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第一話. 10 Things I Hate About You

私は、いつも一人だった。


騎士団の士官学校に入学して以来、誰かと親しくなることもなく、ただ日々の訓練と学業に打ち込んできた。


別に、人付き合いが苦手なわけではない。


話しかけられれば普通に応じるし、礼儀を欠くこともない。

でも、私の周囲には、見えない壁があった。


貴族の出身で、優秀な成績を修め、武術の腕も申し分ない。

容姿も端麗で、立ち居振る舞いには隙がない。


完璧に作られた騎士の雛形みたいだと、周囲は言う。


——そんなの、私が望んだことじゃない。


「親の七光りだろう」

「どうせ特別扱いされてるんだ」

「お高く止まりすぎて、近寄りがたい」


そんな言葉、何度も耳にした。

でも、いちいち気にしていたらキリがない。


文句があるなら、実力でねじ伏せればいい。

男だろうが女だろうが関係ない。

悔しかったら私を負かしてみろ。


それが、私の矜持。


……だけど。


食堂で一人、黙々と食事をしているとき。

誰かと笑いながら話す声が耳に入ったとき。

訓練のあと、みんなが連れ立って寮に戻るのを見送るとき。


ふと、思ってしまう。


普通に友達を作って、普通に騎士になって、それでよかったんじゃないかって。


そんな考えがよぎるたび、私は小さく頭を振る。


これが、私の決めた道。

だから——


今日も私は、一人。



鮮やかな青空が広がっていた。

ひとつない晴天。

空気は澄んでいて、昼休みとは思えないほど静かだった。


リゼットは学食での昼食を終え、中庭を歩いていた。

別に中庭に用事があったわけではない。

ただ、食べ終わったのに食堂に居続ける理由もなかっただけだ。


食後に女子トークに花を咲かせる友人はいない。

教室に戻ったところで、雑談に加わる相手がいるわけでもない。


リゼットは、女性にしては少し背が高く、肩にかかるほどの淡いピンク色の髪は、常に丁寧に整えられていて、どの角度から見ても乱れがない。

ヘーゼルの瞳はどこか芯の強さを感じさせる眼差しで、目が合えば誰もが思わず背筋を正してしまう。


凛とした立ち姿と、完璧な所作。

それだけで“気安く声をかけていい相手ではない”という空気を纏っていた。


だから彼女は、休み時間が終わるまでのあいだ、人気のない場所で本を読むのが常だった。

それは、日課というより“習慣”に近い静かな営みだった。


──けれど、こうして中庭をひとり歩く時間も、悪くはない。

騒がしい場所はもともと苦手なのだ。


その静けさを破る声が、不意に耳に飛び込んできた。


「おい、素振りの回数サボってんじゃねぇよ」

「うっ……すみません……!」


演習場の隅で、一人の下級生が二人の上級生に絡まれている。

年上だからといって、全員が優れているとは限らない。

むしろ、自分の無能を誤魔化すために、立場を利用して他人に当たる者もいる。


リゼットは足を止め、冷ややかに彼らを見つめた。


「……そこの二人。士官学校の生徒として、恥ずかしくないのですか?」


静かに告げると、男たちの視線が彼女に向く。


「……は?なんだよ、リゼット様のご登場かよ」

「“騎士の鑑”ってやつか?いいご身分だなぁ?」


嘲るような声色。だが、手は出してこない。

貴族の娘である彼女を“面倒な存在”だと理解している証拠だった。


「七光りには関係ねえ。引っ込んでろ」


……なるほど。そういう類の者か。


「ならば、実力で私を黙らせてみせなさい」


リゼットがゆっくりと歩み寄ると、彼らの表情が曇った。

この手の連中は、結局“立場”という盾がなければ何もできない。


──つまらない。


そのとき、頭上から聞き慣れぬ声が降ってきた。


「おーおー、ずいぶんと男らしくないことしてんなぁ」


見上げると、演習場の屋根の上に、一人の少年が腰を下ろしていた。

青みがかった銀色の髪に、気だるげな青緑の瞳。

肩肘をつき、どこか愉快そうに、こちらの様子を眺めている。


「レ……レイヴン……!?」


一人の上級生が、驚いたように声を上げた。


レイヴン。名前だけは聞いたことがある。

上級生で、そこそこ戦闘技術があるという噂もあるが――


この軽薄そうな男が、その“レイヴン”なのか?


