ケース4 箒
ケース4
箒
”強い勢力の台風10号は東シナ海を北上し、徐々に東向きに進路を変えると思われます。避難情報等十分にご確認ください。繰り返しお伝えします・・・”
福祉課室のデスクに広げたノートパソコンに向かい、かもめはスマートフォンにBluetooth接続したイヤホンから流れるラジオアプリの台風情報を聴いていた。福祉課室の外はやや激しい雨が降っており、時折遠くの方で雷が鳴る。時間は夜8時を過ぎた辺りだ。
今夜、かもめは夜勤ではない。台風の影響で明日の朝の出勤に支障が出ると判断し、台風の影響が少ない前日から泊まっておくことにした。
というのは表向きの口実。
かもめの住んでいるアパートは職場から2キロ圏内にある。職場に何かあってもすぐに駆けつけられるようにと、かもめがこだわって住み始めたアパートだ。その気になれば歩いてでも出勤できる。本当は台風の夜の夜勤を体験したかったのだ。
台風情報を聞き終わり、イヤホンを耳から外した。
また遠くで雷が鳴る。かもめは仕事の手を止め窓の外を見る。
「フッ、ワクワクするぜ」
無駄にカッコつけて声に出した。
「あれ?かもめちゃん?」
「おう、今夜の女性勤務者、松宮泉。二十三歳」
「だからなんでフルネームなの?しかも年齢まで」
「ストーリーテラーっぽいのやってみたかったんだよ」
まるで自分が小説の主人公にでもなったかのような口ぶりのかもめ。泉はロビーから医務室に向かう途中で福祉課室を通り、かもめに気がついた。
「今日勤務じゃないよね?どうしたの?」
「嵐がさ、私を呼んでるのさ」
「え?嵐が?早く帰って寝なよ」
「そんなこと言っていいのか?勤務者に差し入れのケーキ買ってきたぞ」
「わーい!今夜は泊まってってね」
「カップルかよ」
二人はいつものようなやりとりをこなした。そして泉は医務室へ姿を消した。
利用者は台風の夜は比較的穏やかに過ごしている。
それもそのはず、一晩中ひっきりなしに職員がうろうろしているので、どこか物々しい雰囲気を察知しているのだ。
台風が接近すると、障がい者支援施設の夜は忙しくなる。
普段の夜勤は3人で勤務するが、被害が予想される進路を辿る台風の夜は施設長以下数名が施設に泊まり込み、有事の際に備える。夜勤者を含め10人程の職員が泊まり込んで、施設自体に破損箇所はないか、施設周辺の道路は寸断されていないか、職員、通所の利用者が通勤で使用する主な道路に被害はないか、交代で見回りを行う。普段あまり馴染みのない総務課室が施設長司令の拠点として解放され、買い込まれた差し入れのカップ麺や惣菜、お菓子、スイーツに至るまで様々な夜食が並ぶ。昼間と変わらない賑やかさがあり、どこか頼もしさを感じる。
とはいえ、
「江田さん、女性居室のほう雨漏りしてるって、ちょっと見てもらえる?」
「江田さんダメだ、Hさん雷が怖くてロビーから動けないみたい。誘導手伝えるかな?」
「かもめちゃーん、単1電池のストックってどこだっけ?」
「江田さんごめん、公用車玄関に回しといて!」
「かもめちゃん、コピー用紙のストックってどこだっけ?」
「江田さん、そろそろ外の見回りしてる課長方戻って来られるから、タオル準備しといて」
施設内にいる職員は決してお客様ではなく、ひっきりなしに動かなければならない。
「江田さーん」
「はーい・・・ただいま・・・」
あっという間に深夜1時を過ぎていた。台風はかなり接近しているらしく、けたたましい雨音が福祉課室を包む。暴風も吹き荒れ、これぞ台風という様相を呈してきた。
「すごい雨だね。ちょっと怖いかも」
泉は休憩の時間だが一人で休憩室にいるのが怖いらしく、かもめのいる福祉課室で過ごしていた。
「ああ、想像以上だな。何も被害なければ良いけど」
おそらく勤務者以上に動いたかもめは眠さのピークに差し掛かっている。
「はい、江田さん、松宮さん」
二人にカップ入りのホットカフェラテとチョコクッキーを運んできたのは山崎葉主任だ。葉もかもめ同様勤務ではないが泊まり込んでいる。
「山崎主任、ありがとうございます」
かもめはやっとの思いでカフェラテとクッキーを受け取った。泉も受け取った後、
「こんな時間にチョコクッキーを勧める主任は、乙女の敵か、それとも味方か・・・」
と葉を品定めでもするかのように見た。
「ははは、松宮さんの例えは独特だねぇ」
葉は困ったように笑いながら右手を頭の後ろに持っていった。
「泉、もう乙女って歳でもないだろ。素直にお礼を言えよ」
見かねたかもめが泉に言った。
「えぇ?!二十三歳だよ?!若者だよ、乙女だよ!
