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嫁が寝言で知らない男の名前を呟いている件

作者: 墨江夢

「……隼人(はやと)くん」


 朝。ベッドの中で、熟睡している嫁・琴美(ことみ)は寝言でそう呟いた。


 その後彼女は、「エヘヘヘヘ」とだらしなく笑う。それ程までに、楽しい夢を見ているということだろうか?


「隼人くん」と口にする琴美の顔は、心底幸せそうで。彼女の浮かべる笑みを見て、俺はこう思うのだった。


 ……隼人って、誰?


 俺の名前は柴崎昭也(しばさきあきや)。断じて隼人などという名前ではない。


 高校時代から数えて5年にも及ぶ大恋愛の末に結婚し、夫婦として既に1年以上寝食を共にしている。なので、琴美が俺の名前を間違えるとは到底思えない。

 かといって、「昭也」を「隼人」とはどう頑張っても言い間違えようがないしなぁ。


 やはりここは、琴美が俺ではない別の誰かの名前を呟いていると考えるべきだ。つまり……浮気である。


 恐らく琴美は隼人なる人物と実際に浮気をしていて、夢の中で彼との蜜月を堪能しているのだろう。

 だからついポロッと、隼人という名前が出てきてしまったのだ。


 しかし、琴美が浮気かぁ。俄かに信じられないな。


 付き合いたての高校時代まで遡ってみても、彼女とは一度たりとも喧嘩した覚えがなかった。

 誕生日は毎年欠かさず祝っていたし、クリスマスもいつも一緒に過ごしている。正直、不満を抱かれる要素はないと思う。

 

 強いて挙げるとしたら、最近「好き」と言葉にする機会が減っており、そのことに不満を感じさせているのかもしれないけれど……それはまぁ、年齢のせいだ。

 この歳になって、流石に毎日「好き」と言うのは小っ恥ずかしい。無論、琴美への愛は微塵も薄れていない。


「隼人くん……そこはダメだって……」


 本当に隼人くんとやらに何させてんの!?


 驚きと衝撃のあまり、俺はつい「琴美!?」と嫁の名前を叫んでしまった。


 すぐ近くで大声で名前を呼ばれた琴美は、「ん〜?」と間の抜けた返事をしながら目を覚ます。

 未だ開ききっていない目を擦りながら、彼女は俺を見て呟いた。


「……あっ、昭也」


 寝ぼけて俺を隼人くんと間違えるかと思ったが、どうやらその心配はなかったみたいだ。

 琴美は俺を、きちんと昭也だと認識してくれている。


「おはよう〜。今日も良い朝だね〜」

「あっ、あぁ。そうだな」


 頷くものの、俺としては気持ちの良い朝とは言い難い。

 隼人くんとは一体誰なのか? どういう関係なのか? ぶっちゃけ、どこまでしているのか?

 気になりすぎて、胸のモヤモヤが一向に晴れない。


 いっそのこと、「隼人くんって誰?」と尋ねてみるか? そうすれば、全ての謎は一発で解決する。


 だけどもし、「隼人くんは愛人だよ」と返されたら? その時点で、詰みである。


 琴美に愛されていないという現実に直面する勇気が、今の俺にはまだなかった。


「……黙り込んじゃって、どうしたの?」


 何も話そうとしない俺を、琴美が心配そうに覗き込んでくる。

 俺は作り笑いをしながら、「何でもない」と答えた。


「それより、朝飯にしようぜ。お前今日、いつもより家を出る時間が早いんだろ?」

「そうだった! 昭也、美味しい朝食をすぐに用意して!」

「はいはい。スクランブルエッグで良いか?」

「……じゅるり」


 その効果音は、「OK」ということだな。

 

 俺はスクランブルエッグを手早く作ると、それにプラスしてご飯と味噌汁も食卓に並べる。


 朝食を取りながら、「夕飯は何が良い?」と尋ねると、予想外の答えが返ってきた。


「夜ご飯はいいや。外で食べる約束をしているし」


 結婚しているからと言って、俺は嫁を束縛したりしない。だけど……夜ご飯を「誰と」外で食べるのか、非常に気になるところではあった。


 隼人くんか? 隼人くんなのか?

