61 港の風
――埒外。
世界には脅威が存在する。
それらは神話や伝説にたびたび登場するが、虚構ではない。
事実、そこにいるのだ。
数千年の時を生き、神か悪魔のごとき力を振るい。
あるときは人を助け、あるときは人を絶望の淵に追いやる。
およそ人の限界の外にいるもの――その意味で〝埒外〟と呼ばれる。
よく知られる埒外を二柱、例に挙げる。
皇都バビロンの守護者にして八枚翼を持つ大鷲〝大空君〟。
珊瑚海の支配者にしてすべてを呑み込む世界魚〝大呑君〟。
これらの埒外は魔導史以前から存在し、現代でもその姿を確認されている。
〝はじまりの騎士〟ユーギヴは、埒外をこう評している。
「彼らは途轍もなく強大で、いかなる王よりも尊大で、誰もがひれ伏すことになる」
――出典『埒外伝説~神の領域~』
ロザリーは窓を開けた。
べたつく風が潮の香りを運んでくる。
空は快晴。
美しい入り江が、朝の光に輝いている。
「絶好の出航日和ね」
壁に背を預けたラナが言う。
ここはカテリーナが用意してくれた宿。
高級ではないが清潔な宿で、昨晩は久しぶりのベッドの感触を十二分に堪能したのだった。
「なあ」「本当に行くのか?」
ロブとロイは気乗りしないようで、ベッドに寝転がったままロザリーにそう言った。
「大呑君って船を一息に何十艘も呑み込むってアレだろ?」「〝黒獅子〟だ〝埒外〟だって話デカすぎてついてけねーわ」
ラナが腰に手を当てて、双子を見下ろす。
「だらしないわねぇ。大呑君ではないってカテリーナさんも言ってたじゃない」
カテリーナは海峡の〝埒外〟疑惑についても、コクトーに相談していた。
コクトーの結論は、「大呑君ではない」というものだった。
大呑君は珊瑚海の陥没穴を塒としていて、そこから巨体が抜けだせば必ず人の目に触れる。
そのような情報はないので海峡の怪物は大呑君ではない、ということだった。
「でも似たような別種の〝埒外〟かもしれないだろ?」「じゃ、同じことだ」
「それはまあ、そうだけどさ」
ラナは口ごもり、窓辺のロザリーを見る。
彼女は窓を開けたっきり、黙って外を眺めている。
「ロザリーも不安なの?」
ラナが言うと、ロザリーは振り返って、深刻そうな顔で頷いた。
「……ん。すごく不安」
「あなたがそれじゃあ、私まで不安になってくるよ」
「だって私、海は初めてだし」
「それは私もそうだけど」
「あんなだだっ広いところで、船から落ちたらどうすればいいの?」
「えっ、不安なのはそこ?」
「ラナは泳げるか不安じゃないの?」
「それは、まあ……」
「川や湖で泳ぐのとは違うのかな? どうしよ、今から入り江で練習してこようかな……」
ロブロイが寝転がったまま笑った。
「川や湖で泳げるなら問題ねーよ」「海水は淡水より浮くからな」
「そうなの!?」
「ただ、流れはずっと強い」「波の高さもな。慣れた奴でも溺れ死ぬのが海だ」
「そんな……じゃあ、船から落ちたらどうすればいいのよ!」
「「船から落ちるな」」
「……そっか、そうよね」
ロザリーは何度も頷いた。
ふと、ラナがお腹を押さえる。
「カテリーナさん、来るの遅くない?」
「そういえばそうね。船の手配を済ませて、午前中に呼びに来るって言ってたのに」
「もうお昼だよ? お腹空いちゃった」
「俺も」「俺もー」
ロザリーが三人を両手で制する。
「だめだよ、カテリーナさんを待たなきゃ――」
そのとき、窓の外から食欲をそそる匂いが漂ってきた。
海産物を焼く匂いだ。
腹を空かせた四人が、抗えるはずもなかった。
「――よし、食べに行こっか!」