「お前ら、ここで騒いでると教官にバレるぜ?」

「……っ!」

「士官学校で貴族の令嬢に絡んでました、なんて記録に残ったら……将来に響くかもな?」


男たちは舌打ちし、下級生を解放して去っていく。

場は収まったが、リゼットの心は、むしろざらついていた。


「なんともなかったか?お嬢さん」


そう言ったレイヴンに、リゼットは静かに返した。


「……余計なお世話です」


その声音は、冷たさを押し殺したように静かだった。


「は?」


レイヴンが、ぽかんとした表情を浮かべる。


「私は助けを求めてなどおりませんので」


きっぱりと言い放つと、彼はふっと笑った。


「そうか?」


「……何がですか」


彼女が問い返すと、レイヴンは少し間を置いて言った。


「俺には、助けてほしそうに見えた。ってだけ」


──この男は、何を言っているのだろう。


「そう見えたなら、眼鏡でもかけることをおすすめします」


眉をひそめるリゼットに、彼はまるで気にした様子もなく、屋根の上から身を乗り出す。


「視力はいい方だぜ?」


どこか得意げなその声。そして──


「たとえば、お前が持ってるそれ……」


「……はい?」


「“夜会の嗜み 貴婦人の心得”」


「っ……!?」


リゼットは反射的に、手にしていた本を背中に隠した。

レイヴンはそれを見て、満足げに笑う。


「な?ちゃんと見えてるだろ」


ニヤリと笑う彼に、リゼットは心底うんざりした。


「……最悪ですね」


こんな本を読んでいるところを、こんな男に知られるなんて。

いや、見られたのは表紙だけ。中身までは知られていない。

……たぶん。


けれど、あの言い方──まさか……?


「お固い感じかと思ったけど、意外とそういうの興味あるんだ?」


(……っ、内容までバレてる!?)


胸の奥が、きゅっと縮こまる。


「な、なにか勘違いされてるみたいですが!」


思わず声が上ずる。咳払いを一つして、怒りを込めた声で続けた。


「人のプライベートを詮索するなんて、最低です!」


羞恥と怒りがないまぜになったまま、リゼットは踵を返し、その場を足早に立ち去った。



リゼットは、寮の自室で頭を抱えていた。


(……思わず、逃げてしまいましたけど)


レイヴンの前から走り去ったあとも、午後の授業は容赦なくやってきた。

座学だけだったのが唯一の救いだったが、内容はまったく頭に入らなかった。


(まさか、言いふらされたり……しませんよね?)


枕に顔を埋め、ふたたび呻く。

羞恥と後悔が頭の中をぐるぐる回る。


あのとき読んでいた本。

それは、異性と懇意の関係になった際、相手を喜ばせるためのテクニックを綴ったものだった。


──とはいえ、その“テクニック”を披露する予定は、今のところ一切ない。


リゼットはごろりと布団の上を転がりながら、再び頭を抱えた。


(……いっそ、拾ったってことにすればいいのでは?)


突如浮かんだ妙案に、ぴたりと動きを止める。


そうだ。たまたま落ちていた。誰の本かもわからなかった。

好奇心から手に取っただけ。それだけのことだ。


(……そういうことに、しておきましょう)


彼女は決意を固めたように起き上がった。

明日、あの男――レイヴンに説明するために。



翌日。

リゼットは午前中の授業でも、やはり上の空だった。


頭の中ではずっと、昨日のことがぐるぐると回り続けている。

そのせいで、行われた射撃訓練は散々な結果となり、教官に小言までもらってしまった。


(……こうしてる間にも、妙な噂が流れてたり……?)


