第1話:黒い炎の男
「アルバ。釣りも良いがあまり遅くなりすぎないようにな。暗くなる前に帰るんだぞ」
「分かってるよ、父さん」
そう言うと、釣竿と桶を抱えるとアルバは足早に家を飛び出す。
アルバは村を離れ、静かな川辺で釣りをしていた。日の光が木々の隙間から差し込み、川の流れに揺れる葉の影が、水面にゆらゆらと映っている。周囲はただ、鳥のさえずりと川のせせらぎが響く静寂の世界。
ここはアルバが最も落ち着く場所だった。村での忙しい日々から解放され、ひとときの安らぎを感じることができる、この場所が彼にとっては心の拠り所だった。
釣り竿を持つ手に感じる感触、そして魚がかかるその瞬間に湧き上がる喜び。アルバは一匹また一匹と魚を釣り上げながら、ぼんやりとこの穏やかな時間が続けばいいと思っていた。アルバの生活は平凡で、何事もなく続いていくと思っていた。
だが、ふと空を見上げると、遠くの山々が煙を上げているのが見えた。最初は火事でも起きたのかと思ったが、その煙の量が異常だった。アルバの心に不安が広がる。村から届くはずのいつもの音も聞こえなくなったことに気づいた。
「…おかしい。」
何かが起きている。アルバは釣り竿を放り出し、急いで村へと向かうことを決意した。胸の中で、すでに嫌な予感が膨らんでいった。
村へ向かう途中、周囲の風景が次第に暗く、荒れ果てていくのを感じた。木々の葉が焦げ、地面に散らばる灰が、まるで何か大きな災厄が迫っていることを告げていた。走る足音が重く響き、心臓が早鐘のように鼓動を刻む。
「な、なんなんだよ...村が...」
ごうごうと音を立て村を包む炎、辺りから絶えず響く叫び。ほんの少し前では平和そのものだった村がこの世の地獄へと変わり果てていた。
「俺の家は!?」
アルバは気づくやいなや、舞い散る火の粉を振り払いつつ見覚えのある道を必死に突き進む。望むのは家族の安否。それと同時に最悪のケースも想像してしまう。その最悪の事態を頭の中から追い出しながら走ると、眼前に自分の家が見えてきた。
幸いまだ火が移っておらず、迷いなく扉を蹴破ると眼前には見慣れた光景が広がっており、特に家具も荒らされたような形跡は見られなかった。それに僅かな希望を見出しつつ父親の寝室へと向かう。寝室にはベッドに横たわる父の姿があり、すぐさま駆け寄ると両手でその体を揺らした。
「なに寝てんだよ父さん!早く逃げないと!」
どれだけ声をかけて身体を揺らしても一向に父親は反応する素振りを見せない。そして揺らした勢いで父の上体が力無く天を仰ぎ、それを見たアルバは絶句した。
開き切った瞳孔、脱力しきった身体、そして喉笛が真っ赤な血に染まっていた。
事象への理解が追いつかない。呆然と立ち尽くし、遅れて思考がやってくると同時に強い吐き気に襲われる。アルバは気がつくと家を飛び出していた。こんな事あるはずがない。起こっていいはずがあるものか。きっと悪い夢に違いない。そう思いたかった。
しかし、現実は無情にアルバを押し潰していく。足元の土が揺れ、空が赤く染まり、火の粉が容赦なく舞い上がる。そのすべてが、今までの平穏な日常を無惨に引き裂いていた。
アルバは無意識のうちに自分の家から離れていった。頭の中で何度も父の姿が浮かび、心の中で必死に言い聞かせる。「父さんはまだ生きている」と。だがその言葉は空虚で、どれだけ繰り返しても虚しさが増すばかりだった。
村の中心に向かって走りながら、目の前の炎が大きくなっていくのを見た。まるで全てを飲み込もうとするかのように、炎は村の隅々まで広がっていた。村の人々はどこへ行ったのだろう。逃げ遅れた者たちがいるはずだ。家々から逃げる声が聞こえるが、助けに向かう力は湧かなかった。
村の広場にたどり着いたとき、アルバはその光景に足を止めた。目の前には、幾人かの村人が炎に囲まれ、必死に助けを求めていた。その中に、幼馴染のエリスの姿が見えた。彼女もまた、炎に飲み込まれそうになりながら必死に逃げていた。
「エリス!」
