312 さる貴婦人の肌事情―上
「まあ! どうなさったの!?」
高位貴族ロゼッタ夫人が友人であるマルゴ夫人にそう尋ねたのは、心からの疑問だった。
それはロゼッタ夫人が自宅で開いたティーパーティーでのこと。
もう肌寒い季節だからと、家の温室を会場として設えたロゼッタ夫人は鼻高々だった。
温室には見事なまでに花々が咲き誇り、まるで春のごとし。
茶葉も茶器も高位貴族御用達の最高級のものを揃えたし、ロゼッタ夫人の装いは鏡を見たとき「我ながら趣味がいい」と呟いてしまうほど。
招いた社交友だちのご婦人たちも、その三点を代わる代わるに褒め称える。
パーティーで主役になる瞬間。
ロゼッタ夫人が苦心して準備したのも、この瞬間のためなのだ。
――なのに。
マルゴ夫人が遅れてやってきた瞬間、主役は彼女に奪われた。
彼女が信じられないほど若々しくなっていたからだ。
その変貌ぶりに、ご婦人たちが彼女を囲む。
もちろん、その中にはロゼッタ夫人も。
そこでロゼッタ夫人が投げかけたのが、先ほどの質問である。
マルゴ夫人が、はにかみながら答える。
「夫が皇国から取り寄せてくれた肌薬がすごくよくて」
「それって飲み薬……?」
「いいえ、塗り薬よ」
「信じられない……!」
これまたロゼッタ夫人の偽りない本心だった。
だってマルゴ婦人といえば年相応以上に老けているというのが社交界の定説で、彼女の夫が若い未亡人のところへ通い詰めるのも致し方なしと囁かれていた。
ロゼッタ夫人にしても、家格の低いマルゴ夫人を傍らに置くのは、そうすれば自分がいくらか若く見えるだろうという魂胆によるものだった。
なのにどうだ。
マルゴ夫人の肌は皴ひとつなく、瑞々しく輝いている。
あるご婦人が興奮気味に言う。
「素晴らしいわ、マルゴ夫人! 温室の花々にも負けていない!」
口に出した途端、隣にいたご婦人に肘を突かれ、窘められる。
自身の失言に気づいたご婦人が、ハッと顔を強張らせてロゼッタ夫人の顔色を窺う。
「……お気になさることないわ。事実だもの」
そう。
ロゼッタから見てもそう見えるのだ。
この輝きは十代、それも十代前半の娘のもの。
こんなに変わるものなのか?
たかが、塗り薬で?
「あの、マルゴ夫人――」
ロゼッタ夫人がまたも馬鹿正直に尋ねる。
「――差し障りなければ、その薬の名前と購入先を伺っても?」
「あら! ごめんなさい、ロゼッタ夫人!」
若々しいマルゴ夫人は、若い娘のように口元に手のひらを当てて驚いてみせた。
「夫ったら、私にプレゼントするときに少しでも高価なものに見せようとしたらしく、容器を詰め替えてしまったの。だから箱もないし、元の商品名すら知らないの」
「まあ……そうでしたのね」
「高価に見せようとするのだから、あまり高いものではないと思うわ。でもわかっているのはそれだけなの」
そしてマルゴ夫人は、朝露を纏った野花のような輝きで笑った。
「ごめんなさいね? ロゼッタ夫人?」
――それから数日が過ぎて。
深夜、ロゼッタ夫人の夫――ナドリム伯爵の館。
「……ハァッ!」
ロゼッタ夫人はベッドで飛び起きた。
気になって眠れない。
やっと眠れても眠りが浅い。
これではまた皴が増えてしまう。
マルゴ夫人はあんなに若返っているのに。
「……どうした、ロゼッタ。最近うなされているな?」
背を向けて寝ているナドリム伯爵が、こちらを見もせずに言った。
夫は王宮では有能と評判らしく、よそのご婦人からはよく夫のことで褒められる。
しかしロゼッタ婦人は、この「お前のことは見ずともわかる」感が本当に嫌いだった。
一切こちらを見ようとしない夫に苛立ちが募る。
だが、今はこの男に頼るしかない。
「あのね、あなた――」
ロゼッタ夫人はマルゴ夫人に起きた変化の一部始終を、夫の背中に話して聞かせた。