そんな不安が拭えず、心が落ち着く瞬間は一度もなかった。


朝のうちに、上級生の教室を覗いてみたものの――肝心のレイヴンの姿は見当たらなかった。

結局、説明も言い訳もできないまま、時間だけが過ぎていく。


(……遅刻?いえ、サボりという線もありえますね)


あのだらしのなさそうな男のことだ。

どちらであっても、まったく不思議ではない。


(……もう一度、見に行ってみるべきでしょうか)


そう思いはしたが、いまひとつ気が乗らなかった。

上級生の教室の前に下級生がいるだけでも目立つというのに、

“良くも悪くも有名”らしい自分がそこに立てば、それこそ視線の的だ。


奇異の目を向けられるのは、何度経験しても慣れるものではない。


そのとき。

ぐぅ、とリゼットの腹が鳴った。


悩みごとがあろうと、空腹はやってくる。

まったく、困ったものだ。


(……まずは、お腹を満たしてから考えましょう)


そう心を決め、リゼットは学食へと足を向けた。



学食は、昼休みを迎えた学生たちでごった返していた。


今日は、何日かに一度出されるリゼットの好物――

「香草卵のとろとろ粥」がメニューに並ぶ日だ。


この日だけは、絶対に外せない。


食堂は相変わらず、友人同士で相席している生徒たちで賑やかだ。

どの席も笑い声に満ちていて、気後れしそうになる。


(……なんで学食ってカウンター席がないんでしょう)


もう少し“独り者”に優しい設計にしてほしいものだ。

そう思いながら、仕方なく二人掛けのテーブル席へ向かう。


もちろん、向かい側には誰も座らない予定だった。

それなのに――


「おっ!ここ空いてるじゃん」


軽薄な、けれど妙に通る声。


リゼットが顔を上げると、そこには……レイヴンがいた。


レイヴンはトレーをテーブルに置き、何の躊躇もなく椅子に腰を下ろした。


「……勝手に座らないでいただけますか?」


あまりの気安さに、リゼットは思わず眉をひそめる。


「あれ?もしかして友達と待ち合わせだった?」


嫌味ではなかった。

口調からして、純粋な疑問なのだろう。


「……別に、そういうわけでは」


口ごもったリゼットの返答を聞くと、レイヴンは満足げに頷いた。


「じゃあ、空いてるってことで」


そう言って、何の遠慮もなく食事を始める。

トレーの上には、やけに大盛りの料理。

この細身の身体のどこにそれだけ入るのか、リゼットには不思議だった。


しばらくその様子を眺めていたリゼットだったが、ふと大事なことを思い出した。


「……あの、昨日のことなんですけど」


レイヴンがきょとんとした顔でこちらを見る。


「昨日?」


「あの本は……拾い物で。届けようと思って……」


「……本?」


――まさか、この男。昨日のことを覚えていない?


