4 葬魔灯―2
騎士が顔を上げた。
その嗤って歪む両目は、白目部分までも真っ赤に染まっていた。
「赤目!?」
ヒューゴは左腕を上げて、自分の目を覆い隠した。
そしてそのまま、廃墟の中を全速力で走り出す。
横倒しに倒れた鐘楼を飛び越え。
焼け落ちた教会の屋根を駆け渡り。
焦りに顔を強張らせながら、ヒューゴは下僕の名を呼んだ。
「ミシルルゥ!」
ヒューゴの影から下僕が現れた。
下僕は、輝くような肌をした艶めかしい妖婦だった。
どことなく、ヒューゴの化けた赤毛の女に似ている。
妖婦は飛行しながらヒューゴに並んだ。
「はぁい、ヒューゴ。ごきげんよう。調子はどう?」
「逃げている!」
「なんで逃げてるのぉ? ……フフ、なんで裸にマント姿なわけぇ?」
「ほっときたまえ!」
「あ~、わかった。また私のマネ色仕掛けやったのね? あんまり立ち入ったことを言うつもりはないけどぉ、やりすぎると性癖が歪むわよぉ?」
「いいから手を貸せ、ミシルルゥ!」
「ん~、いいけどぉ。いったい何から逃げて――」
妖婦ミシルルゥは後方を振り向いた。
美しい眉が小山のようになり、潤んだ瞳が悩ましげに細くなる。
「――ああ、なんてこと。ヒューゴ、あなた〝赤目の君〟に囚われたのね」
「まだだ」
「あれほど注意しろと警告したのに」
「まだ囚われてはいない!」
目を剥いて叫ぶヒューゴ。
しかし妖艶な下僕は、冷たく首を振った。
「ダメ。手は貸せない」
「冗談だろう?」
「彼はこの世で最も古い、原初の魔族。私たちヴァンパイアのご先祖様よぉ? 逆らえっこないわぁ」
「冷たいこと言わないでくれ。僕と君の仲じゃないか」
「むり~。じゃあねぇ~」
その言葉を最後に、ミシルルゥは霧散して消えた。
ヒューゴが愕然とする。
「なんて奴! 下僕が主人を見捨てるか!?」
ヒューゴは走るスピードを上げた。
ミシルルゥの力を借りられないなら、それが最も成功率の高い逃走手段だからだ。
残り火の燻る地面を蹴り、風のように廃墟を駆ける。
そうしてしばらく走り、ふと気づく。
「この街、こんなに広かったか? ……まさか!」
急停止し、後ろを振り返った。
先ほど跳び越えたはずの鐘楼が、すぐ後ろで横倒しになっている。
「……囚われていたか」
近くから、子供の声がした。
「見つけた」
「捕まえた」
こんな場所に似つかわしくない、幼い男の子と女の子。
無表情にヒューゴを見つめている。
その目は白目まで赤い。
「あのお方が来る」
「まこと尊きあのお方が」
どこからともなく、さらに子供が集まってきた。
皆どこか虚ろで、そのすべての目が赤い。
「あのお方が来る」
「偉大なるお方」
「名を呼ぶのもおこがましい」
「赤い瞳のあのお方が」
そして赤目の子供たちは、一斉に空へ手を伸ばした。
「「赤目の君!!」」
ヒューゴの肌が泡立つ。
焼け落ちた教会の真上。
夜空を見上げると、月を隠すようにそれは浮いていた。
古の神々のような衣装をまとい、男でも女でも、獣でさえも魅了しうる人間離れした美貌。
その肌は水晶のように透き通り、その髪は月を前にしてなお輝いて見える。
そして――その瞳は燃えるように赤く輝いていた。
「赤目」
ヒューゴがそう呼ぶと、その者は笑みを浮かべた。
「〝腐肉使い〟。やっと会えたな」
「嬉しいねぇ。僕を捕まえるために、こんな手の込んだことしてくれるなんてさ」
「仕方ない。お前ときたら兎のように敏感で、梟のように音もなく飛び去ってしまうから」
「そんなに僕を殺したいのかい? 君にそこまで恨まれる覚えはないんだけどねぇ」
