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313 さる貴婦人の肌事情―下

 そしてついにその日がやってきた。

 ロゼッタ夫人が自宅にあの痩せた男を招く日だ。

 夫が家にいない日を指定し、家人も口の堅い執事以外は数日、暇をやった。

 ロゼッタ夫人は胸をときめかせていた。

 これからされる行為もさることながら、その結果に起こる自身の変化。

 それを想像するだけでもう若返ったような心地で、得も言われぬ高揚感に包まれていた。


「――奥様。お越しになりました」


 執事に言われ、感情を隠す。


「わかったわ。お通しして」


 場所はいろいろ考えたが、結局は寝室にした。

 家人がいない以上、ベッドを別の場所に用意するのもひと仕事になるからだ。

 痩せた男が寝室に入ってきた。

 この男はとても無口なようで、挨拶もしない。

 この前とは違ってマントをまといフードを被っている。

 若返りの手技など秘中の秘。

 余計な者に顔も知られたくないということか。

 ロゼッタ夫人はかつてマルゴ夫人がそうしたように服を脱ぎ、ベッドに横たわろうとした。

 と、そのとき。


「奥様ッ!」


 一度部屋を出た執事が慌てた様子で戻ってきた。


「何事?」

「旦那様が! 急にお戻りに――」

「――どけっ!」


 執事を突き飛ばし、ナドリム伯爵が寝室に入ってきた。


「あなた、これは、っ!」


 寝室に知らない男。

 自分は裸。

 事情を知らねば間男を招いたようにしか見えないだろう。

 しかし、ナドリム伯爵は意外な言葉を口にした。


「その男か」


 夫は知っていた。

 そうか、夫は手に入らぬ若返りの薬について、彼なりに調べ続けていたのだ。


「立ち会わせてもらう」


 そう言うなり、ナドリム伯爵は寝室に一脚だけあった椅子にどっかと腰を下ろした。

 夫の矜持とでも言いたいのだろうか。

 痩せた男は固まっている。

 高位貴族たる夫が睨む前で、その妻の肌を舐めるのだ。

 フードの下の顔は、さぞ青ざめていることだろう。

 一方、ロゼッタ夫人は焦っていた。

 この男は報酬を受け取らないらしく、ロゼッタ夫人も支払っていない。

 それはつまり、若返りの儀式は彼の気分次第だということだ。

 気分を害してしまえば、やらずに帰ると言い出しかねない。

 すると、男が初めて口を開いた。


「見られつつ、は気が進みませぬ」


 ほうら、言わんこっちゃない。

 ここで帰られては台無しだ。


「あなた!」

「いいや、ここは譲れん」


 妙に頑固なのだ、この夫。

 私が若返ればそれでよいではないか。


「あの、よろしいですか?」


 痩せた男がそう言ったので、ロゼッタ夫人は慌てて止めた。


「お待ちを! 夫は説得しますので、どうかお帰りにならないで!」

「そうではなく。ひとつ、ご提案がございます」

「提案……?」

「ミシルルゥ。入っておいで」


 男が呼び込むと、どこにいたのか一人の女が寝室に入ってきた。

 長い、癖のある赤毛。

 肉体の曲線は女であるロゼッタ夫人でも色欲を覚えるほど見事なもので、その肌は暗い寝室でも輝いて見えた。

 痩せた男が言う。


「妹のミシルルゥでございます。妹も私と同じような力を持っておりまして……私は部屋を出て、妹が手技を行います。女である妹であれば、伯爵様も立ち会わずともよいのではないかと」

「それは……ううむ」


 ナドリム伯爵に迷いが生まれる。

 同時に、ロゼッタ夫人にも聞かねばならないことがあった。


「待って。妹様はあなたほどの力をお持ちなの?」

「持っております。といいますか、力は私より強うございます」

「まあ! それは是非に!」


 男がやったマルゴ夫人が、あの若返りようなのだ。

 もっと力があるという妹が自分をやったらどれだけ若返るのか。

 ロゼッタ夫人が目を輝かせてナドリム伯爵を見ると、夫は不承不承と言った様子で頷いた。

 ナドリム伯爵と痩せた男が寝室を出ていく。

 その去り際に、男が寝室を振り返って夫に囁いた。


「ご覧に。妹は造形が大変ようございます」

「うむ」

「お気が向いたらぜひ、旦那様のお手に……手技のついででようございますので……」

「う、む……」


 聞こえているぞ。

 まあ私は心が広いから聞こえないふりをしてやるが。

 こんなことで「やっぱり帰る」とも言われたくないしな。

 そんなふうに心中で毒づきながら、ロゼッタ夫人はベッドに横たわった。

 寝室の扉が閉まる気配がして、それをきっかけに赤毛の女がベッドに近づいてくる。


「よろしくね?」

「はい。お任せを」


 鈴が転がるような声。

 若返れば声質も変わるのだろうか。


「っ!」


 突然、尻の上あたりに冷たい、ぬめっとした感触。

 それが背骨を伝って上へ、上へと上ってくる。


「は……あっ……!」


 快感を伴う手技に、ロゼッタ夫人の口から甘い吐息が漏れる。

 だが、ここでふと疑問が浮かぶ。

 ……ん?

