63 航路にて
ポートオルカ沖。
ロザリーたちの乗る五段櫂船が、洋上を滑るように進んでいく。
ロザリーはデッキの手すりから身を乗り出すようにして大海原に見入っていて、ラナは髪を押さえて同じように身を乗り出している。
「すごいね、ロザリー!」
「うん!」
「風の音もすごい!」
「まるで飛んでるみたい!」
「私たち、初めての海で初めて船に乗ってる!」
「うん! 信じられない!」
「あっ、イルカ!」
「えっ、どこどこ!」
この船の推進力を担うのは、三百体余りの〝野郎共〟だ。
一糸乱れぬ動きで、ひたすらに櫂を漕ぎ続けている。
彼らを指揮するのはロザリーでもヒューゴでもなく、荷運び業をきっかけに劇的な進化を遂げた十体の〝野郎共〟代表。
彼らは他の〝野郎共〟とあまりに違ってきたので、ロザリーは彼らだけの呼び名を付けることにした。
といっても彼らは自身の名など覚えていない。
そこでロザリーは、彼らを〝ナンバーズ〟と命名した。
整列の際の、自身の番号は言えるからである。
「そんなに身を乗り出しては危ないですよ?」
「あっ」
「カテリーナさん」
ロザリーとラナが振り向くと、笑顔のカテリーナが立っていた。
「航海は順調ですか?」
ロザリーが問うと、カテリーナは「これ以上ないほど」と笑った。
カテリーナが続ける。
「彼らの働きは素晴らしいです。この速度を長時間維持できるなんて、ガレー船の認識が変わりましたわ!」
ラナが問う。
「ねえ、ロザリー。この速さってどのくらいの間、維持できるものなの?」
「うーん、特に限界はないと思うけど」
「じゃ、永遠にこの速さで漕げるってこと?」
「あの子たち、疲れないから。飲み食いも要らないし」
「でも……疲労骨折とかしそう」
「あー、どうだろう……ま、そのときは別の〝野郎共〟と入れ替えるよ」
「そっか、三万体って言ってたもんね……」
「うん」
ラナが目を細めてロザリーを見る。
「……なによ、ラナ。ジトッとした目で見てさ」
「ロザリー。あなた、やっぱり悪いことやってない?」
「またそれ? 蒸し返さないで」
「三万体の骨を操るんでしょ? 悪人としか思えないのよね」
「偏見よ! 骨を操る善人だっていてもいいでしょ!?」
「でもねぇ」
「フフッ」
カテリーナが吹き出して、ロザリーとラナが真顔で彼女を見る。
カテリーナは笑い声を飲み込み、最初の笑顔で言った。
「とにかく、この速度なら予定より早く到着しそうです。それまで海に落ちたりしないよう、お行儀よく待っててくださいね?」
ロザリーとラナが頷くと、カテリーナは船室へと向かった。
そして船室の扉を開けて中へ入ると、入れ代わりにロブとロイが飛び出してきた。
ロブは冷やし水の入ったグラス、ロイは日傘を持っている。
双子が向かうのはロザリーとラナがいる左舷とは逆側。
眩しそうに海原を見つめるヒューゴの元である。
右舷の手すりに背中を預け、黒革のコートが風に靡いている。
ロブとロイはヒューゴの前に、滑り込むように膝をついた。
「ヒューゴ先生!」「師匠!」
ヒューゴが首を傾げて二人を見下ろす。
「なんだイ? 双子クン」
ロブとロイは、それぞれが持ったものをヒューゴへ差し出した。
「水です! よく冷えてます!」「日傘です! 陽射しが強いですから!」
ラナがロザリーに囁く。
(ロブロイったら、すっかりヒューゴになついちゃったね)
(船が出るまでの間、魔導具についてあれこれ講釈したからね)
(ヒューゴって、なんで魔導具に詳しいの?)
(特別詳しいわけじゃないって。彼が生きていた頃、戦いにおいて必要な知識だったみたい)
(ふーん。昔のほうが進んでたのかな?)
