む。


リゼットは気づけば走り出していた。


「生徒同士の暴力沙汰は──処罰対象ですよ」


制止するように割って入り、彼女はレイヴンの前に立った。


男子生徒はリゼットを認識すると、わずかにたじろぐ。

けれど、すぐに吐き捨てるように言った。


「上級貴族の女まで抱え込んでるのかよ」


眉がぴくりと動く。


「平民が、玉の輿でも狙ってるのか?」


レイヴンは何も言わない。

ただ、地面から起き上がることもなく、無言でそのやりとりを見ている。


「七光りと成り上がりか。偽物同士、お似合いじゃねーか」


──次の瞬間。


乾いた音が響いた。

リゼットの手が、その男子生徒の頬を叩いていた。


自分でも、なぜ手が出たのか分からない。

ただ、許せなかった。

それだけは、はっきりしていた。


男子生徒は一瞬呆気に取られていたが、徐々に状況を理解したのか、顔色が怒りに染まる。


「てめぇ……!」


そのままリゼットに掴みかかろうとした、その瞬間。


(……まずい!)


リゼットはとっさに目を閉じた。


── 鈍い音が響いた。


……が、痛みはない。


おそるおそる目を開けると、そこには倒れた男子生徒と、その前に立つレイヴンの姿があった。


「……え?」


レイヴンは、ちらりとリゼットを振り返る。

頬にはまだ、さっきの殴打の痕が残っていた。


「……やっちまった」


ぽつりと呟くその声は、どこか他人事のようだった。


「どっ……どうするんですか!?」


リゼットが声を上げると、レイヴンは肩をすくめた。


「……逃げるしかないだろ」


そう言って、リゼットの手をぎゅっと掴む。


「えっ──」


抗議する間もなく、レイヴンは走り出した。

リゼットは引っ張られるまま、足をもつれさせながらその後を追う。


制服の裾がひらりと揺れる。

中庭を抜け、校舎の影へと駆け込んでいく二人の背中を、風が追いかけていた。



人目のない中庭の奥──木陰のベンチに、二人は肩を並べていた。


まだ心臓がバクバクとうるさい。

息を整えようとするも、なかなか落ち着かない。


レイヴンは、まだリゼットの手を握ったままだった。


「……あの」


リゼットがそっと声をかける。


「ん?」


「……そろそろ、離していただけませんか」


一拍、間が空いた。


「あ──っと、ごめんごめん」


レイヴンが、いつもの調子で笑う。

けれど、その頬に浮かぶ痣が、笑顔とは対照的で──

リゼットは眉をひそめた。


「……血、出てますよ」


リゼットがそっとハンカチを取り出す。


「平気だって。これくらい」


「ハンカチ、汚れちまうだろ」


レイヴンが静かに手を抑える。

けれど、リゼットはその手をすり抜け、強引に彼の口元にハンカチを当てた。


「……あなたが気にすることじゃありません」


一言添えながら、傷にそっと触れる。


レイヴンは観念したように肩の力を抜いた。


「……生徒を殴って気絶させるなんて、厳重処分ですよ?」


「リゼットも殴ってたけどね」


「それは……まぁ」


言い返せず、視線をそらす。


ハンカチの白が、じわりと赤く染まっていく。


「でも、許せなかったんです」


レイヴンが、ちらと目を向ける。


「……七光りがどうの、ってやつ?」


「それも、そうですけど……」


言いかけて、言葉を切る。

リゼットは、少しだけ目を伏せた。

静かに、でも確かな声で続ける。


「どちらかというと……あなたの出自や努力を、あんなふうに馬鹿にされたことが──です」


風が吹く。

レイヴンの銀の髪が、そよそよと揺れる。

彼は驚いたように、一瞬だけリゼットの顔をじっと見た。


けれど、それ以上は何も言わず、ふっと笑っただけだった。


「……これ、洗って返すよ」


レイヴンはリゼットの手からハンカチを取る。


「そんな、いいですよ別に」


リゼットは小さく眉をひそめる。


「まぁ、そう言うなよ」


レイヴンはいつものイタズラっぽい笑みを浮かべて言う。


