ここは“地元の”商店街
合鍵をもらった翌週、土曜の午後。
家事を終えた彼が、リュックを背負ってふらっと出掛けてしまった。
「どこ行くの」と訊いても、「適当に」とだけ言って、さっさと行ってしまった。
取り残されて暇な俺は、近くの商店街を散歩することにした。
近いのに、来るのは初めてだ。
通勤時にこの道を通るが、その時間に店は開いていないのだ。
朝晩しか通らない俺は、この商店街をシャッター通りだと思っていた。
シャッターの下りた店は実際多いが、思っていた以上に色々と店は営業していた。個人営業らしいカフェもある。
と、突然、知らない人に声をかけられた。
それも、彼と住んでるお兄さん的な呼び方をされた。
誰だ、このお婆ちゃん。
俺が困り果てていると、お婆ちゃんは、笑いながら向こうへ行き、どこかへ電話し始めた。
ほどなくして、彼が通りの向こうから駆けてきた。
お婆ちゃんに頭を下げ、何か言っている。
お婆ちゃんがけたたましく笑い、俺にまで手を振って去っていった。
「お前、買い物してたの?あのお婆ちゃん、誰?」
と訊く俺に、彼はため息をついた。
「お前なぁ……」
と呆れられる。聞けば、彼の住むマンションの、管理人さんの奥さんだそうで。
管理人さんなら、俺らのすぐ上の居室だ。
一度、彼と一緒に管理人さんの家に行って、玄関先でご夫妻に挨拶はしたけど、あんな気さくな人だったっけ……?
「ミスミさんにはお世話になってるんだ。お前も、あの家にいるつもりなら、覚えとけよ」と彼は言った。
あの家。
少し引っかかる言い方だが、突っ込まないほうがよさそうだ。
「俺はもう少し店回る」と言い残し、彼は行ってしまう。
その後を、俺は少し距離を開けて追う。
彼は時折、俺を嫌そうに振り返っていたが、俺を追い払いはしなかった。
安いスーパーで、牛乳だのラップだのを買い、今度は小さい肉屋に向かった。
さっき通った時にはこの肉屋に気づかなかった。
向かいの八百屋、その隣の“学校指定用品あります”の張り紙が目立つ文房具屋にも、俺は気づいていなかった。
「おとーさん、〇〇さんちの僕、来たよー」
肉屋のかみさんが店の奥に叫ぶのが聞こえる。
彼が少し顔を赤くして、咳払いなんてしている。
「いい加減、その呼び方やめたげな」
肉屋のおじさんがおかみさんを窘める。
彼が気まずげに俺を振り返る。そして、
「あー。あの、……遠縁の親戚です」
と投げやりに俺を紹介してくれた。俺も名乗って、軽く頭を下げる。
「〇〇さんとは関係ないんで」と彼が付け加える。
納得したように、肉屋の夫婦が頷いた。
「最近よく買うと思ったら、同居人か」
肉屋のおじさんが笑う。彼は黙って肯く。
「はい、豚こま切り落とし、500g」
いつもの豚こまはこの店のだったのか。なかなか旨いやつ。
彼が、印伝の革財布から代金を支払う。
肉屋を出て、家の方へ向かって商店街を進む。
行く先々で、○○さんちの僕、と彼を呼ぶ店の人がいて、彼がその度に俺を紹介した。
食料品や日用品を買い、一緒に家へ帰った。
「町の人に、すげぇ知られてるんだな、お前」
「だからお前と買い物行きたくねぇんだよ」
かなり不快そうだ。
買ったものを冷蔵庫や物置にてきぱきとしまい、彼は自室に引きこもった。
彼の名乗っている苗字は、〇〇ではない。それでも、彼は○○さんちの僕らしい。
それが、彼にとって、良いことなのか、悪いことなのか、俺には判らない。
肉屋のおじさんは、その呼び方はいい加減やめろと奥さんに言っていたけど。
○○さんについて、俺は彼から教えてもらえていない。
この家の、前の住人。彼と同居していた人。
彼がちらりと口にしたことや、商店街の人の話から分かるのはその程度だ。
○○さんについて、俺が知るべきか否かも判らない。
そもそも彼自身が何者なのかも、実はよく知らない。
彼について、俺は自分の従兄の七緒から、
七緒の従弟にあたる者と聞いている。
それだけだ。
俺にとっては、彼は。
旨い飯を食わせてくれる、年下の同居人。
たぶん、今はそれで充分だろう。




