293 影、二人
「ああ、執事ね。……ヒューゴ、いる?」
ロザリーがそう言うと、窓から射した陽光でできた彼女の影が怪しく蠢いた。
そして影からズズッ……と気味悪いほど肌の白い男が迫り出してきた。
「……あのねェ、御主人様。キミはよく『いるか』と聞くが、ボクがいなかったことがあるかイ?」
不満そうにヒューゴが言うが、ロザリーはキョトンとして言い返した。
「あるじゃない。学生の頃はよくあったわ」
「……そうだっけ?」
「それに、西方では居留守を使ったわ」
「あれは理由あってノことで……それは話したじゃないか」
「いくら理由があっても、ねぇ?」
ロザリーとヒューゴが見つめ合っていると、横からロロが割って入り、無理やりヒューゴの手を取った。
「おお、あなたがヒューゴさんですか! お噂はかねがね!」
「ボクも噂はよく聞くヨ。よろしくね、ロクサーヌ」
二人の様子を見て、ロザリーが言う。
「あれ? あなたたちって初対面だっけ?」
「ですです。オズ君やラナさんは会ったことがあるらしいですが」
「キミがボクを外に出さないからサ」
「ええ? 私のせい?」
不服そうに眉を顰めるロザリーだったが、内心では嬉しかった。
ヒューゴは僕といえど家族に等しい間柄であるし、ロロは生きている人間では一番の親友だ。
最も親しい二人の間に関係性ができたことは、どこかロザリーに安心感をもたらしていた。
「そうだ、ロクサーヌはどう思った?」
ヒューゴに問われ、ロロが首を傾げる。
「何がですか、ヒューゴさん?」
「ロザリーが王都守護騎士団団長になったことサ。ボクとしてはかなり意外なことでネ?」
「ああ……それは私も、かもです」
「だよネ。……ロザリー、キミは変わったのかい?」
「ええ? なんで急にそんなにこと言うのよ、ヒュー、ゴ……」
途中まで笑って誤魔化していたロザリーだったが、ヒューゴもロロもまっすぐにこちらを見ていることに気づき、最後はたどたどしくなった。
ロロが言う。
「先ほどの先王弟殿下との化かし合いも。以前のロザリーさんだったら、もっと違う対応をされたかと」
「え、そう? そのときは先手を取るのに必死だっただけで……」
そう言いつつ、ロザリーはわからなくなった。
王都守護騎士団団長の話をドゥカスから最初に聞いたときは、断ることになるだろうと自分では思っていた。
ベルの部屋に泊まったときに心境が変化して、ピートのことを聞いてからは団長になれば大義名分が立つと考えた。
だがそれでも、ドゥカスが自決しようとしたときは、まだ迷っていた。
今でも自分がなぜ決断したのか、うまく言葉にできない。
「……変わっちゃダメなのかな?」
ロザリーが言うと、ヒューゴは首を横に振った。
「ダメではないヨ。人は変わるものだ」
「私、変わった自覚はないけど。でもずっと迷ってる」
「迷うのも人だ。だからこそ、迷いの霧の中でも方向を照らす灯台が必要だ。でなければ迷いの果てに進むべき道を大きく違えてしまう」
「……間違えてはいない、と思う。私の中では」
「……そうか。ならいいんだ。変わっても、キミはキミのままだから」
「そう? よくわかんないけど」
ロザリーはヒューゴの言葉が理解できなかったが、なぜか腑に落ちた。
そしてふとロロを見ると、彼女は魂が抜けた顔で窓の外を見ていた。
「ちょっと、ロロ? どうしたの?」
ロザリーが彼女の肩を揺らすと、ロロはハッ! と魂を取り戻した。
「いや、ヒューゴさんのお言葉を聞いていて、自分の人生を振り返っていて……私って、ずっと行き当たりばったりで決断してきた気がするんです。私の人生に灯台って存在しないのではないかって考えてしまって……」
「そんなことない!」
「本当ですか、ロザリーさん? 断言できますか?」
「……ないと思う」
「なぜかトーンダウンしましたねぇ」
「ないと思うけど、灯台が無い人生についても考えておくべきかも……」
「もう、無い前提で話してません!?」
するとヒューゴがロロの肩にそっと手を置いた。
「ロクサーヌ。灯台とは何も、人生の目標だとか、果たすべき使命だとか、そんな大それたものでなくていいンだ」
「ほう。と、言いますと?」
「キミの灯台は目の前にいるじゃないカ」
「……おぉ! おおお!!」
ロロは真理を手に入れた求道者ばりのリアクションで、ロザリーの手を取った。
「見つけました! 私の灯台! 私のロザリーさんっ!」
暑苦しく迫り来るロロに、ロザリーが顔を背ける。
「ちょっと、勝手に人を灯台扱いしないでよ」
「いやァ、よかった、よかった」
「ヒューゴ。私の親友にいらないこと吹き込まないでくれる?」
「いいじゃないか、吹き込む前と大して変わってないヨ」
「それはそうかもだけど……」