主任、ありがとうございまふ」
泉は乙女の主張の直後、お礼も言い切らないうちにチョコクッキーを食べ出した。
「いえいえ、喜んでもらえて良かったよ。江田さん、明日も通常でしょ?そろそろ休んでね」
「あ、ありがとうございます。でも泉が怖がるんで私もここにいます」
とかもめはチョコクッキーを一気に食べきってしまいそうな食いしん坊を見ながら答えた。
「思ったより激しいね、今回の台風。こんなこと言うと不謹慎だけど、台風の夜ってなんだかワクワクするんだよね、僕」
葉が少年のようなことを言い出し、かもめ、泉は笑った。
「でも、分かります。私もちょっとワクワクしてました」
かもめは正直に言った。
「そう?私分かんないや。怖いだけ。学校が休みになると嬉しかったけど」
泉は窓の外の激しい雨を見ながらそう言った。
「台風あるあるだな」
かもめは少し笑って泉に応えた。
しばらく3人は窓の外の様子を見ていた。
疲労もあってか、無心に窓に打ち付ける雨を眺めていたかもめは、ふと思い立ち
「そうだ、主任。この前の夜勤の時の話・・・」
と葉に話しかけた。葉は人差し指を口に持っていき、
「しー!」
と言いながら泉の方を見た。
机に突っ伏したまま泉は寝息を立てていた。
「全く・・・怖いんじゃなかったのかよ」
かもめは泉を見ながらそう言った。そして、窓の雨を眺めていた時間は自分が思っているより長かったことを知った。
「人が近くにいると安心するんじゃないかな。あ、そうだ。今夜は総務課室に職員たくさん詰めてるから、江田さんもここで休憩取ると良いよ」
「そうですね、そうさせてもらえるとありがたいです」
葉からの提案を聞きながら、福祉課室の棚から職員休憩用のタオルケットを取り出した。そして起こさないようにそっとタオルケットを泉の肩にかけた。
「それじゃ、僕は行くよ。ゆっくり休んでね」
囁き声でそう言うと、葉は扉の方へ向かった。かもめも囁き声で、
「はい、お疲れ様です」
と答えた。葉が出ていくと、かもめは福祉課室の扉に壁掛け用の小さなホワイトボードに、
「松宮 仮眠中」
と書いて掛けた。かもめも眠気はピークに達していた。
福祉課室の電気を半分消し、薄明るい部屋の中をデスクに向かって歩き、オフィスチェアに腰掛けた。
「今夜は疲れたな、泉。
私も少しだけ・・・寝るよ・・・」
かもめが目を開けると、福祉課室のカーテンの隙間から日が差し込んでいた。自分が机に突っ伏した状態から顔を右に向けて寝ていたことに気付くのに時間は掛からなかった。
そうだ職場だった、と昨夜泊まり込んでいたことを思い出し、
「あ、台風!」
と言いながら勢いよく上体を起こした。肩からタオルケットが落ちる。夜に泉に掛けたものだ。タオルケットを拾い上げて、壁掛けの時計を見ると7時10分になっていた。外では何やら職員達の声が聞こえている。
「もうみんな出勤してるのか。なんで福祉課室に誰も入ってこないんだ?」
かもめがそう言いながら夜に掛けた扉のホワイトボードを確認すると、
「松宮 仮眠中」
の松宮に二重線が引かれ、上にかもめと書かれていた。
「かもめ、仮眠中か。泉め」
ホワイトボードを扉から外し、元の位置に戻してかもめは食堂へ向かった。朝日の差し込む食堂で泉が利用者の見守り支援をしていた。利用者は口々に昨夜の台風は激しくて眠れなかったと言った旨の話をかもめに話しかけた。かもめは、激しい台風でしたねと歩きながら笑顔で応対した。
「あ、かもめさん。おはよー」
「おはよう、松宮さん。タオルケットありがとう」
「いいってことよー、みんな出勤し出してるよ。外で掃除してる」
「そうか、私も行ってくるよ」
そう泉に伝え、かもめは園庭に向かった。
台風が過ぎた後の快晴の青空と強い日差しが起き抜けの体に染み込む。職員たちは台風通過時の飛散物の片付けや、対策のために締め込んでいた扉を開けて回っていた。
「あら、江田さん。起きたのね」
箒を持って、日焼け対策に抜かりのない石神英子係長がかもめに声を掛ける。
「あ、係長。おはようございます」
「昨日泊まったのね、あなた本当にアスリートみたいね」
そう言って英子がいつもの人差し指を軽く曲げ、口元に持っていく仕草をしたが厳重な日焼け対策のせいで表情は全く見えない。
「おはよう、江田さん」
葉が英子の後ろから顔を出した。
「主任、おはようございます。すみません、寝入ってしまって・・・」
「全然大丈夫だよ。あれから4時30分頃には台風も落ち着いてね。落ち着いた頃石神係長も出勤されて、福祉課室から出る松宮さんとすれ違ったそうだよ」
「昨夜はえらくこき使われたそうね。よく頑張ったわ。福祉課室は江田さんが起きるまで使用禁止と皆さんに申し送っておいたのよ」
「ありがとうございました。おかげでぐっすり眠れました」
「どういたしまして、さあ、1日が始まるわ。江田さんも掃除手伝ってくださらない?」
「はい、箒持ってきます」
かもめは台風一過の青空の下、この職場で働けて幸せだと思った。今屋外にいる殆どの先輩職員は、ほぼ寝ていない状態で朝を迎えているはずなのに、冗談を言いながら笑顔で掃除をしている。疲れを微塵も感じさせない彼らの表情に、仕事に対する使命感と責任感、いや、そう言ったものの枠を超え、人としての本質、気質めいたものを感じる。
先輩たちの偉大さに遠く及ばない自分に打ちひしがれながらも、心底カッコよく見えるこの集団の一員であることに誇りを感じていた。
箒立ての箒に手を掛けて、
「私もあんなふうになりたい。絶対なる、なってやる!」
と決意を新たに箒立てから箒を抜き出し、かもめは先輩たちのいる園庭に足を向けた。