 邪推せずにはいられない。


 取り敢えず、今夜琴美がきちんと帰宅することだけを祈ろう。 

 朝帰りなんてされたら、俺はもう生きていけないだろうから。





 週末。

 久しぶりに夫婦でデートでもどうかと思い、俺は琴美を映画に誘った。


 琴美のやつ、少し前に「観たい映画がある」と言っていたからな。

 嫁の呟きなら、どんなにさり気ないものでも脳にインプットされる。


 この日は二人とも予定がない筈だったし、当然「それじゃあ、行こうか!」となると思っていた。

 しかし、琴美は俺の誘いを断った。


「ごめん! 実は今日、急に人と会う約束が出来ちゃって!」


 相変わらず琴美は、誰と会うのかを言おうとしない。だから俺も、つい「隼人くんと会うのではないか?」と勘繰ってしまうわけで。


 明言するのを避けていることを考えると、恐らく誰と会うのか尋ねても教えてくれないのだろう。

 だけどこうも頻繁に密会が続けば、いくらなんでも気になってしまう。


 ……教えてくれないのなら、自分で突き止めるまでだ。

 

「いってきます」と自宅を出ていく琴美に、俺は笑って手を振る。

 彼女が自宅から100メートル程離れたところで……俺もまた、家を出た。


 鍔付き帽子を深く被り、サングラスとマスクをして。これならば、俺だと気付かれる心配もないだろう。

 完璧な変装をした上で、俺は琴美を尾行する。


 家を出てからおよそ20分。琴美はとある喫茶店に入った。


 店内は狭く、客の人数も少ない。いくら変装しているとはいえ、俺が入れば恐らく琴美にバレてしまうだろう。

 なので俺は、喫茶店の窓から店内の様子を覗いてみる。……はたから見ると、不審者だな。


 喫茶店に入った琴美は、店内をキョロキョロ見回す。

 やがて待ち合わせしている人物を見つけたのか、軽く手を振りながら奥の席に歩いていった。


 琴美と待ち合わせをしていたのは……俺と然程年齢の変わらない若い男だった。

 細身でスーツの似合う、爽やか系のイケメン。見るからに高学歴高収入であり、自分との圧倒的なスペックの差を痛感する。


 琴美の学生時代の友人ならば、俺が知らない筈もない。

 あと考えられるのは、会社の同僚? ……いや、前に見せて貰った社内旅行の写真には、あんな男写ってなかったぞ。


 あのイケメンが誰なのか? 残る選択肢は、一つしかない。隼人くんだ。

 

「あいつが、俺を差し置いて琴美の夢に出てくるクソ野郎か。ったく、琴美もあんな奴のどこが良いんだか」


 顔はイケてるし、優しそうだし、振る舞いは紳士だし。……自分で言っていて思った。第三者目線で考えたら、俺より彼を選ぶよね。


 しかし、琴美は第三者じゃない。俺の嫁だ。

 世界中の誰もが彼の方が優れていると考えても、琴美だけは俺を選んで欲しかった。


 若い男とお喋りをしながら、琴美は時折楽しそうに笑みをこぼす。その笑みは、彼女が隼人くんの夢を見ている時のそれと同じで。


 何の話をしているのか気になるところではあるけれど、こっそり尾行をしている以上、店内に入るわけにはいかない。……なんて、言い訳或いは逃げだよな。


 本当は琴美が浮気している事実を認めたくないだけだというのに。


 でも、いつまでも逃げてなんていられないよな。

 俺は琴美とずっと一緒にいたい。だけど、もし琴美が俺の同じように思ってくれていなかったのなら――。


 これ以上見て見ぬフリを続けるのは、お互いの為にならない。

 ここは男として、覚悟を決めるべきだろう。


「隼人くん」とは何者なのか? 今夜、琴美を問い詰めよう。一つ頷き、俺は決心するのだった。





 その日の夜。

 夕食を取りながら、俺はいつ話を切り出そうかソワソワしていた。


「いただきます」と同時に「隼人くんって誰?」と聞くなんて、無粋にも程がある。何事にもタイミング、もとい心の準備が必要だ。


 今じゃない。もう少ししてからだ。

 そんな風に自分に言い聞かせ続けていたら……どうなるかは、大体予想がつく。

 俺も琴美も、食事を終えていた。


 ……完全に質問する機会を逸した。

 こうなった以上、この件はまた明日の夕食時に持ち越すとするか。

 

