ケース5 記憶
ケース5
記憶
「では、Mさん。もう一度聞きますが、それは本当にMさんの部屋で起きたんですね?」
深夜1時30分。福祉課室でかもめは男性利用者Mさんと対面で座り、Mさんからの訴え事を聞いていた。
「はい、そうです。僕が部屋で寝ていたら、部屋の電気がつきました。でもすぐ消えて。何かなと思って目を開けると、ベッドの横に黒い服の男が立ってました。多分宇宙人です。とうとう僕のところまで来たかと思って、僕はバッグに着替えを詰め始めたんです。宇宙船に乗るんだろうと思って。そしたら、黒い服の男は誰かと話し始めたんです。よく見ると、男の横に女の人がいて、その人と話してました。あの女の人は、多分クレオパトラです。二人で喧嘩をしているみたいでした。だから僕は二人に喧嘩はやめてくださいと言いました。そしたらお茶を飲ませてほしいと二人が言いました」
Mさんは真剣な表情で話した。
「それであの時間に食堂にいたんですね」
かもめは深夜巡回の際に、食堂でMさんに出会した。もちろん照明は全て消しているので、結構驚いた。就寝時間なので部屋に戻るよう声を掛けたところ、さっきの話を始めたため、福祉課室で話を聞こうと思ったのだ。
「はい。給茶器のお茶を部屋に運ぼうと思って」
「なるほど。でもMさん。まず居室での飲食は原則してはいけないことになっていますよね。そして、お茶は熱いです。運ぶときにこぼしたら火傷しちゃいますよ」
こういう場合、利用者の話が現実なのか夢なのかを問い正すことはしない。利用者の世界、時間軸が存在するのだろうと理解し、否定も肯定もせず、行動の問題点に言及する。今回の場合は深夜に食堂にいたこと、居室にお茶を運ぼうとしていたことだ。
「あぁ、そうですね。そこまで考えなかったです」
「じゃあお水を飲んで、落ち着いたらお部屋に戻りましょうか」
かもめは福祉課室に設置してある冷蔵庫から常備してあるペットボトル入りの水を紙コップに
注ぎ、Mさんに渡した。Mさんはゆっくり紙コップの水を飲んで一息着いた。
「でも、あの二人はまだ僕の部屋にいるので、江田さんから出ていくように言ってもらえませんか?」
Mさんの表情は真剣そのものだ。
「わかりました。私から話してみますね」
かもめは答えると、Mさんとともに居室に向かった。
食堂を通り過ぎた階段を登って2階がMさんの居室になっている。階段を登ったところでかもめはMさんにそこで待つように話した。そして一人でMさんの居室に向かった。部屋の扉を開けたが中には誰もいない。そのことを確認すると、かもめはMさんのところに戻り、
「話してきました。部屋の中を確認してもらえますか?」
と話し、Mさんを居室に誘導した。Mさんは部屋の扉を開け、部屋の電気をつけて部屋の中を見回した。そして、
「うん、いませんね。ありがとうございます。これでゆっくり眠れます」
とかもめにお礼を言った。
「いいえ。では、おやすみなさい」
かもめはMさんにそう告げると、福祉課室に戻るべく歩き始めた。
Mさん、本当は食堂の給茶器でお茶が飲みたかったのかな。それで私に見つかって咄嗟に嘘をついたのか。それとも、本当に部屋には誰かいたのか。
かもめは階段を降りながら、さっきのMさんの話を思い返していた。
かもめは特段怖い話が苦手な質ではなく、Mさんの話にも冷静に状況を分析していた。
階段を降り切るまであと1段というところで食堂に誰かいることに気づいた。まさか、また他の利用者が誰かにお茶を持ってくるように言われたかと思いそっと食堂を覗いた。
「お、なんだ。かもめじゃん」
暗い食堂の中程の椅子に座っていたのは、今夜かもめとともに夜勤に就いている女性勤務者、村角風花二十三歳だった。
「村角さん、何してるんだよ。っていうか江田さんと呼べって言ってるだろ」
「まあまあいいじゃん。幼馴染なんだしさ。私は巡回ついでに食堂でコーヒー飲もうと思ってさ」
風花は手に缶コーヒーを持っており、それをかもめに見せた。
「サボるなよ、風花」
風花はかもめと小学校が同じで当時から仲が良かった。中学校から別々の学校になったが、高校2年の夏に再会し、その後は何かと連絡をとるようになっていた。風花は福祉系の専門学校を卒業し、そのままこの職場に就職した。職歴ではかもめの2年先輩だ。泉と似た感じの少し長めのボブという髪型だが、頬の辺りから髪が緩やかにうねっていて、まるでそのようにセットしたかのような軽やかな髪型になっている。しかし、セットではなく天然パーマで、小学校の頃から、奇跡の髪質ともてはやされていた。
「それで?かもめは何してんの?」
「あぁ、Mさんの部屋にいた宇宙人とクレオパトラの相手してた」
