ケース3 深夜3時
ケース3
深夜3時
「はっ、はっ、はっ・・・」
短く息をはきながら、ランニングウェアに身を包んだかもめが、海沿いの松林の中の遊歩道を駆け抜けていく。
耳にしているイヤホンからは、ロックバンド「ギターウルフ」の「爆音ブラッド」が流れている。公休の日は早朝に走り込むのがかもめのルーティンだ。
爆音ブラッドが終わって以降イヤホンから曲が流れなくなり、プレイリストのシャッフル再生が終わったことに気付いて足を止めた。腰のポケットからスマートフォンを取り出し時間を確認すると
「え、10時?結構走ったな」
自分を褒めてあげよう、と思った矢先、山崎葉主任からの着信がBluetooth接続しているイヤホンに鳴り響いた。
「はい、江田です」
イヤホンを解除せずそのまま着信に応答した。会話しながら少し歩きたかったからだ。
「江田さん、いやー、お疲れ様。お休みのところ、本当に申し訳ない」
葉は申し訳なさそうな声でそう話した。
「いえ、どうしたんですか?」
「それが、今日夜勤に入るはずだった松宮さんが体調不良らしくて、勤務に入れないそうなんだよ。江田さん、今夜夜勤入れるかな」
更に申し訳なさそうに葉がかもめにそう伝えた。かもめは特段考えることもなく、
「大丈夫ですよ今夜。夜勤入ります」
と葉に伝えた。
「本当?いやー、助かるよ。では、今夜よろしくお願いします」
はい、よろしくお願いします、と返事をしてかもめは通話を切った。
すぐにスマートフォンの画面をLINEに切り替え、
「泉、体調大丈夫か?今夜は私が夜勤に入るからゆっくり休むといいよ」
とメッセージを送信した。とほぼ同時に既読が付き
「がぼべじゃん、ごべんでぇ泣」(かもめちゃん、ごめんね)
とすぐに返信が届いた。
「なんでメッセージまで鼻声なんだよ」
かもめはそう言って思わず笑ってしまった。
泉の返信に少し安心して、
「鼻声治るまで絶交な」
と愛の鞭的なメッセージを送った。
その夜、利用者は皆さん穏やかに過ごしていた。
夜勤業務に就く際、利用者が落ち着いて過ごす夜と、そうでない夜がある。
その2つの夜には決定的な違いがある。
言葉でその違いは表しにくいが、あえて表すとすれば「配慮の差」となるのかもしれない。
勤務当日に出勤してすぐ、今日は何かあると察知し様々な事に配慮しながら業務をこなす日もあれば、数日前から落ち着かない利用者の予兆を察知し、前もって情緒の安定を図って夜勤に臨むこともある。そこまで配慮しても何かしらトラブルは起こるものだ。
逆に、特に配慮しなくても穏やかな夜もある。明らかな根拠がない分、夜勤についた職員も、なんかラッキーだったなと思うくらいのものである。
しかし今夜の皆さんの落ち着きには明らかな根拠がある。
それは本日の女性勤務者、石神英子係長三十六歳の存在に他ならない。
石神係長が勤務に入る夜にトラブルが起こった事は、少なくともかもめが採用されてからの3ヶ月間無い。
消灯時間を過ぎ、かもめが福祉課室で夜勤日誌を書いていると、英子が居室の巡回から戻ってきた。
「お・・・お疲れ様です」
椅子から立ち上がりかもめは英子に挨拶した。
かもめは珍しく萎縮している。
「あら江田さん。お疲れ様。今日は松宮さんの代わりに急遽夜勤になって大変だったわね」
「いえ、いつでも夜勤に入れるように備えていますから」
「ふふふ、まるでアスリートね」
うわぁ、なんだこのお姉様感は
とかもめは英子の雰囲気に圧倒される。
泉と同じセリフなのに全く嫌ではなかった。
長くてまっすぐな黒髪を後ろで束ね、頬の辺りで一旦短くなるその髪型は正に姫君のようだ。
支援員職とは思えないルックスにかもめはいつも女として、そして職業人としての格の違いを見せつけられる。
しかもそのルックスもさることながら、さっきまでの係長の業務姿勢、無駄のない動き、利用者への適切な応対と干渉度合い、できる限り死角を作らないポジションからの見守り支援、どれをとってもパーフェクトだった、と思いかもめはため息をついた。そして、私も早く
「そうなりたい」
と思わず口に出していた。
「え?何かおっしゃった?」
かもめの右斜め前のオフィスチェアに腰掛けた英子に聞かれ
「い、いえ、なんでもありません」
そう焦って答えた。
かもめがしどろもどろになっていると、福祉課室の扉が開いた。
「お疲れ様です、やっと消灯ですね」
本日の男性勤務者、山崎葉主任が入室してきた。
「お疲れ様です、山崎主任」
かもめは葉に挨拶をすると、ようやく椅子に座ることができた。
「お疲れ様、山崎君」