 なんて言っていたら、多分明日も同じように後回しにすることだろう。それが人間というものだ。


 先送りにしたい嫌なことだからこそ、今解決させておくべきなのである。

 俺は一度深呼吸すると、満を持して琴美に尋ねた。


「なぁ、琴美。今日誰と会っていたんだ?」

 

 尋ねられた琴美は、一瞬動きを止めた。……怪しいな。


「……それ、答えなきゃダメかな?」

「あぁ、答えて欲しい。でなきゃ……俺はお前を、これまで通り愛せなくなってしまうかもしれない」


 琴美は「そう……」と呟くと、昼間に密会していた男の正体を口にするのだった。


「あれはね、私の従兄弟だよ。昭也も結婚式で会ったでしょ?」


 ……はい? 従兄弟だって?


「確かに従兄弟にはあった。それは覚えている。でも……あんな奴じゃなかったぞ?」


 琴美の従兄弟は、丸々太ったオタク系男子だった筈だ。あんな爽やかイケメンじゃない。

 

 俺が首を傾げていると、琴美は「あー」と言いながら軽く手を叩いた。


「彼、少し痩せたみたいだからね。それで別人に見えたのかも」


 あの痩せ方は、「少し」ってレベルじゃないぞ!?


 琴美の密会相手は判明した。

 だけど、もう一つの……最大の謎はまだ解明されていないままだ。


「ちょっと待ってくれ。今日会っていたのが従兄弟だとするのなら……隼人くんって誰なんだよ?」


 琴美の従兄弟の名前は、「隼人」ではない。つまり隼人くんは、別にいるのだ。


 浮気相手(と思われる人物)の名前を出されたというのに、琴美に慌てる素振りはない。それどころか、ニッと笑ってみせた。


「やっと隼人くんの存在に気付いてくれたんだね」

「……そりゃあ、あんなに幸せそうな顔で名前を呟かれたら、嫌でも気付くっての。気になりまくりだっての」


「気になりまくり」と聞いて、琴美は一層嬉しそうな顔をする。

 何でそんな顔が出来るんだよ? 罪悪感とか、少しくらい抱かないのかよ?


「で、実際のところ隼人くんって何者なんだ? マッチングアプリで知り合ったのか?」

「違うよ。同級生でも同僚でも、もっと言えば現実にいる人間ですらない」


 現実にいる人間じゃない? それは一体どういうことだろうか?


「隼人くんは私が作り上げた架空の人物だよ。あと因みに、隼人くんの名前を呟いた時、私起きていたから」


 ……えーと、つまり?

 琴美は寝言ではなく自らの意思で、架空の人物の名前を口にしていたということか? ……どういうこと?


「何でそんなことをしたんだよ?」

「それはね……昭也に嫉妬させる為だよ」


 ここに来て、琴美は微かに照れている素振りを見せた。


「昭也が私を愛してくれているのは、わかっているつもり。でも、最近全然「好き」って言ってくれないじゃん? 大人になって恥ずかしくなったっていうのはわかるけどさ、乙女としては、やっぱりたまには「好きだよ」とか「愛してる」って言って欲しいわけで」


 知らない男の名前を口にすれば、嫉妬心と独占欲から「好き」と言って貰える筈だ。琴美はそう考えたのだ。

 

 ……全く。

 好きと言って欲しいのなら、素直にそう言えば良いものを。わざわざこんな嘘をつかなくて良かったのに。

 俺がそう言うと、


「だって……寂しい思いをしたんだよ? ちょっとした仕返しです」


 ベッと、琴美は舌を出す。

 

 存在しない男の陰に怯えてビクビクするのは、金輪際ゴメンである。もう二度と、こんな思いはしたくない。

 だから――


「琴美、好きだ。大好きだ。愛してる」


 何度も何度も、彼女が嫌になるくらい、そう伝えるのだった。

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