言うが早いかロブロイは同時に跳ね起き、先を争って部屋から出ていった。
ロザリーとラナも後に続く。
宿の主人にカテリーナへ言伝を頼み、町へと繰り出した。
海辺近くの通りには、無数の露店が並ぶ。
行き交う人は多く、ぶつからずに進むのに苦労するほどだ。
海産物を扱う店がほとんどだが、生魚を売る店、貝類を売る店、干物などの加工品を売る店とそれぞれに専門が違うようだ。
ロザリーたちはその中から、網を火にかけてその上で海産物を焼く店を見つけた。
さっそくいくつか購入し、店の横で立ったまま食べ始めた。
「川魚と全然違うね!」
「ロザリー、貝食え、貝」「汁が旨いぞ」
「そう? じゃあ……んむ、おいしいっ!」
ラナは食べながら首を傾げている。
「ねえ、私の食べてるのって何?」
「タコだな」「タコの足」
「タコ……あの悪魔みたいな!? うええ!」
「わからなくてもとりあえず食うのな」「ってか、うええ! って言いながら食い続けるなよ」
「だって味は美味しいもん」
ロザリーは焼いた白身魚を食べながら、ごった返す通りを眺めた。
「すごい活気」
すると磯焼き屋の店主が答えた。
「静かなほうさ。船が来るときは交易品の露店も並んで、人がごった返すからな」
ロブロイが尋ねる。
「海産物はあるんだな」「船が来ないってのに」
「化け物がいるのは海峡だからな。漁船は出るんだ」
「ん? ちょっと待て」「あんたも海峡に化け物がいるって知ってるのか?」
「そりゃそうさ。交易船が来ないってのは町の一大事だからな。ピートの話は一晩で町中に知れ渡ったよ」
「「ピートって誰」」
「町長の船の生き残りさ」
「「ああ、なるほど……」」
それっきり、ロブロイは食べる手も止めて黙りこんだ。
ロザリーが双子に尋ねる。
「どうしたの?」
「カテリーナ女史が約束の時間に来ないのは」「船を手配できないからじゃないかって思ってな」
「え、なんで!?」
「船ってのは金がかかる」「外洋に出る船ならなおさらだ」
「化け物が出ると聞いて出す奴いるか?」「船を失うかもしれないのに」
ラナが言う。
「船が無くてどうやって退治するのよ!」
ロブとロイは腕組みして、同時に首を傾げた。
「「ロザリーが泳いで退治するとか?」」
「やだよ! 化け物に会う前に溺れ死んじゃうよっ!」
「「だよなあ……」」
すると店主が口を挟んだ。
「あんたらカテリーナの知り合いか?」
ロザリーが頷く。
「ええ。彼女が手配する船を待ってるんですが、なかなか来なくて」
「じゃあ問題は船じゃねえ、船乗りだ。今朝方、船乗りを探して歩き回っていた」
「船乗り?」
「カテリーナは自前の大型船があるし、そうでなくても漁船以外の船はいくらでも余ってる。船が出せねえからな。だが船乗りは右から左には用意できねえ」
「……もしかして、化け物が怖いから?」
「察しがいいな、嬢ちゃん。船乗りってのは命懸けの職業柄、迷信深いもんでな。化け物が出ると聞いては誰も乗りたがらねえ」
「なるほど……」
「今頃、船倉庫にある船乗りギルドにいるはずだ。結局あそこで集めるしかねえからな」
ロザリーがラナとロブロイを見ると、三人は一斉に頷いた。
「私たち、そこへ行ってみます」
ロブロイが食事の代金を支払おうとすると、店主はそれを遮った。
「金はいい」
「え?」「なんで?」
「あんたらがどんな知り合いか知らないが、彼女の力になってやってくれ。カテリーナは若いのに真面目で仕事のできる人だが、それだけじゃあ船乗りは従わねえ。……でも、本当にいい人なんだ」