「ははは、石神係長との夜勤はどうも僕には平和過ぎて、時間が経つのが遅いです」
葉は右の肩を揉みながら、かもめの向かいのオフィスチェアに腰掛けた。
「ふふふ、お褒めの言葉と受け止めておくわ」
と・・・とんでもないオーラの二人だ、とかもめは余計に萎縮した。
「江田さん、今日は本当にありがとう。助かったよ。あれから松宮さんから連絡あったかな?」
と葉がかもめに話しかけた。
泉の話となればかもめの得意分野だ。
「いえ、今絶交してるので」
とクールに返答してみせた。
「ははは、絶交中か。愛の鞭が過ぎるよ、江田さん」
葉は苦笑いをかもめに向けた。
「というのは冗談で、さっき熱下がりましたってLINEが届きました」
「よかった。明日は出勤できそうかな?」
「はい、明日は誰より早く出勤しますって言ってましたよ」
「ははは、誰より早くか、本当かなぁ」
「私は嘘だと思います。松宮さん、少し調子良いところありますし」
「相変わらず、江田さんは松宮さんに手厳しいね」
「そうですか?松宮さんが特別じゃなくて、私誰にでもこんな感じだと思うんですけど」
かもめは葉とであれば萎縮せずに話せる。少しの間、英子の存在を忘れて話してしまっていたことに気がついた。
横目で英子の表情を見て、すまし顔に変化がないことを確認した途端、言葉が出なくなった。
「あら?お話はおしまい?楽しい会話だったので、つい聞き入ってしまっていたわ」
英子は右手の人差し指を軽く曲げ口元に近づけ、微かに口角を上げた。
「では私、休憩に入るわね」
英子はそういうと椅子から立ち上がり、福祉課室を出た。
福祉課室の扉が閉まった途端
「ぶはぁ」
え、私いつから息してなかったんだ、と思いながらかもめは呼吸を再開した。
「江田さん、はたから見て分かるくらい係長のこと意識してるね」
葉が見かねてかもめに声を掛けた。
「え、分かりますか?私、石神係長の前だと、なんだか圧倒されるんですよね。あの雰囲気ですかね」
いかにも困ったと言った表情でかもめは葉を見た。
「ははは、分かるよ。僕も最初見た時同じ人間だと思えなかったよ」
「分かります、その感覚。主任と係長は同じ専門学校の出身ですよね」
「ああ、僕の一つ上が係長でね。当時からすごい人気だったよ。係長・・・あぁ、当時は石神先輩だね。石神先輩があるボランティアの募集に応募したんだけど、次の日そのボランティアに男子学生が殺到してね。ちょっとした事件になったことがあったよ。同性異性関係なく親衛隊みたいなグループがあって。少し神がかった存在だったなぁ」
「へぇ、当時から凄まじい美貌だったんですね。
あ、私以前聞いたことがあるんですけど、十代の頃芸能活動していたって噂、あれ本当なんですか」
「その噂ね、江田さん世代の耳にも入るくらいまことしやかに囁かれ続けてるんだね。
結論から言うと嘘だよ。芸能活動は一度もやったことない。
あることがきっかけで芸能事務所からスカウトが殺到したっていうエピソードが正しいよ。全部断ったそうだけどね」
「エピソードがいちいちカッコいい」
「ははは、憧れるよね」
かもめは英子に憧れている。
勤務中の場の統率力はさすがだ。
利用者も皆英子のペースに巻き込まれていく感じがする。
そこにいるだけで場の空気、時間の流れ方まで変えられる人はそういない。
「もっと色々お話したいんですけど・・・」
俯いて話すかもめを見て、葉は
「じゃあ、休憩交代するタイミングで、係長にこの言葉を囁いてみるといいよ」
葉はキーワードを書いた紙をかもめに渡した。
キーワードを確認してかもめはぎょっとした。
「これって・・・」
「ははは、係長と距離が近づくといいね。じゃあ僕は持ち場に戻るね」
そう言って葉は足ばやに持ち場の居室棟に向かった。
深夜2時55分、そろそろ巡回から英子が戻ってくる。
福祉課室ではかもめが意味もなく立って英子が戻るのを待っていた。するとすぐに居室巡回から英子が戻ってきた。
福祉課室に入室すると
「江田さん、お疲れ様。休憩どうぞ」
と言いながらパソコンの前、普段のかもめの定位置に座り記録を書き始めた。
「あ・・・ありがとうございます。では、休憩を取らせていただきます」
かもめはぎこちなく返答し、福祉課室を出ようとしたところで立ち止まり、振り返って壁に掛かった時計を見た。
そして思い切って、
「深夜、3時。ですね」
と囁いた。
英子は驚いたようにかもめを見た。
そしてすぐに壁の時計に顔を向けて
「そ、そうですね。3時ですね」
と明らかに動揺して答えた。
葉が渡してくれた紙には、「深夜3時」と書かれていた。この時間が意味するところをかもめは分かる。だがまさか、石神英子もこの意味が分かるのかとかもめは疑念を抱いている。