「これでまた、お前に会う口実ができるし、さ?」


「……っ!」


リゼットの顔が一気に赤くなる。

不意打ちに心臓が跳ねた。


だが、今のリゼットはもう何も言い返せない“可愛いだけのヒロイン”ではない。


「……あなたの、そういうところが。今回のような事態を招いたのではないですか?」


「そういうところって?」


レイヴンはとぼけたように言うが、その目はどこか困ったような色をしていた。


「誰彼構わず優しくしたり、口説いたり……そういう軽薄な態度のことを言ってるんです」


少しだけ唇が震える。

注意しているはずなのに、どこか言葉に熱がこもってしまう。


「誰彼構わずってわけじゃないんだけどなぁ」


レイヴンは苦笑しながら言う。


「まぁ、そうだな。今後は気をつけることにするよ」


「……是非、そうしてください」


リゼットはため息をついたが、その頬はまだほんのりと赤かった。


気づけば、空は茜に染まり始めていた。

影が長く伸びて、校舎の輪郭が静かに沈んでいく。


(……もう、そんな時間か)


リゼットはふと空を仰いで、名残惜しさを胸に押し込む。


「……そろそろ、帰らないと」


そう言いながらも、その場を離れようとはしなかった。

レイヴンも何も言わず、ただ隣に立っていた。


少しの沈黙のあと、リゼットはぽつりと呟く。


「……また、明日」


レイヴンが目を見開く。

思いがけないその一言に、どこか戸惑ったような顔を浮かべた。


リゼットは一瞬後悔しかけて、慌てて言い添える。


「……あの、絶対返してくださいね。そのハンカチ、気に入ってるので」


レイヴンは、ゆっくりと視線を合わせた。

その目は、どこか名残惜しそうで――けれど、やさしかった。


「……ああ、ちゃんと返すよ」


レイヴンは、いつもの軽さとは少し違う、穏やかな笑みで答えた。

その横顔が、夕陽に照らされて淡く赤く染まっている。


「じゃあな」


そう言って、彼は先に背を向けた。


リゼットはその背中を、しばらく見送っていた。

胸の奥が、少しだけ温かくなっているのを感じながら。



翌日。

昼下がりの空気は、どこか緩やかで、静かだった。

演習場の隅には、陽を浴びた砂の匂いがほんのりと漂っている。


リゼットは、なんとなく予感がして、その近くまで足を運んでいた。


「洗って返す」とは言っていた。

でも、それが“今日”なのか“明日”なのかは分からない。


けれど、ここに来れば会える気がした。

理屈ではなく、ただの勘。

いや、希望に近いものかもしれない。


……べつに、ハンカチを返してほしいわけじゃなかった。


“また明日”と自分から言ってしまった手前、今日会わなかったら、なんだか自分が嘘をついたみたいで。

それが嫌なだけ。

そういうことに、しておいた。


(そういえば、最初に会ったのも、ここでしたね)


あのときは、ただのいけすかない男だと思った。

……いや、いけすかないという点は今も変わっていない。


けれど。

境遇も性格もまるで違うのに、なぜか──

どこか、自分と似ているような気がするのだ。


静まり返った演習場の気配。

だが、リゼットは気づいていた。視線の存在に。


「……いるのは、わかってますよ」


「……ばれてたか」


頭上から、気の抜けたような声が降ってきた。

リゼットが顔を上げると、演習場の屋根の上にレイヴンが腰かけていた。


「バレバレです」


リゼットは思わず、口元に笑みを浮かべる。


レイヴンが軽やかに飛び降り、すぐ目の前に着地した。


「ほい、これ」


差し出されたのは、昨日のハンカチだった。

綺麗に洗われ、丁寧に畳まれている。


「ありがとう、ございます」


リゼットが受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間。


レイヴンの手が、ぴたりと止まる。

彼の視線が、リゼットの手元に注がれていた。


「これ……どうしたんだよ」


(……しまった)