「主の悩みを解決し、ついでに主の友の悩みも解決した。これ以上、優秀な執事がいるだろうか?」
「あ、執事のポスト、気に入ったんだ?」
「もちろんだとも。やッと人に名乗れる役割を得たのだからね。部屋の掃除も敵の掃除も任せたまえ」
「じゃ、この館のことはヒューゴに一任するわ。私はあんまり帰らないかもしれないけど――」
「――わかってる。でも、ボクも出払うことがあるカモ?」
窺うようにヒューゴがそう言うと、ロザリーは微笑みを返した。
「いいわ、私のためであるならば。ただし、私の知人や王都守護騎士団のことにも配慮してね?」
「それもわかっているヨ」
すると灯台にすがりついていたロロが、目を剥いて声を荒らげた。
「えっ? はっ? 愛の巣に帰らない!? 早くも別居!? あなた、どういうことですかっ!?」
ゆさゆさ揺らされながらロザリーがぼやく。
「なんか、あなたに別の意味を感じる……」
「落ち着くンだ、ロクサーヌ。御主人様はしばらくは本部のすぐ近くに居たいのさ」
「すぐ近く? また別の家を探すのですか?」
するとロザリーは口をもごもごさせながら言った。
「すぐ近くというか、中というか……」
「中? 本部で寝泊まりを? 私はともかく、ロザリーさんってデスクやソファで寝るのは耐えられないタイプのような……」
「まあ、もう言っちゃうけど。本部の中に家を作るつもりなの」
「家を作る?? ……ああ! やっと意味がわかりました!」
「怒られそうだから、これは私たち三人の秘密ね? ドゥカスにも内緒」
「わかりました! ……で、私はどこに住めば?」
「もちろん、隠れ家のほうに住んでいいよ」
「やっ、たあ!!」
「そんな飛び上がって喜ばなくても……じゃ、さっそく隠れ家を作りに行こうか」
「はいっ!」
「じゃ、ヒューゴ――」
ロザリーが彼のほうを向くと、ヒューゴはどこからどう見ても執事然とした佇まいで言った。
「行ってらっしゃいまし、御主人様。たまには帰ってきてくださいネ?」
「うん。あなたも隠れ家、来ていいからね?」
「またです、ヒューゴさん!」
「またネ、ロクサーヌ」
出ていく二人を見送り、玄関の扉を閉めたあと。
ヒューゴの眼球がギュルリと動く。
「……さて、と。最初のお掃除に取りかかるとするか」
「む、スノウオウルが出ていく……ロタンも一緒か」
物陰に潜み、気配を消し、王都守護騎士団団長邸を監視する者がいる。
「やはり本邸は別か。強き魔女騎士はこのやり方を好むな……」
監視者がロザリーを追うべく、腰を上げた、そのとき。
「動くな」
「!!?」
監視者は後ろから首を掴まれた。
喉笛に爪を立てられ、鋭い痛みと共に雫が流れる感触がある。
後ろの男が尋ねる。
「キミが何者か知りたい。生きているうちに話すのと、死ンでから話すの、キミにとってどっちが好ましい?」
後ろの男の声色と気配に、監視者はそれが誰か見当がついた。
「貴様はッ……!」
監視者が首を掴む力に抗いながら振り返ると、後ろの男は驚いた表情をした。
「オォ、キミか。たしか……ネモだったか? 宮中伯の子飼いのネズミだ」
「久方ぶりだな、ヒューゴ=レイヴンマスター。五百年前、王国に災厄をもたらした死霊騎士で、今はスノウオウルの使い魔……だったな?」
「なんと、ボクの素性まで知っているのか。存外、キミは優秀なネズミだったようだねェ」
ヒューゴは首を掴んだ手で乱暴にネモを投げた。
ネモはもんどり打って転がり、石壁にぶつかって止まった。
土煙が収まるのを待って、ヒューゴが言う。
「で? 本日は何用で?」
「……派手に立ち回った新団長殿に付けと、我が主が仰せでな」
「嘘をつけ」
ヒューゴの目の色が変わる。
「お前はずっとロザリーについていただろうが。西方の端ですらお前の気配を感じることがあったぞ?」
「……意地の悪い男だ。初めから俺だとわかっていたくせに『何者か知りたい』などと聞いたのか?」
「しつこすぎるのだよ、お前と宮中伯は。害はなくとも視界の端を飛び続ける虫を、いつまで許容できようか?」
「……」
「マ、今回も見逃してやる。ロザリーが望まないからネ。帰って宮中伯に伝えたまえ。昨日の件ならば、じきに我が主自ら宮中伯の元へ説明に赴くだろう。それを大人しく待て、と」
「……伝えよう」
ネモは立ち上がり、くるりと背を向けた。
そして立ち去る直前、ヒューゴに言った。
「……レイヴンマスター。貴様はコクトー様の願いを理解しているか?」
「願い?」
「俺と貴様は同じだ。主のためだけに存在する影。俺の主と貴様の主――二人の願いは本当に別なのか?」
「……」
ヒューゴが返す言葉を選んでいるうちに、ネモは煙のように姿を消した。
ネモがいた場所から黄金城のほうに視線を移し、ヒューゴが呟く。
「願い、だと? 思惑でも、目的でもなく、願い……?」