不良に絡まれている女子を助けた場面など、普通なら印象に残ってもおかしくないはずだ。


だが、忘れているのなら、それはそれで都合がいい。

……はずなのに、どうにも腑に落ちない。


「昨日、演習場で……助けてくれましたよね。私のこと」


おそるおそる尋ねると、レイヴンはしばらく呆けたような表情を浮かべたあと、ふっとやわらかく笑った。


「……へえ。“助けてくれた”って、思ってくれてんだ」


「は……?」


リゼットは予想もしない返答に、間の抜けた声を上げてしまう。


「そ、そういうことではなくて……!」


「じゃあ、どういうこと?」


「ど、どういうことって……!」


言葉がつかえ、しどろもどろになる。


「余計なお世話って言われたからさ」


レイヴンがふと口を開いた。


「悪いことしたかなって思ってたんだけど……そうじゃないなら、安心した」


そう言って、屈託のない笑顔を見せる。


――その顔を見た瞬間。

リゼットの胸の奥で、何かが大きく脈打った。


思わず、手に持っていたスプーンが滑り落ちる。


「おっと」


レイヴンが身を乗り出し、スプーンごとリゼットの手をそっと包み込んだ。


その感触に、リゼットは我に返る。

咄嗟にその手を振り払うと、声を張り上げた。


「じょ、女性の体に許可なく触れるなんて……!」


どこか上ずったその声は、明らかに何かを誤魔化している。


「悪い悪い。つい反射で」


「反射で触らないでください!」


顔が熱い。鼓動がうるさい。

これ以上ここにいては、何かがまずい気がする。


リゼットは勢いよくトレイを持ち上げ、椅子を離れた。


「おい、どこ行くんだよ?」


レイヴンの声が背中から飛んでくる。


「午後の授業がありますので、失礼します!」


半ば逃げるように言い返す。


「じゃあ、一言だけ」


その言葉に、ぴたりと足を止めてしまう。

振り返らずに問う。


「……なんです?」


「“夜会の嗜み 貴婦人の心得”のことは、誰にも言わないから。安心しろよ」


レイヴンは、ひらりと片目を閉じてウィンクする。


「ッ……!!」


──私は、この男が、嫌いだ。


今この瞬間、心の底からそう思った。



リゼットは苛立っていた。


自分は、そう簡単に動揺するような性格ではないと考えていた。

それなのに――あの男のせいで、ここまで調子を崩されるとは。


「本のことは誰にも言わない」


レイヴンはそう言っていた。

信用できるような人物ではないと思う一方で、その言葉に嘘があるようにも感じられなかった。


(もう、関わることもないでしょう)


そう、自分に言い聞かせる。


午後最初の授業は、教官の所用で自習となった。

この状態では集中できるはずもなかったため、小言を避けられたのはむしろ幸運だった。


座学は嫌いではない。むしろ得意な部類だ。

だが、既に予習は終えており、あらためて取り組む内容もない。

教本をなんとなくパラパラとめくっていると、不意に声をかけられた。


「……あの、リゼットさん」


顔を上げると、クラスメイトの女子が立っていた。


「はい?」


思わず問い返す。

話しかけられるのは、珍しいことだった。

同じ教室にいても、必要なやりとり以外ではほとんど接点がない。

一体、どんな用件だというのか。


「リゼットさんって……レイヴン先輩と、仲良かったりするの?」


ぴくり、とリゼットの眉が動いた。


「……なぜですか」


努めて平静な声で返す。


「さっき、食堂で話してるところを見かけて……」


クラスメイトはどこか恥ずかしげに、もじもじと目線を逸らす。


「別に。仲良くなど、ありません」


感情を押し殺したつもりだったが、自分でもわかるほど言葉が鋭くなっていた。


(そもそも、ほぼ初対面なんですが)