「あはは、お疲れさん。ジュース奢るからさ、サボってたことは黙っといてくれよ、かもめの姉貴」
そういうと風花はかもめの背中を押して福祉課室の方へ歩き出した。
福祉課室のいつものかもめの席でレモンスカッシュの缶を開栓し、かもめはさっきのMさんの話を風花に話していた。
「で、部屋の中には結局誰もいなかったよ」
最後まで話すと、かもめはいただきますと対面に座っている風花に告げてレモンスカッシュを喉に流し込んだ。
「なーんだ、いたら真夏のホラーだったのに」
風花は期待が外れたようで、がっかりしたように話した。
「何期待してんだよ。誰かいたらホラーの前に大騒ぎだよ」
「あはは、確かにね。まあアレだな。Mさんお茶飲みたかったんだろうね」
「やっぱりそう思う?私に見つかって咄嗟に嘘ついたのかな」
「うーん、何とも言えないけどねー。直前の記憶じゃなくて、前の記憶が幾つも重なってんじゃないかな。だから聞く人にとっては荒唐無稽でも、Mさんは頭の中の記憶をただ話してるだけって感じなのかも」
「ほー。なるほどね」
風花は2年先輩であるゆえ、利用者との関係性、利用者の特性把握もかもめよりできている。同い年で友達の風花がこの職場にいてくれて何かとありがたいとかもめは思っていた。
「さすがです、風花の姉貴。おみそれしました」
「うむ。もっと尊敬して良いぞ」
「サボってたのによく言うよ」
二人は一緒に笑った。
「かもめさ、最近よく笑うようになったよね」
「え?そう?表情とかあんまり意識したことないな」
かもめは両手を頬に当てて、表情筋を柔らかくするマッサージめいた動きをしてみた。
「仕事に慣れがでてきてんじゃないか?気を引き締めんか、かもめ!」
「誰だよ、何様だよ、っていうかサボってたのによく言うよ」
「あはは、もう忘れてよ、それ」
風花に言われて、かもめは思い当たる節があった。
はたから見て、笑わない人だと思われるような表情だったのかと少し反省した。新しい職場で緊張もあったのだろうが、この仕事に対して真剣に向き合いたいと言う気持ちがあった。
泉や風花のように、良い意味で肩から力の抜けた勤務態度とは程遠いと自分でも感じているところがあった。
まして泉のような誰の間合いにもすっと入っていけるような人懐っこさは皆無だと自分自身思っていた。
「・・・かもめ?聞いてた?」
「え?ごめん、何だっけ?」
「だから、夏祭りだよ、施設の。もうそろそろじゃん。・・・その、大丈夫なの?」
かもめが笑顔の件を考えている間に、風花は次の話題を話していたようだ。
今は7月下旬。施設の夏祭りとは、夏の夜に施設を一部開放し、スタッフは総出でステージでの出し物や夜店で飲食物を提供する。施設利用者はもちろん、利用者の保護者、地域の方々も一緒になって楽しむイベントだ。今年は8月の中旬に予定していた。
「大丈夫って?」
かもめは風花に聞いた。
「うちの夏祭り、福祉施設のイベントにしては打ち上げ花火が本格的で有名なんだよ」
「あぁ、そういうことか。大丈夫だよ、仕事なんだし」
「この前、山崎主任から聞いたよ。かもめがこの仕事目指すようになったきっかけを話すとこ
ろだったって。ちょっとは気持ちの整理ついてきてんのかもしれないけど、無理はしないでね。
焦んなくていいんだし」
かもめは十七歳の夏以降打ち上げ花火を見ていない。
かもめの辛い記憶に打ち上げ花火が登場することを風花は知っている。
「ありがとね、風花。その・・・風花があの時」
「お疲れ様です。あ、江田さん。休憩どうぞ」
かもめが話しかけたところで福祉課室の扉が開き、本日の男性夜勤者である吉村新がかもめに話しかけた。
「あ、吉村さん。お疲れ様です。
・・・じゃあ、休憩入ります」
とかもめは椅子から立ち上がり、福祉課室を出た。
「吉村さん。タイミングわるっ」
風花は新に向かって悪態をついた。
「え?休憩時間終わったので勤務に戻っただけですが」
新は何食わぬ顔でパソコンの前の席に座り、記録を打ち始めた。
「上手いのはお菓子作りだけかよ」
風花はぼそっと呟いた。
「何か言いました?」
新には聞こえていなかったようで、風花は少しがっかりした。
「いいえ、なんでもありませーん。じゃあ、私持ち場に戻りまーす」
わざとらしくそう言うと、風花は福祉課室を出た。
薄暗い廊下の先、かもめが向かった休憩室の方を見つめ
「かもめ、本当に大丈夫かな」
と心配そうに呟いた。
しかし、最近のかもめの表情から
そろそろって時期なのかもしれないなと思い、ある作戦を思いついた。
「無理は承知だけど。試してみるか」
決心したところで、風花は大きなあくびをして食堂方面に歩いて行った。