右手の包帯。

それを、すっかり忘れていた。


「……ちょっと強く叩きすぎたみたいです。昨日の」


強がるように言ったが、レイヴンの表情は曇ったままだ。


彼はそっとリゼットの手を取り、指先で優しく撫でた。

あまりにも優しくて──胸が、ちくりと痛くなる。


リゼットは、そっと顔を上げてレイヴンを見た。


怒りとも、悲しみともつかない。

ただ、どこか苦しげなその表情が胸に刺さる。


「……ごめんな。俺のせいで」


低く、どこか掠れたような声だった。


「別に、あなたのせいではありません」


言葉だけなら、いつもと変わらないそっけなさ。

けれどリゼットは、努めてやわらかく言った。


「……あの、でも」


少しためらうように続ける。


「そろそろ、離していただければと……」


いつもの自分なら、黙って手を振り払っていたかもしれない。

でも、いま目の前にいるレイヴンの表情を見ていたら――とても、そんなことはできなかった。


「……いや、離さない」


「……え?」


レイヴンはそのまま、リゼットの右手をそっと包み込む。

そして、一本ずつ、そっと指先をなぞるように触れていく。


人差し指、中指──ゆっくりと触れては確認する。


「ここは……痛い?」


リゼットは思わず息を呑んだ。

その手付きがあまりにも優しくて、繊細で、

まるで彼女の痛みを、自分の中に引き受けようとしているかのようだった。


「……あの、別に痛くは……」


そう言いかけて、言葉を飲み込む。

心のどこかで、ずっとこの温度に触れていたいと思ってしまった自分に、戸惑っていた。


(なんか……くすぐったいというか、恥ずかしいというか……)


レイヴンは、リゼットの手に触れ続けていた。

包帯の上から、そっと、優しく。


(男の人の手って、こんなに……大きいんですね)