「――くだらぬ」
夫の第一声はこれだった。
やっとこちらを向いたかと思えば、酷く不愉快そうに顔を顰めている。
「そんなものがあるわけなかろう。樹木の年輪のように、皴は年を取れば増えるものだ。決して忌み嫌うものではない」
この、さも「自分は真理を知っている」感がロゼッタ夫人をさらに苛立たせるが、ここは我慢のしどころ。
「見てないからそう言えるの。あなたもマルゴ夫人をその目で見れば、間違いなく考えが変わるわ」
珍しく感情的ではない妻の反論は、ナドリム伯爵の心にいくらか響いたようだ。
顔を顰めたまま宙のあちらこちらを見つめ、それから言った。
「……それほどに?」
しめた。
そう直感したロゼッタ夫人は、内心舌なめずりしながら夫を説き伏せにかかる。
「今度、大貴族デファンス家のご子息ネイザン様の祝賀パーティーが催されるわ」
「早いものだな。ネイザン様も、もうご卒業か……」
「ネイザン様はまだ二年生よ。お祝いするのはご婚約。婚約披露パーティーなの。ネイザン様は少し頼りないところがおありだから、早めに身を固めさせて跡継ぎの自覚を促したいお考えのようね」
「なるほど、確かにな」
「マルゴ夫人も必ず来るわ。そこでマルゴ夫人を見れば、あなたは彼女の手を取りたくなる。そして連れ帰りたくなるわ。あの方ってあなた好みの飾り気のない、野花のような女性だから」
「っ、人妻に手を出すか! お前は私を何だと思ってる!」
「嫌みで言ってるのではないの。彼女の若々しさはそれほどだということ」
「……」
「そこで相談があるの。あなたがマルゴ夫人の若々しさをその目で見て、薬の効果を実感したら、彼女の旦那様に話してほしいの。同じ薬を調達してほしいって」
「ううむ……」
「あなたはマルゴ夫人の旦那様の上役のニルトラン子爵と仲がよろしいのでしょう? 断りはしないはずよ」
「それはそうだが、な」
「あなただって私が若返れば嬉しいでしょう? 社交の場で若い妻を娶った他の伯爵に引け目を感じることもなくなるわ?」
「それは、うむ……」
いや、少しは否定しろよ。
お前は私よりずっと年上だし、よっぽど老けているだろうが。
どの面下げて私を邪魔者のように扱うのか。
ロゼッタ夫人は殺意すら覚えるが、ぐっと堪えて夫を焚きつける。
「あなたがマルゴ夫人を見て、別に若々しくないと感じたらしなくていいの。あなたが強く、そう感じたときだけ。ね?」
「……んむ、わかった」
後日、デファンス家で祝賀パーティーが催された。
主役はもちろん婚約する二人なのだが、裏の主役はやはりマルゴ夫人であった。
彼女の若々しさは「年の割には若い」という範疇を超えていて、婚約する十代の二人と並ぶと同級生にすら見えるほど。
街に出て通りで色目を使えば、乗ってくる若い男はごまんといるだろう。
ナドリム伯爵も彼女の変貌ぶりに酷く驚いていた。
そして、それからさらに数日経った、ある日。
「奥様。マルゴ夫人が参られております」
執事にそう告げられたロゼッタ夫人は、温室の花の世話をする手をピタリと止めた。
「……お通しして」
「承知しました」
「待って。私が出迎えるわ」
「……ハッ」
ロゼッタ夫人が急ぎ足で玄関へ向かう。
彼女は未だ、件の薬を手に入れていない。
夫はマルゴ夫人の夫に掛け合ってくれたらしいが、「何のことかわからない」と惚けられたという。
こうなると手に入れる方法がない。
しかし、手に入らないとなれば余計に欲しくなる。
マルゴ夫人は何をしに来たのか。
薬のおすそ分けではあるまい。
単に若々しさを自慢しに来たのであれば、脅して無理やりにでも――などと考えているうちに玄関ホールへたどり着いた。
マルゴ夫人は相変わらず若々しく、美しかった。
彼女の花びらのような唇から言葉が漏れる。
「まあ、難しいお顔をして。どうなさったの、ロゼッタ夫人?」