アルバは叫び、走り寄る。しかし、エリスは彼の声を聞いたかどうかもわからず、必死に自分の足元を確認しながら逃げていた。その顔には恐怖と混乱が浮かんでいた。
その時、そばで燃え盛る家屋の炎がピタリとその動きを止め、突如として黒い炎へと変色していく。黒い炎は勢い良く燃え盛っていた炎とは違い、ゆらゆらとゆっくり、まるで脈動するかのごとく燃え盛っていた。
そして、黒く燃える瓦礫から1つの人影がその姿を表した。灰色の髪を束ねた壮年の男。身体のいたる箇所が黒炎に包まれているにも関わらず、本人はそれを微塵も気に留める様子を感じられない。余りにも異質すぎる存在だった。
「どけ」
男の声と共にエリスの全身が黒く発火する。先程のゆっくりとした燃焼が嘘のような、余りにも激しすぎる勢いで少女の身体を一瞬で燃やし尽くす。少女は最期に断末魔を上げる事さえ叶う事は無く、灰塵へと姿を変えた。
「は....?」
余りに現実離れしすぎた光景と絶望にアルバはただ立ち尽くす事しか出来なかった。男はただこちらを見据えて、ゆっくりと歩みを進めてくる。
「”アイツ“の言っていた事も大概アテにならないかもしれないな」
その刹那、アルバは首を掴まれ、凄まじい腕力でその身体を持ち上げられていた。アルバも必死に抵抗するように男の腕を殴りつける。しかし、岩石に拳を打ちつけたような鈍い感触が残るのみで、びくともする気配がない。その様子を見た男はため息混じりに呟いた。
「何らかに能力や魔術の一つでも見せてくれるかと思ったが....とんだ期待外れだな」
男は絞め上げた腕に力を込め、青年の首をへし折ろうとする。アルバは力を振り絞り、男の顔面に右腕を振り下ろす。抵抗も虚しく、その腕も掴まれ、尋常ではない握力でぐちゃりと嫌な音を立てながら握り潰した。
「うっ....が...あ....」
極度の酸欠と痛みで朦朧とした意識の中で、今まで過ごした記憶が、思い出が、アルバの脳裏を目まぐるしく駆け巡る。記憶の中ではにこやかに微笑む父とエリスの姿があった。
(外の世界、見てみたかったな)
叶わぬ夢に想いを馳せ、自らの置かれた運命に身を委ね、目を閉じたその時。
「生きて」
聞き覚えの無い声が聞こえたと同時に、首の圧迫感が消え、身体に少しの衝撃が伝わる。目を開けると、目の前に黒い炎の男の姿はなかった。
「...?」
アルバは突然の事に困惑しながらも、ゲホゲホと咳をしながら肺に空気を送り込む。倒れた体を起こそうとするも、右腕の激しい痛みでそれは叶わなかった。その時、眼前の瓦礫の山が勢いよく吹き飛び、黒い炎の男が姿を現した。しかし先程までぴくりとも変わる事のなかった表情が驚きで歪み、その眉間には皺が寄っていた。
「お前、今何をした...?」
それは明らかに動揺している声色だった。男はゆっくりと黒く燃え盛る掌をこちらへと向け、巨大な黒炎を放った。アルバはその炎に思わず目を閉じてしまうが、一向に痛みや熱がやってくる様子はない。恐る恐る目を開けると、掌を向けたまま男は静止している。そして男は何かを悟った様子で、笑みを浮かべながら言った。
「なるほど、そういう事か」
男は拳を構え、純粋な殺気を放ちながらこちらへと向かってくる。その時、男に翡翠色の落雷が直撃した。あまりの衝撃にアルバは大きく吹き飛ばされてしまった。痛みに何とか耐えながら顔を上げると、目前には槍を持った白髪の青年がいた。黒炎の男は落雷を喰らったにも関わらず、土煙から平然と姿を現す。
「もう少し確かめたかったが、とんだ邪魔が入ったな」
男はそう呟くと全身が黒炎に包まれ、背中に羽のような形をした炎を形成し、そのまま尋常ではない速度で飛び去った。
目の前に立っている青年はこちらへと目を移し、アルバを軽々とその肩に担ぎ上げ、そっと耳打ちをする。
「君は俺が必ず助ける。苦しいとは思うが、もう少しだけ我慢してくれ」
出血によって意識を保てなくなったアルバはその言葉を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。