普段は意識したことなんてなかった。

でも、こうしてまじまじと触れられていると、その手の大きさや体温に、胸の奥がざわつく。


レイヴンの目は、ただ真剣だった。

だからこそ困る。このまま触れられ続けたら、心臓の音まで聞こえてしまいそうで。


「……本当にもう、大丈夫ですからっ!」


声が少しだけ裏返った。

恥ずかしさと焦りに耐えかねて、リゼットは手を振り払う。


レイヴンは、一瞬きょとんとした顔を見せたが――すぐに、いつものように笑った。


「……そっか」


その笑顔が、なんだか余計にくすぐったかった。



レイヴンの朝は早い。


士官学校には学生寮があるが、平民の出である自分には、学費に加えて寮費まで払う余裕などない。

幸い、家からは走ればぎりぎり間に合う距離――だが、それは「もたもたしていたら確実に遅刻する」ことも意味していた。


朝起きて、まず弁当を作る。

学食も使えるが、なるべく出費は抑えたい。

できる範囲で、自分で用意するのが習慣になっていた。


小さなポットに卵を落とし、湯を沸かす。

ぐつぐつと泡立つ音を聞きながら、昨日のうちに買っておいた白パンを薄く切り分けた。


卵が茹で上がると冷水にさらし、殻を剥く。

フォークで潰しながら、白いクリームを少しずつ混ぜ、塩をひとつまみ、胡椒を軽く振って味を調える。


「……よし、こんなもんか」


焼いたパンの片面に、卵のペーストをたっぷりと塗る。

もう一枚のパンを重ねて、手のひらで軽く押さえた。


薄く香ばしい生地の端から、黄色みを帯びた具材がほんの少しのぞいている。

持ち上げて形を整え、布に包んで袋に入れた。


授業の合間でも食べやすいし、腹持ちもいい。


……そして、ふと、昨日のことを思い出す。

リゼットの手に巻かれた包帯が、頭をよぎった。


あのとき自分は、何もできなかった。

平民であることを理由に因縁をつけられるのは、もはや慣れた日常だった。


反撃すれば「生意気だ」とさらに叩かれる。

だからいつも、1発か2発、黙ってやらせて終わりにする。

それが“波風を立てない処世術”だと思っていた。


けれど──

あのとき、リゼットは割って入ってきた。

しかも、ただの口出しではなく、自分を庇うようにして。


それがどれほどのことか、よくわかっていたはずなのに。


(……結果的に、俺が守られたみたいになっちまった)


しかも、彼女の手を傷つける形になってしまった。


「……かっこ悪いな」


ぽつりと独りごちて、レイヴンはもう一度同じ作業を始めた。


今度はパンを少し薄めに切り、ペーストをやや控えめに。

どこか“気遣い”の混じった手つきで。


(どうせ断られるかもな)


けれど、何もせずにやり過ごすには、心のどこかが落ち着かなかった。

誰にどう思われてもいい。

少なくとも、自分の気持ちくらいは、ちゃんと行動で示しておきたいと思った。



レイヴンは家を出ると、いつものように小走りで学校へ向かう。

入学当初は全力疾走しても遅刻寸前だったが、今では身体が道を覚えている。

息を切らさずに、余裕を持って走れるようになった。


街の風景を眺める余裕すらある。


だが、それがときに災いとなる。


角を曲がった先、小さな広場の片隅――

木の上で、猫が一匹、じっとしていた。

枝の先で足をすくませ、降りるに降りられない様子だ。


「……おーい、どうした?」


声をかけてみるが、もちろん返事はない。


(ま、放っておけば、そのうち自分で降りるか……)


そう思いながらも、足は止まっていた。


今なら、まだ間に合う。

全力で走れば、ギリギリ――多分、なんとかなる。


レイヴンは木に手をかけ、ひょいと登る。

猫は警戒心をむき出しにして、毛を逆立てた。


「おいおい、助けてもらう顔じゃないぞ」


そう言いながら、そっと腕を伸ばす。

爪を立てられる前に、うまく抱き上げる。


(……誰かさんみたいだな)


助けてほしいくせに、「余計なお世話です」って顔をする。


地面に飛び降りると、猫はすぐに腕の中から抜け出し、広場の外へ走り去っていった。


「もう登るなよ」


ぽつりと呟いて、再び走り出す。


今度は、全力で。



結局、今日も始業には間に合わなかった。


間に合うように動いてるつもりではある。

でも、つい寄り道したり、余計なトラブルに巻き込まれたり。

気づけば、いつの間にか“遅刻常習犯”のレッテルを貼られていた。


とはいえ、誰かに咎められることはない。

「あいつはそういうやつ」――そんな印象が定着しているのだろう。


悪くはない。

むしろ、そのくらいの距離感のほうが楽だった。


「レイヴン、また寝坊?」


笑いながら声をかけてきたのは、一人の女生徒だった。


「まあ、そんなとこ」


レイヴンは軽く肩をすくめて返す。


「あんまりだらしないと、女の子に嫌われちゃうかもよ?」


くすくすと笑いながら、彼女がさりげなく腕に手を伸ばす。


レイヴンはそれを自然な動きで避ける。


彼女とは、以前に一度だけ恋愛相談に乗ったことがあった。

それだけのはずが、気づけば距離を詰められ、気まずい噂が立ち始めた。


その結果が、先日のあの件だ。


殴られ、からかわれ――

そして、リゼットが平手打ちを飛ばし、自分は何も言えず、ただ拳を振るった。


(……誰が悪いとか、そういう話じゃないけどさ)