「わかっていないな〝腐肉使い〟。私はお前の死にゆく様を見たいのだ」
「だから、それはなぜかと聞いて――ッ!!」
ヒューゴは赤目の言葉の真の意味を理解して、戦慄した。
赤目が牙を剥いて笑う。
「さあ、見せてくれ。お前たちネクロマンサーが編み出した、魔導を次代へ継承する術を。その瞬間、私はお前の白い首に歯を突き立てて、その秘術のすべてを奪ってみせよう」
ヒューゴはじりっ、と後ずさった。
しかし、すぐにハッと気づく。
赤目の背後に浮かぶ月が、真っ赤に見える。
「魅入られたか!」
ヒューゴは手のひらで赤く染まった両目を覆い、その場から飛び退いた。
だが。
「無駄だ」
赤目は右腕を前に伸ばし、空を握り締めた。
途端、飛び退いたヒューゴの体が宙に磔にされる。
「くっ、は……」
心臓を直に掴まれたような痛みに、ヒューゴは悶えた。
(なに、これ……ぐううっ)
体を同じくするロザリーにも、その激痛が走る。
「私と相対した時点で、お前の運命は決した。抗うも逃げるも無駄と知れ」
赤目は左手で空を切った。
ヒューゴの両手首に赤い線が走り、先からボトリと落ちる。
切り口から血飛沫が上がった。
(~~っ!!)
ロザリーは経験のない痛みに歯を食いしばった。
血は止まる気配なく、ひたすら流れ落ちていく。
「終幕だ、〝腐肉使い〟。徒花がいかにして実を結ぶのか、その奇跡を私に見せてくれ」
ヒューゴは目を閉じたまま、ブツブツと呪いの言葉を唱え始めた。
「そうだ。それでいい」
赤目は弓の弦を引くように、右腕を引いた。
ヒューゴは身体を仰け反らせて、彼の元へ手繰り寄せられる。
赤目はヒューゴの口に耳を傾けた。
「それが【葬魔灯】の呪文か? 聞き取れぬように囁いても無駄だぞ。血を啜れば、すべてがわかる」
赤目は牙を剥いた。
そしてヒューゴの首元へ顔を寄せた、そのとき。
ヒューゴの耳がどろりと溶け落ちた。
「貴様ッ!」
赤目がヒューゴを突き飛ばす。
ヒューゴは屋根を転がり、やっと止まるとよろよろと起き上がった。
「……ククッ。勝利を確信したとき、敗北が顔を覗かせる。だったか?」
ヒューゴが瞼を開けた。
彼の眼球は白く濁っている。
「自らに腐肉の術をかけたのか……!」
「ご明察」
ヒューゴはバッ! と両腕を開いた。
「さあ、赤目! 奪ってみろ! 醜く腐る僕の首に歯を突き立ててみろ! 早くしないと最後の一滴が干からびてしまうぞ!」
赤目は牙を軋ませ、動けずにいる。
ヒューゴは不敵に笑った。
「できないよなぁ? 高貴で尊い、お前には! ヒヒヒッ!」
赤目の瞳が怒りに揺れる。
「〝腐肉使い〟ィィ!!」
「……さらばだ、赤目」
ヒューゴの体が、自身の影に沈む。
影の中は闇だった。
果てはなく、音もない。
「なるほど……影の中はこうなっていたのか……」
ネクロマンサーの影は、冥府の前庭。
ネクロマンサーは死霊を入れておく倉庫として使う。
死人しか入れず、生者が入ればたちどころに命を失う。
影に入ったにも拘わらずヒューゴの意識があるのは、自身がアンデッドと成り果てたからに他ならない。
影の中は生温い。
なのに、ひんやりと冷たくもある。
「これが死の肌触り、か……」
ヒューゴの体は変貌を続けた。
腐った肉は溶け落ち、骨が露出していく。
「自我を保っていられるうちに、次に託さなければ……」
ヒューゴは運命の糸を手繰った。
混濁する意識の中で、【葬魔灯】の術を完成させる。
最後にヒューゴは、絞り出すように呟いた。
「ああ、死にたくないなァ……」
滅びゆく彼の体は、暗い闇の底へ堕ちていった。