「あの、係長。ただの3時じゃないんですよ、深夜、3時、なんです」
「そ、そ、それがなにか?」
「もしかして今、ラーメン食べたいと思いました?」
「ははは、そ・・・そういえばお腹空きましたもんね。食べたいですね」
さっきまでの姫君はもう消滅したとかもめは確信した。
抱いた疑念を払拭するため、かもめは次なる行動に出た。
「アメリカ帰りのあいつがくるぜ。オールナイトで?」
「ぶっとばせ!・・・は!」
とうとう尻尾を掴んだ。
「係長、ギターウルフ好きなんですね」
「え、え、江田さんもウルフ好きなんですか」
「はい、大好きです」
「えぇ、うそ、やだ」
英子のその動揺たるや、筋金入りのギターウルフファンであることは間違いなかった。
「新幹線?」
「ハイテンション!」
「環七?」
「フィーバー!」
「カミナリ?」
「ワンッ!」
この人面白え、とかもめは英子とギターウルフの楽曲タイトルコールクイズをしながら思った。
気がつくとかもめの休憩時間はもう残り30分も無くなっていた。憧れであり職場のマドンナ的存在で、尚且つ皆の姫君である石神英子とこんなに濃密な時間を過ごせていることにかもめは感動し、今回夜勤を代わった泉に心底感謝した。そして、英子も同じバンドが好きだということを教えてくれた葉にも大いに感謝していた。
「じゃあ係長はギターウルフモデルの革ジャン、shottバージョンとルイスバージョンどっちも持ってるんですか?」
「ええ、そうなの」
ルイスレザーズのギターウルフモデルのジャケットは20万円程する品だ。
「休日は革ジャン着たりするんですか?」
「最近着てないわね。因みにshottもルイスも一度も袖を通しなことはないの。飾って見ているだけよ」
「え?着なきゃ意味なくないですか?」
「私もそう思うの。でもどうしても恐れ多くて未だに・・・
あら、もうこんな時間。江田さんごめんなさいね。長々と話してしまったわ」
「いえ、係長と話せて凄く楽しかったです」
かもめもやっと英子を前にしても萎縮せずに話をすることができるようになっていた。
居室棟巡回から葉が福祉課室に戻ってきた。
「あれ、江田さん休憩取らなかったんだ」
とかもめに聞く。
「はい、でも十分リフレッシュできました。あの、山崎主任。ありがとうございました」
「いえいえ、係長と仲良くなれたみたいで良かったよ」
福祉課室の棚に巡回用の懐中電灯をしまいながら葉が答えた。
「山崎君、私がギターウルフファンだと周りに言わないように話しましたわよね」
英子が葉を軽く睨みつける。
そんな表情もいちいち綺麗だなとかもめは思う。
「ええ、係長。僕は江田さんに時間を伝えただけですよ。墓穴を掘ったのは係長です」
普段弱腰の葉は、石神英子にはどことなく強気に見える。
「そういえば、主任もギターウルフ好きなんですか?」
深夜3時をピンポイントで伝えてくるあたり、もしかしてとかもめは思った。
「ははは、ファンって程じゃないけど、昔お付き合いしていた人がファンで、その人の影響で少し聴いていた程度かな」
「学生の頃から葉は変わらないわね。どれだけ力説しても結局魅力を分かってもらえなかったわ」
「・・・
え!?」
それってつまり、とかもめは葉を見た。
「ははは、今日の係長は饒舌ですね」
「お二人は、まさか、そういうご関係だったんですか?!」
かもめは目が回りそうな感覚になる。
しかし、二人とも微かに口角を上げるのみではっきりと答えを話さないまま、起床のチャイムが鳴った。
「おはようございまーす!」
起床のチャイムが鳴り止む前に、有言実行の女松宮泉が出勤してきた。
かもめは今日ほど泉の出現をありがたいと思った事はない。
「係長。主任。そしてかもめちゃん。昨日は大変申し訳・・・」
「泉!居室のトイレ掃除行くぞ!」
昨夜の夜勤に入れなかった事を泉は詫びようとしたが、かもめがそれを阻止した。
「ふぇ?あ、ああ。任せといてよ!って待ってよ、かもめちゃん!あ、あの、申し訳ありませんでした!」
脇目も触れずに居室のトイレに向かうかもめを追って、泉も福祉課室を出る。振り向きざまに上司2人にお詫びした。
福祉課室から離れていく二人の背中を、英子と葉は眺めていた。
「ふふふ。賑やかな子達ね。山﨑君」
英子はそう言いながら葉を見た。葉はかもめと泉の背中を眺めたまま、
「ええ、賑やかです。あの子たちがいれば、この施設、いや、この仕事の未来も、きっと賑やかですよ」
と英子に伝えた。
窓の外は、もうすっかり朝日に包まれ、賑やかな1日の始まりを告げていた。