(そうなのかも)
彼女たちがそんな話をしてるなどとはつゆ知らず。
ロブとロイは捧げ物をするかのように、グラスと日傘を差し出したまま固まっている。
ヒューゴは困り顔で笑った。
「ありがとう。でも――悪いネ」
ヒューゴは、差し出されたものに手を伸ばさなかった。
「ボクは死霊だから水を飲む必要はないし、ボクは僕だから主人の前で日傘を差したりもしないんダ」
聞くや否やロブロイは、それぞれに持ったものを見つめ、次の瞬間にはそれを放り投げた。
そしてヒューゴの顔色を窺うようにして、そっと尋ねる。
「旦那はどうして死霊なのに日の下にいるんですか?」「死者は陽の光を嫌がると聞きますが」
「そうだねェ」
ヒューゴが海へ視線を向ける。
「たしかに陽光をうっとうしく感じる。このカラダになってからずっと、ネ」
波間に反射する光がヒューゴの眼球を刺す。
悩ましげに眉を顰め、ヒューゴは続ける。
「……だがネ。陽射しに遊ぶ人々を日影から眺めるのは、もっと嫌なんダ。妬んでいるようで、在りし日の自分を羨んでいるようで。わかるかナ?」
双子が小声で会話する。
「……わかるか、ロイ」「……いや、わからねえ」
「でも、なんか深えこと仰ってる気がする」「ああ。師匠の言うことだ、確実に海より深え」
ヒューゴは苦笑した。
そして手すりから背中を離し、双子の間を音もなく通り過ぎる。
そしてすぐさま振り向き、後ろから二人の背中を指でつついた。
「ひゃっ」「あひゅっ」
ビクンと身体を揺らし硬直する双子に、ヒューゴがそっと囁く。
「負けたヨ。魔導具のコト、中で続きを話そう」
そう言い残すと、ヒューゴは船室へと入っていった。
硬直から解けた双子は同時に振り返り、船室へと走った。
「ヒューゴ先生~!」「師匠~!」
航海はカテリーナの「これ以上ないほど順調」という予測をさらに上回った。
通常、大型帆船で十日以上かかるダミュール海峡への航路を、わずか三日で終えようとしていた。
そして――その三日目。
昨日までの晴天はどこへやら、空一面を灰色の雲が覆っていた。
風は強く、生温い。
ロザリーたちは船首部分に集まり、先を見つめている。
誰もが、それまでの心躍る気分ではいられずにいた。
ロザリーが尋ねる。
「カテリーナさん。ダミュール海峡は?」
「もう、入っています」
ラナがごくりと唾を呑む。
「じゃあ、この辺に例の化け物が……」
「とりあえず、ダミュール海峡の中心部まで船を進めますわ」
船はこれまでの半分の速度で、ゆっくりと海域を走る。
カテリーナは空を見上げ、不安そうに言った。
「幽霊船が出ないといいですけれど……」
ロザリーが思わず聞き返す。
「幽霊船?」
「風に流れない雲が空を覆うのは、幽霊船の先触れだといいます」
見上げると、確かに雲は動いていないように見えた。
ロブとロイが言う。
「女史も迷信深いんだな」「本業は船乗りだもんな」
しかしカテリーナは首を横に振る。
「たしかに私は船乗りで迷信深いですが――幽霊船は迷信ではありません。実在する死霊の群れの形の一つです」
「えっ」「マジで?」
「そうなの、ヒューゴ?」
ロザリーが問うと、ヒューゴは頷いた。
「群体アンデッドの代表格ダ。核となる死霊とその他大勢の死霊で構成される。群れ自体が、巨大な一個の死霊だとも言えるネ」
「ふぅん。そんなのいるんだね」
「興味あるなら使役してみるかイ?」
「そんな軽いノリで言われても」
「ボクは興味あるネ。海の死霊は使役したことがないカラ」
「へぇ。どうして?」
「山育ちダカラ。海に縁がなかったのサ」
「単純な理由ね」
「物事はいつでも単純サ。キミがややこしく解釈してるダケ」
「はいはい」
そこまで話してロザリーはふと、他の四人が黙って自分を見ていることに気づいた。
「えっ。なに?」
「いや、再確認してた」「ロザリーって死霊騎士なんだな」
とはロブロイ。
「ロザリーさんがいれば、幽霊船を怖れる必要はありませんね」
とカテリーナが笑い、最後にラナがジトリと見て言った。
「幽霊船を手懐けるなんて、やっぱりあなた悪人じゃない?」
ロザリーが苦虫を噛み潰したような顔で言う。
「出たら、の話よ。今は海峡の化け物を優先しなきゃ」
「そうね。でも今のところ何も――」
そうラナが言いかけたとき。
帆の無いマストの上から、ガンガンガン!! と金属音が響き渡った。
皆の視線がそちらへ向かう。
一体の〝野郎共〟がマストにしがみつき、大鍋を打ち鳴らしている。
ヒューゴが思い出したように手を打った。
「アア。二号に見張りをさせていたのだった」
二号とは、ナンバーズの整列番号二番の個体のこと。他の個体より小柄ではしっこく、女の子っぽい動きをする。
見張りと聞いたカテリーナが、前方に目を凝らす。
「……船です。船影が見えます」
続いてロザリーたちも目を凝らす。
水平線の彼方から、波に隠れるように船影が見える。
「……三艘。小さいけれど、足が速い。マズいですね……」
「おいおい!?」「まさか幽霊船!?」
「いいえ」
カテリーナは大きく首を横に振り、マストからスルスル降りてくる二号を指差した。
「骸骨の旗。海賊船です!」