 冷たい?

 なぜこの女の舌はこんなにも冷たいの?

 不思議に思って首を捻って見上げると、ミシルルゥの美しく艶めかしい顔がすぐそこにあった。

 彼女が妖しく微笑むので、ロゼッタ夫人はまた俯きに顔を伏せる。

 すると――つぷり。

 何か、首の辺りがチクッとしたような……。


「ッッ!?」


 脳が揺れる。

 落下し続ける感覚に全身が支配される。

 しかし同時に快感も絶えず肉体に走っていて、ロゼッタ夫人はガクガクと震え続けるしかできない。


「最初だけ。怖いのは変わる瞬間だけだから」


 耳元でミシルルゥがそう囁く。

 変わる……?

 私が何に変わるというの?


「吸血鬼サ」


 ミシルルゥの声が急に男の声になったので、ハッと首を捻って見上げる。

 ミシルルゥがいたはずの場所には、あの痩せた肌の白い男が立っている。

 いつの間に入れ代わった!?

 さっきのマントの男は!?


「入れ代わってはいない。ミシルルゥもボクだ。さっきの男は虜化能力で作った、ボクに似せた下僕だヨ。あんまり似なかったので変装させなければならなかったが……ナドリム伯爵が裏で動いていたのでネ、こうさせてもらった」


 なぜ、こんなこと……!


「そりゃあモチロン、キミを下僕にするためサ。いきなり押し入って血を啜ってもいいのだが、騒ぎになるのは好ましくない。ほしいのはキミらの肉体ではなく、貴族としての立ち位置、影響力だからネ。人知れず、ボクの奴隷となるのが好ましい」


 そんな……私を騙したのね!


「そんなに怒ることはないだろう? 望み通り若々しくなれるのだから。……まァ、若々しいだけで若いとはいえないのだがネ。だってキミは死霊(アンデッド)になるんだから。ククク……」


 うぅ、許せない!

 許せ……あ、あれ?