それに対して、はっきり拒まなかった自分がいちばん悪い。


「……授業始まるよ」


そう告げると、彼女は少しだけ寂しそうな顔をして、自席に戻っていく。


(ほんと、俺ってこういうの下手なんだよな)


殴ったこと、リゼットの手、巻かれた包帯。

あれ以来、何か言われる覚悟はしていた。


だが、何もなかった。


女に平手打ちされて、平民に殴られて気絶した――なんて、口が裂けても言えなかったのだろう。

それがかえって助かった。


(……でも、それで済んだと思ってるわけじゃない)


自分が殴った拳より、リゼットの手のほうが、ずっと痛かったはずなんだから。



昼休みになると、レイヴンは弁当を片手に教室を抜け出した。

またあの女生徒に見つかれば、面倒なことになる。


普通に廊下を歩けば、きっと捕まる。

だからレイヴンは、人のいない窓際まで足を運び、ひょいと外へ飛び降りた。

これくらいの高さなら、余裕で着地できる。何度もやってる。


中庭の脇に降り立ち、軽く埃を払う。


──今日も、約束はしていない。

学食で済ませているかもしれない。

でも、なぜか、いる気がした。


中庭の木陰。

ピンクの髪が、陽の光にやわらかく透けていた。


木にもたれて本を読むリゼット。

その横顔を見つけた瞬間、胸がほんの少しだけ高鳴った。


(やっぱり……)