心の中でそう付け加える。

だが、彼女は気にする様子もなく――むしろ楽しげに微笑んだ。


「かっこいいよね、レイヴン先輩」


「……はあ」


「貴族じゃないのに、実力で士官学校に入ったっていうし……すごいよね」


「確かに、それは立派なことだと思います」


「あと、あの飄々としてる感じも……なんか余裕があるっていうか!」


「……単に、適当なだけではないかと」


リゼットは適当に相槌を打ちながらも、内心では早く終わってくれと願っていた。

だが、次の言葉で、その願いは呆気なく崩れる。


「ねえ、私のこと……レイヴン先輩に紹介してくれないかな?」


思わず、返す言葉を失う。


つまり、そういうことか。


一拍置いてから、冷静に答えた。


「すみません。本当に、あの人とは親しいわけではなくて」


声の調子を整えながら、言葉を重ねる。


「先日、たまたま助けていただいただけなんです」


それが、リゼットの選んだ“認識”だった。


実際、あの場面で不良たちが彼女に手を出すとは思っていなかった。

“上級貴族の娘”としての立場が、暗黙の抑止力になることはわかっていた。


けれど――あの視線が、怖かった。


“七光り”だと蔑む目。

“親の力だけで守られている”と突きつけられるような言葉。


そして、それを否定できない自分自身がいた。

立場に守られていることを、どこかで当然だと思っていた傲慢な自分が――

何より、悔しかった。



陽は傾き、空が金と茜に染まり始めていた。

士官学校の敷地を静かに照らす西日が、建物の影を長く引いている。


授業はとっくに終わっていたが、リゼットは寮には戻らず、射撃訓練場に足を運んでいた。


昨日から、心がずっと落ち着かない。


こういうときは、無心になれることをするのが一番いい。


腕を引き、矢を放つ。

矢は音もなく飛び、真っ直ぐに的の中央を貫いた。


(……紹介して、か)


さっきのクラスメイトの言葉が、まだ頭にこびりついている。

まさか、あんな頼み事をされるとは思わなかった。


(あんな軽薄な男の、どこがいいんでしょうか)


矢を番えながら、自然とあの男の姿を思い出す。


青みがかった銀髪。

前髪は長めで、無造作に垂れているのに、不思議と彼にはよく似合っていた。

後ろはすっきりと短く、露になったうなじのラインが綺麗で、妙に目を引いた。


そして、あのターコイズブルーの瞳。

すこし吊り目気味の形なのに、冷たさよりも優しさを感じさせる不思議な目。

笑ったとき、あの目元がくるりと細くなって──


(……って、何を考えてるんですか私は)


自分で自分にツッコミを入れて、軽く首を振る。


長身で細身。

がっしりとはしていないが、不思議と“頼れる”と思わせる佇まい。

軽口ばかり叩くくせに、時折見せるあの静かな目つきは……どこか、信用してしまいそうになる。


――シュッ。


もう一本、矢が放たれた。

乾いた音を立てて、またしても的の中心に突き刺さる。


(それに……あの声)


低すぎず、高すぎず、それなのに、よく通る声。

あんな声で名前を呼ばれたら、そりゃあ夢中になる子も出るわけで――


「へえ〜、うまいもんだなぁ」


そのとき。

まさに頭に響いていた声が、現実に届いた。


リゼットはびくりと肩を震わせ、勢いよく振り返る。


そこには、制服の上着を片手に持ったレイヴンが、気ままな笑みを浮かべて立っていた。


「……また、あなたですか」


呆れたように言ったつもりだったが、その語尾はわずかに震えていた。


「見覚えのある顔が見えたもんだからさ」


全く悪びれる様子もなく、レイヴンが言った。

リゼットはうんざりしたようにため息をつき、無言で的の方へ向き直る。


「……見てわかりませんか?」


矢をつがえる。


「取り込み中なのですが」


そう言って、静かに矢を放つ。

的の中心に、矢が突き刺さる。


「別に、邪魔するつもりはないよ」


気にした様子もなくレイヴンが続ける。


リゼットはもう一本矢を取る。

目線は的に向けているつもりでも、視界の端にレイヴンの姿が残る。


2本目の矢も放つ。

命中。


「……見られてると集中できませんので、充分、邪魔です」


3本目。

矢を引き絞りながらも、胸の奥にじわじわと沸いてくるイラつきを無視できない。


放つ。

命中。


矢が的を射抜く音が響くたび、苛立ちと、なぜか拭えないざわつきが交互に胸に残る。


「見られてると集中できないってのは、嘘だね」


勝手なことを言って、レイヴンはその場にしゃがみこむ。

じっとこちらを見上げている気配が、ひどく煩わしい。


リゼットは構えを解いた。

くるりと身を翻し、ピシャリと問いかける。


「……一体何の用ですか?」


レイヴンは少しだけ首を傾げ、言う。


「いや。綺麗だなって、思って」


――ドクン。


唐突に胸が鳴った。

一瞬、息を呑む。けれどすぐには意味を理解できない。


「……は、はい?」


間抜けな声が漏れていた。


それを見たレイヴンは、楽しげに目を細めた。


「姿勢が、さ」


「……」


ああ、そういうことか。

リゼットはほんの少し、脱力したように肩を落とす。


「……姿勢、ですか」


褒められたのに、どこか釈然としない。


期待していたものとは違う。

でも、じゃあ”何を期待していたのか”なんて、口が裂けても言えない。


(本当に、何なんですかこの人は……)