「ムダだ、キミはもうすぐボクの下僕になる。マルゴ夫人や彼女の夫と同じ。ボクに逆らえない。……心配することはない、ナドリム伯爵もじきに同じにしてあげるから」


 そんな……ああ、なんてこと……。

 混濁する意識の中、ロゼッタ夫人の魂は穢されていった――。




 ――【葬魔灯】は完璧な術である。

 先代ネクロの魔導を余すことなく次代へ伝え、使役する下僕たちをも継承する。

 しかし、たった一つだけ受け継がれないものがある。

 一点物(ワンオフ)の下僕死霊(アンデッド)――再来(レヴナント)だ。

 自我を残すゆえ主を選ぶのか、彼らだけは受け継がれない。

 しかし、【葬魔灯】は完璧な術である。

 先代ネクロは死に瀕した際、次代のネクロに力を繋ぐ準備をする。

 死霊騎士(ネクロマンサー)の運命を手繰り、数百年のときを超えて、次の死霊騎士(ネクロマンサー)に自身の【葬魔灯】を見せるのだ。

 そして準備を終えると死霊(アンデッド)と化すことで自らの生を終わらせる。

 この死霊(アンデッド)化の瞬間、自分に仕える再来(レヴナント)を自身と統合し、一体の強力な死霊(アンデッド)とするのだ。

 こうして漏れるはずだった再来(レヴナント)の力すら次代に伝える【葬魔灯】は、まさに完璧な術である。


 ヒューゴが生前、従えていた再来(レヴナント)は二体。

 一体目は最も残忍で凶悪なリビングデッド、腐り王ことボリドーン。

 そして二体目がヴァンパイアロードにして夜の女王、妖婦ミシルルゥである。


 ロゼッタ夫人はミシルルゥの虜化能力によって下僕とされた。

 定期的に主たるヴァンパイアから精気を貰わねば肉体を保てない半端なヴァンパイア――亜吸血鬼(デミヴァンパイア)とでもいうべき存在になり果てたのである。

 完全な吸血鬼にすると、吸血鬼の(さが)なのか奔放な性格に変化するので、ヒューゴはあえてこうしている。

 この力はネモの素性の裏取りでも使ったが、これはロザリーには口が裂けても言えない。

 罪もない人間を死霊(アンデッド)にしたと知れば、彼女は激昂するに決まっている。

 思えばあのときは、異性を強烈に魅了するミシルルゥの姿に化けるだけで十分に情報は取れた気もするが。

 今となっては後の祭り。

 何よりあの実験が今に活きているのだから、無駄ではない。


 ヒューゴがロゼッタ夫人らを狙ったのには目的がある。

 コクトーだ。

 彼のことをやはりよく知らねばならないとヒューゴは確信し、秘密裏に〝止まり木の間〟へ侵入を図った。

 そして部屋を調べるうちに、ヒューゴはコクトーの異様さを思い知った。

 彼の机の引き出しに強力な呪殺罠が仕掛けられていた。


焼却(インシネレート)】。


 対象者を骨まで焼き尽くす、強力で古典的な呪殺だ。

 ……たしかに強力ではある。

 だが、おかしい。

焼却(インシネレート)】の炎は対象だけでなく、その場のすべてに影響する。

 つまりこれでは、侵入者もろとも部屋も、中にいるならコクトーさえも巻き込まれるのだ。


「なぜここまで。機密が多いから?」


 彼の秘密には見当がついている。

 皇国のスパイだ。

 これほど優秀な人材を何年も潜伏させる、手の込んだ策謀。

 この呪殺罠は彼の内面を示している。


「役目を果たせぬなら消え去るのみ、か」


 コクトーの覚悟を知り、思いつきでやってきたヒューゴは二の足を踏む。

 だがヒューゴは追いつめられるほどに、生きていた頃の鋭さを取り戻す傾向がある。


「彼の秘密はすでに知っているから、引き出し(隠し事)に触れる必要はない。彼の行動を把握し、人知れず彼の動きを制御するには――」


 そのとき、誰かがコクトーの部屋へ向かってくる気配がした。

 ヒューゴはミシルルゥの力で肉体を霧と化し、〝止まり木の間〟の天井付近に漂った。

 やがて扉が開き、その誰かがやってくる。

 二人だ。


(一人はコクトー。それと、彼はたしか……ニルトラン子爵か? ロザリーを怒らせた同級生の父親だったな)


 二人は仲が良いように見える。

 そもそも、コクトーが自室に入れる時点で関係は良好なのだろう。


(コクトーはニルトランに目をかけている……)

(ニルトランを下僕にして、コクトーの手綱とするのはどうか?)

(いや、あくまで人知れず、だ。コクトーのお気に入りならニルトランも勘のいい男であるはず……)

(下僕はニルトランに近い愚物から。愚物でも、位は高い者からだ)


 こうして高位貴族ロゼッタ夫人を標的と定め、狙い通り下僕としたヒューゴだったが、今ではすっかりミシルルゥの力に酔いしれていた。

 王国貴族など愚物揃いに決まってる。

 それらをまとめて下僕にしてしまうのはどうだ?

 高位貴族の半数程度を支配してしまえば、王国はもうロザリーの天下といって差し支えないのではないか?

 いっそ、ロザリーを次の獅子王として祭り上げてしまうというのも悪くない気がする。


 そんなふうに妄想していたヒューゴはふと、鏡を見て我に返った。

 ここはロゼッタ夫人の寝室。

 大きな姿見には裸で虜化の苦しみに悶える彼女と、悪い顔で微笑むヒューゴが映っていた。


「いけない、いけない。一つずつ確実に、あくまで人知れず、だ。ロザリーにも知られてはいけない」


 そして姿見を正面に妖しく微笑む。

 すると一瞬のうちにミシルルゥの姿に戻った。

 ミシルルゥは喘ぐロゼッタ夫人の耳元で囁いた。


「それじゃ、旦那様と楽しんでくるからね?」


 もはや睨み上げることすらできないロゼッタ夫人を尻目に、ミシルルゥは弾むような足取りで肉体を揺らし、寝室を後にしたのだった。

以上、閑話風のヒューゴの能力発表回でした。

序章【葬魔灯】に出てきた「ミシルルゥ」と統合した形ですね。

当初の予定では、ミシルルゥは騎士編になったらロザリーの使い魔として出てくる予定でした。

ですが、どう考えてもトラブルメイカーっぽい……話がすごく取っ散らかりそうなので泣く泣くボツに。

じゃあどうせならヒューゴの能力として固定してしまおう!と考え、この形となりました。

ちなみに書籍版では初めから統合されていて、ミシルルゥの姿で教官をしたり、暗躍したりしています。

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― 新着の感想 ―
懐かしい名前が出てきたと思ったらヒューゴの暗躍のお話だった やっぱヒューゴはイマイチ信用できないんだよな
ミシシルゥの名前を聞いた瞬間に、過去編だったのか!?と驚きましたが、まさかヒューゴの暗躍幕間だったとは…。 生きている人を、亜吸血鬼と言うアンデッドに仕立てあげる所業はまさしく「人でなし」。 まあ、…
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