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彼との彩食  作者: 日戸 暁
終章 独り
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そして、愛しき日々

【合鍵を返す日】

色々あった。

退勤後、一報を入れて、彼の家に寄る。

手の中の、2連の鍵をじっと見つめる。

このマンションに来るのも、……一ヶ月ぶり。本当に久しぶりな心地がする。

これが最後だと、震える手で鍵を回す。

ただいま、とは言えずに

ただ無言で、彼の家の玄関先に立ち竦む。


「……新聞受けに入れてくれりゃいいのに」

と彼は困ったように笑う。

彼の、数少ない笑顔。

その一つを、今見ることになるとは。


なんとなく帰り難くて、

彼の家に上がり込む。


彼は何も言わない。

俺を追い出しもせず、招きもせず。

ただ、一人、居間へと戻っていく。

食卓には一人分の飯。

焼き魚と、豆腐の吸い物、ニンジンとシイタケの煮物。


今日は、緑の野菜が無いんだな。

なんて俺は思った。


テーブルには緑茶のポットが置いてある。

彼は夕飯を中断し、食器棚の奥にしまわれた俺のマグカップを出した。

暫く彼は、台所でそのマグを見つめていた。


結局、俺に出されたのは、客人用のカップに入った珈琲だった。



【外で、思う】

小さな喫茶店で、誰かがナポリタンを注文した。

具材を炒めるフライパンが、しゅうしゅうと音を立て、香ばしい匂いが店に満ちる。


家の食卓で、彼の作る美味い飯を待つ間。

あの音も匂いも。

夢中で食ったあの味も。

あの頃は俺だけのものだった。


スマホに夢中の誰かは、

無言のままスパゲティを口に運んでいる。

ただ噛んで飲み込む。機械的に。

どんな味も香りも音も、その誰かには響かないのだろう。


自分のために作られた飯の有り難さを

俺はこうして噛みしめる。




【独りの夜ー弥也人の呟きー】

ずっと使っていたペアのマグカップが割れた。もう一方を使おうかとも思ったけれど。やっぱりこれは、俺のじゃない。

ついでに食器棚を整理してたら日が暮れた。

晩飯、どうしよう。

面倒だし手抜きで、 作りおきの蓮根のきんぴらと、鯖缶と玉ねぎで...“オニ鯖丼”とか言ってたな、彼奴。



の味】

外で麻婆豆腐を食った。

いやに唐辛子のきいた、真っ赤な奴。


ふと、思う。

彼の麻婆豆腐は美味しかったなぁ。


でも。

どんな味だった。

あんなに彼と過ごし、食べたのに。


少しずつ、別の味に上書きされていく。

一瞬一瞬の思い出が、薄らいでいく。


でも決して忘れない。

彼が俺に作るものは、

いつも、

(うつく)しい味”がした。


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