彼女と話していると、変に気を張らずにいられる気がした。

だから、つい目で追ってしまう。


しばらくそのまま、黙って彼女を見つめていた。


セミロングの髪が、肩口で緩やかに揺れる。

真剣な表情でページをめくる指は細く、整っていて、どこか儚げだった。

鼻筋の通った顔立ち。

きりっと結ばれた唇。

そして、ヘーゼルの瞳が静かに瞬きをするたび、長い睫毛が陽を受けて揺れた。


──そのときだった。


「……何かご用ですか?」


唐突に、リゼットが口を開いた。

気づかれていないと思っていたが、そんなわけはなかったらしい。


「あるなら、黙ってないで声をかけてください」


本を静かに閉じながら、ちらりとこちらを見る。


レイヴンは少しだけ笑って言った。


「いやぁ、見惚れてた」


それは、紛れもない本心だった。

けれどリゼットは、思いっきりジト目を向けてきた。


「また、そういうことを……」


言葉の選び方を間違えた気がして、つい視線を泳がせた。

けれど、どこかへ行くつもりはない。

立ち去る理由も、なかった。


「……隣、座ってもいい?」


そう問いかけると、リゼットは小さく笑った。


「なぜそんなことを聞くんですか?」


そう言いながら、本を閉じて顔を上げる。


「いつもだったら何も言わずに勝手に座るくせに」


言われて、確かにそうだったとレイヴンは思う。

なぜわざわざ確認したのか、自分でもよくわからなかった。


リゼットの隣に腰を下ろす。

ほんの少しだけ、距離を詰めたつもりだったが──それをどう思われたかはわからない。


「……あのさ」


「はい?」


「昼飯って、もう食べた?」


「……そういえば、まだでした」


リゼットが思い出したように言う。


「そういえば、ってなんだよ」


レイヴンが苦笑した。

どこかの世界に没入していたらしい彼女は、いまさら現実に戻ってきたような顔をしている。


「集中してると忘れてしまうんですよね」


そう言って、読んでいた本をこちらに見せてくる。


「今日は“夜会の嗜み”じゃないんだな」


軽くからかうつもりで言っただけなのに、リゼットは一瞬ぴたりと動きを止めた。


「そのことは忘れるという約束でしたよね!?」


思ったより真剣な調子に、逆におかしくなって、自然と笑みがこぼれる。


こういう反応が見たくて、つい軽口を叩いてしまう。

自覚は、ある。


「……飯、まだならさ。これ」


そう言って、持ってきた弁当を差し出す。

わざとらしくないよう、自然に──それでも、少しだけ指先が落ち着かない。


リゼットはきょとんとして、しばらく黙っていた。


「ちょっと、作りすぎたっつーか……食べてくれると助かるんだけど」


柄にもなく、照れ隠しのような言葉が口をついて出る。

嘘ではないが、そういう言い訳がないと手渡せなかった。


「……これ、自分で作ったんですか?」


リゼットが驚いたように言う。


「まあ、簡単なもんだけどな」


視線を逸らす。

自分の作ったものが、彼女の口に合うかどうか。

そんなことを気にしている自分が、少しだけおかしかった。


「私がいただいていいんですか?」


「だから、そう言ってるだろ?」


何度も確認するリゼットに、やれやれと肩をすくめる。

けれど、断られなかったことに、どこか安心している自分もいた。


「では、遠慮なく……」


リゼットが丁寧に包みをほどく。

中身を目にした瞬間、わずかに目がぱっと明るくなった気がした。


「……いただきます」


一口、そっと口に運ぶ。

所作の一つひとつに、どこか品のよさがにじんでいた。


そんな仕草を、何気なく眺めながら──レイヴンは、気づけば目を奪われていた。


「……おいしいです」


「そっか、よかった」


思わず、ほっと息がこぼれる。緊張していたつもりはなかったのに、どこか肩に力が入っていたことに、今さら気づく。


「毎朝自分で作っているんですか?」


リゼットの問いかけに、レイヴンは軽く頷いた。


「大体はね。節約したいし」


弁当はあくまで生活の延長。

なのに、それをそんなふうに驚かれると、なんだか照れくさくなってくる。


「でも、通いだから大変なんじゃないですか?」


「そこは、慣れってやつ」


肩をすくめて笑ってみせる。


「ま、今朝は遅刻したけどね」


髪を掻きながら、苦笑いを浮かべる。

どうせなら、この場もいつもの調子でいようと努めた。


「あなたのことですから、どうせ余計なおせっかいで道草でも食っていたのでは?」


リゼットは少しだけ笑いながら、何気なく言った。

だが、それを聞いたレイヴンは一瞬、言葉に詰まった。


……図星だった。


「……よく、わかったね」


「ここ数日で、あなたの行動パターンがなんとなくわかってきたので」


言いながら、リゼットは少しだけ誇らしげな顔をした。

その表情を見た瞬間、レイヴンの胸の奥に、不意にじわりと何かが広がった。


“こいつはそういうやつ”──そんなふうに片づけられてきた。

それが楽だと思っていたはずだったのに。


彼女の言葉は、ただの分析じゃない。

どこか、自分のことを見てくれていたような……そんな気がした。


「それにしても、意外です」


弁当を食べ終えた後、リゼットがふと呟いた。

木漏れ日が彼女の髪をふんわりと照らしている。


「あなたが、料理が得意だったなんて」


「……俺の実家、料理屋なんだよね」


レイヴンがそう言うと、リゼットは「へえ」と小さく驚いたように言った。

その表情は、どこか子どものように素直だった。


「……なぜ、士官学校に?」


レイヴンが一瞬言葉を詰まらせたことに気付いたのか、問いかけたあと、すぐにリゼットは眉を下げる。


「すみません、踏み込んだ質問でした」


けれどレイヴンは首を振った。

木陰に流れる風が、ふたりの間をやさしく撫でる。


「いや、言いたくないわけじゃないよ」


そう言いながら、彼は少しだけ視線を遠くにやった。

噴水の水音が、昼休みのざわめきの中でかすかに響いている。


「……ガキの頃、どうしても守れなかったものがあった」


言葉にした途端、胸の奥に小さな痛みが広がる。

リゼットが黙って待っているのが、なんとなくわかる。


「自分には何もできなくて、ただ見てるだけで……悔しかったんだ」


あのときの情景が、ぼんやりと頭に浮かぶ。

忘れようとしたはずなのに、どうしても消えない記憶だ。


「だから、二度とあんな思いはしたくないって思った」


強がって見せるつもりが、うまく笑えなかった。


「自分の、大事なものを守れるようになりたかった。」

「それが理由、かな」


言い終えたあと、ほんの少しだけ沈黙が落ちた。


(こんなこと誰かに話すの……初めてかもな)