自分でもわからない感情に押されるように、リゼットはまた、弓を構えた。


「……なんかいつも難しい顔してるよな」


レイヴンが不意に言った。


「あなたがそうさせてるんです」


リゼットは即座に言い返す。


一瞬、レイヴンの表情が止まった。

思わず、少しだけ後悔がよぎる。

けれど、もう言ってしまった言葉は戻らない。


「……へえ」


短く呟いたあと、口を閉ざす。

少しのあいだ、何かを言おうとしてやめたような、そんな間があった。


──静かな沈黙。


やがて、ふっと苦笑してから口を開く。


「貴婦人の心得その1。いかなる男性に対しても、微笑みと愛想を欠かしてはならない」


「っ……!?」


びくりと肩が揺れた。

放った矢は、大きく的を外れる。


「……なんてな?」


レイヴンは意地の悪い笑みを浮かべる。


「もう、あの本のことは忘れてください!」


リゼットは顔を赤らめながら言い返す。


「誰にも言わないとは言ったけど、忘れるとは言ってないからなぁ」


飄々とした声音。

何を考えているのか読めない、その顔。


「な、なにが目的なんですか」


リゼットが一歩踏み出し、問い詰めるように睨む。

まさか──金銭目的?

あるいは、私の素性を知って近づいてきた?


そんな嫌な想像をかき消すように、レイヴンはあっさりと言った。


「名前、教えてよ」


リゼットは、ぽかんと目を瞬いた。


「……名前?」


思わず聞き返す。

なんでそんなことを今さら。


「そう。君の名前。まだ聞いてなかったからさ」


軽い口調とは裏腹に、どこかまっすぐな視線。

リゼットは一瞬、言うのをためらって──


「……リゼット、ですけど」


「リゼット、か」


その名を、優しい声で繰り返す。

たったそれだけのことなのに、胸の奥がかすかに脈打った。


「それじゃ、邪魔者はそろそろ消えるか」


軽く手を挙げ、レイヴンは背を向ける。


「またな、リゼット」


夕焼けに照らされた銀の髪が、風に揺れる。

その背中が遠ざかっていくのを、リゼットはただ黙って見送った。


矢を握る手に、まだ少し熱が残っている。


乱されたくなんてなかったのに。

名前を呼ばれただけで、こんなふうに心が波立つなんて。


(……嫌い)


けれどそのくせ、次に会ったとき、また同じように名前を呼ばれたら──

今度は、ちゃんと返事をしてしまうような気がした。



リゼットは、寮の自室でぼんやりと天井を見上げていた。


(またな、って……)


こっちは関わる気なんてさらさらないのに。

あの男は、まだ関わる気でいるというのか。


その事実を思い返すたび、胸が妙にざわつく。


ふと、枕元の本に手を伸ばす。


『夜会の嗜み 貴婦人の心得』


自分でもなぜ取ったのかはわからない。

ただ、なんとなくページを捲る。


ある一節で、手が止まった。


不快な相手にも笑顔で接する訓練は、

実は自分の心を鍛える修行でもあります。


怒りや嫌悪に支配されず、

常に冷静でいられる女性こそが、真の強さを持つのです。


(……なんですか、それ)


都合のいい言葉を見つけたようで、なんだか妙に刺さる。


(他人に振り回されるなんて……私らしくない)


明日からはまた、いつも通り。

もしレイヴンに会ったとしても、冷静に、上品に、“対処”すればいい。


それが、“貴婦人の心得”なのだから。


──と、真剣に読んでいたわけでもない本に励まされている自分に気づいて、思わずひとりで小さく笑った。



朝の空気は、まだひんやりと澄んでいた。

空には薄雲が流れ、陽光は柔らかく差し込んでいる。


リゼットは少しだけ早足で校門をくぐった。

いつもなら一番乗りで教室に入っている時間だが、今朝は少し寝坊した。

例の本を読み耽ってしまい、気づけば夜更けだったのだ。


(……たかが読み物に振り回されるなんて)