「……そう? 庭いじりをしていてね、ちょっと疲れたのかしら」
「あの温室ね? ある程度は家人に任せた方がよいのではなくて?」
「そうね。次からそうするわ」
ロゼッタ夫人はそう言いつつも、相手の若々しい顔を見れないでいた。
見るたびに自尊心を傷つけられるし、薬を手に入れられない焦りが募るからだ。
「それで今日は? 約束はしていませんでしたわよね?」
俯き加減にそう言うと、マルゴ夫人の声のトーンが変わった。
「ロゼッタ夫人。ナドリム伯爵を通して、私の夫に薬のことをお尋ねになりましたね?」
気づかれたか。
だがごまかす必要はない。
別に汚い方法を使ったわけではないし、何より家格が上のこちらが顔色を窺ってやることはない。
そう考えたロゼッタ夫人は悪びれる様子なく答えた。
「ええ。お気に障ったかしら?」
「ええ。障りましたわ」
ロゼッタ夫人はこの返答に驚いて、顔を上げてマルゴ夫人を見つめた。
若々しさだけではない。
自信まで身につけている。
自分にくっついて愛想笑いをするしか能がなかった彼女が、今はまっすぐに自分を射抜くように見つめている。
「夫が薬を詰め替えたと言いましたわね?」
「……ええ」
「あれは嘘。ついでに言うと、夫からの贈り物だというのも嘘なの」
「!! ……なぜ、そんな嘘を?」
「薬の正体を知られたくなかったからよ」
「正、体?」
「でもこうなっては仕方ないわ。教えてあげる。あなたには今まで世話になったしね?」
表には馬車が待っていた。
ロゼッタ夫人は言われるがままに馬車に乗り込み、マルゴ夫人の家へと向かった。
「この部屋よ。もう来てるわ」
来てる?
薬ではなく人なのか?
いかがわしい外道術師などであれば、少し考えなければいけなくなるが……。
そんなことを思いつつ、ロゼッタ夫人は部屋に入った。
部屋は三メートル四方ほどの小部屋だった。
真ん中にマットレスだけのベッドが置かれ、傍らには男が立っている。
痩せて背が高く、黒髪でいやに肌が白い男。
「薬ってね? 彼の唾液なの」
あまりに突拍子もないことを言うので、ロゼッタ夫人はつい本音を漏らしてしまった。
「何をバカなことを!」
しかしマルゴ夫人はまるで気にする様子なく、説明を続ける。
「鮮度が大事よ。唾液を瓶詰めしておいても効果は期待できないわ。つまり、彼に直接舐めてもらうことで最大の効果を発揮するというわけ。一度舐めてもらえばひと月は持つわ。今日は前に唾液をもらってからちょうど三十日目」
「……」
ロゼッタ夫人は絶句した。
何を言っているのだ、この女は。
若返り過ぎて脳まで子供になってしまったのか。
しかし彼女の顔は大真面目で、その顔がまた若々しいので「嘘だ!」とも言えない。
「さ。いつものように」
マルゴ夫人はそう言うと、着ていた服をするすると脱ぎ捨てた。
あられもない姿となった彼女がベッドにうつ伏せに横たわる。
すると痩せた男は慣れた様子でベッドに近づいた。
そして――ベロリ。
舌を大きく使い、尻の上から背骨を伝ってうなじまで舐め上げた。
すると。
「っ、嘘っ!?!?」
ロゼッタ夫人はつい叫んだ。
濡れたから?
いいや違う。
はっきりと、明らかに。
肌のきめ細やかさ、輝きが、舐めてない部分と違う。
「若返ってる……!」
そして、ついにその日がやってきた。
ロゼッタ夫人が自宅にあの痩せた男を招く日だ。
夫が家にいない日を指定し、家人も口の堅い執事以外は数日、暇をやった。
ロゼッタ夫人は胸をときめかせていた。
これからされる行為もさることながら、その結果に起こる自身の変化。
それを想像するだけでもう若返ったような心地で、得も言われぬ高揚感に包まれていた。
「――奥様。お越しになりました」
執事に言われ、感情を隠す。
「わかったわ。お通しして」