記憶をたどっても、すぐには思い出せなかった。


「……私は」

「自分の力を証明するために、ここへ来ました」


いつになく素直な声だった。

それは、うまく言葉にしきれていなかった想いを、いま初めて誰かに告げたような響きだった。


「つまり私の守りたいものは、自分の“プライド”なんです」


リゼットは、小さく笑う。

自嘲のようでもあり、ちょっと照れくさそうでもあった。


「あなたの動機を聞いて、自分が少し恥ずかしくなりました」


その言葉に、レイヴンは肩を揺らして笑った。

笑いながら、彼女のほうを見て言う。


「恥ずかしくなんてないさ」

「すげぇ、かっこいいよ」


リゼットは、目を丸くした。

けれど、すぐにその目元がやわらかくほころぶ。


「……ありがとうございます」


リゼットは、ほんの一瞬だけ目を逸らしてから、丁寧に礼を言った。


風がふわりと吹いて、木の葉を揺らした。

その音に紛れるように、ふたりの沈黙が流れる。

けれど、それはどちらにとっても、心地のいい静けさだった。


「っていうかさ」


レイヴンが言う。


「そろそろ、名前で呼んでくれない?」


「……え?」


「“え?“じゃなくて」


目をそらすふりをしながら、ほんの少しだけ様子をうかがう。


「俺だけ名前で呼んでるの、寂しいんだけど」


リゼットがレイヴンと会話する時、いつも”あなた”としか呼ばない。

そのことに気づいてから、ずっと引っかかっていた。


彼女の澄んだ声で、自分の名前が呼ばれる瞬間を、どこかでずっと待っていたのかもしれない。


リゼットは迷うようなそぶりをみせ、意を決したように向き直る。


「レイヴン……」


それを聞いた瞬間、少しだけ鼓動が速くなったのがわかった。

たったそれだけのことで、どうしてこんなに嬉しいんだろうと、心のどこかがざわつく。

が、リゼットはすぐ顔を真っ赤にして続けた。


「やはり先輩を呼び捨てにするのは、ちょっと」


そう言って、咳払いをひとつ。


「これからは先輩って呼びます」


レイヴンは一瞬、言葉に詰まった。

名前を呼んでもらえた喜びは一瞬で、またすぐ、遠ざかっていく。


「それじゃ、誰を呼んでるのかわからないだろ?」


苦笑いでそう返したが、心の奥底にはほんの少しだけ、肩透かしを食らったような感覚が残った。


「他に呼ぶ相手なんていませんから」


リゼットは何気なく言った。

だけど、その一言が思わぬ角度から心に響いて、思わず頬が緩む。


「それって、俺が特別ってこと?」


「そういうわけじゃ……!」


慌てるリゼットが、なんだか可愛くて──


(こういうとこ、なんだろうなぁ)


思ってることをそのまま口にしてるだけなのに、どうしてこんなにからかってるみたいに聞こえるんだろう。


だけど、それならそれでいい。

どうせなら、もう少しだけわがままを言ってみたい。


「……もう一回、名前呼んでくれない?」


リゼットの目を見て言う。

ヘーゼルの瞳が、わずかに揺らぐ。

ほんの一瞬の逡巡。


そして。


「……もう、呼びません」


リゼットは、少し頬を膨らませながら言った。


その反応が、なんだか可笑しくて。思わず笑ってしまった。


「気が向いたら、呼んでよ」

「それまでは”先輩”でいいからさ」


──彼女の口から名前がこぼれた、たった一度の瞬間。

それだけで、今日は少し、いい日になった気がした。

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