そんな自分にうっすらと苛立ちを覚えつつも、すぐに感情を押し込める。


ふと前方に人だかりがあることに気づいた。

数人の女子たちがひとりの男子を囲んで、楽しげに笑い声を上げている。

その中心にいるのは、見覚えのある銀髪。


(……また、あの男ですか)


レイヴンだった。


足を止めず、そのまま横を通り過ぎようとしたそのとき。


「リゼット!」


背後から聞き慣れた声が飛んできた。

リゼットは内心で舌打ちする。


(……不快な相手にも笑顔で接する訓練は、自分の心を鍛える修行、ですか)


頭の中で、昨夜読んだ一節を繰り返す。

息をひとつ吐き、ぎこちないながらも笑顔を作って振り返った。


「……おはようございます」


レイヴンは少し驚いたような顔をした。

その横にいた女子のひとりが眉をひそめて問いかける。


「……この子と知り合いなの?」


「ん?」


レイヴンは一拍置いて、からかうような笑みを浮かべた。


「知り合いっていうか……秘密を共有する仲、みたいな?」


一瞬、場が静まり返った。


(……何を言い出すんですか!)


心の中で叫びながら、リゼットは顔を赤くして声を上げる。


「変な言い方はやめてください」


想定よりも強い口調になってしまった。

女生徒たちの視線が一斉にリゼットへと集まる。


「ふ〜ん……」


興味をなくしたような声がひとつ、空気に落ちる。

冷たい視線が、刺すように頬を撫でる。


リゼットは胸の奥に湧いたもやもやを振り払うように、声を張った。


「始業に遅れますので、失礼します!」


スカートの裾を翻し、足早にその場を離れる。


振り返らなかった。

レイヴンがどんな顔をしていたのか、見るのが怖かったから。



(最近、妙にあの男と遭遇するのは、なぜですか……?)


教室の机に肘をつき、リゼットはひとつ深くため息をついた。

関わるつもりはなかった。なのに、気づけば毎日のように顔を合わせている。


そんな思考を打ち消すように、教室の後方から弾んだ声が聞こえてくる。


「ねえ、昨日レイヴン先輩に話しかけられちゃった!」

「え〜いいなぁ!」

「教官に頼まれて資料運んでたら、『持ってやろうか?』って!」

「なにそれ!惚れるやつじゃん!」


(……なるほど)


ため息の代わりに、少しだけ肩を落とす。

やはり、といった気持ちだった。

何となく察してはいたが、彼は困っている相手に手を差し伸べるのが“習性”らしい。


(……何かを期待していたわけでは、ないですけど)


出歩けば本人に遭遇し、座っていれば名前が耳に飛び込んでくる。

──いや、もしかしたら自分が今まで無関心だっただけで、噂など前からあったのかもしれない。


(って……それじゃあ、私があの男を意識してるみたいじゃないですか)


リゼットは小さくかぶりを振った。


そのとき、今度はやや低めの、男子生徒たちの声が聞こえてくる。


「レイヴン、レイヴンって、飽きもせずよく騒げるよな」

「平民だろ? 士官学校なんか入って何がしたいんだか」

「実力枠とか言ってるけど、どうだかな」


リゼットは何も言わず、その声に耳を澄ませた。

別にレイヴンの肩を持つつもりはない。けれど──


(結局のところ……そういうものなんですよね)


人は見かけや出自で他人を決めつける。

実力なんて、後づけの飾り。

そういう世界でリゼットはずっと生きてきた。


(……そういう意味では)


ほんの少しだけ、彼に同情しないでもなかった。


読んでいただき、ありがとうございます。

続きは明日更新です。

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